第23話 血濡れの無垢

敵山中指揮所の制圧後、第四軍団との合流には問題がなかった。

元より連絡を取りづらい山中防衛。

その中枢たる指揮所を失えば、戦列を組む帝国兵士達は独力で連携の取れたこちらの一個軍団に立ち向かわざるを得なくなる。

各個撃破は容易であり、そして背面からはクリシェ達が率いる500の兵が奇襲を掛ける。

挟み込まれた敵正面は一瞬で壊乱し、クリシェ達は第四軍団と容易く合流したのち、骸骨のような邪貌の第四軍団長と今後の動きについて軽く打ち合わせた。

図体の大きい第四軍団本体の行軍が邪魔されないよう、山中行動に長けた精鋭を率いるセレネ達がその露払いとなることが決まり、彼等を先導するように森の中を抜けていく。


「むぅ……」


クリシェは唇を尖らせながら、ずっしりとした外套を払った。

血で外套が重い。

浴びざるを得ない血はそれで受けたのだから当然だった。

水を弾きやすい特殊な繊維の外套であるが、それが真っ赤に染まるほど血を浴びれば、やはりその重みは確かに肩に掛かってくる。

着心地の良いお気に入りのワンピースにも僅かな血が飛び散って、クリシェはただただ不快であった。

第四軍団の状態が整うまでの間しばらく休息は取れたとはいえ、走りまわった疲労が多少残っており、手足の関節が少し痛む。


どうしてこんなところにいるのだろう、とクリシェは嫌になっていたが、自分から言い出したことであることを理解している。

放っておけばセレネが生きて帰る保証はないし、死んでもらっては困る。

セレネは優しい。

それだけでクリシェにとって助けるに値する存在だった。


村では両親と祖父にガーラ、街ではベリーやセレネ。

村、街、軍の中――様々な集合体の中で様々な人間とクリシェは出会ったものの、彼女らのような人間は非常に貴重なのだと思うようになっていた。


クリシェは、自分が人から好かれないということを知っている。

クリシェの中で真っ当な『良いこと』をしても、思った反応は返ってこない。

むしろ関係が悪化することが度々あり、その度不思議に感じていたものであるが、彼女らもまたクリシェに取っては不思議な存在であった。

クリシェが何をしたから、というわけでもなく、ただただクリシェに優しいのだった。

甘やかされるのはこそばゆく、でも心地良くて安心する。


『……相手のことを思いやり、喜ぶことをしてあげたいと思う気持ちが愛情というもので、クリシェ様にもちゃんとあるものですよ』


与えるものともらうものの帳尻が合わないとクリシェは認識し、このよく分からない状態が愛情によるものだろうか、と考える。

彼女らは何を考えて、自分に愛情を向けるのだろう。

それが不思議なのだった。


『――少なくともわたしはクリシェ様と理解し合いたいです。通ずるところが生まれれば、もっともっと色んなものが楽しくなります、幸せになれます。わたしも、クリシェ様も』


