二章 誘うもの
第25話 魔法とキス
帰宅から凡そ二ヶ月後。
ボーガンは帰ってきていないものの、屋敷はこれまで通りであった。
クリシェとベリーは屋敷の掃除や庭の手入れ、料理を作って風呂の用意。
違ったことと言えば、よりクリシェはベリーに甘えるようになったということくらいだろう。
実に素直に、クリシェはベリーに甘えることが多くなっている。
今日も二人キッチンで、クリシェとベリーは過ごしていた。
「あら……駄目みたいですね」
「……?」
「ポットの魔水晶が駄目になってしまったようです」
クッキーを焼き上げ紅茶を淹れようとしていたベリーは、ポットの下部に据え付けられた魔水晶を取り外し、目を凝らして見つめる。
術式が刻まれた魔水晶――それは魔力を通すことで、術式に応じた効力を発する。
この魔水晶に刻まれたそれは『発熱』の術式であるが、繰り返し使用することで魔水晶に刻まれた術式に魔力の残滓が残ったり、術式自体が変形してしまい、最終的に使用できなくなってしまう。
そうした場合は再度術式を刻みなおさなければならず、ベリーは仕方ない、と嘆息した。
修復には魔水晶への術式刻印を生業とする『魔導技師』に頼むのが普通ではあるが、ベリー自身、それなりの知識と技術を有しており、よほど複雑でなければ魔水晶の修復自体は行える。
暇が出来たら直しておこう、とポットから鍋に湯を移すと、クリシェがふと呟く。
「簡単に使えるのはともかく、壊れてしまうことを考えると魔水晶はちょっと不便ですね」
「まぁ、道具というのはそういうものですから。後で直しておきますよ」
「それならクリシェが……あ、そうですね、ちょっと最近思いついたことがあるんです」
クリシェはそういうと指先を鍋に向けた。
ベリーは首を傾げ――そしてすぐにクリシェの『思いつき』を見て呆然とする。
見えたのは薄青、魔力の揺らぎ。
クリシェの魔力が指先から鍋へと伸びていき、それを包み込めば、その魔力自体が術式を組みあげ、僅かな時間で鍋の水が沸騰――常温から熱湯へと変わる。
「クリシェ、どうしてみんな魔水晶を使っているのかちょっと不思議だったんです。『ふよふよ』の中で術式をその都度作ってあげればいいんじゃないのかと」
指先を向けるだけで湯を沸かして見せたクリシェは、唖然としたままのベリーに気付かないままそう告げた。
魔水晶とは地中で生成される魔力の結晶体。
人の魔力が通りやすい水晶のような結晶で、その安定性と加工のしやすさという理由により、魔術の媒介として用いられる。
熱、あるいは炎を発し、あるいは冷やし、光源を生みだし、水を引き寄せる。
魔術と呼ばれるほとんどのものがこれを媒介にして用いられており、そしてそれがこの世界における『普通』であった。
自身の肉体に作用する魔術の他は基本的に魔水晶を介さなければ使用することが出来ない。
それが魔術師達の定説であったためだ。
魔水晶に術式を刻む『魔導技師』があり、術式自体を発案、効率化する『魔術師』があり、この世界においてそもそも魔術師とは魔水晶の研究者、技術者という側面が大きい。
魔術師が持つ『魔術師の杖』と呼ばれるものにも魔水晶が備え付けられており、そうした魔術師の一部は光弾を放ち、炎を操る存在もいる。
とはいえ基本的にそれも自衛手段の域を出ず、あくまで魔水晶を用いての魔術行使でしかなかった。
複数の魔術を扱うには複数の魔水晶を用いる必要があるし、そうした術式は基本的に大きな魔水晶を必要とするため、持ち運ぶには不便である。
戦場でそうした『お伽噺の魔術師』がほとんど存在しない理由はその辺りが関係し、魔術というものは肉体拡張を除き、現状そのほぼ全てが平和的に利用されていた。
「それだけじゃなくて、こうやって……」
右の指を振るい、宙空に炎を浮かべ、左の指で鍋の湯を蛇のようにくるくると操る。
「こんな風に自分の『ふよふよ』の中で魔水晶に刻まれているような術式を再現してあげれば、魔水晶は必要じゃないです。これならお料理の時もっと便利だなって思いまして」
「お料理、の……」
「はい。戦場に出てるときは色々不便でしたし、お外で何かを作ったりするときだとか……あ、お洗濯やお掃除にも使えそうですね」
ベリーは目の前で見せられた新たな魔術の概念をただ見つめた。
魔術というものを人並み以上に学んだベリーにとっても、完全に未知の領域にあった。
