第57話 弱き者
崖上に気を取られる敵兵を構わず斬り殺しながら、嫌な空気だ、と眉を顰めた。
やる気に満ち溢れていた百人隊ですら士気が低下し、セレネの軽装歩兵達も同様。
クリシュタンド軍全体が、ボーガンの剣と腕、そしてギルダンスタインの言葉に力を失っている。
「っ、軍団長副官に続け! 我らが役割は変わらぬ!」
ダグラが声を張り上げる。
淀みなく動いていたものがぎこちなく、そして一瞬止まってしまっていた。
先ほどまで生まれていた勝利への流れは既にここになく、遠く彼方へ虚ろと消える。
クリシェは静かに息をついた。
78人目の首を刎ねた辺りでこれ以上は焼け石に水と考え諦める。
一人で斬り殺せる人数など大勢には影響しない。
クリシェが敵を斬り殺す目的は兵士達の士気増幅と敵の士気低下。
敵の流れに呑まれた今、これ以上敵を殺すことは無意味なのだった。
クリシェは特に人殺しが趣味というわけではなかったし、勝つための作業として行なっているだけ。それが徒労になるのであればやる気も出ない。
むしろこういう汚れ仕事はクリシェが何より嫌う所で、それが結果をもたらさないのであればすぐにでも投げ出したいとすら思っている。
「……ここは平気ですね」
幸いながらこの周囲に関して言えば、敵の士気も低い。
百人隊の能力は高く、クリシェとしてはそれなりに満足出来るもので、そのおかげで周囲の敵兵の士気は崩壊状態。
先ほどの声に対して攻め気を見せるよりも、どちらかと言えばこちらが引いてくれることを望んでいるように見える。
少なくとも積極的攻撃に出る気配はない。
腰を捻り、兵士の頭蓋を兜ごと足で砕いた後、クリシェはそのままダグラの前に跳ぶ。
「ハゲワシ。これ以上は困難でしょう。第四軍団長は堅実ですから兵を引くことを考えます。セレネも……それに乗るのではないかと」
少し心配なのはセレネのことだった。
ボーガンの剣と腕。
そのことはクリシェに取っても一瞬、止まってしまうほどの衝撃であった。
恩あるクリシェの保護者で、好意を向けてくれる優しい人物。
それが失われたかもしれない。
まだ確定ではないため頭の外に追いやっているものの、仮にそれがベリーのものであったらと考えれば、セレネの心中もあやふやながら想像がついた。
セレネはボーガンを深く尊敬し、愛しているのだ。
「……私からも進言しようと思っていたところです。我々がいるこの場ですら空気が悪い」
「セレネの軽装歩兵を先導し、予定通り第二軍団との完全な合流を図ります。後のことは後に考えましょう。兵士の損耗を少なくすることを第一に考えてください」
「は」
曲剣を死体で拭い、鞘へと収めるとクリシェは告げる。
「では、後はよろしくお願い致しますね。クリシェは可能なら、王弟殿下の首を刎ねてきます。近いですし」
「は? え……っ」
――チャンスは今くらいのものだろう。
そう告げるとクリシェは崖へと跳んだ。
僅かな突起につま先を預け、上へ。
重力を感じさせない体はどこかふわふわと揺れて、軽やかに崖を登り切る。
ミツクロニアには天を焦がさんばかりの大炎が上がっていた。
「……ん?」
自陣へ戻るところだったのだろう。
燃えさかる森へ顔を向け、ギルダンスタインはこちらに背を向けていた。
周囲には二十ほどの黒鎧の兵士。皆手練れに見えた。
配置と人員、どこを見るでもなくただ事実としてクリシェは捉える。
困惑を浮かべた男たち。その感情が敵意に変わる前に動いた。
構わず鎧の隙間を狙い、邪魔になる二人の男にナイフを投げつつ距離を詰める。
首にナイフが突き立ち一人は死体。一人はまだ息がある。
