第5話 彼女の誤算

「……かあさま?」


温かさを感じながら目覚め、口を開いた。

クリシェはいつもグレイスに抱きついて眠る。

だからこそその感触をグレイスだと勘違いし、目の前にいるのがガーラであると気付くことに遅れた。


ガーラの目元には涙の痕があり、疲れからかすっかりと寝入っている。

よくよく見ればここは自分の家ではない。

ガーラの家であることに気付いて、母の姿を探し。


――ああ、そうでした。

そこでようやく昨日のことを思い出した。








村に響くは悲鳴と狂笑であった。

大井戸のある広場の中央に固められたのは女と子供。

その周囲を固めるのは醜悪に頬を吊り上げ、武装した男たち。

彼等が身につける古びた手甲や胸甲は軍のものが大半で、兵士崩れの賊なのだろう。


広場には死体が散乱していた。

臓物を撒き散らしたもの、頭蓋を砕かれたもの、腕を切断されたもの。

中央で震える者達の――夫、あるいは父や息子であったものだった。


ある者は横たわる誰かの名を叫び、臓物の臭いに胃の中のものを吐き出す。

事実を受け入れられず狂ったように笑う者、衣服の上から体を弄ばれる女もいた。


暴力に囲まれた彼女らに、もはや抵抗する力はない。


逃げだそうとするものは子供であっても容赦なく殺されていく。

そしてその光景を諦観と共に眺めていた村の男たちは屋根を降り、許しを乞うため弓と剣を捨て跪いた。

守るべきものを人質に取られた今、もはや彼等に出来ることもない。


よくある悲劇の一つだろう――賊に襲われ、そして全てを奪われるということは。

街道からは遠く森の奥。

そんな場所に存在するこのカルカに、助けの手を差し伸べるものはいない。

これから始まる陵辱と略奪によって、彼等はこれまでの日常、人としての尊厳、それら全てを奪われることになるに違いない。


運が良ければ村の形は残るだろうか。

しかし多くの者にとってはそれが、幸福な日々の終わりであった。


「おー、いたな。嬢ちゃん、こっちにきな」


そんな中、一人の少女が賊の頭領らしき男に声を掛けられる。


粗末な長衣を身につけた少女――年の頃は十二、三か。

長い銀の髪は月明かりに煌めき揺れて、紫の大きな瞳は無感動に周囲を眺める。

この絶望にあって、少女の美しい顔には怯えも恐怖もない。

超然とした様子で死体を数え、賊の数を勘定し、そして声を掛けた男を見る。


――随分と殺されちゃいました。

どうしたものかと考えながら、少女――クリシェは言われるがまま男のほうへと足を踏み出す。

まさかここまで悪化するとは。

色々と後手に回りすぎたと少し反省し、それで彼女の後悔は終わり。

賊にも見知った死体にも、少女はなんの感情も見せはしない。


呼ばれるまま歩き出そうとしたその小さな体。

それを止めたのは体格の良い女丈夫――ガーラであった。


「行っちゃだめだ、あ、あたしがなんとか……っ」


震えながらも少女を抱きしめ、何度もガーラは首を振る。

クリシェは困ったように彼女を見上げて口を開き、


「でも、行かないとおばさん達が殺されちゃいます」


どこまでも冷静に一言告げた。

剣もないのだ。ひとまず状況的に従う選択肢しかない。

クリシェはガーラを押しのけるように前に出て、大丈夫ですよと微笑んだ。

ガーラに暴れられて死なれてしまうと、オーブンが使えなくなってしまう。

どこまでも自己中心的な考えからクリシェは言って、ガーラはそんな彼女に血が滲むほどに唇を噛んで、拳を握る。


気丈な嬢ちゃんだ、と男が笑うと、更に別の女がクリシェを庇うように前へ。


「わ、わた……わたしが、なんでもしますから……お願いですから、この子だけは」


長い黒髪を後ろで束ね、年の頃は三十ほどか。

そばかすが浮いてはいるものの、顔立ちはっきりとした美しい女。

グレイスであった。


周囲から囃し立てるような下品な声が響く。

そんな声を聞きながら、青ざめた顔で、震えた声で、それでも女は前に立つ。