魔水晶に頼らない魔術を探っている魔術師は多くあり、しかしその誰もがそれを実用レベルにまで持って行っていない。
精々が純銀など、魔水晶の代用品を用いた魔術行使の手法であって、完全な無手でクリシェのような魔術を発現させたという話は聞いたことがなかった。
理屈は理解でき、努力と訓練次第でベリーも彼女と同じ術を身につけることは出来るだろう。
決まり切った型枠を造りその中に魔力を流し込むのではなく、魔力の中に術式を編む。
水面に絵を描くように難度の高い作業ではあるが、やりよう次第でできなくはない。
いずれ、世界にはこのような魔術の手法が確立するのではないか――そう思わせる程度には、クリシェが見せるそれは画期的な発明であった。
ベリーは多くの魔導書に書かれた夢物語――その完成品が目の前にあることにまず驚き、そして静かに恐怖を覚える。
魔導書に描かれる夢物語の目的は、平和的利用とはかけ離れたものであったからだ。
自在に魔術を操る術を身につければ、ありとあらゆる場所で――例えば戦場で、魔術師は何より強大な力を得るだろう。
自然現象をその場に応じ容易に操る術を身につけるならば、魔術師はその存在そのものが戦というものを根本から変えるものになるだろうと多くの魔導書は語る。
今は単なる研究者としてしか扱われていない魔術師の時代が、それによって訪れるのだと。
魔術師自体は大半が貴族であるため、その扱いは平民と比べ高いものの、貴族の中では下から数えた方が良い。
家を継げない次男三男といった者が、仕方なくそうした道に進むことが多いためだ。
戦場で活躍するものこそを誉れとする貴族社会において、やはりその扱いは良いとは言えず、半ば蔑視の対象にすらなっている。
そうした鬱屈がそういう考えに傾倒させるのだろう。
クリシェの『思いつき』は単なる思いつきとしては、彼等へ与える影響があまりに強い。
クリシェの言葉を聞く限り、これを披露したのは自分が初めて。
ベリーはそのことにひとまず安堵した。
「ベリー?」
「……いえ。あまりにちょっと、びっくりしてしまいまして。確かにとても便利かも知れませんね」
ベリーは驚きと恐怖を心の内に閉じ込めると、クリシェの頭を優しく撫でた。
撫でられたクリシェはいつも通り、普段通りに微笑んだ。
クリシェ自身はこのことを大したものだとは捉えていなかった。
ただ、ため息をついたベリーを喜ばせるために、思いつきを披露しただけに過ぎない。
クリシェにとってはそれほど難しいものではなかったし、魔力の扱いが上手なベリーならこのやり方を使いこなせると思ったためだ。
クリシェの中にあるのはベリーの好意に対する返しきれない感謝。
彼女を喜ばせるためなら、そうした技術を伝えることに一切の抵抗もない。
クリシェが非常に重きを置く料理の中でベリーに教わることに比べれば、些細なものであった。
ただただベリーに喜んでもらいたいと考えるクリシェのそうした意図はベリーにも伝わっている。
だからこそベリーは言葉に迷う。
クリシェの思いつきは、彼女が愛する料理のため。
その利用方法も平和的なもので、クリシェは歪であれど、少なくともそういう風に心優しく育てられた少女であった。
だからこそクリシェのその思いつきが、無用な悲劇を生むようなことがあってほしくないとベリーは思う。
「……クリシェ様は戦をどう思いますか?」
「どう……?」
「好きか、嫌いか、です」
「なら、嫌いです」
クリシェは質問の意図に首を傾げながらも即答する。
ベリーはその言葉に頷き、わたしも嫌いです、と言った。
「戦の原理は簡単です。例えば一つの林檎があったとして、クリシェ様がそれを食べたいと思い、そしてもう一人、別の誰かが同じことを考えたといたしましょう。どちらかがその林檎を独り占めにしたいと思えば、クリシェ様はその方と争うことになります」
籠から林檎を取り出して、まな板の上に。
真剣な目をしてクリシェを見つめる。
「仮にクリシェ様が我慢をして半分こにしようと思っても、相手の方が全部食べたいと言ってしまえばそうなるほかはありません。……おわかりになりますか?」
「えと……はい」
「林檎は例え。それが例えば領土であったり、人であったり、技術であったり。今わたしにお見せ下さったクリシェ様の思いつきであったりするかも知れません」
「クリシェの思いつき……?」