ナイフが僅かに逸れ死に至っていない。
突き刺さったナイフを蹴り込んで絶命させ、その死体の剣を鞘から引き抜く。
「何をしている! 殿下を守れ!」
クリシェの前に割り込んできたのは二人。
一人は手前に、一人は後方――ギルダンスタインを庇うような立ち位置。
構わず踏み込み、クリシェは大上段から長剣を振り下ろす。
手前――対する壮年の男は即座に剣を上段へ。受けへと回った。
奇襲にも関わらず男は反応が早く、動きも良い。
このような状況でもその剣は冷静さを宿しており、その一瞬にそれまでの生で積み上げてきた莫大な経験と研鑽の全てが滲んで見えた。
襲撃者が並の使い手であったならば、男は返しの一手で容易く斬り伏せていただろう。
そうできるだけの実力を、男は確かに持っていた。
しかしそんな技術も経験も、クリシェの前には無価値であった。
クリシェは長剣を手元で捻り、剣先で弧を描く。
容易に受けを躱し、返しの一手すらを許さず。
その勢いのまま鋭く、男の胴を鎧ごと貫いて剣を離した。
攻撃の全てが致命の一撃でありながら、容易く偽攻にも変化する。
達人と呼ばれるものすらを欺き、眼前にある全ての者を弱者へ変える。
クリシェの剣技は、もはや常理の外にあった。
「ザーガン殿ッ!?」
死体はもはや道具であり、単なる障害物でしかない。
跳躍すると崩れ落ちる死体の肩を蹴り、更に一人――今度は腰の曲剣を引き抜き、着地と同時に奥にいた男の首を薙ぐ。
剣を構えたまま反応も出来ずに男は崩れ落ち――その先にはギルダンスタインの姿。
「ちっ!」
咄嗟にギルダンスタインは後ろに跳び、クリシェは僅かに目を細める。
間合いが開く。距離は遠い。
首を薙ぐことを諦めるとその腕に狙いを定める。
クリシェの曲剣はその腕――鎧の継ぎ目を狙い鎖帷子ごと浅く裂いた。
振るう曲剣の持ち手はクリシェ。
理外の速度と正確性は動き回る相手をすら据え物へ変え、鎖帷子すらを麻布を裂くが如く。
伝承の魔剣ですらが、彼女の振るう剣には劣る。
後ろへ跳ぶその一動作。
それでギルダンスタインの実力の程度を読み切ると、更にクリシェは距離を詰めた。
踏み込みは疾風――対するギルダンスタインが咄嗟に剣を走らせた。
ただならぬ剣速。
体勢が悪くとも眼前のクリシェを骨ごと両断しうる威力がそこには秘められる。
しかしクリシェは体を捻ることでそれを軽々と躱してみせ、その内へと自然に体を滑り込ませた。
極限まで高められた集中力は、目に映る全てを緩やかなものに変化させる。
呼吸、予備動作、筋肉の強張り、魔力の流れ。
それら全てを捉えきり、隙とも言えぬあるかないかの僅かな乱れを問答無用に貫き穿つ。
姿勢は低く、大地と頭が擦れ合うような踏み込み。
ボーガンが見せたそれが文字通り児戯であったと感じさせるほど――それはまさに地を這う蛇であった。
静と動の継ぎ目もなく、その動きは見えていても気付くことすらできず。
対処の時に彼女があるのは相手にとっての致命の位置。
その時ギルダンスタインの目に映ったのは、逃れ得ぬ自らの死であった。
奇襲という条件を加味しても相手は一人、こちらは選りすぐりの精鋭達。
圧倒的優位はこちらにあるに違いなく、けれど目の前の現実は真逆の事実を示した。
――多勢に対して劣位を強要する、そういう化け物の存在を。
ギルダンスタインは背筋が粟立ち、それでも満足しないクリシェは不満を顔に浮かべた。
仕留めるには体勢が悪く、重心が安定しない。
一手では足らず、あと二手を要する。
初手で殺しきるはずが、計三手ではあまりに酷いと眉を顰める。
これならば刺し殺した方をナイフで狙えばよかった。
