第8話 お料理

「わぁ……」


クリシェは目をきらきらとさせながら周囲を見渡す。

棚には鍋やフライパン、包丁やおたま。

それ自体は普段使うものであったが一目でその質の良さと種類の豊富さが見て取れる。


キッチン自体が一つの部屋となっており、ここには調理に必要な全てが揃っていた。

これは何、あれは何、とはしゃぐクリシェに一つ一つベリーは答えた。


魔力によってシステム化された設備はどれもが、火を介さずに熱を操作する。

魔水晶と呼ばれる青い水晶を用い、例えば物を熱し、物を冷やす。

ポンプと呼ばれる設備が井戸から水を吸い上げここまで導管を通して水を送り込む。

食材は冷蔵庫と呼ばれる設備によって腐敗を遅らせているらしい。


魔力によって組み上げられたキッチン。

それは今まで床にまな板を敷いていたクリシェの、調理という概念を打ち壊すに足る代物であった。

料理のためだけに一部屋全てを使う贅沢さにクリシェは衝撃を受けていた。


「クリシェ様は本当に料理がお好きなんですね。まさか一番最初にキッチンに興味をもたれるだなんて」

「えっ、あ……はい、お料理、好きなので」


クリシェは自分のはしゃぎっぷりに気が付いて、もじもじと照れながら告げた。

銀色の美しい髪はそれに合わせて揺れ、その真白い肌が赤くなる。

長い睫毛に包まれた大きな瞳を左右に揺らす様は例えようもなく愛らしいもので、ベリーはとうとう堪えきれなくなった。


「わっ」


ベリーはぎゅう、とクリシェを抱きしめその頭を撫でた。


「うふふ、なんてお可愛いんでしょう……っ、聞きたいことがあればわたしになんでも聞いて下さいませ。一緒にお料理もいたしましょう?」

「え、と……? はい……」


ベリーは満更でもなさそうなクリシェを抱きしめ、しばらく楽しむと、顎に手を当て考え込む。


「そうですね。丁度、お部屋の案内が終わったらお食事の仕度をと考えていたのですが……クリシェ様もご一緒にいかがですか?」

「いいんですか……?」

「ええ。お客様にお料理を手伝わせるというのはどうか、とも思いますけれど……クリシェ様がお望みになるのであれば否応もありません」

「……じゃ、じゃあ、クリシェもお料理、したいです」

「ええ、ええ! では……今日はご当主様の許可もありますから、一段と豪勢なディナーといたしましょうっ」

「はいっ」


クリシェは満面の笑みで頷いた。




一つ一つ、使い方を教えてもらいながらの作業となったが、普段から知らず魔力運用を行っていたクリシェにとって、簡単な熱源操作の魔水晶の操作を覚えるのはすぐであった。

ベリーは感心しながらてきぱきと、下拵えなどをクリシェと行う。


本から学び環境にも恵まれたベリーの料理の腕は、クリシェが感動を覚えるほど。

我流ながらも、クリシェは限られた食材を最大限活かして来たつもりであったが、しかしあくまでそれも無知なクリシェの経験則。

それはこうです、これはこうしたほうが良いですとベリーが教えてくれる内容はどれも理論的、クリシェのそれよりも遙かに深い知見であった。


配置された棚や机も全てが全て考え抜かれており、それら全てを鮮やかに使いこなすベリーの姿は感動的で、豊富な知識に裏打ちされ、研究され尽くした所作には一切の無駄がない。

教え方も明瞭で理解しやすく、また食材の取り扱い、包丁捌き一つをとっても芸術品――己がこれまでどれほど稚拙なレベルで満足していたのかとクリシェが恥ずかしくなるほどであった。


