第7話 旅立ちと屋敷

街までは遠い。

クリシェとガーレンは徒歩ではなく、街へ行く馬車へ同乗させてもらうこととなっていた。

村での特産は岩塩と毛皮。

行商人に一部を売ることもあるが、大半は他の村と街の商人へ直接売りに出る。

そのため村からは街までの馬車が定期的に往復しており、二人はそれに乗せてもらうことになったのだ。


それなりに距離のある行程であり、街道も安心とは言えない。

村の腕自慢が護衛に四人ほどつくのがいつもの流れであったのだが、多くが死んだために人手が足りない。護衛も兼ねて二人が乗る事に関し、運搬役の男達は表面上好意的であった。

先日見たクリシェの姿を思い出せば恐怖に背筋がぞっとする。

だが反面、護衛として見ればクリシェほどの存在は村にいないし、かつては百人隊長であったガーレン自身の剣の腕は皆の知るところ。

二人の同行はむしろ心強い。


見送りに来たのはクリシェと特に仲の良い女達と子供達であった。

クリシェに怯えた子供も中にはいたものの、彼等の幼い頭の中で一番に思い浮かぶのは『大人達も勝てない悪い賊をこらしめた英雄』である。

クリシェの面倒見も良かったこともあって、彼等は未だ懐いたまま、あるものは泣き、あるものはそれを堪えながら拳を握り、クリシェを見送る。


女達の顔に浮かぶのは彼女を守ってやれなかったことへの罪悪感。

自分達がクリシェを守ってやれば、こうして村を出ることもなかった。

クリシェはどう言い繕っても、両親を亡くした挙げ句に村を放り出される哀れな娘でしかない。

彼女へ強い愛情を向けていただけに、その後悔も強かった。


一人一人クリシェに別れを告げ、餞別にと色々なものを渡す。

寒がりなクリシェに毛皮に織物、日持ちのする甘味などが大半であった。

クリシェが一人で持ちきれないほどになってしまい、ガーレンが代わりに受け取り馬車へ荷物と共に詰め込んでいく。

クリシェは贈り物を微笑を浮かべて受け取り、最後の挨拶に応じた。

女達はそんなクリシェを見て、決して涙を見せまいと歯を食いしばる。


「……クリシェ。辛くなったらいつでも帰って来ていいんだ。あまり、思い詰めちゃ駄目だよ」

「はい、おばさん」


首にマフラーを巻いてやり、最後の抱擁。

それを見た女の中には堪えきれず涙をこぼしてしまうものもあった。

二人の関係を知っているものほど切なさは強かった。


「……ガーレンさん、そろそろ」

「ああ。クリシェ」

「はい」


御者の男がいい、クリシェはガーレンに頷く。

そして一度だけ皆の方に深々と頭を下げ、


「クリシェによくして頂いてありがとうございました。……お世話になりました」


そう言い切ると微笑み、とてとてと馬車に乗り込む。

しばらくして馬車が走り出し、次第に遠くなっていくと、しっかりと座っていたクリシェの頭がどんどんと俯いていくのが見えた。

それを見た女達はようやく隠すことなく泣き始め、子らも大きく喚くように泣いた。







――とても、痛い。

馬車に乗ってみたい、というちょっとした憧れは乗り始めて半刻も経たないうちに霧散し、尻を突上げるようなガタゴトという揺れの痛みとクリシェは戦う。

平静を保とうとするものの、痛いものは痛い。

知らず知らずのうちに重心を移動させ、クリシェはやや前傾姿勢になっていく。


尻の下には当然ちょっとしたクッションが置かれていたが、元々肉の少ないクリシェには衝撃を和らげるものがない。

平然とするガーレンが隣にいるところを見るに、この痛みは耐えられて当然。

他者より優れた存在であることを自分に誓うクリシェはそう思い込み、必死で堪え、顔を見られないようにフードを深く被って顔を隠す。


ガーレンは愛する孫娘の姿に頭を撫でてやり、軽く抱き寄せた。

頭が良く、才能溢れ、肝も据わり――普通ではない娘であることは確か。

それでもガーレンは、人並みの感性がクリシェにも備わっていると信じていた。

泣いている姿を見せないことはゴルカやグレイスを通じて知っている。

とはいえ流石に堪えたのだろう、そうガーレンは考えた。


前に座っていた御者や周囲にいる馬に乗った護衛の男たちも、そんなクリシェに同情的な目を向けた。


彼等はあまりクリシェに対して好印象を持っていなかった。

彼女の異常性は特に男たちの中で広まっている。

無表情に相手を叩きのめし、打ち据えるクリシェの姿は目に残っているし、そうした者達にとってはクリシェがいつぞやの二人の子供を殺したのではないかと証拠もない疑念を抱くものもいる。