グレイスはそうであったように思う。

ベリーも、セレネもそう。


クリシェはいつだって、他人を理解しようとしてきた。

何が好まれ、何が嫌われるのか。

何が良いことで、悪いことか。

彼等の求める色々なことを勉強して努力したつもりであった。

でも、自分をきちんと理解しようとしてくれた相手はほとんどいない。


『……そのうち、クリシェがこんなことをしないでもいいようにしてあげる。そうしたらクリシェは、お屋敷でずっとベリーとお料理をしてくれていいわ』


セレネの言葉を反芻する。

クリシェは自分が未熟であることを疑わない。

食いしん坊で甘えたがり、グレイスに言われた言葉は事実その通りなのだろうと気がついている。

優秀たれと自分に望むクリシェの理想とは裏腹に、クリシェはちょっとばかり食いしん坊で甘えん坊――欲望を我慢出来ない未熟な人間なのであった。


恥ずべき事で、解決は難しくとも改善すべきことである。

しかしグレイスもベリーもセレネもクリシェに対しては甘く、むしろそれでよいのだと甘やかす。

受け入れてはならないと思いつつも、クリシェはずるずると甘やかされるほうに流れ、そしてその心地よさにいつも麻痺させられる。

もちろんクリシェはおいしい料理だけを作っていたいし、頭を撫でられ、ベッドで抱きしめられながら寝るのは何より好きであった。

けれど与えられてばかりだと、自分が未熟だと知っている分どうにも少し落ち着かないのは確かで、けれど――


『どれだけ完璧を望んでも誰もが欠点を持ちますし、完璧な人などありません。だからこそお互いの恥ずべき部分を理解し受け入れて、その上でそれを満たしあう。それが何より素敵な関係で、それは何より素敵で幸せなものですよ』


――彼女らはクリシェに、優秀さを求めていないのだった。

それでいて、クリシェの恥ずべき――望むものを与えてくれる。

クリシェの未熟を理解しようとして、受け入れて、その上で与えてくれるのだった。


『自分が相手を理解しようとして、相手が自分の事を理解しようとしてくれて、それでお互いの喜ぶことをしあえたなら、それはとても幸せなことよ、クリシェ。一緒にいるだけで幸せになれるってことだもの』


