第21話 二人の美姫

薄暗い天幕の中。

寝息を立てていたのは銀の髪をした一人の少女。


「ん……」


少女は薄く目を開き、寝ぼけたまま何かを探るように手を伸ばす。

掴んだのは毛布の感触。ぼんやりとそれを弄び、感触を確かめた。

ベッドの中には一人きり。

外は騒がしく、兵士達が動き回る音や声が響いていた。

――ああ、戦場なのだ、と思い出した。


眠気はまだ残っていて、けれど落ち着かない。

体をゆっくりと起こして左右を見渡す。

天幕の中にセレネはいない。先に起きたのだろう。

しばらくそうして毛布を抱いて、ぼんやりと。

首から提げた袋を手に取れば、そこにはキャンディが一つだけ。

袋の上からキャンディを転がして弄び、それから少女は立ち上がる。


水瓶から顔を洗うための水を取って、ひんやりとした感触に頭を覚醒させていく。

気温がそれほど低いわけではなかった。

けれどどこか肌寒い。

外套を取って巻き付けるように身につけた。


取っておいたパンを手に取り、冷めたスープに浸す。

味は悪くない。千切って口に運ぶと空腹を満たした。

不思議と味わう気分にもなれなくて、作業的に手早く済ませる。


紅茶でも淹れようか。

温かいものが飲みたい気分で、けれどどうにもやる気が起きない。

じゃあご当主様の天幕に。

けれどなんだか足が重い。

ベッドに座り込んで、ぼんやりと。

まだ頭が起きていないのかも知れない。

少女はぼーっと座り込んで何をするでもなく、ただキャンディの袋を弄んだ。


「……帰ってベリーとお料理したいです」


ぽつり、と呟いて。

そこで天幕の入り口が開いた。


「あら、ちゃんと起きてたの? まだ寝てると思ってたのに」


金色の優美な髪を馬の尾のように左右に揺らして。

セレネは笑って近づくと、顔を近づけクリシェの頬を両手で挟む。

冷えきった部屋に、その手はどこまでも温かい。


「おはよう。もうすっかり朝よ」

「……はい、おはようございます」

「ご飯は食べた? ちゃんと顔は洗ったかしら?」

「え、と……はい」


頷くと、セレネは頭を撫でて、ベッドの隣に座り込む。


「お昼から会議があるから起こしに来たの。頭はちゃんとしてるかしら?」

「……えへへ、はい」


クリシェはそのままセレネに抱きつく。

ぎゅう、と体を押しつけると、セレネは苦笑しながら頭を撫でた。


「頭がちゃんとしててこれなんだから、もう。まぁ手間が省けて良かったわ」


緩んだ頬を擦りつけて、目を細め。

指でクリシェの長い髪を滑らすように、セレネは優しく梳いていく。


「ちょっと時間があるし……じゃ、クリシェ、紅茶を淹れてくれるかしら。今日は……そうね、あなたと同じでたっぷり蜂蜜を入れたあまーいのがいいわ」

「ミルクもたっぷりですか?」

「ええ。おんなじやつ」

「はいっ」


その言葉にクリシェは微笑み、頷いた。









主導権は完全にこちらが手にしていた。

相手はこちらの動きに引きずられ、操られている。

――決断の時であった。


『ここが攻め時と見る。どうだ?』


ボーガンの言葉に異論を唱えるものはなかった。

天幕の中にいたものは、同意を示すように深く頷く。


『……中央からの動きが未だ見られぬ以上、単独で撃退するほかありませんもの。南部が耐えられるかに賭けるよりも、わたしは自らの手で勝利への賭けに出たいですわ』


セレネは告げ、ガーレンも同意を示す。

私も同意見だとボーガンは頷き、クリシェを見た。


『クリシェ。お前はどう思う?』

『クリシェは早く帰ってベリーとお料理がしたいですから……どちらかと言えば早く帰れるほうがよいです』


クリシェの素直な意見に皆が苦笑し、緊張感のない子ねとセレネはその頬をつまむ。