少女は驚いたように母を見上げた。

言葉の意味を考えて、怯えた様子を見て取って。


「……かあさま。クリシェは大丈夫ですから」


母はただ首を振る。少女――クリシェを庇うように立ちながら。

気が強いわけでもなく、力があるわけでもなく。

むしろ不器用で臆病で、おっちょこちょい。

――けれどそんな母は繰り返した。


「お願いです……お願いですからこの子にだけは」


男はいやらしい笑みを浮かべ、その女らしい体を舐めるように視線を這わす。


「いいね、そういうのはそそるなぁ……娘の前で突っ込んでやるっていうのはいつだって最高だからな。特にあんたみたいな上玉なら尚更だ」

「っ……」


母は震えながらも、好きにして下さい、と男に言った。

お願いです。お願いですから――そう壊れたように、悪意に満ちた男の慈悲にすがるように。

そんな母の姿をじっと少女は見つめていた。


目の前の男が到底約束を守るとは思えない。

けれどきっと、それを分かった上で、グレイスはそう告げているのだ。

微かにでも自分に対し、慈悲を掛けてくれることを願って。


クリシェは自分の胸をぎゅっと押さえるようにして、小首を傾げた。

ふわふわと浮かぶような、震えるような――そんな不思議な心地であった。

全てを投げ出してまで自分に尽くそうとしている母の姿。


利益、不利益で考えるならばどこまでも不可解なことで。

母の行動は全く帳尻が合わないもので、無意味なものにも思えた。

けれどグレイスは自分のために、命だって捧げようと考えているのだろう。

自分にとって一番大事な物を、クリシェのために使おうとしているのだ。


――こういうときには、何をお返ししてあげれば良いのでしょうか。

胸の内が火照るような感覚を味わいながら、そんなことを考える。


「まぁ、お楽しみはあとだ。大丈夫、嬢ちゃんには何もしねぇから、一緒にこっちにきな」

「……ん、はい」


考えごとの邪魔をされ、僅かに不愉快を覚えながらもクリシェは近づく。

ゆっくりと、普段通りの足取りで――ここでは少し、距離が遠いのが問題であった。


グレイスはそんなクリシェを庇うように急ぎ足で前に出て、その手を掴み。

その感触にクリシェはほんの少し目を細め、頬を僅かに緩めた。

そんな少女を眺める男は、たまらねぇな、と顔をにやつかせる。


「……しかし、見れば見るほどとんでもない上玉だ。こりゃいくら値がつくかわかんねぇぜ……」

「こ、この子には……」

「ああ、わかってるわかってる。大丈夫だ」

「っ……」


男の手が無遠慮に、グレイスの胸に伸びた。

けれどグレイスは目を閉じ、抵抗もしなかった。


「別に酷い所に売ろうってわけじゃねぇ、買うのはどこぞの貴族か商人だからな。こんな辺鄙な村で暮らすよりゃよっぽど美味いもんも食えて、いい暮らしも出来るぜ」


乳房の感触を確かめるように、にやつきながら。

グレイスは屈辱と不快に口を引き結び、けれども抵抗はせずされるがままに。


「俺の相手はあんたがしてくれるらしいしな。こういうガキを好む趣味の野郎もいるが、なに、安心しな。この娘にゃ絶対手出しさせないからよ」

「は、い……」


恩着せがましい言葉に、グレイスは頷くほかない。

悔しげに涙を浮かべ顔を伏せるグレイスを見たクリシェは僅かに眉間に皺を寄せ。

そして、それが引き金だった。


村の決まり事はここに至ってはもはや気にする必要もないだろう。

今後の生活に支障が出る可能性を考えるとあまり良くはなかったが、状況は随分と悪く転がりもはや手遅れ――他に手段はないのだから、やはり仕方ない。


握られた手の暖かい感触があった。

少なくとも母が今後も自分の生活を保障してくれるであろう。

これからどうなろうと、母は自分の側にいる。


そういう意味では安心感があって、それで十分だった。

クリシェが望むのは以前と変わらぬ、そんな日常であったから。


グレイスから手を離すと、賊の頭らしき男に近づく。