グレイスの言葉を思い出した。

ぼんやりと自身の内側を見つめて、ちらりと隣――真面目な顔で歩くセレネを見た。


「セレネ」

「……なに?」

「セレネは、クリシェと一緒にいると幸せなのでしょうか?」

「い、いきなり何言い出すのよ……」


首を傾げてセレネを見ると、セレネは顔を真っ赤に染めてクリシェを睨んだ。

違ったのか、と再び前を向くと、セレネはしばらく無言。

随分と間を空けて、幸せよと答えた。


「……なにいきなり恥ずかしいこと言わせるのよこのお馬鹿。行軍中よ」


セレネは顔を真っ赤にしたまま、クリシェを見ることなく答えた。

クリシェは僅かに目を見開いて、そうですか、と微笑んだ。


その言葉が大きな発見のように思え、ベリーと話をしたくなり、早く帰りたいとクリシェは願う。







森を抜ければ、眼前では川を挟んだ激戦が繰り広げられていた。

矢の応酬が繰り広げられ、川の側、前面には大盾を担いだ敵重装歩兵。

少し後方――こちら側には軽装の敵弓兵。


「セレネ、クリシェが先行しますね」

「っ、クリシェ!」


クリシェは誰より早く駆けだした。

どこかふわふわとした心地で、クリシェは弓兵の列に飛び込む。

首、脇の下、腿、胴。柔らかい肉を裂くように。

不思議と今は、血を浴びることもそれほど気にならなかった。

ただただその列を裂くように駆け、夥しい血の雨と、無数の死体を量産していく。


「……っ、副官に続きなさい!」


遅れるようにセレネが声を張り上げる。

突撃に伴う五百の喊声が響き渡り、何事かと困惑していた敵前列もようやく事態を飲み込む。


そして同時、戦場に響いたのはラッパの音。

それは彼等の到着を待ち望んでいた第一軍団に突撃を示す。

雷と鷹の刻まれた優美な大旗が無数に立てられ、精強で知られるクリシュタンド第一軍団――その中でも最精鋭として知られる第一大隊が渡河へと入る。


それから小半刻もせぬうちに後詰めとなる第四軍団がセレネ達特別攻撃部隊の背後から現れた。


森から抜け出てすぐであり、第四軍団は横陣ではなく行軍縦列のままであったが、奇襲という条件が備わればそれはむしろ敵に対する脅威であった。

切れ目なく続く敵縦列。それは川を守っていた帝国兵士たちにとって悪夢でしかない。


敵を殺し、橋頭堡を確保せよ。

第四軍団配下――その優秀な王国百人隊は無茶な突撃であっても統制を失わず、戦闘の最中に陣形を整えるという離れ業すらをやってのけた。

乱戦にあっても規律整った攻撃で帝国兵士を地獄へと叩き込み、


「――待ちに待った突撃の時間だ、行くぞ!!」


前方からは精強なる第一軍団、その第一大隊長グランメルド=ヴァーカスが叫び、彼等に迫る。

第一軍団長ノーザン=ヴェルライヒの私兵とも言える職業軍人だけで構成された千人は、その勇壮さから『狼群』と呼ばれる無敵の大隊であった。

温存されていた彼等は大地を響かせるような喊声を上げ、王国の勝利を高らかに歌う。一斉に手に持っていた投槍を構えて放てば、その槍は帝国兵士の盾と血肉を貫いた。

そして乱戦こそを求め、彼等は一斉に獲物を引き抜く。


後方の弓兵は乱され、恐れていた最悪の相手による渡河を防ぐことは出来ない。

そして側背からは無数の、夥しい敵の軍勢。


一瞬にして士気崩壊に陥った彼等には逃げ惑う他の道は残されていない。

その中でも優秀な百人隊長に指揮される部隊は尚も交戦を継続したが、ただでさえ強靱な王国軍の士気は最高潮に高まっており――


「ばけ、も――」


――そしてその勇気ある反抗を許さぬ存在があった。


夥しい血を浴びたクリシェは混戦の隙間を縫い、抵抗を維持する敵の『扇動者』を正確に刈り取っていく。

注意が自分一人に向けられぬ混戦ほど、クリシェにとってやりやすい状況はない。

自分一人に注意を向けられ、囲まれさえしなければ。

そういう条件であれば、クリシェは万に一つ、自身が殺される可能性を見いだしていなかった。


右手に、左手に、逆手に刃を持ち替え振るい、踊るようにクリシェは多くの人生を失わせていく。

そのことに対する遠慮も何も存在しなかった。

戦場においては敵を殺すのが『正しいこと』で、クリシェが殺せば殺すほど、セレネの危険が減るのだから。


剣閃は滑らかに、鋭く風と肉を裂いた。

大地に突き立つ剣を拾い、驚くほどの正確さで投擲すると敵の胸に突き立て、背後から斬りかかる男の首をくるりと舞うように補強されたブーツで砕く。

場を乱しては別の場所。

敵の槍を掴み、敵集団へ投擲すれば、攻城弓からはじき出されたようなその槍の威力。

槍は数人の兵を射殺した上で、その破片をばらまき集団を崩壊させる。


離れていく彼女を追うものはいない。

むしろ率いる犬を失った羊の群れは、自身の命が奪われなかったことに安堵し、銀色の化け物を怯えて見送る。

その先で新たな殺戮が起きようとも、彼等はそこに足を踏み入れようとはしなかった。

彼等を叱咤し、激励し、鼓舞するものはすでにその時消えていたのだ。


自身に敵意を向けるものだけを正確に見抜き、刈り取り、クリシェは血に酔う踊り子だった。

自分が踊るほどにセレネの安全は約束される。

だからこそ彼女のために、ただただクリシェは踊り続ける。