ベリーはベリーで目をきらきらとさせながら包丁を握るクリシェの姿にあっという間に心を奪われ、料理が出来上がる頃にはそんなクリシェを心の底から愛でていた。


「美味しいですか?」

「はい、美味しいです……っ」


スープに入れた肉の味見をしながら、興奮した様子でクリシェが頷く。

ベリーも頷きながら、これが下拵えの力です、と笑った。


「お肉もスープに入れるまえに外側をさーっと焼いてあげると、お肉の美味しいお汁がぎゅっと閉じ込められたまま。スープの出汁に使うかどうかでも少し変わりますが」

「なるほど……」

「こういう硬いお野菜もちょっと切れ目を入れてあげるだけでスープがよく染みこみますし、柔らかくなります。全然違うでしょう?」

「はい、すごいです……」


ブロックの羊肉をトロトロに煮込んだシチュー。

ローストビーフには果実の酸味を効かせたソースを掛け、オーブンで焼いたのはチーズとトマトにベーコンを乗せたピザ。

香草を散らしたおかげで、仄かに薫る香りが鼻腔をくすぐり、期待を煽る。

――未だかつてない魅惑的な料理達。

ぐぅ、とクリシェのお腹が鳴り、頬を赤らめたクリシェにベリーが笑いかけた。


「いつもならもう少し遅いのですが、クリシェ様のお手伝いのおかげか早く終わってしまいましたね。冷める前にお食事といたしましょうか」

「はい……っ」


ベリーがパンのカゴと鍋を持ち、クリシェはピザとローストビーフを。

キッチンは左手最奥にあり、食堂はそこから二つ隣。

調度品が整えられたその部屋には長テーブルが一つと八つの椅子が置いてあった。

部屋のサイズはそれほど大きなものではなかったが、クリシェの住んでいた家よりは大きいだろう。

料理をそこに置くと、クリシェはベリーと共に食器を並べていく。


「食事の仕度が出来たと伝えてきます。そうですね、ここにお掛けになってお待ちを」

「はいっ」


ベリーが出ていき、クリシェは行儀良く、姿勢正しく椅子に掛けて待つ。

室内は暖かく、これならば料理がすぐに冷めてしまうと言うこともないだろう。

クリシェは口の中に唾液が広がるのを感じながら、待てを言われた犬のように大人しく座り、そのうちに扉が開いた。


現れたのは金色の髪の美しい少女。

猫のようにはっきりとしたどこか力強い瞳と、きり、とした眉。

鼻筋はすらりと通り、形の良い唇はきゅっと引き結ばれていた。

煌びやかな薄青のワンピースドレスを身につけ、長い髪を不機嫌そうに指で弄ぶ。

彼女はクリシェを見ると露骨に眉をひそめ、視線を逸らした。


「あの……初めまして、クリシェと言います」

「ああ、そう」


そう一言言って、少女は席に着く。

クリシェの真正面であった。


この娘がベリーの言っていた『お嬢さま』だろうか、とクリシェは考える。

料理の類など家庭的なことはあまり好まず、剣を振り兵法の勉強をする男勝りのお嬢さまであるらしい。将来は父親の後を継ぐことを目標としているという。

年の頃はクリシェに近く、今年十三。


そんな彼女は腕を組み、不機嫌そうにクリシェを見た。

不機嫌な理由が分からず、クリシェは自分の格好を見る。

もしかするとこのエプロンとやらは食事中につけるものではないのかも知れない。


クリシェは立ち上がってエプロンを脱ぐと、綺麗に畳んで膝の上に置く。

それを見た少女は目を細めた。


「早速点数稼ぎかしら。よくできた子ね」

「……? 点数稼ぎ?」

「料理の手伝いをしたくらいでいい気にならないでちょうだい。田舎から出てきただけあって、したたかだこと」


何を怒られているのか。

クリシェは首を捻り、考え込む。


「ベリーは随分気にいったようだったけれど、わたしはあなたみたいなのがここに住むのは反対だわ。それをよく理解しておいてちょうだい」


そう言い切ると少女は口を閉じた。

クリシェは言葉の意味を考え、自身の立場を鑑みる。

クリシェは今からご馳走にありつき、これから先ここで以前より楽しい生活を送るであろうことは確かである。


しかし、そのクリシェを養うのはボーガン。

彼に養われ、今までその恩恵を一身に受けていた彼女にとっては得られるパイの総量が減ってしまうことを意味するのだから、なるほど、喜ばしいことではあるまい。

食べる気でいた三人前のカボチャパイを一人前横取りされるようなものである。


料理の手伝いをしたくらいで、というのはクリシェの貢献の小ささを責めているのだ。料理を手伝ったことに対しては『よくできた子』と褒めているのだから、それ自体が悪いというわけではない。