彼女は勝利を疑ってすらいなかった。

その緊張感のなさがボーガンに残る賭けへの不安を取り除く一助となり、決断を早め――そうして決戦の火蓋が切られることとなった。




――終われば帰れる。

それは実に魅力的な提案であり、クリシェは敵地への山中浸透を提案、自ら志願した。

とはいえ、未だ立場定まらぬクリシェでは色々と混乱が起きかねず、セレネが特別に編成された攻撃隊の指揮を執り、その臨時副官としてクリシェをつけることとなる。


やるべきことは山中での、夜間浸透。

明朝に敵の山中指揮所への奇襲を掛ける大胆な攻撃であった。

これには第四軍団が後詰めに入り、クリシェたちは彼らに先行して敵中枢への奇襲。

敵指揮を麻痺させ、助攻を担う。


元々森を遊び場としていたクリシェには、生い茂る木々も大した障害にはならない。

猟師の生まれなど山歩きに慣れた兵士が同行し、兵数はおよそ500。


音もなく忍び寄るように彼等は進む。

先頭を行くのはクリシェであった。


「あ――」


樹上から飛び降り様に、剣を二閃。

二人の哨戒兵は悲鳴を上げる間もなく首の肉をそぎ落とされ、鮮血を噴き出しながら地に伏せる。

――これで二十七人。

クリシェは殺した人間の数を勘定しながら、自身の外套を見る。

外套は返り血に赤く染まり、不満そうにクリシェは口を尖らせた。


普段ならば返り血を浴びぬよう立ち回るのも可能であるが、目的は声を出させず、気付かせず。

流石に血を浴びぬよう立ち回るのは難しい。

外套は受け止めた血のせいで重さが増し、脱ぎ捨ててしまいたい気分だった。


500人の精鋭は夜間に山へと昇り、展開する敵の側面からの浸透を行い、今は明け方。

朝焼けが木々の影を彩り、明暗を強調する。

濃い赤となった外套も、今の時間であればそれほど悪いものではない。

そう考えることでクリシェは無理矢理自分を納得させ、手をあげて合図を送る。


木々の擦れる音と共に現れた男たちは一様に眼前の少女への怯えを見せ、セレネもまた酷く険しい顔でクリシェを見つめていた。


クリシェは確実性を重視し、隊の先導と歩哨の処理を請け負った。

山歩きに慣れた精鋭とはいえ、その能力がどの程度のものか計りかねたからだ。


行軍中彼らは周囲の警戒と敵歩哨の発見にのみ注力させ、処理の実行はクリシェ。

確実で効率的な案であるとクリシェは満足していたものの、傷一つ負うこともなく、こともなげに歩哨を斬殺していくクリシェの姿に兵士たちが覚えるのは恐怖でしかない。

両手足の指で数えられぬほどの人間をいとも容易く斬り殺したとなれば当然だった。


歴戦の兵士であるとはいえ、一日で両手指の数の敵を殺したことがあるかと尋ねられれば多くは否と答えるだろう。

戦いとは常に命がけであり、命を奪われる恐怖の中、極限の興奮状態で行われるものだ。

前線に立って一度の戦闘で五人も斬り殺せば、それはもはや豪傑、勇者と呼ばれてもおかしくはない。

相手一人を殺し、命を奪われぬことで精一杯。

多くの兵士にとってそれが普通で、だからこそクリシェに抱くのは怯えというべき感情であった。


確かに一つの命を使い、多くを殺すのが戦場での英雄である。

しかしクリシェのそれはあまりに淡々としすぎていて、ある種作業的な殺人は彼らの思い描く英雄の所行とは大きくかけ離れていた。


どこまでも効率的に殺人の算段を組み、実行する。

彼女が行なっているのは戦闘ではなく暗殺であった。

実際それはこの場において彼女が求められる役割であったが、彼女のそれは更に言えば作業。

相手の死角、緊張の緩みや呼吸のタイミングを正確に読み切り、動き――結果として相手は何が起きたかもわからぬままに首を裂かれて絶命する。