そうすれば一手短縮できたのに。
彼女にしか理解できない反省をしながらも、体はもはや融通無碍。
最初からそれを狙っていたかのようにギルダンスタインの腕を掴み、体を捻る。
その肉体を大地へと叩き着ける。
大剣を持つその右腕を踏み抜けば、ギルダンスタインの顔が苦悶に歪んだ。
そしてクリシェはその首へと曲剣を叩きつけようとし――咄嗟に身を躱す。
ギルダンスタインを殺しきるよりも早く、クリシェの体に振るわれる剣があった。
「く、クリシェ様……っ」
剣を振るったのは見覚えある顔。
サルヴァが声をあげ、クリシェは目を細める。
裏切り。何らかの手段でボーガンをおびき寄せた。
そういうことなのだろう。
更に無数の刃が四方から迫り、クリシェは一人の首を刻みながら再び跳躍。
輪の外へと軽やかな着地を見せる。
咳き込みながら輪の中で、ギルダンスタインが立ち上がるのが見えた。
「っ……クリシェ。なるほど、俺の首を狙いに来たか」
相手は皆金属鎧に身を包んでいる。
全員斬り殺すよりも先にクリシェの曲剣が傷むだろう。
鉈のような曲剣を、丁寧に死体のズボンで拭い清めて鞘に収めた。
新たに長剣を死体の鞘から抜き取る。
「はい、王弟殿下。そうすればこの戦も終わりですから」
――状況はあまり良くはない。
恐らく皆貴族か何か、全員が魔力を操るのが見て取れた。
増援は期待できない。先ほどの奇襲に失敗した以上、時間が掛かる。
クリシェの瞳がちら、と動いた。
僅かに隙を見せた一人の所へと。
猫が擦り寄るような自然さで相手に近づき、鎧の上から長剣を。
しなやかに、柔らかく――しかし恐ろしいほどに正確な突きは容易く板金鎧を貫通。
その男の人生を呆気なく終わらせる。
そしてクリシェは無造作に、その胴を蹴り飛ばすように剣を引き抜いた。
吹き飛び転がる死体になど目も向けない。
命を奪ったことに対し何ら情を見せず、童女のように、困ったように指先をその桜色の唇に当てた。
血に汚れた外套と、美しい銀の髪。
薄紅の花飾りで留められ、二本の尻尾のようにゆらゆらと踊る髪は可憐であった。
外套の下には場違いな黒と銀のワンピースが覗き、どこか無骨な手甲とブーツが見えた。
どこまでも歪な少女はその大きな――無機質な紫水晶で男たちを見つめる。
「これが、忌み子の……」
誰かが呟く。見れば一目で分かった。
荒々しく勇壮なボーガンに感じた恐れ。
それとは真逆の何かが男たちの内に生じていた。
金属鎧をいとも容易く貫き、囲まれてなお首を軽々と薙いでいく。
踊るような軽やかさと優美さを持って、逃れられぬ死をもたらす。
ここにあるのは十人を相手に切り抜けられると自負する猛者。
そしてそうであるとギルダンスタインに認められ、選ばれた男たちであった。
だが目の前の少女は多勢に対してたった一人にも関わらず、それでも勝負は対等であると――いや、自身が負けることなど考えていないのだろう。
少女には何ら気負いも恐れもなく、いっそ傲慢なまでの自然さでここに立っている。
自分達の実力を見てなお無価値であると断じていた。
冷ややかな紫色は、男たちを路傍の石が如く捉える。
常識外の存在――忌み子クリシェの前に男たちは自分達が喰われる側であると自覚し、そうであればこそ自分達の御旗であるギルダンスタインをどう逃がすかを考えた。
英雄とあれほどの闘いを行ない、勝利したギルダンスタインの実力は先ほど間近で見ている。
王弟ギルダンスタインはそれを快く思っていなかった者ですらが、今では尊敬の念を向けるほどの偉大なる戦士であった。
しかしそれでもなお、目の前の少女の相手にはなるまい。