そして彼女に性的関心を向け、指導を行うふりをして尻や胸を触っていたガロもいつの間にか消えていることに気付き、それもクリシェが殺したのではないかと密やかに囁かれていた。

特に同行している護衛の二人は先日の光景を見ているし、多くの噂から彼女が化け物だと称されることに同意を示し、噂の広まりに一役を買って出たものたちだ。


だが、こうしてフードをすっぽりと被って俯き、ガーレンに肩を抱かれている姿を見れば、胸の内に生じるのは罪悪感。

自分達がこのような立場に彼女を追い込んでしまったのだ、という感覚があった。


別れ際の女達や子供達の姿を見れば、彼女がとても慕われていたことが理解できる。

果たして自身が同じ立場にあったならば、あれほど見送りの姿があるだろうか。

そう思えばやはり自分達のやったことへの疑問を強める。


ただでさえ容姿に優れるクリシェであるから、人の目を引き話題を集め、些細なことでも悪目立ちするのは当然だった。

人間誰だってあらを探せばいくらでも出てくる。

彼女が普通でないことは確かだろう。

けれど今回やったことはと言えば、自ら剣を取って村の危機を救っただけ。

彼女は真実村を救い、彼等は助けられたのだ。

何一つ、彼女は責められるようなことはしていない。


両親を失い、祖父以外に身寄りのなくなった彼女に対しての扱いは酷かった。

無力だった自分達から目を逸らすように、彼女は異常者なのだと口々に語った。

行き場のない怒りや空しさの捌け口として。


そして今、彼女は村を追い出されるように馬車に乗せられている。

男たちは大して関わりもない彼女を八つ当たりのような噂話や思い込みで、これほどまでに傷つけてしまったのだ。高々十を過ぎたような年頃の、幼い少女に。

彼等は自分達のやったことを改めて鑑みる。


クリシェは休息が入った時には率先して動き、馬や食事の世話を進んで行った。

尻が痛いから動きたい、が本音であったが、クリシェのそうした働きを見て真面目さと勤勉さを間近にすると、よりそうした思いは強まる。

旅は普段以上に疲れるものだ。

しかしそうした疲れを見せず、不満も言わずにせっせと働くその姿は非常に立派なもので、グレイスやゴルカ、女達が伝えていた彼女の『良い噂』そのものであった。


男たちは自身を恥じ入るようになり、誰とも言わずそんな彼女に休むように告げる。

尻の痛みを忘れたいクリシェは遠慮を見せ、それでも彼女は勤勉な姿を見せた。


数日後、街につく頃には彼女に対する男たちの意識は完全に軟化しきり、


「……ガーラさんも言っていたが、本当に辛いと思ったら私に言ってくれ。月に一度はここに来るから、その時に君を連れて帰ろう」

「はい、ありがとうございます」

「頑張りなさい。……君ならきっと、どこでも上手くやっていけるよ」


男たちは謝罪こそ出来なかったが、そのようなことを口々に告げる。

何を言ったところで彼女にとっては今更なのだ。

村へ戻った際には彼女に対する噂を改めさせようと心に誓い、男たちは各々クリシェと別れを告げた。


「……本当のクリシェを知っていれば、あのような噂が広まることなどないのにな」

「……?」


離れていった男たちを見ながらガーレンは告げる。


「噂というのは、良いものも悪いものもすぐに広まってしまう。人の口から語られる間に、それは大きくなるのが普通だ。聞いた話を伝える間に一のことが二になり、五になって、今回の事はそういう不幸が重なった結果。……彼等は噂を信じていたが実際、お前と接することで噂が噂でしかないと気がついたのだろう」

「はぁ……」

「クリシェ、お前も噂に惑わされぬようになりなさい。そして人の話をするときは、そういうことが起こりえることを十分に注意しなさい。知らず人の評価を貶め、傷つけてしまうことになるからね」