純粋に貢献が足りないと彼女は言いたいのだろう。

自身のパイを取られた分、それに見合う対価を彼女はクリシェに要求している。

そう理解したクリシェは、わかりました、と頷いた。


「ではクリシェ、お嬢さまに認めてもらえるよう頑張りますね」

「はぁ……?」


ほぼ直球な嫌味に対し、クリシェが浮かべるは微笑である。

困惑する少女――セレネは眉根を寄せて怪訝な顔をした。

自分よりも年下の少女に対しみっともないくらいの嫌味を言ったにも関わらず、言われた側は全くの不愉快も顔に浮かべず、ほんのり口元を緩めた笑みを見せているのだ。

予想外の反応過ぎて二の句が継げなくなる。


何かを言ってやろうと言葉を探すが思い浮かばず、その内に扉が開かれボーガンとガーレン、ベリーが入室してしまう。


「おや、今日は早いなセレネ。クリシェと話していたのかい?」

「ぇ、ええ、お父様。少しだけ……」


ややむすっとしたまま告げるセレネにボーガンは首を傾げる。

だが微笑を浮かべるクリシェの様子に、軽く挨拶をしていたのだろう、とボーガンは納得した。

感情をあまり表に出すタイプではないものの、気性穏やかで優しい働き者の少女であるとガーレンからクリシェのことを聞いているため、これならばうまくやって行けそうだ、とボーガンは喜ぶ。


