第56話 戦士
鋼の打ち鳴らされる音が木々の隙間から漏れ出した。
天を焦がす大炎と星月の煌めきが、森の中に反射し無数の光をちらつかせる。
その中心にあるのは一人の男であった。
傷だらけの鎧を纏い、右手には長剣。
左手には小剣。
鷹を模した勇壮な兜。
獲物を狙う猛禽のように、斬りかかる敵に対して前傾を取り踏み込む。
――腕が良い。
ボーガン=クリシュタンドは舌打ちしながら、こちらに振るわれた剣を右手の長剣で弾いた。
そしてそのまま踏み込み脇を抜け、左逆手に持った小剣を鎧の隙間から突き立てる。
引き抜く時間はない。
小剣を手放すとそのまま体をしならせ伸ばし、奥の男の首を長剣の切っ先にて貫く。
呼吸は荒れていた。
護衛に連れてきた者達は皆優秀であったが、しかし残るは二人。
対する相手は未だ二十人を残し、二本の大斧を自在に操る剛腕のナキルス=フェリザー、ザイン式剣術の後継者ウォルター=ザーガンなど、名だたる猛者の姿もある。
「将軍、我らが血路を」
「……すまない」
「なんの、将軍のためならば惜しむ命などありますまい」
二人は笑う。
もはや死を受け入れ、その上で笑う男たちであった。
「……お前達のような配下を持てたこと、何より誇りに思う」
「はは、将軍へお仕えできたことが私達からすれば何よりの栄誉ですよ」
その言葉にもう一人も頷き、走る。
左右の敵に斬り込み、ボーガンの眼前には敵が一人。
敵が剣を振り上げると同時、ボーガンは踏み込んだ。
前に出した左手でその鎧に掌底を叩き込み、跳躍する。
剣による攻撃のみを意識していた黒鎧の戦士は転倒し、ボーガンは樹上へ逃れる。
――しかし、その次に跳んだ大木がボーガンの眼前でへし折られた。
「ぐっ!?」
転がるように受け身を取り、すぐさま立ち上がる。
大木を易々とへし折った大戦斧を担ぎ上げ、ギルダンスタインが笑った。
「逃がしはせぬ。俺から逃げられると思うなよ、ボーガン」
「……確かに、淡い夢ですな」
ギルダンスタインは傷一つない黒き獅子鎧を見せつけるように眼前に立つ。
残った二人の護衛も囲まれ、剣を突き立てられ――再び、周囲を囲まれていた。
「……一つ、勝負と行こう」
ギルダンスタインは大戦斧を放り捨てると、左腰から剣を引き抜く。
厚く身幅の広い長剣であった。
この男はそうした、頑強で重量ある得物を好む。
「遅かれ早かれお前を助けに誰かが来るだろう。それまで耐えられればお前の勝ち。そういう単純な勝負だ」
「受けないと言えば?」
「残念ながら、お前への情はここまで。これは二度目の情けだ。三度目はない」
複数で掛かれば一瞬で終わる。
しかしそうせず、ギルダンスタインは剣の切っ先をボーガンに向ける。
「――戦士として剣を取るといい」
その姿はまさに貴族であり、王族というべき堂々たる姿であった。
ボーガンは苦笑し、答える。
「……感謝するべきなのでしょうな」
「ああ、感謝しろ。お前という男に、最大限の敬意を払った結果だ」
ギルダンスタインは強い。
ボーガンが純然たる戦士として信頼を置くコルキスですら、この男に勝てるかどうか。
その相手に自分がどこまでやれるか――はなはだ疑問であった。
とはいえ、この場の全員を相手にするよりは無謀ではあるまい。
「いつぞやの忠義の礼だ。安心するといい。どうあれ、クリシュタンドの名は残してやる。お前はこの俺がそうしてやるだけの価値がある男だった」
「はは、その言葉を死後のはなむけに――とは行きたくはありませんな」
ボーガンは笑う。
もはや生き残る道はか細く、先も見えない。
とはいえこれが最期であるというのであれば、それはそれで悪くもない。
少なくとも戦士としては、これ以上ない最期であろう。
「……王弟殿下、戦士としてのあなたは尊敬に値すると、私はそう思っておりました。恨みはしません。……お望みの通り一騎打ちに付き合いましょう」
「それで良い。戦術比べでは決着はつかなんだ。そろそろ終わりにしよう」
ボーガンは左半身を前に出す。