「……わかりました」


今回の反省点をクリシェに教えているのだろう。

クリシェは納得し、ガーレンの言葉を頭の中の重要ボックスにしまい込む。

噂の使い方には気を付けるようにしよう。

その効能と効果をしっかりと考えて使うようにしないといけない。

そうクリシェは記憶し、ガーレンの後に続いた。










木製土壁の家屋しかない村と違って、街は煉瓦や灰を固めて作る白い錬成岩造りの家屋が散見された。

道には石畳が敷かれ、道の左右には所狭しと家屋や商店が並ぶ。

そうして進んで行けば庭付きの家が並ぶ通り。

そのうちの一つ、一際豪奢な家がガーレンの目的地であるらしい。

村にあったどんな建物よりも大きく、石造りの頑強な塀と建屋はちょっとした城のようだった。

庭には果樹園があり、花が植えられ、門へと続く通り道は綺麗に石畳が敷かれている。

左右対称の屋敷の中央にある大きな門を叩くと、出迎えたのは白と黒の給仕服の女であった。


赤毛を肩口で揃えた、まだ若い少女――年の頃は十の半ばか、それを過ぎた辺りだろう。

整った顔をした赤毛の少女は、ガーレンを見るとすぐに訪問理由を察する。

ガーレン自身は何度か招待されたことがあり、彼女とは顔見知りであった。

二人は軽く挨拶を交わすが、隣にいたクリシェがフードを脱いだのを見て、赤毛の少女は大きく目を見開く。


「まぁ……」

「預かって欲しいというのはこの子だ、ベリー」

「……これはこれは、とってもお綺麗な方ですね。初めまして、ベリー=アルガンと申します」

「初めまして、クリシェ、です」


手を差し出されて応じると少女――ベリーは嬉しそうに笑って、これからよろしくお願い致します、と丁寧に頭を下げた。


「さぁ、どうぞこちらへ。応接室にご案内致します」


入って真っ正面には大きな螺旋階段。

その脇にあるドアをくぐると、大きなソファとテーブルの置かれた部屋に出る。

壁の棚には煌びやかな調度品が置かれ、何かが描かれた絵がいくつか。

暖炉の上には肖像画が置かれていた。


随分明るい、とガラスで出来た窓を見て首を傾げ、光の発信源となっている天井を見上げた。そこには丸く光る玉がいくつか配置されている。

その様子に気付いたベリーがくすりと笑い、説明する。


「あれは常魔灯と呼ばれるものですよ。火を使わずに魔力の力で光り、部屋を照らしてくれるものです」

「じょーまとう……」

「街ではこれを使っている家もそれなりにあるのですが、村では見慣れないもののようですね。太陽の光を取り入れられないお部屋がこういうお屋敷だと多いですから、太陽の代わりにこうしたものを使うんです。ほら、家も密集してますし、普通の家でも蝋燭代わりに使っているところが多いのですよ」

「そうなんですね、初めて見ました……」

「ふふ、では、今日は初めて尽くしをご覧に入れることが出来そうですね」


ベリーは魔法の加熱器を使い、湯をポットに注いでクリシェ達に紅茶を注ぐ。

クリシェは周囲のあちこちから魔力の波を感じ取り、興味を覚えた。

しかし尋ねることはせず、目の前の紅茶をじっと見つめる。

香りは実にクリシェの好みで、中に蜂蜜を注がれたそれが飲み物だと察することは出来たが、湯気立ちのぼるとあってはなかなか手が出せない。

クリシェは極度の猫舌なのである。


「紅茶でございます。さ、どうぞ」

「こーちゃ……」


クリシェは取ってを持ち、恐る恐る唇を近づけ、ふーふーと息を吹きかける。

その様を見るとベリーが楽しげに笑い、クリシェは何やら顔を赤らめる。


「熱いのはちょっと苦手のようですね」

「え、と……」


ベリーが少し失礼を、と言って部屋を出て、すぐに戻ってくる。

その間クリシェは口付けられないままであった。


「そのまま飲むのも良いですが、ミルクを入れて楽しむこともできます。その方が少し冷めて、クリシェさまのお口にも合うかも知れませんね」


ベリーはミルクを少し紅茶に注いでやると、かき混ぜる。

さ、どうぞ、と差し出されたそれを、頬を赤らめたままクリシェは口付けた。

仄かな酸味と甘み、蜂蜜と茶葉の香りにミルクのまろやかさ。


クリシェはほどよく温んだ紅茶の味に笑みを浮かべ、とってもおいしいです、とベリーに告げる。

ベリーはくすくすと笑い、お気に召したようで何より、と答える。


「ふふ、クリシェ様は笑うとより一層お可愛く見えますね。どんな方がいらっしゃるのかと楽しみにしておりましたが、クリシェ様のような方であれば喜びも二倍になるというもの。これからは仲良くしてくださいませ」