全てが熟練の戦士であるが故に、誰もが正しくそれを理解していた。
――まともな状態であれど、真正面から戦うべき相手ではない。
ギルダンスタインもまたそう考えた。
ただ冷静にクリシェという少女を観察し、結論を出す。
数の優位があれど、殺される側はこちらであろうと。
ボーガンを討つため貴族から選りすぐった腕利きを揃えてある。
とはいえ、その上でなお勝てはしないとギルダンスタインは判断した。
その見かけを決して侮らない。
クレシェンタという化け物を知るギルダンスタインに油断はなかった。
目の前にあるこの少女もまた――いや、ここにあってはそれ以上の化け物。
剣を避けられ地面に叩き着けられるまでの動きは理解の外にあった。
少なくとも痛めた肩と踏み抜かれた腕、疲労した今の状態では万が一にも勝ちはない。
クリシェに比べれば児戯のようなもの――ボーガンがそう称した理由も理解ができる。
目の前にあるのは、未だかつて見たことがないほどの圧倒的な強者であった。
「そうだな、宣言してやろう。……お前が斬りかかるなら、俺は全力で逃走する。」
ギルダンスタインは口を開く。
このような相手とまともに戦うのは自殺であった。
「……?」
「ボーガンとやり合った後でな、お前と斬り合う元気はない」
クリシェは小首を傾げ、ギルダンスタインは彼女の前に剣を放り投げる。
ボーガンの剣であった。
「大人しく持って帰れ。俺と追いかけっこをしたいならそれで構わんが、お前達はこれから撤退戦に入らざるを得ない。お前の目的がなんであるかは知らんが、戦況の不利は変わるまい。現状で行くならばこちらの優勢――こちらも壊滅的な被害を受けるだろうが、そちらも同様。結果が出るまで俺はお前から逃げ延びれば良い」
ぴくり、とクリシェが反応を見せたのを感じ取る。
ギルダンスタインは笑い、隣のサルヴァに目をやる。
「……それに、どこに敵がいるかはわからんものだ。お前がそうやって俺と遊んでいる内に、クレシェンタは殺される。混乱の最中であればそれも容易い」
はったりであった。
しかし不安を生じさせるには十分な言葉。
クリシェの眉間に僅かな皺が寄る。
――クリシェ様は……紛れもなく戦の天才でございましょう。その点に関しては全くの事実で、そして幼子のようであります。
――少し変わってはおりますが純粋で心優しく、少なくとも身内に対しては善良そのもの。
――恐ろしいお方だと思います。ですが戦や人殺しを好むお方ではないとも知っております。ただただ純粋なお方で、将軍もセレネ様のためにそうしているだけ。
サルヴァの言葉通り、幼子の如き化け物であるのならば操りようはあった。
言葉を紡ぐ。
「今回、俺の目的はボーガンであった。……そして竜の顎の掌握」
その表情を眺め、探る。
感情の揺らぎ一つを見逃さないように。
「ここでお前が下がるなら、俺はまずここの安定化を図ることになる。クリシュタンドの軍はボーガンを失えど優秀だ。疲弊した兵による追撃がそう上手く行くことはないと俺は考えるからな。だが指揮者たる俺が帰ってこないとなれば、兵は自ずと過剰な追撃戦に移るだろう。……無用な戦いだ」
これは取引だ、と続けた。
「再戦の機会はいずれ来る。俺の首を取りたくば、その機会を狙うがいい。お前が失うもののない獣であるというなら話は別だが」
少なくともこの場では勝てぬ相手、勝負になるまい。
目の前にあるものはまさしく、ボーガンの切り札であった。
だがサルヴァの言葉や今ここに立つ姿、先日見た様子――全てを合わせてクリシェという少女を見通せば、感情がないようには見えなかった。