「そうか。クリシェ、気の強い娘だが、どうか良くしてやってくれ」

「はい、ご当主様」

「はは、そこまで畏まらないで良いよ」


ボーガンは楽しげに笑い、奥の上座に腰掛け、その斜め前――クリシェの右手にガーレンが座る。

そしてベリーがワインと水を各々の前に注ぎ終え、食事を取り分けてクリシェの左手に座る。

セレネはそれを見てまた不機嫌になる。

それに気付かぬまま、ボーガンがグラスを持ち上げ告げた。


「では、食事としよう。……私の敬愛する恩師と、その孫娘に」


全員がグラスをぐっと持ち上げるのにクリシェは気付いて、慌てて倣い、口に含んだ。

独特な苦みと酸味にクリシェはほんの少し、眉を動かした。

好き嫌いするのはいけないことだと教えられているため露骨に表情を出すことはないものの、クリシェはワインがあまり好きではない。

子供の味覚のクリシェの舌はワインの複雑さを楽しめるほど苦みには強くなかった。


その様子にベリーが微笑み、ジュースもありますよ、などと別なグラスに注いで渡す。

クリシェは恥ずかしそうにしながらも受け取り、ぶどうジュースを口にする。

ベリーはそれを慈愛に満ちた表情で見つめ食事を始めた。

通常使用人は食事を別に取るのが普通であるが、この家ではその辺りの決まり事をあまり気にしない。


まずクリシェはピザに手を伸ばし、小さな口で頬張る。

さくりとした生地の感触と、とろけたチーズ。

ふんだんにチーズを使ったピザは実に豪勢なもので、口の中いっぱいに広がるチーズの塩気にクリシェはご満悦であった。


次いでスープ。その次はローストビーフ。

クリシェは一つ一つ味わいながら、味覚とお腹が満たされていく感覚にこの上ない幸福感を覚えた。

文句なしに、クリシェが今まで口にしたどんな料理よりも美味である。


ベリーはちょっとした食事のマナーなどをクリシェに教えながら、嬉しそうなクリシェの様子に微笑を深める。


「おいしいですか?」

「……はい、とても」

「ふふ、クリシェ様がお手伝いしてくださったおかげですよ。スープなんかはほとんどクリシェ様が作ったようなものですし」

「ほう?」


ボーガンが興味深そうに尋ねた。


「ええ、包丁の扱いも上手ですし、味付けや煮込み方も……わたしは作り方を教えたくらいです。初めて扱う魔水晶もあっという間にマスターしてしまって」

「く、クリシェはほとんど……ベリーさんに沢山教えてもらいました。クリシェは全然……」


我流ではあったが、クリシェは包丁の扱いや料理の基本をしっかりと理解していた。

それに安心したベリーがしたのは料理の作り方を教え、本当に軽い手伝いをした程度である。

ベリーは言葉通りのことを思ってはいたものの、とはいえクリシェには受け入れがたい。


これまで一人で試行錯誤し料理を作ってきたクリシェにとって、今回の料理はほとんどが未知の分野である。

自分一人ではこの料理を生み出すまでに何年かかっただろう。

そんな自分を導き、ここまでのものを仕上げさせたベリーはクリシェに取って非常に偉大な存在であった。

その手柄を奪うわけにはいかないとクリシェは慌てて否定し、そんな様を見たベリーがそんなことはありませんよと笑いかけた。


「単に知識の差です。わたしは環境に恵まれていましたから。わたしとクリシェ様の立場が逆ならばこうはなりません。クリシェ様のこれまでがあったからこそ、こうした品々が美味しく出来上がったのです」

「その、でも……」

「ははは、ベリーがそういうのだからそうなのだろう。料理には妥協をせぬベリーの言うことだ。褒め言葉は褒め言葉として受け取りなさい」

「……はい」


納得がいかないもののひとまず頷き、食事を進めればそんなことはすぐにどうでも良くなった。

一口一口に多幸感を覚える食事である。

脳髄を刺激する美味はクリシェの思考を麻痺させるものであった。


「しかし魔水晶もか。感覚が優れているのだろうが……全部かね?」

「ええ。普通には難しいものもあったのですが、とても簡単そうに」

「……なるほど。そうした才もあるのかもしれんな」


ボーガンとベリーのそんな話も右から左へと聞き流しつつ食事を進め。

しかしそこで――


「ごちそうさまっ!」


不意にセレネが机を叩きつけるように立ち上がった。

突然のことにクリシェが少し驚き、彼女を見る。

セレネもまた、クリシェを睨み付けるように見ていた。


そして何も言わずにドアを乱暴に開けて出ていく。


「……はぁ、全く。すまないね、最近はいつもああなんだ」


ボーガンは呟く。


「仕事が忙しく構ってやれなかったせいもあるだろう。随分寂しい思いをさせてね。……同年代の君が来ることでいくらかいい刺激になるかと考えている。出来れば、嫌がらずセレネの話相手になってはくれないか?」

「はい、クリシェでよければ」

「……ありがとう」


ガーレンは孫娘の言葉に微笑を浮かべて頷き、言葉を発さぬまま食事を進めた。


「さ、ひとまず食事を続けよう。……ベリー、私が後で様子を見てくる」

「はい、ご当主様。では、紅茶を持っていきますね」

「ああ、頼んだ」








翌日にガーレンは村の者の馬車に乗って帰宅。

クリシェは一人残され、クリシュタンド家での生活が始まった。

ベリーはクリシェをして、実に優秀な存在であった。

広い屋敷の掃除や手入れ、食事の仕度までを一手に引き受けていただけあり、あらゆる面で要領がいい。元は没落貴族の令嬢であったらしく、知識も幅広いため、クリシェが質問すれば大抵のことは答えてくれた。


ベリーはセレネからすれば叔母。

ボーガンの亡くなった妻ラズラとは歳の離れた異母姉妹であり、ボーガンがラズラを娶った際、使用人として雇われ現在に至る。

十の半ばと思っていたものの、既に二十の半ばであるらしい。

体内魔力を操作する魔力保有者は基本的に老化が遅いのだとベリーは説明した。


「今日のところはこの辺りでおしまいと致しましょう」

「いいんですか?」

「ええ。掃除は適度なところで止めておくのが良いのです。毎日となると逆に建物を傷めてしまうこともありますし、大変ですから」


クリシェは進んでベリーの手伝いを行い、ベリーはそれを喜んだ。

クリシェもまた清潔を好む綺麗好きである。

清掃洗濯などといった雑事はそれなりに好むところがあったし、また、ベリーの手伝いは料理を教わる対価として当然だとも考えていた。


料理に関する知識の差は日々を過ごすことに埋まっていく。

ベリーは惜しげもなくクリシェにそれらの知識を披露し、与えていくからだ。

いずれその技量も遠くない将来追いつくだろうとクリシェは考えていたが、ベリーはクリシェと同じく凝り性な面が有り、毎日のように新しい味付けに挑戦しようとする。

クリシェはそうした彼女の現状では満足しない向上心を特に高く評価していた。


体調によっても気分によっても、味覚という物は変化する。

その日の完璧な出来というものはあれど、毎日食べても飽きる事のない料理などは存在しない。そんな料理であればこそあらゆる面で人より遥かに優れた才覚を持つクリシェを魅了したのだ。