左手をギルダンスタインに向け突き出し、右腕を引く。
ロールカ式と呼ばれる軍に伝わる伝統の剣術。
本来は小盾により相手の剣を誘い、弾き、あるいはそのまま攻勢に用いる。
徒手であってもその構えは相手の距離感を失わせ、開いた左は拳として、あるいは相手を掴むために――左を疑似餌に使うこの剣術は鎧を着込んだ相手の体を崩し、致命的一撃を入れることのみに特化した戦場剣術であった。
「……その構えはお前のものが一番見事だな」
「今ではヴェルライヒの方が上です。老いを感じますな。……手合わせでは娘にも負けるようになってきた」
この剣術は体格に優れることが条件となる。
高い身長と長い手足。
それを持たぬセレネはむしろ、クリシェから剣術を学んだ。
女としては平均的、戦士としては小柄な体躯を更に沈め、下から斬り込み刺し貫く。
鋭く速く、姿勢を低く保つことで劣る間合いを伸ばし、刃によって斬り込み崩すセレネの剣術は見事で、ボーガンですら舌を巻く。
齢十五にしてあれほどの剣技。
才覚溢れる娘の未来はどこまでも華やかに見え、そしてそれをただ想う。
その先を見ることは恐らく叶うまい。
心残りがあるとするならばそれだけだった。
「親の誉れ――喜ばしいことでありますが」
「……俺にはわからぬ話だな」
言って、ギルダンスタインも構える。
両手で剣を掴み、構えるは正眼――王者の剣。
金属を惜しみなく用いられた剣は、かつて勇者の武器であった。
片手で振るう小ぶりなものがその始まりであったが、それは次第に武威を――その力を示すため長く厚い大剣が尊ばれるようになる。
そして技術もそれに合わせて変化した。
盾を構えず。
両手で剣を構え敵へと正対し、そしてその上で相手を圧倒する。
正々堂々真正面から、ただ相手のみを見据えて切り伏せる。
それは貴族という在り方を体現した構えであった。
変幻自在の右手は天を、軸とし全てを芯に安定させる左手は地を。
天地の全てをその刃圏に収めることを理念とし、あらゆる攻撃への対応を可能とする正眼は、今なお誇り高き貴族の剣として多くのものが学ぶ剣の基礎である。
そんな中ギルダンスタインの構えは見事なまでに美しく、まさに王者の剣と呼べるもの。
しっかりと大地を捉える足は山の如き堅牢さを想起させ、構えられる剣の切っ先には荒れ狂う天の怒りを幻視させる。
隙の見えぬ構えにボーガンは眉間の皺を深くし、剣を握る手の強張りを解きほぐす。
サルヴァも、その周りのものも息を飲んだ。
英雄クリシュタンドと、黒獅子のギルダンスタイン。
大軍を率いた将同士の一騎打ちなどそう見ることはない。
それを行なうのが歴史に名を残す戦士二人となれば、彼等に緊張が走るのも当然と言えた。
暫くの時間、二人はただ相手を見続ける。
ボーガンの顎先から血と汗が雫となって落ち、ギルダンスタインは目を細める。
「来ぬか。……いや、悪かった。そもそもが守勢の剣だなそれは」
ギルダンスタインはそう言って踏み込んだ。
大地を踏み抜き、間合いを押し潰す。
偽攻を絡めるでもなく、正面から堂々と。
右に振り上げられた剣は風を奔らせ、剣とは思えぬ轟音を響かせながらボーガンに迫り――
「っ……」
しかし、ギルダンスタインの端正な顔が歪む。
眼前にあるボーガンの体は、伏せるほどに深く沈み込んでいた。
それはさながら、地を這う蛇のように。
左手を引き腰を捻り、ボーガンの刃は正確にギルダンスタインの首へと走る。
自身の足元より伸びる一撃。
ギルダンスタインは咄嗟にその剛腕を持って剣を揺らし、ボーガンの剣を弾いた。
だがボーガンは弾かれてなお止まらない。
体を起こし左の掌底にてギルダンスタインの胴鎧へと衝撃を叩き込む。
「ぐ……っ」
だが、ギルダンスタインも巧みであった。
吹き飛ばされながらも、ギルダンスタインはその刃でボーガンの左腕を浅く裂く。
ボーガンが顔を歪ませながらも間合いを取り、荒く息をついて肩を揺らした。
ギルダンスタインは鎧を貫通した衝撃に、呼吸を乱されながらも笑う。