クリシェは小さな火を指の上で渦巻かせ、ベリーは頷く。
「クリシェ様が思いつかれたことは、今は誰も思いついていない、とてもすごい発明なのです。クリシェ様が仰ったように色んなことに使えますし、そしてそれを人に向けて使うならば、戦にも容易に転用できるでしょう」
「あ、そうですね、確かに。……ベリーの言いたいことはなんとなくわかります。クリシェのこの思いつきを知りたくなった人がクリシェから奪おうとするってことですよね?」
「はい」
クリシェは頷き、告げる。
「じゃあ、色んな人に教えてしまえば良いのではないでしょうか? 林檎みたいに減るものではないですし、そうしたらみんなで半分こできます」
クリシェはベリーが優しい人間であることを知っている。
だから、その望む答えもおおよそ理解は出来た。
面倒ではあるが、ベリーが望むならそうしてもいいと素直に考え、そう答える。
「それも素敵な考えです。でも、クリシェ様がそう思って色んな人に教えようとしても、その数は限られるでしょう。世界中の人に伝える手段なんてありませんし、そして教えた人に広めてもらおうと思ってもどこかで絶対にストップが掛かります」
「どうしてですか?」
「例えばクリシェ様の前に丸腰の相手がいるとしましょう。クリシェ様はその方と戦わなければなりません。そして相手は気付いてはいないものの、その足元に剣が落ちている。クリシェ様はそれを相手にお教えにはならないでしょう?」
クリシェは理解がいったように、なるほどと頷いた。
「戦に利用できる技術というのはそういうものですし、そうでなくとも便利な技術というのはそういうものです。敵対する相手には知られず、独占したほうが良い。それは極普通な考え方でしょう。それに……さっきの林檎の例えです」
「林檎……?」
「はい。例えば争いになったとき、いつも勝つのは強者です。もし林檎を奪われ続けた弱者がいたとして、それを上回る力を得たならきっと、今までの仕返しを行うでしょう。クリシェ様の思いつきはそういう、弱者を強者にしてしまうような大変な力を持っていますから、やはりそれを広めることも良いことだとは言えません」
話を聞きながら、ベリーの真面目な様子を見て、クリシェも段々と不安になる。
ベリーが全く喜んでいるようには思えなかったからだ。
「えと……その、クリシェの思いつきは、駄目ですか……?」
「……違うのです。決してクリシェ様を責めているわけでも、その思いつきがいけないことだと言っているわけでもないのです。ただ……その思いつきが無用な争いになるのではないかと、少し怖かったのです」
クリシェを抱きしめると、その頭を優しく撫でる。
「日常をもっと便利に。そういうクリシェ様の考えとは異なる、悪い考えで技術を使う方がいます。争いを好む方はお料理やお洗濯ではなく、戦のためにそうした技術を使うでしょう。それはとっても悲しいことですから、わたしは見たくはありません。戦を嫌うクリシェ様の思いつきが、戦を招くようなことになるのも嫌です」
だからわたし、ベリーとの秘密にして欲しいのです、と告げた。
「……ひみつ?」
「はい。わたしはクリシェ様の思いつきはとても素晴らしいものだと感じます。それを使って、色々なことをやってみたいとも思います。けれど、先ほど言ったようなことになってしまうととても悲しいですから、わたしとクリシェ様だけの秘密にしたいのです」
「わかりました。え、と、セレネにも……?」
「お嬢さまならば……そうですね。もちろん秘密というのは絶対、というわけではなくて、なるべく、なのですが……」
クリシェは頷く。
「クリシェ、ベリーが悲しむようなことはしません」
「……ありがとうございます。わたしのわがままを聞いて頂いて」
「ベリーには、クリシェ、いっつもわがままを聞いてもらってます……」
そう言った後、クリシェは少し不安そうに尋ねた。
「……ベリー、クリシェを嫌いになってませんか?」
「ふふ、そんなことはありませんよ。わたしはクリシェ様が大好きですから」
「その……ベリーが嫌だったり、怒ったりするようなことはちゃんと言って欲しいです」
「大丈夫ですよ。大好きなクリシェ様がわたしを喜ばせてくれようとしてくれたことで、どうして嫌がったり怒ったりするものでしょうか。……言ったように、わたし自身はクリシェ様に教えてもらったことはすごく嬉しいですし、とてもわくわくして面白いと思います」