どうあがいても逃れ得ぬ死。

彼女に見つかった時点で敵の歩哨はもはや死人であり、そして兵士たちが理解できるのは目の前のクリシェではなく、殺される側の心理であった。


剣によって、戦いの中敗れるならば、諦めもつく。

しかしなんの名誉もなく、このような森の中で、何が起きたのかわからぬままに殺される気持ちというのは一体どのようなものだろう。


――それを想像し、ぞっとするのだ。


そして目の前の少女の刃が自分たちに向けられた時にどうなるか、を想像してしまう。


狩人の出身が多いこの精鋭達は、命を奪うということがどういう事かをよく知っていたし、そのやり方についても一定の理解はある。

とはいえ、相手は獣ではなく、人間。

必要であるからと何の躊躇もなく、淡々と殺人作業を繰り返すクリシェには、やはり得体の知れないものに対する気味の悪さを感じてしまう。


「……大丈夫?」


セレネはそんな兵士達の様子を感じ取りながら、クリシェに近づき頭を撫でた。

クリシェは兵士達の視線を集めながらも、いつも通り。

頭を撫でられ僅かに頬を緩め、上目遣いにセレネを見たあと、外套を軽く持ち上げる。


「外套が血でびしょびしょになってしまいました。せっかくベリーが見繕ってくれたのに……洗ったらちゃんと落ちるでしょうか?」

「落ちなきゃ新しいのをわたしが見繕ってあげるわ。……ごめんね、こんな事に付き合わせちゃって。帰ったらなんでも言うこと聞いてあげる」

「……なんでも?」


クリシェは指先を唇に当て、僅かに頬を染める。


「じゃあクリシェ、またセレネのお部屋でお茶会がしたいです。紅茶を飲んで、その……三人で、クッキー、食べながら……」

「本当、欲がないわね。まぁ……いいけれど、ちゃんと付き合うわ」

「……えへへ」


クリシェが出ると聞いたときにはわかっていた結果だった。

実際にその手並みをみれば、兵士達が彼女を恐れるのも無理はないとセレネは思う。

美しく愛らしい将軍令嬢――クリシェ=クリシュタンドのそうした一面は、その差異が際立っているからこそ悪い意味で目を引いた。

当初クリシェの容姿と幼さに不安を覚え、渋面を作っていた強者揃いの百人隊長達も、今では恐ろしい何かを見るような目で彼女を見ている。


本当はクリシェに、ボーガンのところで待っているよう言ってやりたかった。

クリシェが気にしなくても、セレネは気にする。

自身が愛情を向けるクリシェが、そういう目を向けられることが悲しかったし、辛かった。


しかし山中防衛線の隠密裏による浸透。

後方攪乱によって第四軍団の速やかな山中突破を成功させ、奇襲的側面攻撃による川の南側への橋頭堡確保の助攻を行なうというクリシェの提案は、セレネ単独では難しい。

もちろん戦術として理解はでき、知識としては当然わかってはいるが、それを指揮し、実行できるかと言われればやはりセレネには不安が残る。


これまでセレネは将軍副官として戦場に立っていた。

実際的な戦闘指揮は訓練を除けば初めてなのだ。

特別攻撃部隊を率いる隊長の重責は、セレネ単独ではあまりに荷が重すぎるもの。


だからこそボーガンはクリシェを使うことに決め、彼女と兵士達の折衝役をセレネに期待した。

そしてセレネも自分に与えられたのがそういう役目であると理解している。

悔しさはあって、しかし安心感を覚えるのも事実。


ボーガンは極めて実際的なものの考え方をする。

クリシェの特異な――その飛び抜けた能力。

そして優れてはいるものの、絶対的に経験が不足しているセレネの能力。

それらを冷静な思考で鑑みて、その能力に見合った役割を与えたのだった。


それがわかっているだけに、セレネは自分の情けなさを思う。

実際のところ、500の兵を山中で運用するというのはそれだけで難しい。

