第3話 賊
村外れの草原には鍛練用だろう。
布を巻き付けた丸太が打ち付けられ、その周囲には少年達と男が数人。
訓練場と呼ばれるここでは実戦的な剣術、槍術が教えられている。
税を納める国こそあれど、いざという時に身を守れるのは自分達だけ。
国は予防的に賊を狩ったりはするものの、その被害全てを食い止められるわけではないし、どこどこの村が襲われた、などという話は良く聞くもの。
良からぬ者達が現れた際の構えは当然必要で、この村では元兵士が中心となった自警団その役割を担っている。
軍隊帰りの人間は仕事として、狩りや採掘の代わりにここで村の子供や大人に剣を教えることが多かった。
男子は全員参加、女子は希望者のみ、という形で行われている剣の稽古に、クリシェも当然のように参加している。
いざとなれば身を守ってくれるのは自分の力のみであるというのは、クリシェにとって自然な考え。
グレイスは当初反対したものの、クリシェの容姿を考えれば自衛手段は覚えておいた方が良いとゴルカやガーレンは悩みながらも許可を出し――しかし今では彼女がそうした訓練に参加する事へ口を挟むことはない。
彼女が人並み外れた剣の才能を持つことを理解したためであった。
集まるものは輪を作り、その中央には一人の老人と銀髪の少女――クリシェがあった。
無数の風切り音が響きながらも、木と木がぶつかり合う激しい音は響かない。
二人の繰り出す木剣はお互いの体に触れることなく、そして木剣同士が触れ合うことすらもなく、ただ宙を裂く木剣の音だけが重なっていく。
「っ……」
クリシェに対する老人――ザールは長い時間を軍で過ごし、体力の衰えを感じるまでは兵士達の訓練教官を勤め上げた男であった。
個の能力が重視される軽装歩兵隊にあっただけあり、その実力は確か。
一兵卒から百人隊長までを駆け上がった勇者ガーレンには劣るものの、村では名実ともガーレンに次ぐ実力を持ち合わせている。
そんな彼は今、目の前の少女の異常さに怯えていた。
ザールが学んだのは戦場剣術。
剣を時には盾とし、力で押し込み、姿勢を崩してトドメを刺す。
そういう極めて実戦的な荒々しい術理であった。
多くの命を奪いその中で磨かれた技術には、付け焼き刃など通用しない重みのある確かさを備えている。
体力は衰えたとはいえ、その剣技に曇りはなく――しかし、そんなザールの攻撃をクリシェは易々と躱していた。
クリシェの体はその年齢を考えても小柄で軽く、であればあえて体に打ち込むまでもない。
剣を跳ね飛ばせば終わりであった。
木剣を弾かれれば必然、その軽い体も弾かれクリシェは体勢を崩す。
刃圏という盾に守られたクリシェの体を狙いに行くよりもそちらのほうが確実で、そしてザールの学んだ剣術はそうやって相手の体勢を崩して仕留めることを主眼としたもの。
老兵はその技術の全てを用い、眼前の少女に対峙していた。
――しかしどれだけ望んでも刃を打ち鳴らすことすら叶わない。
訓練時代教官に稽古をつけてもらっていた頃――その頃の自分を思い出すような空回りに、焦りよりも恐怖を覚えた。
何度も目の前の少女と手合わせを行なってきたザールは、彼女が普通の娘でないことは理解している。
しかし、十二、三の娘が熟練の兵士であった自分を手玉に取る様を肌で感じれば、そこにあるのは賞賛よりも恐れ。
他人から見れば自分が手を抜いているように見えるだろう。
子供のクリシェとはリーチが違い、刃圏が違う。
当然、クリシェでは逃れることの出来ないザールの必中の間合いが存在し、クリシェが剣で受けざるを得ないタイミングが出来上がる。
だがクリシェの剣はそうした一瞬を絶妙な一撃で牽制するのだ。
動きの起点となるタイミングで、ザールが回避を選ばざるを得なくなるような、そういう一撃。
受けではなく、攻めによって相手の攻撃を殺す。
クリシェはザールの必殺を全て殺すことで、ザールの身動きを取れなくしていた。
周囲から見れば、剣を躱し続けるザールと剣を振るい続けるクリシェ。
その姿は稽古をつける側とつけられる側。
しかし実体は全くの逆であり、そしてクリシェが望むならばすぐに決着をつけられるはずだと、そういう敗北の確信がザールにはあった。
左右に剣を持ち替え、構えも変化させ。
さながら美しい舞いのようにすら見える、曲芸染みたクリシェの動き。
不規則ながら淀みなく、それは千変万化の剣技というべきもので、しかしその千変万化がもたらすものは常に、ザールを仕留めるに足る最短の一撃だった。