そんな異物――クリシェという化け物と、側面からの奇襲、正面からの堂々たる突破。

加速度的に抵抗していた敵集団も統制を失っていく。


――王国軍の熱狂に呑まれかけた空気を震わせたのは一つの声。


「――臆するな神の子らよ!」


無骨ながらも頑強な、赤いたてがみの兜と板金鎧。

手にもつのは鋼の大槍。

引き連れるのは勇壮な騎兵達。

しゃがれた老人の声は魔力によって拡張され、戦場音楽鳴り響くこの場においても良く届いた。


「その右手には友を守るための刃。その左手には友を守るための盾。自らの命でなく、友の命をこそ惜しめ! さすれば必ず、貴様らは神の御手により天の国へと導かれよう!」


北からは王国の第一軍団が渡河に成功し、東の山中からは第四軍団。

対する彼等が現れたのは南西――帝国本陣の方角であった。


重量ある板金鎧と大槍を持つ、先頭の老人の体からは魔力が迸る。

山中で見た者達の誰よりもそれは力強く、ボーガン――いやコルキスのそれに近い。

また引き連れる者の中にも魔力を操る者の姿はあり、引き連れる手勢は誰もが年老いて見えたが、どこか熟練を感じさせる。


――ワルツァ様、などという声が周囲から響いた。

士気崩壊に陥っていた敵前列が僅かに息を吹き返すのを感じ、クリシェは眉をひそめる。

強い力を持つ『扇動者』であった。


騎馬は少数。たった十三人であった。

しかしたてがみ兜の老人は周囲の兵士を集め、的確な指示により抵抗拠点を作り上げようとする。


速やかに殺す必要がある。

そう感じたクリシェは再びそちらへと駆けだした。


そちらに向かおうとした兵士達を背後から斬り捨てながら、敵集団の中へと切り込む。

未だ再編成の途中、それ自体は容易であった。

その老人をすぐさまクリシェは間合いに入れ、しかし――


「ワルツァ様――ぁ、……」

「っ……」


――その老人の命を奪うには足りない。


クリシェの理解の外であった。

老人を守るために、周囲の男たちは自らの命すらを投げ出すようにクリシェを妨害する。

騎兵の二人を斬り殺したところで咄嗟に跳ね飛び、輪の外へと転がり出る。


「……どうにも、貴様が例の化け物とやらか」


老人は鋭く目を細めて告げる。

自らを庇って死んだ騎兵に目を向け、一瞬目を閉じ、向き直った。


対するクリシェは自らの失敗に眉をひそめ、理由を探る。


誰もが自分の命は惜しむもの。

それゆえ、剣や槍の動きはそれに応じて最適化される。

心臓を狙われればそれを当然防ぎに掛かる。

腕を切られそうになれば当然それを回避する。

誰もが本能によって自身の肉体を守るように動き、あらゆる術理はそれを磨くものでしかない――それ故クリシェはその反応を利用して相手の意識の隙間を抜く。

そうやって、容易に相手の命を奪うのだ。


しかし先ほどの男たちは自身の命を省みず、その身を老人の盾とした。

それによってクリシェの中の算段が大幅に狂い、距離を開けざるを得なくなった。

こういう相手はクリシェにとって、最も危険な相手である。

捨て身で来るならば、数の差でクリシェの体を押さえ込まれる危険性があるからだ。


どうするべきか、と考えた。

鎧の隙間を狙って殺すのは彼女にとってもそれなりに集中力を要する。

こうなると先ほどまでのように余裕を持って鎧の隙間を抜くのは不可能――無論、彼女の力と技術をもってすれば板金鎧ごと敵を切り裂くことも容易だが、クリシェの武器は鉈のような曲剣。

無理を通せばすぐに使い物にはならなくなる。

カボチャ一万個もする高価な剣を壊してまでそうしなければならないほど、状況は切迫していなかった。


それに、この男たちを殺しても仕事は終わらない。

クリシェは今日、この剣を使って一日中殺し続けなければならないのだ。


既に老人の回りには三十六名、騎馬が老人を含め十二名。

更に周囲には百を超える兵士が集まりつつあるが、攻めるは危険。

少し待った方がいいかと考えていると、男が声を掛けてくる。


「まだ随分と若く見える。名を名乗りたまえ」

「えと……?」


何故このような場所で自己紹介を。

話し掛けられたことを不思議に思いながらも、クリシェはどこまでも品行方正であった。

周りから殺していこうと、頭の中で次の算段をつけながらも素直に答えた。


「……クリシェ=クリシュタンドです」


老人の周囲にいた兵士達からはざわめきが広がる。

元の色が分からぬほど夥しい血に汚れた外套――その胸元にある雷と鷹の紋章を見て、老人は笑った。

そうした紋章を身につけることが許されるのは貴族かその命を帯びたものに限られる。

その紋章が雷と鷹で、そしてその所有者がクリシュタンドを名乗るのであれば、クリシュタンドの血族以外にあり得ない。

将軍の娘――それもまだ年若い娘がこうして最前線というべき場所に供も連れず現れ、剣を振るっているとなれば、老人にはやはり驚きと賞賛の笑いが零れる。


「くく……なるほど。私はエルスレン神聖帝国、アレハ=クラウゼラ=シュインデル=サルシェンカ将軍が副官、ワルツァ=デル=グリズランディ。まずはこの場に一人駆け付け、この首を狙いに来たその剛胆さと武勇を褒め称えよう」