周囲の警戒、小休止のタイミング、優秀な兵とは言え、単なる行軍ですら落伍者が出ぬよう気を使う。

現状はクリシェが行っている侵攻ルートの選択もここに混ざるとなれば、やはり自分一人では厳しいものがあると言わざるを得なかった。

実際に戦闘となれば、より情報は錯綜し、複雑になるだろう。

だからこそクリシェという存在は何よりありがたく、同時に自分の未熟さを呪う。


クリシェの持つ天才的な嗅覚と剣の腕により、想定よりかなり深く隊は入り込んでいる。

地形条件などからクリシェが推測した、相手の防衛線の隙間を綺麗に抜いているためだ。

ここまで大きな戦闘なく浸透が行えている理由は全て、クリシェのおかげであった。


セレネが当初考えていたのは、山の上部から敵後方に大きく回り込み、防衛線の脆弱部を速やかに撃破。山歩きに慣れた兵士の能力を十全に用いて浸透するというものだ。

その案では戦闘を介することとなり、夜間浸透が暴露する前に指令所急襲を行なわねばならず、急ぎ足にならざるを得なかった。

兵士の消耗も激しかっただろう。


対してクリシェは夜間の内に山の上部へ移動し、大休止。そして崖上からの降下を提案した。

ロープを使わずに降りたクリシェが周囲の偵察を行ない、巡回歩哨を始末。

その後ロープを設置し、兵士達を慎重に崖下へ移動させ防衛線の隙間を完全に抜き戦闘を回避。後は巡回歩哨や予備隊などに注意を払えば良いとするものだ。

行軍中の警戒は当然行なうものの、戦闘を介していないため暴露の心配が薄く、精神的、肉体的疲労も少ない。

崖上からの降下さえ慎重にこなせば、あとは無駄な戦闘も消耗もなく敵地深くへ入り込める。


結果として、セレネが事前に考えていた理想の行動起点より遙か先へと部隊は入り込んでいた。

クリシェなしでこれを行うならば、一体どのように兵を運用すればよいのか。

そうした思索に頭が向かいそうになるのを食い止め、ただ、今は目の前のことに集中する。


「……そろそろ限界かしら? ここに展開する敵の指揮所はすぐのように思えるけれど」

「そうですね。展開する敵の守備兵の隙間を完全に抜けて来れましたけれど……この辺りで限界です。敵の兵力配置から考えると指揮所は少し南に下れば見えてきます」


断言する。

クリシェはまるで空に目があるように、位置を把握し、敵の配置を理解していた。

地図とコンパスが頭の中に入っているのだろう。

クリシェの答えは常に迷わず明確であった。


こうした部分は絶対に自分では敵わない。

セレネは精度の低い地図を広げ、自身の位置を把握し、クリシェの認識と摺り合わせる。

歩いた時間と速度で概算を割り出し、自身の現在地をセレネは認識するが、クリシェほど正確ではない。

クリシェとの間に生まれた微妙な誤差を修正し、どこで狂ったのかを考える。

地図か、歩測か、それとも地形の読み違えか。


セレネはクリシェと出会ってから、自分を深く知ることに努めるようになった。

自分の能力はどのようなもので、どの点に優れ、どの点に劣るのか。

自身の欠点をはっきりと認識しろ、というのは常々ボーガンが口にする言葉で、そしてセレネもクリシェと出会ったことでその言葉の意味を理解した。


絶対に勝てない相手。でも、それから学び、近づくことは出来る。

そのためには何が彼女より劣るのかを理解する必要があり、そして明瞭な自己認識はその改善に用いられ、生まれ持っての美点である向上心と真面目さで研磨されていく。


セレネが優れている点はそうした部分にあった。

周囲から英雄ボーガン=クリシュタンドの継承者として不足なく、むしろそれ以上の才覚を持つと期待されるセレネであるが、セレネは自分に才能があるとは全く認識していない。