効率よく、淡々と、相手の命を剣先で転がすように。
一見不規則な動きは合理性のみを追求した彼女流の剣術であり、それがどのように始まり、このような進化を遂げてきたのかをザールは知っている。
彼女の剣が稚拙であったのはほんのひとときの間だけで、それを過ぎれば大人ですらが彼女の相手をすることは嫌がった。当時十にもならない少女に負けることを恐れてだ。
その才能は才能と言うよりは異常であって、ザールの理解の外にある。
そして何よりも、ただ自分を無機質に眺めるその紫の瞳にザールは怯えた。
ザールの僅かな動き、体の強張り、その思考、それら全てを見透かすような瞳。
蛇に睨まれた蛙のように、そこに生じるのは決して勝てない相手に対する無力感。
――これまでだ。
ザールは大きく一歩を引き、剣を降ろす。
「……そこまで。これ以上はわしの体力が続かん」
荒く息をつきながらザールが告げる。
少し頬を上気させた程度のクリシェは無表情に頭を下げ、一礼する。
美しいクリシェの姿はどこか蠱惑的ですらあり、先ほどの剣舞以上に周囲の目を引いた。
「ありがとうございました」
「……必要があればいつでも声を掛けなさい。わかるね、クリシェ」
「はい」
クリシェは頷く。
クリシェにとってこの老人は良い訓練相手ではあった。
先日は十七度。その前は十二度。
そして今日は二十三度――これは同じ時間で何度殺せるか、という訓練だった。
ザールの想像通り彼を仕留めることは容易であったが、訓練で手ひどく倒して恥を掻かせてしまうと次回以降に相手をしてもらえなくなる。
それを学んだクリシェは、村の中では二番目に優れた剣を操るザールをその相手として選び、わざと勝負を決さず剣を振るわせ自己鍛錬に励んでいた。
一番優れた剣の使い手はガーレンであるのだが、普段狩人として働くガーレンは何かと忙しい上、あまり剣を振るうことを好まない。
そのためクリシェの鍛練の相手と言えばもっぱらザールであった。
どうしても剣での訓練は相手がいないと成り立たない。
素振りで身につく『速さ』とは、ただの速度でしかないからだ。
剣の目的が速度だけなら、大上段で構えての振り下ろしだけで良い。
だが、こと近接戦闘において大切なのは総合的な時の『早さ』であると理解する。
求めるものは最速ではなく、最短。
剣が速かろうが遅かろうが、先に相手の首に刃を突き立てたものが勝つ。
必要なのは相手の動きに合わせた最短を見いだす思考であって、相手の隙に剣を突き立てる力である。
いかにその場その時の最短を追求することが出来るか――それこそが問題で、そしてそれを身につけるためにはやはり相手というものが必要不可欠。
クリシェの意図に気付き恐怖を覚えながらも、文句も言わず相手をしてくれるザールはクリシェに取って非常に貴重な存在だった。
大切にしなければ、と置いてあった革の水筒を手に取りザールに差し出す。
「どうぞ」
ザールは一瞬躊躇をしたものの頷き、ありがとうと口をつけた。
クリシェの中で人間は明確に二種類だった。
自分の利益になるか、ならないか。
両親や祖父を筆頭に、利益になるものに対してはそれ以上の不利益をもたらさない限りクリシェにとっての保護対象。
そして自分に何かを与えてくれるならば、最大限お返しを行なう。
こうして優しさを見せることもまたクリシェにとっては当然のことであり、そうして成り立たせるのが社会であると、ここでの生活の中で理解もしていた。
常人と倫理感が異なるクリシェが大きな問題もなく、こうしてこの村に溶け込んでこれたのは母であるグレイスの努力の賜物と言えるだろう。
彼女は歪であったクリシェに対し、ただただ愛情を尽くした。
天才である反面、普通の事が普通に理解できないクリシェ。
そんな彼女に対し愛想を尽かすことなく、理解できるまで丁寧に、何度も繰り返し人間関係や社会についてをグレイスはクリシェに学ばせた。
そのおかげと言うべきだろう。
それによって完全にとまではいかないものの、クリシェは表面上真っ当な人間としての生活を送ることが出来ている。
「クリシェねーちゃん、次は俺とやってくれよ」
「いいですよ」
声を掛けてきた少年に頷き、木剣を構える。
ザールと比べ、遅く、隙だらけの動き。
正しい剣筋を教え込むように、クリシェは先ほどとは全く逆――受け側に回る。
なるべくゆっくりと動いて、隙を作り、そこへ剣を打たせて躱し。
先日に比べれば多少良くはなっていたが、少年の動きは未だ稚拙であった。
村の戦力としてはまだまだ不十分だろう。