「……はい」


紅茶に目をきらきらとさせながら告げるクリシェに、こちらもどうぞと焼き菓子を差し出す。

クリシェは期待に満ちた顔でそれを手に取り、その味にカルチャーショックを受ける。

甘い木の実や蜂蜜を使う菓子は村にもあったものの、出されたそれはこれまでのクリシェの美味という概念を覆す代物である。


さくっとした食感と、僅かな塩気と蜂蜜の甘み。

感動した様子のクリシェを見て、ベリーは嬉しそうに微笑んだ。


「わたしの手慰み程度でございますが、そんなに喜んで頂けると作りがいがあるというもの。ふふ、どうでしょう? 美味しいですか?」

「おいしいですっ、どうやって作るんですか? ……ぁ」


そう答えた瞬間、クリシェは自分の不作法に気付いて急に恥ずかしくなってしまう。

赤面したクリシェはガーレンとベリーを見て顔を伏せた。


「お気になさらず。そう言ってもらえるのはとても嬉しいですから。お菓子作りに興味が?」

「え、えぇと……はい、家でも、作ってました」

「……昔からこの子は料理が好きでね。そういう意味じゃ君とは仲良く出来そうだが」

「ええ、ええ。お嬢さまはそちらの方にはあまり興味がないご様子ですのでとても嬉しいです。気になることがあればいつでも言ってください」

「はい……っ」


料理という点で明らかに格上の相手。

クリシェはそんな相手と出会えたことに感動する。

上昇志向の強いクリシェは、料理という点で自身に新たな見地を見いださせてくれたベリーに感謝していた。


ベリーはクッキー作りのコツについて語り、クリシェは興味深そうにそれを聞く。

ガーレンはそんな孫娘の様子を見て安堵したように微笑む。

ここならば大丈夫そうだ、と。


そうして歓談していると、しばらくして応接間の扉が開かれた。

現れたのは体格のいい壮年の男である。

僅かに白髪の交じりだした金の髪を後ろに撫で付け、口の周りを覆うように髭が生えていた。

身につけるのは白のシャツに黒のベストとスラックス。

胸元に金で鷹と雷の紋章をあしらったシンプルなものであるが、その筋肉質な体が何よりの装飾となっており、そして無数の傷と深い皺の刻まれた顔には迫力がある。

その鋭い目を柔和に細めガーレンを見た後、クリシェを見る。


普通の少女であれば一目で怯えてしまうような凶相を前にしてもクリシェは普段通りだった。

ガーレンが立ち上がるのに倣って立ち上がり、深々と頭を下げる。


「……初めまして、クリシェと言います」

「ああ、初めまして。私はボーガン=クリシュタンド……昔君のお爺さんに世話になったものだ。まぁ、寛いで座ってくれ」

「はい」


もういいのかな、とガーレンをちらりと見て、祖父が頷くのを確認して着席する。

馬車の後ではソファの感触は実に心地良い。


「礼儀の良い娘さんだ。少し、怯えられるかと思ったが……聞いていたとおり肝が据わっているようですね」

「……頼みを聞き入れてもらえて、感謝する」


頭を下げるガーレンに近づくと、ボーガンは首を振って肩に手を置き、頭を上げてくださいと言った。


「隊長に頭を下げられては立つ瀬もありません。私としては昔の恩義に少しでも報いたいと、そう思っただけですよ」

「恩義など。当然のことをしたまでだ。……しかし、そう言ってもらえることを何よりの名誉と思う」


ボーガンは頷き、対面の席に座る。

ガーレンもまた、同じように着席した。


「とはいえ、こんなにも美しい娘さんだとは。それに随分と利発そうだ」

「……二人も自慢の娘夫婦であったが、それにしても出来すぎた子だよ。それだけに残念でならない」

「……お悔やみを申し上げます。お気持ちが分かるとは言えませんが、私も妻の時には」


不慮の死というのは辛いものですね、とボーガンは注がれた紅茶に口付けた。

ベリーはボーガンが現れてからは一言も発さず、ただ両手を前に姿勢正しく立っていた。

その様は楚々とした淑女という体で、クリシェが視線をやるとベリーはほんの少し、悪戯っぽく笑みを浮かべる。


「……クリシェというのか。君も大変だったね」

「いえ」


クリシェは平然と答える。

特に今となっては気にするほどのことではなく、多少の後悔がある程度。

大変なのはカボチャが粉砕していたことだとクリシェは思う。


「気丈な子だ。しかし……この子が、その、本当に賊を……?」

「ああ。剣が巧みであるというのはわかっておったが……わしもあれほどとは。天賦の才とはああいうものを言うのだろう。軍人崩れの賊を相手に……あれは恐らくお前達の言うところの肉体拡張によるものではないかと思ったのだが」