「老いたとは、くくっ、謙遜に過ぎるぞボーガン」
「老いてこそ研鑽を積まねば、戦士とは言えますまい」
ボーガンが見せたのはクリシェの剣であった。
舞いのように鮮やかな、千変万化に揺らめく剣。
構えに固執せず、その時に応じた最適解のみを追い求めた剣技の美しさは、ボーガンすらを魅了していた。
常に相手の意識の外から、ただ命だけを狙う剣。
その全てを理解できるわけではなかったが、何度も手合わせし、繰り返し見て来たその剣の理念はボーガンの中にも強く影響を与えている。
「王弟殿下は王者の剣。実に美しい。……しかし、ただ命を奪うため研ぎ澄まされた剣もまた美しい。年甲斐もなく魅了されましてな、新たな娘の剣技に」
「あの娘……か」
「ええ。見様見真似、クリシェの振るうものと比べれば児戯のようなもの。……しかし、時間稼ぎにはなりましょう」
「……面白い」
とはいえそこからの勝負は拮抗――とは言えぬものであった。
クリシェから剣を学んだとはいえ、それは奇襲的な一撃でしかない。
相手を思わぬ位置からの攻撃で混乱させ、体勢を崩し、その虚に差し込む剣技。
小柄なクリシェだからこそ大いに力を発揮する技であるとボーガンは知る。
基本となるのは慣れ親しんだロールカ式の剣技。
そこに足りぬもう一歩を補うために出した苦し紛れの一撃でしかなかった。
常人であれば先の一撃で事足りただろう。
しかし剣術巧みなギルダンスタインの前に、同じ手は通じない。
王者の剣は一閃鋭く鎖帷子を浅く裂き、刃傷を増やすのはボーガンであった。
天性のものと言うべきバランス感覚は足場の不安定さをものともせず、剣に体を合わせて踏み込む。
一点に集約された突きは鞭の如きしなやかさを持って解き放たれ、板金鎧を刺し穿つ。
緩急見事なる剣技――王弟ギルダンスタインは危なげなく、まさに王者の風格を備えていた。
「――ッ!!」
「く……っ!?」
――しかしそこに来て、対するボーガンも意地を見せる。
傷だらけになりながらも、生の長きを戦場で過ごしたボーガンが持つものは荒々しき戦士の剣。
膝をつきながらも剣を振るって間合いを開き、時には傷を覚悟で体ごと叩きつけ、ギルダンスタインの体を弾き飛ばす。
隙あらばその体を掴み、押し倒し、剣技ではなく純粋なる暴力へと引きずり込もうとする。
いかなる時にも冷静なボーガンが死地に表出させるは獣であった。
英雄でなかった頃――ただの戦士であった頃。
兵長から、地獄のような最前線から駆け上がったボーガンに潜むかつての血がそこに滾っていた。
ボーガンの顔からはもはや理性的なものが削ぎ落ち、野獣の如き凶相が浮かんでいた。
死を間近に、狂気に満ちた瞳。口の端はつり上がる。
それはどこまでも攻撃的な笑みであった。
狼が獲物を前にしたような狂笑。
対するギルダンスタインも頬を吊り上げ、笑う。
その傷一つなき黒き鎧は今や土に汚れ、無数の傷痕が生じていた。
「いいぞボーガン! やはりお前は素晴らしい戦士だ!」
「はは、久しぶりに血が滾っておりますな! 娘には見せられません……!」
ボーガンが剣を振るう。
もはや剣技というよりも鋼を叩きつけるようであった。
どこまでも大振り――隙だらけに見える一撃であるが、そこにあるのは大炎が如き熱量。
ギルダンスタインですらが一瞬たじろぎ、一歩引くほどの剣であった。
その肉から迸るのは青き魔力の渦。
剣とは思えぬ轟音が響き、大地をえぐり取る。
「どうされました殿下ッ! 逃げるだけでは私の首は獲れますまい!!」
「ちっ!」
舌打ちをしギルダンスタインは距離を取る。
攻撃の隙を狙う――冷静にギルダンスタインはそれを見いだそうとするが、しかしボーガンは嵐であった。
豪雨と雷鳴を轟かす、嵐が如き無数の剣閃。
一手一手は稚拙と言える剣であれど、そこに秘められた力は眼前にあるだけで本能的な恐怖を呼び起こす。
――迅雷のクリシュタンド。
ただ将軍として優れた能力が彼をそう呼ばせたのではない。