そんな少年の剣を見ていると、二年前に殺した二人組のことを思い出す。
かつては不愉快の元凶を根絶出来たことを喜んだものであったが、今では失敗であったと考えていた。
同じ年頃の少年達。
当時彼等から嫌がらせを受けていたこともあって、クリシェが強いと分かればやめてくれるだろう、と完膚なきまで二人を叩きのめしたのが始まり。
しかし年下の少女に人前で恥を掻かされた二人は、むしろクリシェへの憎悪を募らせ、あいつはおかしい、化け物だ、と陰口を言い悪評を広めた。
当初は気にしないでいたものの、その内に周りの目が気になりだし。
嫌がらせが増えた辺りで殺すことを決め、崖際で猪をけしかけ、二人を殺害したのだ。
証拠を隠滅した完璧な犯行。
非常にすっきりではあったが、今となってはそれも早計――当時は自分本位の世界でしか物事を考えていなかったクリシェであるが、今では多少社会を学んでいた。
村の運営がどのように行われ、どのように成り立つのか。
そうした観点から見れば、ここで剣を学ぶものは将来村の防衛戦力となるもので、そして彼等もそうした人材の一人であった。
目の前の少年と比べ、それなりに才能ある人材であった二人を殺してしまうよりは、もう少し努力してその憎悪を解きほぐしてやった方が結果的には良かったろう。
まぁいいか、で済む程度の僅かな後悔ではあったが、今後は同じことを繰り返さないようにしようという程度の気持ちはある。
クリシェがこうして村の子供達に優しく剣を教えるのはそういう理由。
学習したクリシェはそれを反省し、実践しているため、現状それが上手くいっていると感じていたが、そう感じていないものも多くいることには気付いていなかった。
ザールなどの大人を含めた、当時の事情を良く知る者達。
彼等はクリシェという存在に対し、僅かな疑念を抱いていた。
クリシェが二人を殺したと疑われる証拠は何もない。
強いて挙げるなら、少年達の嫌がらせを受けていたという理由だけ。
だがそれでも、クリシェが二人を始末したのではないか――そう一度でも抱いてしまった疑念は消えはしない。
普通の子供ならば、ありえないと誰もが笑うだろう。
けれどクリシェは一週間で剣を覚えて、大人さえ平然と叩きのめす子供であった。
異常なまでの優秀さは、称賛よりも恐怖の情を呼び起こす。
「そう言えば……今日もガロは来ていないのか?」
「あぁ……また酒を飲んで寝てるんじゃないですかね」
昨日クリシェが殺した男――ガロが二度と起きてくることもない。
事が露見することがないと確信しているクリシェには、その会話も興味の外。
しかし彼女を疑う大人や少年達の視線は自然とクリシェに向けられ、顔を見合わせる。
ガロがクリシェに性的悪戯に近いことをしていたことは皆知っていたからだ。
とはいえ、誰が何をいうでもなく、それらの視線はすぐに消えてしまう。
疑えども証拠もなく、元々ガロは不真面目な男。
本当に寝ているだけである可能性が高い。
何よりクリシェを疑う反面、この美しい少女が、という思いもあった。
グレイスやゴルカに甘えている様子や、そして二人や女衆が自慢げに吹聴する真面目で勤勉な様子。
そんな話を聞けばこそ、思い過ごしだと誰もが思う。
そうした危うい均衡の上で、クリシェの現状は守られていた。
「おーい、商人が来たぞ」
広場の方から聞こえた声――その声にいち早く反応したのはクリシェ。
即座に少年の首元に木剣の切っ先を突きつけ、その動きを止める。
「うぇっ」
「おしまいです、ペル。随分上手になってますよ」
少年の頭を一撫ですると、不満そうな少年に終わりです、と繰り返した。
そしてザールに目を向ける。
「ザールさん。今日はクリシェ、これで終わりにして広場に行ってきますね」
「ん、あぁ……」
「訓練、ありがとうございました」
礼儀正しく全員に向け、深々と一礼するや否や、クリシェは広場へ駆け出す。
あっという間にクリシェの姿は見えなくなり、男たちは再び顔を見合わせた。
商人が持ってくる食材に目を輝かせるクリシェの姿。
周囲の面々はそんな彼女の姿を思い出し、まさかそんなことはあるまいなと、疑念を再び心の奥底へと追いやった。
広場の中央には共用の大井戸があった。
森の沢から水をくみ上げる家も多いが、森から離れた中心部の人間は基本的にここから生活用水をくみ上げる。
そのため基本的にこの区画は周囲にものを置かないよう決まり事があり、雑多な村の中でありながらもここは随分と拓けた場所となっていた。