王領の屋敷で使用人に微笑みかけていた姿を思い出す。
快楽殺人者というわけでもない。であれば斬り殺すに対して無感動が過ぎる。
ただどこまでも義務的に、この少女は目障りな虫を潰すような感情で役割をこなしているだけだった。
人の心を誰より眺めてきたギルダンスタインは、クリシェという少女の内面を読み取る。
「……王弟殿下がクリシェを気遣ってくれる理由がわからないのですが。そんなにも殺されるのが怖いのでしょうか?」
無機質な瞳は静かに揺れ、感情の輝きを灯していた。
ギルダンスタインは笑う。
「……先ほどボーガンと戦士の決闘を終えたばかりだ。戦士でないお前にその気分に水を差されたくはない」
それは本心でもあった。
「戦えばお前が勝つだろう。否定はしない。それでもお前が俺の命を賭けて挑むべき相手であるならそれも良いとは考えるが……俺が望むのは戦士の戦いであって、お前は違う」
そしてギルダンスタインは憐れむように続ける。
「……お前は自ら望み、ここに立っているわけではあるまい?」
単なる見た目通りの――いや、それよりも幼い子供。
その能力に反して、歪んでいるのだこの娘は。
クリシェの瞳には迷いが見えた。
「戦には作法がある。それを崩せばあとは、血に酔う獣が喰らいあうだけの混沌だ。そうなれば誰にも止められぬ。……お前がそれを望むというなら付き合ってやる。だが――」
――その場合、お前の全てが道連れだ。
クリシェはギルダンスタインの言葉を考えた。
考えるまでもなく殺すべきであった。
眼前の男が言葉通り逃げだし、周りの男たち全てが邪魔をしたとしても、数刻の内に見つけ出して殺してやることはできるだろう。
七割、八割――確率としては悪くなかった。
それが上手く行くならば戦は終わるのだから、確実でなくともこの際構わない。
であれば、選ぶべき選択肢はただ一つしかない――
「……さて、どうする?」
――少し前ならばそう考えたはずだった。疑問も、不安もなく。
けれどクリシェの中には不安が泳ぐ。
そうしている間セレネは大丈夫だろうか。
普段のセレネなら大丈夫なのかも知れない。
でも、ボーガンが倒れた今の状況では分からない。
クレシェンタはどうだろう。
この男の言葉が事実だとしたらベリーも。
『それに、どこに敵がいるかはわからんものだ。お前がそうやって俺と遊んでいる内に、クレシェンタは殺される。混乱の最中であればそれも容易い』
言葉一つで、冷静だったクリシェの中は掻き乱されていた。
手の届かなかったグレイスの事が脳裏をよぎった。
少しだけ、間に合わなかっただけなのだ。
それでも死んだのだ。
考えるほど胸の内側が気持ち悪くなる。
正しい判断ではなく、安心を欲しがって。
揺らいだ瞳はここにない何かを探す。
いつのまにか――クリシェは完璧な存在ではなくなっていた。
「……そのうち、クリシェが殺します」
クリシェは手に持っていた長剣を放り捨てて、ボーガンの剣を掴む。
そしてそのまま、崖の下へと飛び降りた。
降下する途中で第一軍団の方を確認する。
第四軍団の援護の傍ら、兵を引くセレネの姿があった。
ひとまず指示を飛ばす姿を見て安堵し、状況的に危うさはないと判断する。
ダグラは上手くやっていて、軽装歩兵と第二軍団の合流を済ませていた。
怪我人はそこそこにあったが、動けないものの数は数えるほど。
「クリシェ様!」
「……アーグランド軍団長」
コルキスが前線に出張っていた。
総身が鋼の大戦槍を振り回し、敵兵をなぎ倒しながら血走った目でクリシェを見る。
ボーガンが討たれた――その言葉への怒りがその顔に滲み出ていた。