「ん?」


そして、その腰に提げていた曲剣をするりと引き抜いた。


鉈のように前に反った、刃先に重みのある曲剣。

使いやすそうだ、と少女は無造作。


鞭のように腕を振るって――


「っ、……?」


――男の無防備な首を、その先端で引き裂いた。


夜の闇、村を焼く炎に照らされて。

賊の頭領――その首からは噴水のように鮮血が噴き出し、少女を汚す。


クリシェはそれに構わず、くるくると手の内で曲剣を弄ぶ。

曲剣の感触は良く手に馴染んだ。

崩れ落ちる男に興味を示さず、クリシェは剣の具合を確かめるように二、三度振って、微笑み頷く。


誰もが言葉を失っていた。

空気は凍り付き、全ての視線は血の雨を浴びる一人の少女を捉える。

何が起きたのかは誰もが認識していた。

しかし突如見せた美しき少女の反抗。

それがあまりに自然なものでありすぎて、理解が追いつかないのだ。

誰もが予想出来ない事態に、言葉一つ吐き出せない。


静寂の中クリシェだけがいつも通りの無表情で、きょろきょろと周囲を見渡す。

賊の数は二十二人。

彼女にとって大した数でないことは確かだろう。

どういう順番で殺していこうかと、賊の顔を見ながら算段をつける。


時間が止まったような世界の中で彼女だけが普段通りであった。


「……さて、次です」


どこか甘く、幼い声は軽やかに。

そんな音の響きと同じく、クリシェが踏み込んだのは近くにいた賊の前。

一歩の跳躍で間合いを詰めると、全身をしならすように曲剣を振るう。

首の肉がそげ落ちたことに気付かぬまま、斬られた男は地に伏せる。

次いで、隣にいた男の首も。


――これで三人。

魔力によって構築された仮想の筋肉は細い手足に纏わり付き、そしてそれを意のままに操る。

力みはなく、恐れもなく、肉体はただ目的を果たすための道具。

魔力によって少女が得るは理外の力であった。


鋭く、速く、効率的に。

振るわれた曲剣は更に一人の男の首を削ぐ。

崩れ落ちる死体を見ることもなく、獣の如き俊敏さで新たな獲物の下へ。


クリシェに迷いは無かった。

小麦でも刈り取るような自然さで、賊が動き出す前に更に一人。


「っ、何してやがる! ガキを止めろ!」


次の瞬間、賊の悲鳴と怒声が響く。

金縛りが解けるように彼等の時間が動き出し。

しかし、その内の三人に矢が突き刺さる。


「――数ではこちらが上だ! やれ!」


賊の声に被せられたのはガーレンのしわがれた――しかし力強い声。

村人の犠牲を覚悟で耐え、物陰で機を見計らっていたのだった。


その声にガーラをはじめ、女達の中でも気の強い何人かが動きだす。

周囲にいた賊の脚を掴み、転倒させ、のし掛かるように動きを止める。

連動するように縛られていた男たちも動き出し、体を賊へと叩きつけた。


絶望は混沌に。

一転窮地に追い込まれた賊は混乱から立ち直れないまま拘束され、あるいは殺されていく。


その中でもやはり目を引くのは、風に踊る銀の髪。


賊に近づき首を刈り取る。

肉が弾けるように裂ける、小気味の良い音。その感触。

少女が行なうのは戦いではなく作業であった。


血しぶきの中で舞うように、少女の足取りはどこまでも軽やかに。

地を這う蛇の如く、あるいはゆらりと擦り寄る猫の如く。

相手の意識の外から間合いを詰める。


鞭のようにしなやかな体。

生じる剣閃は頸骨を避け、正確にその柔らかい肉だけを刈り取る。肉を弾き、そぎ落とす。

腰を捻ってくるくると、それはまるで剣舞のよう。

浴びた大量の血液は衣服に染みこみ、髪を汚し――踊る度に緋色の飛沫を散らしてみせる。


絶望の淵にあった状況は既に反転し、単なる狩りへと変化していた。

多勢に無勢。

賊の作った精神的優位は消失し、突如訪れた混乱。

今や彼等が絶望の淵にあった。


そうなれば賊の首を刈り取る少女にも余裕が生じる。