クリシェはほっとしたように嬉しそうに微笑むと、少し背伸びをしてベリーに唇を押しつけた。
ベリーは一瞬固まり、クリシェはそれを全く気にせず幸せそうな顔で告げる。
「クリシェもベリーのこと、大好きです。……えへへ、両想いですね」
「そ……、そうですねっ」
ベリーは口付けを受けて、顔を真っ赤にしながら困ったように目を泳がせた。
自分の責任だとは思いながらも、未だに慣れはしていない。
――帰ってきたクリシェによる、キャンディの口移し。
発端はそれである。
クリシェは両親がキスをよくしていたのを見ていたし、ベリーやセレネが額や頬にキスをすることが度々あったもので、仲の良い間柄ではキスをする、というのは普通のことという認識であった。
そのため特に、先日の口移しに対して何ら疑問を覚えておらず、ベリーはクリシェのその様子に危機感を覚え、キスについて教育することにしたのだ。
だが、クリシェにわかりやすくを重視したため、随分と迂遠で回りくどい説明となり、キスが愛し合う二人が行う愛情表現であると伝えるまでが長かった。
ベリー自身にもその説明にやや恥じらいがあったというところにも原因が――いや、それこそが問題であったのだ、とベリーは認識していた。
異性同士で行うのが普通である、という当たり前な説明を置き去りにしてしまい、そして暗にクリシェのキスをいけないことだというニュアンスを滲ませてしまっていたのも良くはなかったと自戒する。
クリシェはベリーとお互いに強い好意を持ち合う、要するに愛し合う関係であるのだと認識していた。
そうであるのに、クリシェがしたキスをいけないことだと暗に滲ませるベリーに対し、ベリーはクリシェが好きじゃないのか、と尋ねたのだ。
ベリーはそんなことはない、と慌てて否定しつつ良い説明を探そうとするも、じゃあどうしてそんな言い方をするのか、クリシェとキスをするのは嫌だったのか、などと不安そうに尋ねるクリシェに、ベリーは耐えかねた。
咄嗟に口を出たのは『あ、あの場にはお嬢さまも御者もいらっしゃいましたから、そ、それで、嫌とかじゃなくて……そ、その、ああいう場でするのはよくない行為なのですっ』というものだった。
クリシェは『本当ですか? クリシェとちゅーするの、嫌じゃないですか?』などと再三尋ねられ、ベリーはそれに頷いてしまい、クリシェはその言葉に安心したようにベリーへ口付け。
――そして、それこそが始まり。
それからというもの、クリシェは不安を覚えるとキスをして、嬉しいことがあるとキスをするというどうしようもないキス魔に変貌してしまったのだ。
キスが愛情表現であるという説明は、好意の示し方というものがいまいちわかっていなかったクリシェには実に魅力的な手段。
クリシェは愛し愛され合う関係が良いことであるとグレイスとベリーにそれぞれ教えられている。
当然愛情表現も良いことであると考えたクリシェは、機会があればその『良いこと』をベリーとセレネに実践するのだった。
そうした彼女の純粋無垢に対しては面と向かって駄目とは言えず、ベリーもセレネもはっきり言えぬままずるずるとここまで来てしまっていた。
二人以外に決してしないこと、人前でしないことを約束させるのが二人の精一杯で、ベリーはこのことで日々セレネに小言を言われてもいる。
クリシェはじっと期待するようにベリーを上目遣いに見る。
ベリーは顔を真っ赤にして、取り返しがつかないことをしてしまったという後悔に塗れながらクリシェを更に強く抱き、撫でた。
変な意味は決してない、と心中で繰り返しながらも、キスをされたときのクリシェの嬉しそうな笑みを見てしまうと、やはり嬉しくはあり。
クリシェが人間らしく感情を発露させること自体は喜ばれることで、決して悪くはないと自己弁護をしながらも、何とも言えない背徳感にベリーは苛まれていた。
「ちょ、ちょっと話し込んでしまいましたね。気を取り直して……紅茶を淹れてお部屋に戻りましょうか」
「はいっ」
色々なことを考える思考から逃げるように、ベリーは頭を振って、その問題から目を逸らす。
クリシェを可愛がるあまり、その問題は日々悪化していってしまっていたが、もはやその心中は諦めの境地にあった。
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