そしてベリーも同じものに強く魅了されている。

クリシェの中で彼女は今や同士と言うべき存在であり、そして自身の先駆者である。

クリシェの中で彼女の評価は留まるところを知らず、今では完全にベリーを中心とした日々――ベリーの後ろをちょこちょことついて回る生活を送っていた。


当然ながらベリーはそうして自分に懐くクリシェに心を奪われる。

クリシェが特に恥じらいを覚えやすい食に関わる分野を中心とした関係であるため、ベリーの中ではクリシェが恥ずかしがり屋の少女であるという認識が生まれていた。

唯一と言っていい、クリシェの可愛らしい面を日常的に見て接するベリーからすれば、クリシェは少し変わっているものの実に愛らしい少女である。


彼女が人並み以上に優れた知性を有し、同時に感性が人と少し離れていることにはすぐに気がついたものの、だからと言って評価は変わらない。

村での事情はいくらか聞いていたことも理由にはあり、ベリーは彼女の不憫な境遇を考え、彼女が安心できるようにとただただ甘やかそうとする。

クリシェが甘やかされることに増長しない性質を持つこともあって、ベリーの中でもクリシェの評価は留まることを知らなかった。


完璧主義なクリシェは元々、自身への好意に対する『お返し』に労力を惜しまない。

甘やかされれば甘やかされるほど、彼女は一生懸命にベリーへお返ししようと努力する。

生まれたての雛鳥のようにベリーさん、ベリーさんと使用人であるベリーに引っ付いて『お手伝い』をせがむ様子は、可愛いという言葉以外では表現できなかった。


「さて、夕飯の仕度にもちょっと早いですね。ちょっとお茶にでもいたしましょうか」

「……お茶」

「ふふ、実はですね……さっきオーブンでクッキーを焼いておいたのです。クリシェ様にちょっと、出来映えを見て頂こうかと」

「くっきー……」


クリシェは頬を染める。

クリシェは甘味が大好物。

だがそれに溺れることはクリシェにとってはしたないことであり、恥ずかしいことである。食べている間は明らかにクリシェの思考能力は低下するからだ。


しかしベリーにしてみれば甘味に夢中になっているクリシェはただただ愛らしい存在である。

そんなクリシェを見たいがために何かにつけて彼女に甘味を食べさせようとした。

クリシェは自分が甘味漬けさせられることへ恐怖を覚え、何度か苦渋の決断の末断りを入れたが、敵も然る者。ベリーは次第に味見という名目でクリシェに甘味を味わわせるようになっていた。