十の首を刎ね、十一人目の男の胸骨をサンダルの踵で蹴り砕きながら、頭の中は終わった後のご褒美、食べ損ねたカボチャのことについてを思案する。


パイはやっぱり欠かせない。しかしスープはどうするべきか。

肉を断つその感触を味わいながら、少女の頭で踊るはカボチャ。


目の前で失われていく命になど、欠片の興味も抱いていなかった。

快楽も覚えず、作業的に、事務的に――必要であれば無限に死体を量産する。

彼女はもはや人と言うより概念で、


「う、動くな! こいつがどうなってもいいのか!?」


そんな少女の動きを止めたのは一人の男の声。

見えたのは刃を突きつけられている女の姿であった。

それが他の誰かであったなら、少女は構わなかっただろう。


けれど、その相手は少女の母であり、


「――かあさま」


グレイスの姿に、淀みなく動いていた手と足が止まる。

少女はただ冷ややかに目を細め。


グレイスを人質にとったガドの顔は、得体の知れないものへの恐怖で歪んでいた。


そこにあるのは銀色の長い髪を血で赤く染めた、少女の姿。

美麗な――妖精の如き美貌を湛えながらまるで躊躇無く、無造作に首を刈り取る怪物。


――気味の悪いガキ。

ガドはクリシェという少女が異常者であることに以前から気付いていた。

剣の手合わせをしたこともあるからだ。

人の皮を被っているが、この少女は獣よりもおぞましい何か。

明らかに普通ではないと考えていた。


こうして改めて見れば、その異常さを疑う余地もない。

彼女は紛れもない化け物であった。


そして自身が決して、目の前の少女に剣で勝てないことを理解する。

このままいけば周囲の死体に自分が混ざることとなるだろう。

それは何より明白で、臨界を越えた恐怖にガドは、手近にいた女――グレイスを掴みその首に剣を突きつけて、クリシェとの間に距離を開く。


「動くな、動くなよ……!」


殺されては困る相手。

これが終わった後はこれまで通り、一緒に過ごしていく相手。

淀みなく動いていたクリシェは足を止めながら、次の手を探そうとした。


「っ、離し、て……!」


――それは不運が重なった結果と言えるだろう。


ガドを斬り殺すには、あまりに距離が離れすぎていた。


グレイスは自分が愛する娘の邪魔になってはならないと考えた。


ガドは、極度の恐慌状態に陥っていた。


その結果――


「クリシェ……!」

「ひっ、このアマ――」


――目の前の恐怖から逃げ出したい。

ガドは自分の命をつなぎ止めているものがその人質であることも忘れた。

そして暴れ出し、自分の邪魔をしだしたグレイスの首に剣を引く。

鮮血が舞い、周囲から悲鳴が上がる。


グレイスの目が大きく開かれ、クリシェを映した。

一瞬の空白。

クリシェはその様を見た瞬間、一気に踏み込むと剣を払う。

ガドの息の根を即座に止める。

――後に、クリシェが母親ごとガドを斬り殺したと証言するものが出るほどの早さだった。


ガドの体を蹴り飛ばし、倒れかけた母を抱え。

クリシェは周囲を見渡し、警戒すべき対象がいなくなったことを確認する。

そしてすぐさまグレイスを寝かせ、その首の傷を見た。

溢れ出すのは大量の血――手で押さえて圧迫するも、当然止まるものではない。

半ば無意味であることが分かっていながらも、クリシェは両手で傷口を押さえる。


医者もいない村に育ったクリシェに、医学知識の持ち合わせなどない。

理解しているのは首からは血が出やすく、血が出すぎると生き物は死ぬと言うことくらいであった。


「……血、止まらない」

「い、ぃの……」


グレイスはその手を辛うじてクリシェの頬に伸ばす。

クリシェはただただ、溢れる血を押しとどめようと必死で押さえる。


「かあさま、よくないです。血を、血を止めないと……」


小さく首を振ろうとしたように見えた。

しかし、ぴくり、と顔を動かしただけでグレイスは諦め、微笑む。


「ク、シェ……愛して、る、わ……」

「……かあさま」


ふっと、グレイスの力が抜けて。