「えーと、はぁ……」


自己紹介を求められた挙げ句、丁寧に挨拶された上に褒められたのだから、クリシェはますます不思議であった。

クリシェは今から目の前の老人――ワルツァを殺そうとしているのだ。

その老人が笑顔を浮かべているのも謎である。


「話には聞いていたが……あれほど悪辣な砦を作り上げ、決定打となる鮮やかな山中突破。それほどのことを君のような娘が行ったとはな。くく、戦場とは実に、何が起きるかわからぬものだ……」


工作員は互いの軍に入り込む。

同じ西部共通語を扱う王国と帝国は一部で人種も近しい。

そのため誰が砦を築いたか程度の情報は帝国側にも伝わっている。

クリシェ=クリシュタンド――しかしこのような若き少女が。

困惑もあったが、天才とはそのようなものだとワルツァは知っている。


「だが、これ以上好きにさせるわけにはいかぬ。……クリシュタンドの娘よ。命が惜しくばここより去れ。我らは死兵、易々とこの首を渡しはせん」

「んー……それはクリシェがちょっと困ります。クリシェの今のお仕事は、グリズランディさんのような方をきちんと殺すことですから」


体のどこにも、血を浴びていない部分など存在しない。

銀色の髪も、その白い頬も血で染まり、外套からはぽたぽたと血がしたたり落ちていた。

――果たして、一体どれほどの人間を斬り殺せばそうなるのか。

そしてそれだけの血を浴びながら、クリシェはこの状況に対して何の怯えもなく、愛らしい童女のような微笑を浮かべた。


自らを死兵と任じる男たちはそれに目を奪われ、そして意図的な熱狂で忘れかけようとしていた恐怖を思い出す。

彼等の目の前にあるのは紛れもない怪物であった。


「……なるほど。では……悪いがその命、もらい受けるとしよう」

「……んん? えと、だから、殺すのはクリシェです。……状況は整いましたから」


そう告げた瞬間、クリシェの左後方から飛び出してくる一団――


「クリシェ!」


セレネである。

その背後には百名足らずの兵を伴っていた。


セレネはクリシェが向かった先を認識しながらも、自身の役割を忘れない。

混戦の中部下へ指示を出し、そして余力のある兵を引き抜いてからクリシェを追ったのだった。

タイムラグが当然存在したが、しかし代わりに気力十分な精鋭が百人近く。


未だ再編成の最中にあるワルツァを討つには十分であった。

部下を激励に現れたワルツァは、騎乗しているものの逃げ出すわけにはいかない。

そうすれば今度こそ、息を吹き返しつつある士気が崩壊するからだ。

山中を抜けたセレネたちは徒歩であったが、状況的に食いつける確信があった。


一時的な手詰まりにあったクリシェも、彼女らの増援でようやく動き出せる。


――そこからは再び混戦であった。

騎兵の強みは機動力。

騎乗での優位は混戦の最中では発揮されず、むしろ小回りの利かない騎兵の弱みが露呈する。

それを補うだけの技量は当然存在していたが、セレネの手勢もまた優秀であった。


多勢に無勢。

腕の良い貴族騎兵はそれでも奮闘し、数十人の兵士の命をその槍と剣でもぎ取った。

だが優秀なる王国兵を指揮するセレネ、そして風のように飛び回るクリシェの前に一人、また一人と大地に伏し――残るはワルツァ一人。


老人はその見た目にそぐわず、戦場の嵐となる。

鋼の大槍を馬上で軽々と振るい、複数の兵士を相手取りながら互角以上の戦いを繰り広げ、鎧ごと砕き、貫き――戦士とは何かとその身で体現してみせた。


それを見たセレネは、男が自分よりも遥かに格が上であることに気付きながらも踏み込む。

その命を狙うわけではない。

手柄が欲しいわけでも、英雄になりたいわけでもない。

ただこの場での役目を果たすために踏み込んでいた。


男と違うところは、自分が一人ではなかったこと。

そしてクリシェという最強の剣を有していたこと。


セレネはワルツァに斬りかかり一合。

その衝撃で弾き飛ばされながらも、決定的な隙をワルツァに作り上げる。