戦場で誰より前に立ち、その暴力を解き放つボーガンの荒々しさを見た兵士達がつけた異名であった。
敗着の地にあっても無数の屍を作りあげ、肉を食み、血を啜る。
連なる兵士は心を震わせ、自らもまた狂気に身を委ねる。
迅雷――それは嵐を呼ぶ雷が如き戦士の名だった。
クリシュタンド配下の軍団長から百人隊長に至るまで、ボーガンを英雄と崇めるのはそこにある。誰もが皆かつてボーガンの姿に心を震わされたものの一人であり、そしてそれ故に勇壮なる男たちが彼の下に集い、剣を振るう。
風を巻き起こし周囲を束ね、眼前の敵に血の雷雨を叩きつける。
ここにあるボーガンはまさしく、その異名に劣らぬ人の姿をした嵐であった。
周囲で見ていた男たちも血の滾りと、反する恐怖に背筋を震わせる。
その前に立つことができるのはただ、ギルダンスタインだけであった。
その純粋な暴力によって守勢に追いやられながらも、その姿にただ純然たる敬意を抱く。
かつて肩を並べ、戦場で見た男の姿。
それを思い出し、ギルダンスタインは頬を吊り上げる。
「くく、背筋が震える。堪らんなボーガン、これぞ戦士の戦いというものだ!」
受ければ剣が折れる。全てが全てそういう一撃であった。
重厚な鎧の上から受けてなお致命傷を受けかねない。
ボーガンに鎧の隙間を抜く繊細さなど既になく、しかし先ほどまでとは比べものにならぬ驚異であった。
では、どうするか――
「お前とならできると思っていた! ……ボーガンッ!!」
――こちらも獣になる他あるまい。
隙を狙う。虚を突く。
そんな小細工はもはや頭から放り捨てる。
これは神聖なる戦士の戦いであった。
剣の柄を握りつぶさんばかりの怪力を持って、ただ振るう。
最速にして最高の一撃を。
空気を押し潰す轟音をボーガンは腰を捻って避け、左腕を振るいギルダンスタインの兜を拳で撃ち抜く。
手甲がひしゃげるような一撃は重厚な兜を歪ませ、ギルダンスタインの頭蓋を揺らす。
しかしギルダンスタインは更なる剣を振るい、転倒しながらボーガンの右脚を貫く。
それは深く、だがボーガンは歯を食いしばり耐えた。
全身から夥しい血を流し、その熱によって蒸気の如きを立ち上らせながらボーガンは立っていた。
転がるようにギルダンスタインも立ち上がり、兜を荒々しく脱ぎ、叩きつける。
ひしゃげた兜がその整った顔に傷をつけるも、完全に意識の外であった。
応じるようにボーガンも兜を脱ぎ捨てる。
血の混じった唾を吐き捨て、ボーガンは前傾を取った。
土を拾い上げるとギルダンスタインに投げつけ、突っ込む。
ギルダンスタインはそれに構わず、卑怯とも思わず、更に姿勢を低く前に出た。
黒き鎧の肩がボーガンの剣に歪み、ギルダンスタインは苦痛に顔を歪める。
だが腿の傷、そのせいで甘くなった間合いと剣の冴え。
ギルダンスタインは負傷を覚悟で更に前へ、肩から突き上げるようにボーガンの巨体を弾き飛ばした。
左肩を痛めたことに気付きつつもギルダンスタインは剣を右手に迫り、追撃の大上段。
ボーガンは体を転がすようにそれを避けるとギルダンスタインを蹴りつけ、よろめいた隙に立ち上がる。
そして同じくボーガンも右腕を振り上げた。
「っ……」
――しかし、無数の傷がボーガンの血量を損ねていた。
滾る血の圧力を失い、踏ん張りが利かなくなったボーガンは姿勢を崩し、そしてギルダンスタインはそれを見逃さない。
鋭い一撃はボーガンの右腕を切り裂き、宙を舞わせる。
「ぐ、ぬ……っ!」
腕を切られながらもボーガンはギルダンスタインを投げ飛ばし、ふらつくように木にもたれかかる。
腕からはボタボタと多量の血が溢れ出て、ボーガンの目が虚ろに揺れていた。
地面に叩き着けられたギルダンスタインは咳き込みながら立ち上がる。
そして荒く息づきながらも近づき、告げた。
「……良い勝負であった」
剣を肩に担ぐように持ち上げ、
「これで終わりだ、と言いたいところだが、しかし――」
ギルダンスタインが山の下に顔を向ける。
