第24話 少女の鳥籠
決定的な勝利であった。
左翼からの渡河に成功、橋頭堡を築いたクリシュタンド軍に対し、サルシェンカ軍は撤退を余儀なくされ、完全に主導権を奪われたまま撤退戦へと移行した。
それに対しクリシュタンドは徹底的な追撃を実施。
サルシェンカの撤退は実に見事なものではあったが、クリシュタンドの追撃もまた苛烈であった。
後退するサルシェンカ軍に休息を与えず追い立て、その兵力を大いにそぎ落とし、帝国軍の後方連絡線をその間合いに入れた。
後方連絡線を脅かされ浮き足だった帝国軍に対し、南部に展開していたガーカ将軍も攻撃を開始。
それによって混乱に陥っていた王国中枢も一時的に機能を取り戻し、大規模な反攻作戦を実施する。
後方を大きくクリシュタンドに掻き乱された帝国。
もはや孤立したウルフェネイトは抵抗拠点としての戦略的優位を失い、徹底的な兵糧攻めに遭うこととなる。
そうして後に帝国から『アルズレン川の悲劇』と呼ばれる戦いは終わりを告げることとなった。
「もう、飛び出さないの。急がなくたって屋敷はすぐ側よ」
「うぅ……」
クリシェが前線に向かってから約一月半。
追撃戦の後熱を出したクリシェは、ボーガンの計らいによりセレネとともに屋敷へ帰ることを許されその帰路にあった。
街へ馬車が到着するや否や『クリシェは先にお屋敷に帰りますね』と駆け出そうとしたクリシェの首根っこをセレネが掴み、嘆息する。
仕方なくセレネは御者にお願いをしてそのまま屋敷に向かってもらうよう告げる。
完全な貴族のわがままであったが、御者は嫌な顔一つしなかった。
クリシュタンドの奮戦と、その二人の美姫の活躍は兵士達の口から大いに広まっている。
美しき小さな英雄二人を乗せた御者はそれが誉れと言わんばかりに、馬を操り屋敷へと二人を連れて行く。
そうして立ち並ぶ商店や民家を越え、高級住宅街に。
「とりあえず、これでも舐めてなさい」
「っ、ぁむ……」
落ち着かないクリシェの手を掴んでいたセレネは嘆息し、クリシェが後生大事に首からぶら下げていた袋を引ったくる。
そしてその中の最後の一つをクリシェの口へと放り込む。
――キャンディであった。
クリシェはその甘味に満たされ、頬を緩めながら――そしてすぐに重大な事実に気付く。
『それから、その小袋に入っているキャンディ、最後の一つはわたしのものです。きちんと持って帰ってわたしに食べさせて下さいませ』
クリシェの顔が強張り、そして口の中で味わう幸福に固まる。
そうこうする間に屋敷へ馬車は到着してしまい、そしてそこには果樹園の手入れをする白黒のエプロンドレス――赤毛を揺らしたベリーをクリシェは捉え、目を泳がせた。
セレネはありがとう、と礼を言って馬車を降り、固まるクリシェに怪訝な顔をする。
「何してるの、早く行くわよ」
「ぁ、でも……」
クリシェはどうにか出来ないかとその優秀な頭脳を回転させる。
――ぺっ、して、綺麗に拭いて袋へ戻せばよいのです。
流石にクリシェの美意識がそれを許さない。これはベリーが食べるのだ。
――新しいものを買ってくるというのはどうでしょう。
ベリーなら渡したものと違うとすぐに気付いてしまうだろう。嘘つきなクリシェにがっかりである。
じゃあ、どうすれば――
「ほら、もう……っ」
「あ……っ」
セレネに引かれて馬車からクリシェは引きずり下ろされると、それに気付いたベリーがこちらに目を向け、果実の入った籠を取り落とした。
そして笑みを浮かべ、俯き、目もとを拭うと小走りにこちらへと駆けてくる。
「クリシェ様、お嬢さまも……っ」
「……どーしてクリシェが先なのよ」
不満そうにセレネは言いつつも、嬉しそうに笑みを浮かべる。
クリシェは未だ固まったままだった。
ベリーはそれに怪訝な顔を浮かべる。
もしかしてどこかお怪我を、などと心配そうに顔を近づけ――
「へ? んん……っ!?」
――突然、クリシェの柔らかい唇が押しつけられた。
今度はベリーが硬直し――馬車を再び走らせようとしていた御者までもが硬直する。
一瞬の出来事のようにも、永遠のようにも感じられる時間。
クリシェの唇から、キャンディがベリーの口の中へと預けられ、それでようやく二人は離れた。
「あの……っ、クリシェ、さ、最後の一個、その……なめ、舐めちゃいました……」
クリシェは約束を破り、最後のキャンディを舐めてしまったことを正直に告げる。
ルール、約束、決まり事。
クリシェに取ってそれは少なくとも、人前で破って許されるものではない。
そしてそれを他の誰でもない、ベリーの前で破ってしまったことに体が震える。
帰ったら『クリシェはちゃんと約束を守りました』と沢山ベリーに甘えようと考えていたのだ。クリシェの計算は大いに狂ってしまっていた。
約束を破ったクリシェは、ベリーに失望されるのではないかと不安になる。
「ぇ、あ、と……そ、その……? ああ……!」
顔を真っ赤にしたベリーの口の中には甘いキャンディ。
その意味を考え、ようやく得心がいったという顔になるものの、その衝撃からは未だ立ち直れず、どうしたものかと困惑する。
約束を破ったことに『がっかり』していると感じたクリシェは悲しげに目を潤ませ、それを見たベリーは慌てたように彼女を抱きしめた。
「だ、大丈夫です! き、気にしてませんから、ちょっとびっくりしただけで……!」
「な、何が大丈夫なのよ! いきなり帰ったらキスって、ベリーあなた、一体クリシェに何を教えてたの!? 気にしてないって、わたしがいない間いつもそんなことしてたんじゃ――」
「ちが、違いますお嬢さま! こ、これには深い、いえ、深くはないのですが、その、理由が……」
「どういう理由よ!」
セレネは顔を真っ赤にしながらなおも噛みつき、ベリーはそんなセレネに対して涙目になりながらクリシェを抱きしめた。
そうして、屋敷には普段の日常が帰ってくる。
クリシェは二人の口論を聞きながらも、ベリーの確かな温もりを感じて安堵する。
――そして少女は、ただただ幸せそうに微笑んだ。
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