決まり事の例外は外からの訪問者があった場合や、重要な告知がある場合。
行商や吟遊詩人、芸人などの訪問は前者であり、この日訪れた行商人は広場の一角に荷物を解き、品物を並べ始めていた。
娯楽の少ない村において、外界と接する唯一の機会である。
こうした訪問者は何よりの娯楽であった。
既に周囲は人だかりが出来ており、幼い上に小柄なクリシェは背伸びをしてもその内側を覗くことが出来ない。
唇を尖らせながら適当な樽に腰掛け、耳を澄ませる。
天候によって多少のズレはあるが、行商人は決まって一定の間隔で訪れる。
特にここは二人の行商人が固定で回っており、おおよそ間隔は七日に一度。
一昨日行商人は来たところであったから、普段来ているものとは別な商人ではないかと考えていたが、やはりそれは当たりだったらしい。
言葉のイントネーションがやや異なる。
村人の反応も少し違う。
いつも来ている行商人の持ってくるものはある程度決まっているため、むしろクリシェにはこういう想定外の客が楽しみであった。
持ってくるものは基本的に目新しいものであるからだ。
早く人だかりが消えないものか、とクリシェは樽の上で脚をぱたぱたと揺らす。
頭の中では初めて見る食材があるのではないかという期待だけが膨らんでおり、そして食に関することで客観性を失うことの多い頭は自身のそうした不作法な仕草に気付かない。
「ふふ、もう。お行儀が悪いわよ、クリシェ」
聞き慣れた声に振り向くと、グレイスが笑いながら指を突き出し、少し膨らんだクリシェの頬をつついた。
ぷひゅー、と間の抜けた声と共に空気が漏れて、その様にグレイスの後ろにいた女達がくすくすと笑う。
クリシェはそこでようやく自身を省みて、頬を染めた。
「もう、入れないからってそんなに拗ねた顔しちゃ駄目よ。折角の可愛い顔が台無しだわ」
「かあさま。えと……おばさんたちもこんにちは……」
樽から飛び降り、クリシェは恥ずかしそうにグレイスと女達に頭を下げる。
女達は一層笑い声を強めてクリシェに近づき、もみくちゃにするように頭を撫でた。
「あっはっは、本当にクリシェちゃんは可愛い子だねぇ。商人さんが来る度待ちきれないって顔をして」
「ほんとねぇ。そんなに食いしん坊なのに、どうしてそんなに細いのかおばさんに教えて欲しいくらいだよ」
クリシェがここにいる意図を理解している女達はそう笑い、クリシェはますます頬を赤らめる。
ここにいる女達はグレイスと仲が良く、クリシェの勤勉さもよく知っていた。
彼女らの認識は大人しく、けれど思いやり溢れる優しい少女。
遊びたい盛りに関わらず自分達の手伝いを進んで行うクリシェは、見目も麗しく気遣いが出来、働き者と、女達の考える美点を全て兼ね備えた愛らしい娘であった。
食に貪欲な点はむしろ完璧すぎる少女の子供らしい隙であり、欠点ではなく魅力的な要素と考えられている。
それが長じて料理好きなのだから、是非とも嫁に来て欲しいと評判ですらあった。
対するクリシェは女達が手伝いへの駄賃としてくれる、村では比較的貴重な甘味を目当てで女達の手伝いを進んで行っているだけである。
その実態が餌付けされた犬と飼い主という単純な構図であることに女達は気付いていなかったが、クリシェの評判は女達の中で上がる一方。
女衆の中では、クリシェの異常性に対する噂話は美しいクリシェに好意を持つ馬鹿な男たちの戯れ言だと一笑に付されている。
クリシェの異常さが表立って話されていない理由には幸か不幸か彼女らの勘違いが存在しており、クリシェは気付かないながらも彼女らに強く助けられていた。
「よおし、おばさんが連れて行ってあげようか」
「え? わ……っ」
中でも恰幅の良い女丈夫、ガーラがクリシェを肩に抱き上げ、群衆を押しのけるように商人の下へ近づいていく。
「ほら、村一番の美人と美少女のお通りだよ。どきなどきな」
力強く張りのある声に人垣が崩れ、ガーラはクリシェを担いだまま悠々と商人の露店へと近づいていく。
クリシェは並べられた商品と男たちを見て、一瞬何かの違和感を覚えた。
「おやおや……これはまた」
気のよさそうな顔をした主人と丁稚。
その護衛らしき強面の男が四人。
見覚えのない顔であるが、嗅ぎ覚えのある匂いが鼻を刺す。
血の匂いであった。
気付いたことを表情に出さないまま、ぼんやりとその意味を考える。
――獣か人か。
獣特有の匂いはしない。恐らくは人だろう。昨日嗅いだ。
――どうしてその匂いがするのか。
人を殺したからだろう。
――賊に襲われたのか?