味見という名目であれば、食を追求するクリシェも遠慮ができない。

それを見越して、ベリーはクリシェを甘味で餌付けする。


「ほらクリシェ様、味見でございますよ? 今日は蜂蜜をたっぷり入れてみたのですが」

「たっぷり、うぅ……」

「ささ、お部屋に用意しておりますので」


結局クリシェは毎度毎度欲望に流されてしまっていた。

真面目で勤勉なクリシェは頑張りすぎる。

息抜きは大切だろう、という考えもベリーにはあったのだが、実際は恥ずかしそうにしながらクッキーを頬張るクリシェを見たいだけになっている気もしていた。


一週間も経たずとろけるような間柄となったクリシェとベリーの間柄は非常に良好と言え、何ら問題がなかったものの、問題は一つ。


「…………」

「あら、お嬢さま。今からクリシェ様とお茶を飲むのですが、いかがでしょう?」


セレネである。

クリシェを睨み付けるセレネは、いらないわ、と一言告げる。


「わたしはその子と違って忙しいの。……それとあなた、今日は来ないでちょうだい。迷惑だから」


クリシェはこのところ、毎日セレネの部屋に訪れていた。

『クリシェ、お嬢さまの話相手になるようにと言われました』などと馬鹿正直に言いながら、クリシェは夜ごとセレネのところへ訪れているのだが、結果は当然芳しくない。

セレネは呆れながらも話すことなんてないわとクリシェを追い返すのが常で、今のところクリシェの全敗である。


「でも、お話……」

「わたしにはあなたと話すことなんて無いって言ってるの」

「ま、まぁまぁ……」


ベリーがなだめるように言って、話題を逸らす。


「ベルナ様も帰られましたし、丁度良いかと思ったのですけれど」

「……はぁ。今からお父様に剣の稽古をつけてもらうの。お茶を飲んでる暇なんてないわ」


この屋敷には毎日家庭教師が通い、セレネの教育が行われている。

今日は歴史の教師、昨日は算学、その前は法学。

父がいる時は暇を見つけて剣の稽古。

忙しいという言葉は嘘ではない。

セレネは生真面目な努力家で、特に母が亡くなってからその傾向は強まったという。


特に今は父の後を継ぎ軍への道を志向しているらしく、ベリーとはそのことで何度か口論になり、二人の間も少しぎくしゃくしている。


「……そうですか。どうか、お怪我をなされませんよう」

「稽古に怪我は付きものよ」


そう言い切るとセレネは背を向け、階段を降りていく。


「……わたしが口出ししすぎるのでしょうか。殿方であればともかく、お嬢様が剣を振るうのを見ると、やはり心配で……」


ベリーは小さくため息をついた。


「クリシュタンドは武門の家。そのおかげでこうして立派なお屋敷に住み生活できるということはわかります。けれど、何もお嬢さままで、と思ってしまうのです」


内心を吐露するように。

クリシェは不意に、母親のことを思い出した。


「……クリシェのかあさまもベリーさんと同じことを言ってました。クリシェが剣の稽古に行くのが心配だって」

「そうなのですか?」

「はい」


クリシェの部屋に入り、紅茶の用意をしていく。

クッキーはまだほんのり暖かく、焼きたての甘い香りが漂っていた。

クリシェは頬を緩めないよう、口元をぎゅっと閉じる。


「でも、最後に頼りになるのはそういうものだとクリシェは思います。少なくともクリシェにはとても役に立ちました」

「……クリシェ様」


クリシェの村でのことを思い出して、ベリーは目を伏せた。


「……わたしのそれは安全な立場からの意見なのでしょうね」


ご不快に思われましたか、と続けた。

クリシェは首を横に振る。


戦いの訓練は重要であるし、必要なことではあるが、だからといってそれだけでは社会は成り立たない。

基本的に剣を好む人間は、他の人間と比べ感情的なものが多い。

自己主張が強く、短気で乱暴。

彼等は重要であるが、しかし村の生活基盤となる生産者としての資質とは真逆のものを有し、戦以外ではむしろ和を乱すマイナス面が大きい。

そういう点でベリーのような考えを持つ人間は歯止めとして丁度良く、必要不可欠なものであるとクリシェは考えている。


基本的にクリシェは安定を好む。

両親の教育の甲斐あって掟や規則の大切さをしっかりと教え込まれたクリシェは、その和を乱すものを嫌う。剣に関しても安定を守るためのもの、という考えが強かった。

そのため、生産性を損ねる戦というものに良い感情は持っていなかったし、むしろクリシェはそうした人種よりもベリーのような人種に対し価値を置く。


「自分の居場所を守るために剣は必要だとクリシェは思いますけれど、それはやっぱりベリーさんやかあさまのような人達がいるからこそです。クリシェはお嬢さまも、ベリーさんも間違ってないと思います」


ベリーはその言葉に目を見開き、それから優しく微笑んだ。


「……ありがとうございます。クリシェ様はお若いのに、しっかりとした考えを持っておられるのですね」

「クリシェはまだまだです……完璧にはほど遠いですから」


いいながらクッキーを見る。

唾液が口の中に広がるのを感じ、自分のはしたなさに頬を染めた。


ベリーはくすりと笑い、さ、どうぞ、とクリシェに勧める。


「沢山ありますから、沢山味見して頂きませんと」

「たくさん……」


一つを取って、小さな口に頬張る。

ベリーはクリシェが一口で食べられるよう小さめなクッキーを焼いていた。

さく、とした食感に蜂蜜の何とも言えない甘みが広がり、クリシェは多幸感に頬が緩む。


「ふふ、クリシェ様はご立派なのか、まだまだお子様なのか、よくわかりませんね」


ベリーはそんなことを言って、くすくすと笑った。

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