グレイスの命が目の前で失われたことに、クリシェは呆然とした。


――失態だった。

こんなことであれば、最初にグレイスを女達の所へ突き飛ばしておけば良かった。

あるいはもう一瞬早く、剣を投げつけることに気付いていたなら。


そんな後悔がクリシェの頭をぐるぐると回る。

腹の中で不快感が首をもたげた。


クリシェ達の様子に気付いたものが言葉を失い、あるいは硬直し――その中でただ、ガーラが走り寄ってきた。


「そんな、こんな……嘘、嘘だよ……どうして……」


ガーラは涙を滲ませ、零し、血が滲むほどの勢いで拳を地面に叩きつけ、蹲る。

クリシェはただ呆然と、グレイスの死体を眺めていた。







――クリシェは毛布の下で昨日のことをぼんやりと思い出す。

何を感じるわけでもなく、ただそのことを考えた。

そして呆けたように結果を眺める。


ゴルカはもういない。死んだ。

グレイスも、もういない。助けられなかった。

今までずっと側にあったものは、なくなってしまった。


どうしようもない失敗だった。

後悔が渦を巻いて、けれどどうしようもない。

とても残念だった。

だが、それだけ。どうしようもないことだった。


家に帰っても二人の顔を見ることはないのだろう。

抱きついて眠ることは出来ないのだろう。

理解は出来て、想像も出来る。

残念だった。けれど、終わったことは仕方ない。


「……お返し、できませんでした」


クリシェはそう呟いて、どこか落ち着かない気分のまま目を閉じた。

眠るガーラに抱きついて、何も考えないように再び眠る。


――再び目覚めたとき、クリシェは普段通りであった。









翌日の晩、村はずれで大々的な葬儀が行われる。

大きな穴を掘り、そこへ遺体を置いて盛大な火葬を行なった後、思い思いの場所へ埋葬する。

死は自然に返ることとされ、基本的にはささやかな宴で笑って見送るのが通例であったが、あれだけの悲劇の後。

酒を飲んでも笑う者はおらず、誰もが沈痛な面持ちで炎を眺めた。


狂ったように泣き叫ぶ者がいた。

愛する者を失った絶望に、抜け殻のようになる者もあった。

けれど当然のようにクリシェは涙一つ零さず、無表情に、淡々とこなすだけだった。


ここで涙を見せ、子供のように泣くことができたなら、そのようなことにはならなかっただろう。

ただ、クリシェのその様子は誰の目にも不気味に映った。

父親を失い、そして目の前で母親の死を見たはずの彼女はあまりに平然としすぎている。

何より、彼等の頭には賊の首を淡々と刎ねていった様が村人の印象に強く残っていた。


躊躇なく賊の首を刎ねていく姿。

それによって救われたにもかかわらず、その時に生じた恐れは感情を見せないクリシェの姿と入り混じり、彼女について時折話される、化け物という噂が重なった。

あるものはクリシェが母親ごとガドを殺したとすら噂する。

今や女達の一部にもそうした感情を抱くものがあり、それからクリシェはどうしようもないほど村で浮いてしまうようになっていた。

グレイスやクリシェと特に良好な関係にあった女達は、彼女のその様子が強いショックによるものであり、実感が湧かないだけだと擁護するが、噂は噂を呼ぶ。


そこには八つ当たりもあったのだろう。

行き場のない怒りと悲しみをぶつけるために誰かを求め、そうなれば行き着く先はクリシェ。

彼女を取り巻いていた危うい均衡は崩れ、収拾がつかなくなった噂話は際限なく村に広がっていく。


グレイスが生きていたならまた違っただろう。

最愛の夫を失い悲しみに暮れる彼女がクリシェへの目眩ましになり、そしてクリシェとの仲睦まじい姿がかつての日常を思い起こさせたはずだった。

クリシェが村の小さな英雄として祭り上げられる、そんな未来もありえたのかもしれない。


だがグレイスがいなくなった今、事はクリシェにとって悪い方向に転がっていくだけ。

そのせいでこれまで通りとはいかず、それからのクリシェは随分と居心地の悪い思いをする羽目になった。


