第22話 愛しき殺戮者
神聖帝国軍――山中部隊指揮所。
その一帯の木々は倒され、代わりに無数の天幕が設置されている。
周囲には防御柵が張り巡らされ簡素な櫓が組み上げられているが、見張りの士気はそれほど高くなく、警戒に立つ歩哨すら欠伸をする有様だった。
それ自体が防御拠点としてそれなりのもので、そもそも硬い防衛線の内側。
防衛線が突破されない限りはここは安全な場所であり、そして敵の攻撃の報告すら入っていない。
未だ前衛は敵第四軍との睨み合いを続けているのだから、警戒心が薄れるのも当然と言える。
「おい、バド、ありゃ誰だ?」
「え?」
山中展開する部隊指揮所の伝令――バドが食事中見かけたのは一人の少女であった。
銀色の長い髪をたなびかせ、真っ黒の外套を身につけていた。
朝焼けの中現れた少女はどこか幻想的で、しかし奇妙であった。
――ここは戦場。
そしてここはその防衛拠点。
たまたま潜りこめるような場所ではなかったからだ。
遠目に衛兵の前に現れた少女の姿を見たバドは首を傾げ、そして少女の周囲で何かが二度煌めくのを捉える。
彼女に近づこうとしていた二人の兵士の首から、血が噴水のように吹き出る。
少女は既にその背後――こちら側に立っていた。
一瞬何が起きたかが分からなかった。
ただ、少女が血に塗れた曲剣を手に持っているのが分かり、
「っ……」
真っ黒だと思っていた外套がその実、滴るほどの血で濡れているだけなのだと気がつく。
即座に敵襲を知らせる鐘が響き渡り、天幕の中で休んでいた者達が慌てたように飛び出した。
バドもその音でようやく少女が敵であることを理解する。
ほんの少しの間に、少女の周囲には夥しいほどの血花が咲いていた。
少女はその中で踊るように――くるくると舞うように、緩急のついた動きで兵士達の首だけを正確に切り裂いていく。
遠目で見れば少女が動く様がよく見え、しかし近くにいる兵士達はそれを捉え切れていない。
――兵士達の意識の隙間を完全に抜いているのだ。
自身もまたそれなりに剣を修めるバドだからこそ、その異常性をすぐに理解する。
たった一人の美しい少女が、五人、十人と血の花を咲かせていく様はどこまでも非現実的であった。
だからこそ、理解が出来てもなおバドは硬直したように動けず、
「おい! 行くぞ、副将に報告をしてくる! お前は副将補佐に!」
ようやく我を取り戻したのは同僚に頬を打たれてからだ。
「っ、あ、ああ!」
バドは立ち上がり、一瞬振り返る。
その一瞬に、少女と目が合った。
宝石のような紫色――遠目にもその瞳が帯びる無機質な輝きが伝わり、背筋が震える。
そしてその少女の紫色が、同僚ケルグのほうへと向けられる様子も見て取った。
逃げ出したい恐怖と責務が混ざり合い、バドは駆け出す。
丁度ケルグとは別々の天幕へ走り、そして横目にケルグの背後へ少女が迫っているのが見えた。
ダクラーシャ副将は鎧を着込んだ状態で天幕の表へ姿を見せていたが、しかし、動揺している。
当然だった。防衛線の内側で、何の報告もなく奇襲を受けているのだから。
少女は軽々とケルグを追い越すと同時、無造作にその首を刈り取りながら間合いを詰め――ダクラーシャ副将に何かを投げつける。
ナイフだった。
とはいえ、困惑の最中にありながらもダクラーシャは副将にまで成り上がった強者。
矢よりも速く飛来するそれを巧みな剣で咄嗟に跳ね飛ばし――
「ぁ、が――!?」
だが、その次の瞬間には銀色の化け物に首を刎ねられていた。
そして同時、新たな悲鳴と怒号が響き渡る。
バドが向かおうとしている天幕の方角。
少女の入ってきた正面とは丁度反対側――無数の矢がそこにいた兵士達の体を貫いていた。
混乱したまま盾を構える者などもいたが、そこには王国の紋章を着けた敵兵が殺到している。
百を越え二百――数は分からなかった。
ただ、ここへ壊滅的打撃を加えるには十分な人数で、そしてその中にも少女の姿を見る。
美しい金の髪を散らせる少女、彼女が狙うは副将補佐であった。
休んでいたところを剣だけ掴み外に出たのだろう。鎧を着込んでもいない。
その武勇で名の知れた副将補佐とは言え、しかし寝起きに奇襲、鎧を着込まずという条件ではいくらなんでも分が悪い。
だというのに補佐を助けようとする兵士達も敵兵に阻まれ、動けずにいる。
ここは部隊指揮所。当然周囲を固めるこの辺りの兵士は皆手練れであった。
だが相手の兵士もそれに劣らぬ精鋭らしい。