「……魔術を?」


ボーガンが目を細め、クリシェを見る。

薄く体に纏わり付くような青――精緻な魔力の動き。

その目に驚きを浮かべたボーガンは眉を顰めた。


「なるほど……いやしかし」


ボーガンは少し考え込むようにし、尋ねる。


「クリシェ、君はどこで魔術を覚えたのかね?」

「……? 魔術?」

「知らずにか。……その体が身に纏っている魔力を操作する術をそういうんだ。今もそれを使っているのではないのかい?」

「ああ……はい。このふよふよのことですね」


クリシェはそれでようやく理解する。

体を筋力ではなく体の内側に漂う『ふよふよとしたもの』で操る術。

それを身につけてからというものクリシェはそれに頼り切りであり、使っているという自覚もないほど彼女にとっては当たり前のこと。

反応に遅れたのはそういう理由であった。


慣れない頃こそ疲労を覚えたものの、慣れてしまえば筋力を使うことなく、疲労はむしろ和らぐ。

普通の人間が苦となる作業も苦にならない。

働き者のクリシェが成り立つ理由は、そうした魔力による身体操作を覚えているおかげもある。


「……一目でそれと気付けないほど見事な肉体拡張だ。いつ頃からこれを?」

「……九年くらい前でしょうか?」


クリシェはぼんやりと記憶を手繰って告げると、ボーガンはますます驚きを強める。

十二と聞く彼女の年齢を考えれば当然だった。


「なるほど。理解できました。……確かに知らぬものから見れば奇異に映るに違いない」

「わしもそうなのではないかと薄々と感じてはいたが、普段の生活で違和感もなく、それと確信したのは賊との戦いでな。魔力の見えんわしにはなんとも判断が出来かねたのだが……それほどのものなのかね?」

「ええ……私でもこれほど無駄の少ない肉体拡張は行えませんし、これほどのものを見たことも。日常的に、幼い頃から当然のものとして運用して来たがゆえでしょう。孫娘を預けたいという文をもらった時には驚きましたが、納得が出来ます」


ああ、とガーレンは頷き、告げる。


「あの田舎の村では限られる未来も、お前に預けるならば無限に広がるのではないか――そう思ったのだ。実際に見て、どうか?」

「……仰るとおり、この歳でこれだけ魔力の運用に長けるなら、それこそ未来は無数に広がりましょう。是非とも私もそれを見てみたい。……しかし君はいいのかね、クリシェ」


声を掛けられボーガンを見る。


「私は君がここで生活したいと望むなら受け入れよう。だがそれは君の生まれ育った村での生活とは違い、規則に縛られた厳しい生活に感じるかも知れない。それに、村の者とはそう簡単には会えなくなるだろう。……それでもいいのかい?」