「……王弟殿下の首はありません。ご当主様の剣だけです」
ボーガンの剣を見たコルキスは僅かに目を閉じ、それを受け取る。
「それだけでもありがたい。クリシェ様が上に跳んだことで兵士の士気が持ち直せました」
そう言った後、コルキスは獣のように天に吠える。
「皆の者、ここを見よ! 晒しものにされた我らが剣――我らが勇者クリシェ=クリシュタンドが持ち帰ったぞッ!!」
コルキスが天へと突き立てた剣――それを見た兵士達が叫ぶような歓声を響かせる。
戦に負けたのだと誰もが気付いている。
しかし、ここで諦めれば完全なる敗北があるだけだ。
自分を騙し奮い立たせるために、兵士達は雄叫びをあげる。
「ギルダンスタインは臆病にも、このクリシュタンドが勇者の前に英雄の剣を捨て逃げた! この勇気に続かずなんとする!! 逃げ腰になるな、剣はここに――我らは英雄クリシュタンドの盾である!」
クリシェはその声の大きさに眉をひそめながらも、第二軍団は問題ないと判断する。
兵士の質は高く、基本的な士気も高い。
戦士コルキスに続く兵士はそれぞれが皆優秀な兵士であった。
「……クリシェ様はお下がりを、殿は我らが引き受けます」
隠しきれぬ憤怒が滲むコルキスの顔。
このままでは無用な被害を出すと、クリシェは告げる。
「……第三軍団と交代できるよう手配します。次を考えるなら第二軍団は要。兵力はなるべく残しておきたいところです。戦列を維持したまま狭隘部まで後退を」
このままただ、殺戮の快楽に身を委ねたい。
そんな不満と怒りがありながらも、コルキスは軍団長として冷静な部分を残していた。
クリシェの言葉に憤怒を息と共にを吐き出すと、頷く。
「……わかりました。この屈辱はその時まで」
「はい。では、お願いします」
クリシェはそう一言告げると、ダグラの下へ駆ける。
敵兵士の隙間を抜ける、その肉を裂きながら。
急いた気持ちを抑えるように、冷静に。
何人かを更に斬り殺して駆け、黒の百人隊の所へと踊り出る。
「軍団長副官!」
ミアが驚いたように敵を抜いてきたクリシェに声を上げる。
「状況は?」
「は、はい、軽装歩兵を先行させ、引かせています! 現在は八割方――」
「第二軍団が殿となってくれます。このまま隊の撤退を。――タゲル」
近くにいた兵長タゲルを見つけ声を掛ける。
左腕を負傷し渋面を作っていた。
「動けるならばあなたの隊から順次撤退を」
「わ、私はまだ――」
「後で動いてもらいます。問答はいりません」
悔しげに歯噛みしながらも、タゲルは了解しましたと頷き、自身の率いる2番から10番の班へと指示を飛ばす。
「ミア、あなたの班は同行を。ハゲワシとコリンツは?」
「左翼で赤の撤退支援を」
言うが早いかクリシェは走り、ミアは声を張り上げ四人を呼ぶ。
敵のほとんどは引け腰であった。
黒塗りの甲冑を着込んだこの兵士達が尋常の相手でないことを知っている。
その中でも戦意を見せ、声を張り上げる兵士には、すぐさま銀色が迫りその命を絶つ。
無駄な時間と手間だった。
クリシェはただただ不快が募っていくのを感じる。
そんな彼女に恐れをなし、人の波が自然に分かれ――続くミア達は無人の野を走るが如し。
剣を振るうことさえなかった。
「ハゲワシ」
そうして戦列を切り裂くと跳躍し、コリンツと共に軽装歩兵の護衛をしていたダグラの前に。
「軍団長副官、ご無事で――」
「速やかに撤退を。タゲルには指示しました。第二軍団が殿を務めます。幸い士気が高いため、頼り切りで良いでしょう」
会話の時間も惜しむように告げる。
ダグラは彼女が急いでいることに気付くと、返事の声だけを張り上げた。