銀髪の少女の方へ兵士達が向かったせいでこちらは手薄であり、力量互角であれば数の差で押しきられるだろう。
せめて補佐だけでも逃がせはしないものか。
そう考えるが、銀の髪の少女ほどではないものの、金の髪の少女は見た目にそぐわず剣技に優れた。
鮮やかで流麗――そして苛烈であった。
三の偽攻に一の刃。
並の兵士であれば一瞬で切り刻まれるであろう剣の前に今なお耐えているのは、実力ある副将補佐であるからに他ならない。
しかし細身で優美な剣による突きは鋭く、補佐は徐々に追い込まれ、そしてバドの横を風が抜ける。
――銀色をした風だった。
「あ……」
それが殺戮の限りを尽くした少女であることに気付いたのは、補佐が首を跳ね飛ばされた後であった。
銀色の髪をした少女に全く気付くことなく、補佐は絶命する。
勢いあまって天幕へ突っ込んだ少女は、すぐに立ち上がって周囲の兵士を殺しに行く。
無数の悲鳴が上がる。
周囲にはただ混乱があった。
バドはもはや混乱から一周回って冷静になり、やるべきことだけに意識を向ける。
指揮所伝令――それも山中行動を行うバド達は伝令の中でも優秀な兵士であった。
すぐさま近くの馬に跨がると、本陣へ向かって駆け出し、
「う、ぐ……っ!?」
そして左腕に激痛。
見ればそこにはナイフが突き刺さっていた。遠くに見える銀色がこちらを見ている。
あの距離から正確に――バドを狙ってナイフを投擲したことを理解し、恐怖のまま馬を走らせた。
向かった先には既に敵兵が回り込んでいる。
だが、どうでも良かった。
あの化け物から離れられるならそれでいい。
剣を引き抜き、苦痛を押し殺すと、その内の一人の剣を跳ね飛ばし、一人の首を切り裂いて間を抜ける。
バドが剣達者であったこと、敵中を抜けたのがある意味功を奏したと言える。
正面から逃げていたならば、敵第四軍と鉢合わせることになっていた。
他の方向であれば一目で伝令とわかる(帝国伝令は胸に赤い羽根飾りをつける)バドをクリシェが見逃しはしなかっただろう。
単身敵中を突破したバドは馬を巧みに操り木々を避け、何本かの矢を突き立てられながらも味方の部隊に合流し、報告を済ませ、気を失った。
銀色の髪の化け物。
副将、補佐の死亡、山中指揮所の壊滅。
うわごとのようなその言葉を聞き取った伝令は、すぐさまアレハの下へと馬を飛ばした。
クリシェによる陽動と、後方からの襲撃。
たった一人で敵陣を混乱の極みに叩き落としたクリシェの力もあり、こちらの損害は非常に軽微であった。
指揮官両名を討ち取られての統制崩壊。
そうした状態に追い込まれた敵兵士が恐慌に陥り、抵抗よりも逃げることを優先したためだ。
軍人とは言え一度統制を失えば、兵士は容易く一人の人間へと変わる。
基本的に兵士単体では物事を考え、判断することは許されておらず、そしてそのように教育される。
なぜならば兵士の自主性は規律の崩壊を生み、それは数百、数千――時には数万を操る軍という群体において致命的な隙を生むからだ。
右を向け、左を向け、盾を構えろ、後退せよ。
それらの単純な命令すら、数百人、数千人という規模になれば従わせるのは困難。
上位者が伝える伝言ゲームを下位者が受け取るにはタイムラグがあるし、そしてその命令の合間に自主性を発揮され、上位者の意図と異なる動きを兵士達が行えば収拾がつかなくなる。
兵士達には矢の雨が降り注いでいる状況でも前進を命じられれば前進する愚直さが求められ、恐怖を押し殺して命令に従う従順さが必要となるのだ。
――たとえ、それで自分が死ぬとしても。
その規律が守られるからこそ、軍というシステムは機能する。
上位者の命令に無条件で従うこと。
それこそが兵士の絶対条件であり、そしてそれを指揮する者は、そうした兵士達が常に必要に応じた、何らかの命令を受け取ることができるよう配慮する。
兵士達も当然命は惜しい。
その規律を守ることが自身への生に――あるいは他者の生に繋がらなければ、無為に死ぬだけだからだ。
そんな兵士達に取って、上位者が消え指揮が行われなくなるという状況は恐怖でしかない。
与えられた命令以外を行えない兵士達を、窮地から救ってくれるのもまた命令なのだ。
その命令が途絶えるとなればもはや救いの道は残されていないことを示し、残るものが死のみとなれば彼等は容易く軍人であることを放棄する。
副将と副将補佐、その天幕から立ち上る炎を見た瞬間、防衛する目的と命令者を失った兵士たちは責務を忘れて敗走した。