「はい、クリシェはここで生活したいです」


躊躇もない即答である。

ボーガンはそのあまりにはっきりとした返答に面食らったものの、既に決意を固めてきたのだろうと好意的に解釈する。

哀れな娘であるが、親の死からすっかり立ち直り先を見据えているのだ。


「わかった。ではこれからよろしく頼むよクリシェ。私のことは気軽にボーガンと呼んでくれればいい」

「はい」

「それで、君の世話だが――」

「はいっ、ご当主様っ、このベリーが誠心誠意担当させて頂きます!」


少し食い気味でベリーが告げ、ボーガンが苦笑する。


「……彼女が君の身の回りのことを世話してくれるだろう。わからないことがあれば何でも聞きなさい」

「わかりました」

「では、ベリー、部屋に案内してやりなさい」

「畏まりました。さ、クリシェ様行きましょう」


クリシェは飲みかけの紅茶と食べかけのクッキーに目をやりつつも、我慢して頷き立ち上がる。

それを見たベリーがくすりと笑い、部屋でまたお茶会と致しましょう、と囁いた。

クリシェは自分の内心を見透かされ頬を染めつつも、ベリーの言葉に曖昧に頷く。




そして二人が出ていったあと、ボーガンは棚から一本のボトルを取り出した。

ガラスの椀を二つ掴んで、どうです? とガーレンに笑いかける。


「……最近は酒を控えていたんだが」

「たまには良いでしょう。お忘れですか? 私に酒の味を教えたのは隊長です」

「くく、流石にそこまでは耄碌しておらんさ」

「何よりです。……それに、時には酒で気を紛らわすのも悪くない」


注がれるのは褐色の液体。漂う酒精の香りに首を傾げた。


「見慣れないな」

「北国の酒ですよ、蒸留酒というらしい。まぁ、どうぞ」


ガーレンは言われるままに喉へと流し込み、咳き込みそうになるのを堪えた。

喉を灼くような感触は今まで味わったことがない。

濃厚な独特の香りが鼻をつき、胃が火照るような感覚。


「なかなか悪くない。しかしキツいな」

「水で割って飲むのも良いらしいですが、私はそのままで飲むのが良いと。隊長ならこういうものが好みじゃないかと思ったのですが」

「ああ、違いない。……なかなか値が張りそうだ」

「ええ、まぁ。とはいえ、それほどのものではないですよ」


ボーガンもまたグラスを傾けた。荒い息を吐き出す。


「癖になるとこれがどうにも。本当、こればかりは隊長を恨まなくては」

「わしが教えんでも、お前は遅かれ早かれそうなっていたことだろうよ」


くく、とガーレンが笑い、ボーガンも笑みを浮かべた。


「……あなたの部下として戦っていた頃を思い出します。あの頃は良かった」

「暮らしぶりは違うだろう。……それに、お前にはああいう泥臭い場所よりも、今の立場がよく似合っている」

「将軍……か。あの頃は憧れたものでありましたが、今はその責任の重さに押し潰されそうな思いですよ。出来ることならば、あなたの下でずっと戦っていたかった」


深く疲れを吐き出すように、ボーガンはソファに身を沈める。


「あるいは、あなたのように身を引き、田舎へと帰るか……」

「悪くない生活ではあった。……本当に、悪くない。しかし平穏というものは時に、一息の間に崩れ去るものだ……わしはそれを忘れていた」

「……隊長はこれから、どうされるおつもりですか?」

「わし、か」


ガーレンは考え込み、酒をグラスの中で揺らす。

ボーガンは言った。


「私の副官として、もう一度轡を並べませんか? 私にもそれくらいの力はある。無論、隊長がそれを望むのであれば、ですが」

「再び、戦場にと?」

「あの時のようなことは、起こさせませんよ。……今は、私が将軍です」


かつてガーレンが軍人であった頃の話だった。

敵の捕虜を匿った村を、見せしめとして焼くようにと命じられたのだ。

当然、ガーレンはそれを拒否する。

せめて処罰はそれに関わった人間にとどめるべきであると。

ボーガンを含め部下達もそれに同調し――あるいはそれがまずかったのだろう。


当時の上官は百人隊長であったガーレンや副官であったボーガンだけに留まらず、その兵士を含めて抗命罪で処罰すると脅したのだった。

兵士達のほとんどは、貧しい村から出稼ぎに出てきた者達だった。

抗命罪は重い罪――拘留や軍籍剥奪どころか、場合によっては処刑となる。


――彼等と村。

二つを天秤に掛けたガーレンは最終的に命令に従い、そしてそれを最後に軍を除隊した。


「……嫌な、本当に嫌な記憶だ。あの悲鳴も泣き声も、未だに耳に残っている」


多くを逃がした。しかしそれでも、被害は出た。

家を焼き、蔵を焼かれた彼等がその後どのように暮らしたか。

それを想像するだけで胸が痛む。


「わしは弱かったんだよ、ボーガン」

「……隊長は強い方です。軍を辞めたのだって、私達に責が及ばないように身代わりとなってくれたのでしょう」

「責任を取るのは当然のことだ。しかし……それだけではない。単に、耐えられなくなったのだよ」


ガーレンは嘆息し、告げた。


「……此度のことも、思えばその時にしたことが巡り巡って訪れた必然だったのかもしれんな」

「隊長……」


ボーガンが首を振り、立ち上がる。

そしてガーレンの肩を叩いた。


「彼女も一人では寂しいでしょう。軍へ戻ることは単に、一つの提案です。そうでなくても、ここに好きなだけ滞在して下さって構いません」

「……すまない。しばらく、考えさせてもらっても良いか?」

「ええ、いくらでも。明日は村へ?」

「ああ」

「では、今日はごゆるりと。いつもの部屋をお使いください」

「……ありがとう」


ガーレンは皺の刻まれた顔に微笑を浮かべた。

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