「全軍の撤退が終了するまでこの百人隊とセレネの軽装歩兵には後方での休息を命じます。第二軍団撤退後の支援に使いますから、そのつもりで休ませてください」
敬礼したダグラはすぐさま指示を飛ばす。
応じる百人隊の動きも機敏であった。
この一刻程度の戦いの中で、百人隊からは甘えがそぎ落とされている。
それを見届け、クリシェは敵兵の様子を眺めた。
敵が自身に怯えていることを認識し、声を掛けた。
「……クリシェ達は兵を引きます。刃向かわないなら構いません。ですが、今より一歩でも前に出た者から殺します」
その言葉に動くものがあった。
それは言葉への恐れから、震えた脚を揺らした程度。
誰より早く動いたのはカルアであった。
踏み込み、長剣を横薙ぎに払う。
一歩動いた敵の首に剣先を滑らせ、血の雨を浴びながら背後へ飛ぶ。
「……掛かってきてくれてもいいよぉ、あたしは大歓迎」
血に酔った女はその瞳を潤ませ頬を吊り上げる。
完全に箍の外れたカルアは暗い殺人への喜びに浸っていた。
クリシェを除けば、カルアはこの百人隊で誰より敵を殺している。
この場にいた兵士達の勇気はもはやくじけ、後ずさりを始めた。
念入りに、執拗に、扇動者となる勇者だけを殺された羊の群れ。
眼前の狼には、身を固め怯えるほかない。
その様子を見て取ったクリシェは踵を返す。
「ミア、任せます」
「は、はい……軍団長副官はどこへ」
狂気から醒めていたミアは友人の姿に怯えつつも尋ねる。
「……クリシェは先に本陣の確認をしてきます。撤退は問題ないでしょう」
言うが早いかクリシェは走る。
やるべきことは終えた。
ダグラを追い抜き隙間を抜ける。
胸の内には不快感。
不安が段々と強まって、自分が臆病になっていることに気がついた。
本陣は固めてある。ボーガンは誘い出されて殺された――だからベリー達は大丈夫。
そう自分に言い聞かせようとする。
――本当に?
けれど、不安が渦巻いた。
一番後ろにいたはずのボーガンが殺されるような状況なのだ。
もしかしたら、もしかしたら。
確認しないと安心出来なかった。
兵士達が邪魔に思え、崖を足場に跳び進む。
ただただ不安が這い回って、それが体を急かしていく。
もしかしたら、今の時間が最悪の事態を招いているのかも知れない。
何もかも放り捨てて戻ってしまえば間に合ってたのかも知れない。
もう間に合わないのかも知れない――
外套を翻しながら本陣へ到達すると、真っ先に中央の天幕へ。
息を切らしながらも天幕に飛び込む。
中にいた者たちは侵入者への警戒に立ち上がって剣を引き抜き、入ってきたクリシェの姿を確認し驚きを見せる。
クリシェはそんな視線に構わなかった。
その中に白黒のエプロンドレスを身につけたベリーの姿を見つけ、すぐさま抱きつく。
「く、クリシェ様……っ」
「……よかった、です」
身に帯びるのは血濡れの外套。
それで白いエプロンドレスが汚れるのも構わず、ベリーの胸に顔を押しつけた。
呼吸は乱れ、体は汗ばみ、それでもその感触を味わうように抱きついて、そのぬくもりを確かめる。
苦しいほどに心臓は跳ねていた。背筋には凍えるような寒気があった。
自分がおかしくなった、と思う。
「クリシェ様……」
確かな体温と、柔らかい胸の感触。優しい声。
それでも、どうしようもなく震えてしまった体を落ち着け、安心を求めるように、ただただ幼子のように押しつける。
ベリーは驚きながらも、静かに震えるクリシェの体を汚れるのも構わず抱きしめた。
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