元々兵糧を切り詰めるために虫すら食べていた兵士達の士気は劣悪で、そして完全な奇襲で窮地に追いやられたとなればもはや望みもない。
まるで蜘蛛の子を散らすように、端から兵士達は逃げだしていく。
それを見つめ、安堵の息をついたセレネはクリシェの頬を摘まんだ。
「うぅ……」
「もうっ、思わずあなたを斬っちゃうところだったわ! せめて一声掛けなさいお馬鹿!」
「くぃしぇ、おばかじゃひゃいです……」
頬から指を離すと、セレネは冷静な目で周囲を見渡す。
完璧な奇襲であったと言っていい。
完全に相手の指揮統制を崩壊させた。
山中では立て直しも難しい。
この煙を見た第四軍団が今、帝国の山中防衛線に突破を仕掛けていることは間違いなかった。
「クリシェ、セレネを助けようとしたのに……」
「それはわかってるわよ。……ありがとう、お礼は言ってあげる」
元々クリシェと張り合う気もない。
手柄を奪われたことに対しても文句はなかった。
先ほども単に相手の男が魔力を用いることに気付いたため、相手を買って出ただけだ。
自分より剣が巧みであるものが世の中にいくらでもいることをセレネは知っているし、手柄に目が眩んで剣を振るう――そういう単純さはセレネの立場上許されない。
父親であるボーガンから何度か勝利をもぎ取ることが出来るようにはなっていたが、ボーガンよりも自分が上かと言えばそうではないし、ボーガンが世界最強の剣士というわけでもない。
百に一つでも負ける可能性があるのであれば、自ら剣を振るうことは避けろというのはボーガンの言葉であった。
人を指揮する立場にあるならば、あくまで剣は護身術。
人を指揮する立場にある人間が殺されることは絶対にあってはならないし、たまたまその時、その百に一つが来ないとも限らない。
先ほどの戦闘は有利にあったし、勝てるだろう、という予測はあった。
が、絶対に勝てるという保証もなかった。
セレネは現在の自分の役目をはき違えていない。
自分の役目は敵を混乱に陥れるため兵を指揮することであって、剣を振るうことではないのだ。
そしてそのために、クリシェに汚れ役を押しつけているのだと理解している。
「……もう」
クリシェの頭を撫でる。べっとりと手甲に血がついた。
――また、何人を殺したのか。
クリシェの髪と頬に血が飛び散っていた。
丈夫なはずの曲剣には骨をひいたのか、僅かな刃こぼれ。
超人的ではあるものの、クリシェにもやはり限界がある。
そうした汚れや刃こぼれは、汚れることを嫌い道具を大切にするクリシェにすらそんな余裕がなかったことを意味する。
先ほどセレネの相手を殺したときには勢い余って天幕に突っ込んでいたし、珍しくクリシェは少し息が切れていて、肩で呼吸をしていた。
クリシェはどこまでも忠実に、セレネのために努力をしてくれているのだった。
それを思うほどに、セレネも彼女に応える義務がある、と考えた。
セレネは周囲の兵士に残敵への警戒指示を出しながら、クリシェの頬をまるで宝石でも扱うように、ハンカチをつかって丁寧に拭ってやる。
「……あとでちゃんと綺麗にしてあげるから、ひとまずは我慢してちょうだい」
「……はい」
クリシェは嬉しそうに微笑む。無垢な笑みだった。
屋敷にいるときと変わらない笑みは、自分が今し方奪った命に対し、何ら疑問を覚えていない。
必要であれば。
クリシェに取ってはそれだけだ。
その必要に自分が入っていることを嬉しいと感じはしたが、それ以外に対しては全くの無価値にしてしまえる危うさが怖くもあった。
やはりベリーの言うとおり、こういう場所にいさせるべきではない、と思う。
この綺麗なものを綺麗なままにしておくのも、汚してしまうのも、まわりにいる人間次第なのだろう。
クリシェはどこまでもクリシェであった。
汚れたってクリシェはクリシェ。
でも、できることならば綺麗なままのクリシェを見たいと思う。
「終わったら、一緒にベリーの所に帰りましょう。わたしもクッキー、無性に食べたくなっちゃったわ」
「……セレネもお茶会したい気分なんですか?」
「そうね、そういう気分」
薄紅色の頬を緩ませるクリシェの額にキスをして、血に汚れてしまった髪を拭うように、彼女の頭を優しく撫でた。
セレネに出来るのはそれだけだった。
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