優秀な教師を多く得て、勉強する機会に恵まれただけの凡人であると認識する。

その学ぶ事への貪欲さと驕ることのない謙虚さが、より彼女を魅力的に見せ、人望を高める要因となっていた。


それゆえ重要な作戦に年若い彼女が指揮者となっても文句を言うものはおらず、むしろ彼女のためにこそ、と兵士達は気を張る。

クリシェに対する恐れは、兵士達が抱く将軍令嬢セレネ=クリシュタンドへの個人的忠誠心によって覆い隠され、それらが見事に調和して一糸乱れぬ隠密行軍を可能としていた。

クリシェに先導と処理を任せることへ大きな反発が生じなかったのも、彼女の決定であるからという点も大きい。


クリシェはクリシェで、彼女のそうした人望については非常に高く評価している。

自身単独ではこうまで上手くは行っていないだろう、と彼女自身は考えていた。

短絡的で楽観的。

クリシェは優れるがゆえ、そうした悪癖を知らずに持つ。

自分への絶対の自信があるためだ。


兵士達が自分の言うことを聞くかどうかに対しては無頓着であった。

言うことを聞けばそれでいい。

聞かないのであれば規則に則り、クリシェの自らの手で反抗を示す兵士に抗命罪の適用――全くもって規則通りの死罪を適用すれば良い。

クリシェはそうすることに躊躇はなかったし、そしてそのことにより何かしら問題が起きても対処ができると認識する。


どうとでもなるのだから、ある程度数が残ればどうでもいい。

クリシェの悪癖はそういう思考へ容易に彼女を導いてしまうのだ。


予定では二人か三人がその犠牲となっているはずだったのだが、その損失はセレネが前面に立つことで消失した。

兵力を全くの数字として解釈するクリシェの中ではどうでも良いとはしながらも、やはり損失は少なければ少ないほどよい。

おかげで必要な処理をしないで済んでおり、なおかつ付き従う兵士は実に従順である。

そういう点でセレネには感謝もしていた。


だがそれに対するセレネはただただ、クリシェの足手まといにならぬようにと気を張り、学ぶ姿勢を崩さない。

互いが互いを評価し合い、認識し、それぞれを補い合う。

指揮者と副官。二人はこの場において理想的な関係を知らず築き上げていた。


「向こうはまだ気付いていないでしょう。……あなたの手柄よクリシェ。おかげで随分と優位に立てそう」

「クリシェは道案内をしてるだけです。クリシェ単独ではここまで上手くは行かなかったでしょうから、手柄はセレネのものです。それにクリシェは元々お手紙を配達しに来ただけですから」

「……まだそれを引っ張るのね、あなた」

「うぅ……っ」


セレネは呆れたようにクリシェの頬を引っ張った。

柔らかい頬が伸び、非難するようにクリシェはセレネを見る。

痛いと言うほどではなく、しかし頬を引っ張られるのは好きではない。

ただ、セレネはクリシェの頭を撫でるのと同じく、クリシェの頬を引っ張るのも好きであるから、クリシェは非難がましい目を彼女に向けてもそれを止めようとはしなかった。

セレネが自分に対し、悪意ではなく強い好意――ベリーのいうところの愛情を抱いてくれていることくらいは、クリシェであっても理解できるからだ。


セレネは微笑むとその頭を撫でて、告げる。


「……そのうち、クリシェがこんなことをしないでもいいようにしてあげる。そうしたらクリシェは、お屋敷でずっとベリーとお料理をしてくれていいわ」

「……ずっとお料理」

「ええ、ずっと。……だから今は、その力を貸してちょうだい」


クリシェは少し考え、微笑み頷く。

グレイスやゴルカも、ガーレンもガーラも――そしてベリーとセレネも。

クリシェに求めず、ただ与えてくれる相手、というのはクリシェの中で少し特別な位置にある。

そういう相手に返してあげられるもの、ということについて考えるときはいつも少し困り、だからこそそうして何かを要求されることには安堵があった。


数学的に物事を捉えるクリシェとしては、足し引きゼロの関係が最も安心できるのだ。

不足すれば不快に思うが、もらいすぎるのも心のどこかにおちつかなさが生じてしまう。

だから求められることに喜びを覚えて目を細め、頬を緩める。


「はい。それと……帰ったらまた、剣のお稽古だけじゃなくて、セレネにもお料理教えてあげますね。それで、その……」


――また三人でお料理しましょう?


過分に与えられたものに対し、クリシェが返せるものは日常のごく些細なものがほとんどであった。

彼女が最も価値を置くものがそこにあるためだ。


優しくしてもらったなら、自分がしてもらって嬉しいことを相手にもしてあげる。

グレイスにもベリーにも同じ事を教わり、そしてそれを忠実にクリシェは守る。

単にそれだけのことであったが、セレネは目を見開き、一瞬の間を開け嬉しそうに頷く。


「ふふ、帰ったらそうしてもらおうかしら。簡単な奴でお願いね」

「……はいっ」


広げた地図を片付けながら、囁くような声と笑顔。

行軍の最中の小休止――些細なやりとりであった。

そんな二人のやりとりを見ていた兵士達はそうした光景を不思議な心地で見つめる。

何を考えているのかわからなかったクリシェの姿は、その瞬間血肉の通ったものとなり、ただただその美しさと愛らしさに目が向けられる。


クリシュタンドに美姫二人、それを守りし勇者達――

そんな歌を思い出し、兵士達は顔を見合わせ、拳を握る。


少なくともセレネの前にあるクリシェは歳相応の少女に見え、であればこそそれを守るのは自分達の義務である。

彼女へ覚える気味の悪さや恐怖が消えることはなかったものの、どうあれ、目の前のこの光景は守り抜かねばならぬものであった。


山中防衛線を展開する敵指揮所を前に、兵士達は様々な感情を心の内に押し込め、そうした考えに自らの身を投じる。

クリシェを守る事は、彼等が信じ、愛するセレネの笑顔を守る事でもあるのだと。


二人に関する逸話が後に多く残るのは、そうしたギャップによるところも大きいだろう。

冷徹で心を持たないとされるクリシェはセレネにだけは甘えを見せ、真面目で規律と統制を重んじるセレネは、彼女にだけは甘えを許した。


――その後に長く伝わる二人の美姫の逸話は、この戦を始まりとする。

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