無数の喊声が響いていた。
見れば大隊相当か――歩兵が山を駆け上がってくるのが見え、馬の蹄の音がどこからか響いていた。
「……勝利とは言えん。やはり、引き分けだな」
そう呟いた。
「王弟殿下! 敵の部隊が――急いで首を」
「……構わん。これだけの血だ、死は免れん」
「ですが――」
「構わんと言った」
黒鎧の男を睨み付けると、ボーガンを見る。
「首を晒す気はない。……お前の剣と腕、もらっていくぞ」
ボーガンは答えられず、ただ睨み、そして意識を失う。
ギルダンスタインは行くぞ、と一言告げ、走り出した。
「……礼を言います、王弟殿下」
後ろに続くサルヴァが告げる。
「いらん。お前のためではない。……俺が認める戦士への礼だ」
「……は」
崖上から現れたギルダンスタインの言葉。
そして手にもつ剣と腕。
それが本物であるか否か。
それをはっきりと断言出来るものはそれほどいなかった。
だが、ギルダンスタインは自らの名を宣言し、語っている。
貴族にとっての名というものが何かを知るものであれば、その言葉を疑うことも出来ない。
そして崖上に立つ男はアルベラン――王家の血筋を持つ正統なる貴族である。
戦場は、静寂に包まれた。
声を聞いたセレネはその目で、遠く掲げられる剣と腕を見つめる。
それでも彼女は、それが虚報であると信じたかった。
魔力によって強化された視力は、残酷なまでに事実をありのままセレネへと伝える。
それは何度も見て来たボーガンの手甲であり、剣であった。
誰より尊敬する、自分の父のものであった。
「……嘘」
度重なる心労と、肉体的な疲労。
それをなんとか騙してきたセレネの体が馬上でふらつき、隣にいた第四大隊長――バーガが支える。
「セレネ様……お気を確かに。首ではありません。腕と剣を持って来たということは未だ存命かもしれません」
単なる気休めであった。
そうであっても言わねばならない。それがバーガの役目であった。
セレネは感情でその言葉に縋りたくなり、どこか冷静な頭でそれを否定しようとする。
「……兵が見ております」
バーガは苦々しく、そう告げた。
これまで過酷な務めを無理にこなしてきた彼女には酷な言葉であった。
しかし彼女は軍団長。
少女のように蹲って泣き叫ぶことは許されない。
セレネは怯えるように視線を揺らし、目を閉じ、呼吸を整える。
ただ冷静にあるために。
周囲の兵はセレネを見ていた。
困惑と怯え、熱狂にあった彼等は今や、冷えた空気の中にあった。
――空気も、流れが変わっている。
そして聞こえたのは歓声であった。
それは自軍からではなく、敵軍から響くもの。
攻められていた敵兵士が一転、攻勢に移ってくる。
状況は半端であった。
第二軍団の中央打通を完全に終えていればあるいは。
しかし現状はその最中にあった。
つまり陣が乱れた最も危険な状態。
馬の蹄がこちらに向かってくる。第四軍団の伝令。
「第四軍団長より。――流れは移った。ここからの巻き返しは容易ではなく、甚大な被害が想定される。無念であるが傷の少ない内に兵を引くが至当と判断する。第一軍団より兵を引かれたし。以上です」
伝令の男はセレネを案じるように見ていた。
――巻き返しは可能であるか否か。
確かに望みは薄い。しかし、竜の顎を奪われて良いものか。
余計な事を考えないようただ思索を巡らせ、頷く。
「……伝令。突出している重装歩兵より兵を引くと伝えて。軽装歩兵はクリシェが第二軍団から撤退させるでしょう。気にしなくて良いと伝えてちょうだい。それと、心配してくれてありがとう、と」
命令口調で告げられた言葉はセレネの混乱を案じてだろう。
少なくとも、この場にある間は、自身は軍団長でなくてはならない。
伝令は敬意を示すように力強い敬礼を行ない、また走り去っていく。
「……クリシェ?」
そして、目の端で崖を駆け上がっていく影を捉えた。
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