――当然、彼女がその隙を見逃すはずもない。

横合いから現れたクリシェによって、ワルツァはその左腕を斬り飛ばされ落馬する。

そして同時に残った右腕をクリシェに踏み抜かれ、苦悶の声を上げた。


「ん……」


クリシェは刃を突きつけながら、どうしようかと少し迷った。

抵抗力の消失。聖霊協約によればこうした場合は捕虜にするというのが適切である。

この周囲からはひとまず敵が一掃され、少なくともワルツァはもはや戦うことは出来ない上、貴族らしき高級士官。

捕虜交換のシステムなどについてを思い出し、顎に手を当て首を傾けた。


捕虜という仕組みは明確ではなく、例えば相手が戦闘の真っ只中で降伏の意志を示したり戦闘能力を失ったからといって、捕虜にする必要はないし殺したところで問題もない。

あくまでこれは戦闘終結後の虐殺や私刑を防ぐための決めごとであるからだ。


しかしこのように、『相手の組織的抵抗が失われている状況』で戦闘能力を失ったもの、あるいは降伏の意志を見せたものに対しては捕虜として然るべき手段で拘束すべし、と聖霊協約には書かれている。

そのまま解釈するならばこの場でこの老人を殺すことは避けるべきであった。


クリシェとしては面倒なため、殺してしまうほうが良かったが、周囲の戦闘は一時的に収束を見せ――要するに皆がクリシェを見ている。

誰も見ていなければ殺すところであったが、人前ではルールを守るのがクリシェ。

放っておいたら出血で勝手に死なないかと考えていたが、それより早くセレネの声が掛けられる。


「……クリシェ、ただの兵士じゃない。出来れば捕虜にしたいわ」

「むぅ……はい」


僅かに唇を尖らせると、クリシェは適当に布を死体から切り取り、ワルツァの左腕に巻き付ける。

簡単な止血程度の医学知識はクリシェにも持ち合わせがあった。


「ぐ……殺し、たまえ……」

「聖霊協約により、戦闘能力を失ったグリズランディさんに関しては王国との戦争が終わっています。基本的には拘束後、後方送致、後は話し合いによる捕虜交換という形で送還されることになるでしょう。運が良かったですね」


クリシェは淡々と告げ、微笑む。

ワルツァはしばらく呆然とクリシェを見つめ、目を伏せた。


「……若様のため、時間を稼ぐつもりであったが……大したお役には立てず、この有様。私に生き恥を晒せというのか」

「クリシェに聞かれましても……そういう決まりですから。若さまという人には……後で直接ごめんなさいをしたらよいのではないでしょうか?」


その言葉に目を見開いたワルツァは自らの体を見渡した。

それから自嘲するように声を漏らし、確かに、とかすれるような声で告げた。


「君の名を覚えておこう。……クリシェ=クリシュタンドと言ったか」

「……? はい」


ワルツァは少女の美しく、しかし夥しいほどの血に塗れた姿を眺めた。

返り血で水溜まりができそうなほどに、彼女は汚れている。


「……君は、何のために戦っているのだ? 家のためか、名誉のためか」


唐突に問われたクリシェは考え込み、唇に指を当て、言った。


「……そうですね。クリシェは早くお屋敷に帰って、ベリーやセレネとお料理やお茶会をしたいですから、なんのためかと言われればそのためになるのでしょうか」

「……お茶会?」


聞こえた言葉にワルツァは眉をひそめ、クリシェは当然のように頷く。

そして、セレネをちらりと見て微笑んだ。


「はい、紅茶を飲みながら、クッキーを食べたりするんです。とても楽しいことです。……クリシェはベリーとも、セレネともそう約束しました」


クリシェはただただ幸せそうに言った。

少なくとも、誰にとってもそう見える笑顔であった。


血に塗れてもどこまでも幸せそうな彼女の顔に、ワルツァは言葉を失い、そうか、とだけ頷いた。

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