賊の襲撃から二週間が経ち、行商人が現れる。

広場には疎らな人があり、クリシェを見ると距離を開き、小さく何事かを囁きあっていた。

クリシェはそれを気にも留めず、目的の行商人のところへと近づき、少し歳のいった壮年の商人は不憫そうにクリシェを見つめた。


村で賊の襲撃があり多くの犠牲が出たことは知っている。

そのため本来であれば先週訪れるはずだった予定を警戒もあって今日にずらし、その詫びとして普段より少し安く商品を卸していた。


しかしいつもならいの一番にやって来るクリシェの姿はそこになく、まさかと思い村人に尋ね、その結果、クリシェの現状を理解したのだった。


多くの村を回る行商の仕事――男にとっては見慣れた光景。

閉鎖的な村社会では一度出回った噂話はすぐに広まり、すぐに事実として定着する。

そして一度定着してしまえば、取り返しも付かないのだ。


「……大丈夫かい?」


美しい容貌を持ちながら同性からも妬まれず、むしろ愛されてきた働き者の少女。

そんな彼女がそうした扱いを受けていることに心を痛め、善良な彼は知らずそう尋ねていた。


「……? ええと、はい」


クリシェは小首を傾げながらも、頷く。

他人の評価は気にしても、他人の視線は気にしない。

噂話でどのように言われても、居心地が悪く少し面倒だというくらいで、クリシェにはもうどうでも良いこと――そんなことで傷つくこともない。

だから彼女は、自分が商人に何を心配されているのかもよくわかっていなかった。


彼女が遅れた理由はガーレンに小遣いをもらいに行っていたためだ。

いつも村の中にいたグレイスとは違い、普段狩りに出ていることの多いガーレンを待つのは少し時間が掛かる。


だが遅れた理由を勝手に察した行商人は、彼女がもう以前のようには振る舞いづらいのだろう、と一人納得する。


「商人さん、カボチャ頂けますか?」


悲しげな顔をする行商人に、クリシェはむしろ微笑すら浮かべてそう言った。


夜襲の日、賊が確認のためか家を荒らしたせいでカボチャは棚から落ち砕け散ってしまっていた。

葬儀のあとにでも食べようと考えていたクリシェにとって、大きな誤算である。

しかもその上、先週商人が来なかったために更なるお預けを食らうハメになってしまい、クリシェの中でカボチャ熱は非常に高まっており、そして今日ようやく手に入るのは待ちに待ったカボチャである。


そのため今日のクリシェは非常に上機嫌――しかし、薄くいつも通りの笑みを浮かべた彼女の様子が、憐れむ男にはどこか無理をしているように見えた。


「ああ……少し待ってくれ」


行商の男は少し考え、カボチャの他、いくらかの野菜や芋、果実などをカゴに取り、手渡す。


「……あの? カボチャだけ……」

「いいから。大変なことがあった後だからね。いつも買って行ってくれるクリシェちゃんに私からのサービスだ。お金はいらないよ」

「えと、でも」

「いいんだ」


無理矢理押しつけるとクリシェの頭に手を置き告げる。


「……今は辛いかも知れないけれど、君のようないい子ならきっと、幸せになれる。軽々しくは言えないけれど……頑張りなさい」

「はい……?」


今晩は念願のカボチャのスープとパイ。

どちらかと言えば幸せなクリシェにとっては疑問の言葉であったが、ひとまず頷く。

その様子に行商は笑い、何度か軽くクリシェの頭を撫でた。


「これからもまた来る。クリシェちゃんはいいお客さんだからね。また買いに来てくれるのを楽しみにしているよ」

「はいっ、ありがとうございますっ」


クリシェは深々と頭を下げ、背を向ける。

何やら良くわからないものの、ただで沢山もらえたのだ。

即物的なクリシェは上機嫌に、とてとてと家に向かって歩いて行く。


その後ろ姿に行商は目を細め、彼女の未来に神への祈りを捧げた。

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