それにしては誰も怪我をしていない。
むしろ、この男たちが殺した側なのではなかろうか。
クリシェは並べられた商品を眺める。
馬車は全く別物、商品も見覚えのないものがほとんどであったが、馬車の荷台、布を掛けられたカボチャは間違いなく一昨日見たもの。
傷の位置が寸分違わず同じものがある。
一昨日の行商人をこの男たちが殺したのだ。
自然と、そういう発想に行き着いた。
村では基本的に物々交換が行われる。
そのため行商人は卸売りが普通で、そしてそれを払うだけの金を持っているのは村長や職人、商店などの一部だけで、他の村人が持っているのは駄賃程度。
『昨日帰ったところだったのか、それは運が悪かった』
先ほど樽の上で耳を澄ませていたとき、聞こえてきたのはそんな言葉だった。
今広げてある商品はそんな村人が駄賃で買える程度の小物と、見た目の良い果実や野菜がいくらかだけ。貴金属の類も置いてあったが、買えるものは限られる。
恐らく、馬車に山として積んである食材は村人に見せるためのものでしかないのだろう。
クリシェは女の肩から降ろされながら、そうして男たちを観察する。
全員にこやかであったが、ギラついたような何かが自分に向けられていることに気付いた。
「妖精のようなお嬢さん、どうだい、気にいったものはあるかな?」
「あら、あたしにゃ水妖のような、とは言ってくれないのかい?」
周囲から笑い声が広がり、男たちも苦笑する。
視線は特に気にしない。そういう目で見られることは慣れたものだった。
男たちの目的は何だろうかと首を傾げつつも、ひとまず欲しいものを手に入れることに決め、声を掛ける。
「そっちのカボチャ、見せて頂けますか?」
「カボチャ? ああ……」
丁稚の男が布を取り払い、小山を作るカボチャを見せる。
昨晩の夕食は兎のスープで誤魔化したものの、クリシェは無性にカボチャが食べたい気分なのである。
ずっしりと実の詰まった一つを手に取り満足げに微笑むと、これが欲しいですと告げ、商人はクリシェに随分安い価格を提示した。
「いいんですか?」
「ああ。カボチャが欲しいだなんて随分親孝行な娘さんだ。サービスついでにこれもあげよう」
言って男は袋包みを開いて見せた。
中には茶色い玉のようなものが入っている。
「舐めてご覧」
少し躊躇があったものの、毒が入っていることはないだろう。
そう考えるとなんの気なく、一つ摘まんで口の中へと放り込む。
「……おいしいです」
「キャンディだ。初めて食べたかい?」
酸味がありながらも甘いキャンディ。
それを口の中で転がしながら頷き、ありがとうございますと頭を下げる。
口の中に広がる甘さはクリシェにとっては初めての味で、すぐに行商人が殺されたであろうことはどうでもよくなる。
行商人はクリシェにとっては単なるシステム。
来る度に顔を合わせていたし、よく覚えている。
けれどそれが死んだところであまり興味はなかった。
「あら……すみません、そんなものを。ありがとうございます」
いつの間にか現れたグレイスがクリシェの頭に手を乗せ頭を下げる。
村一番の美人と称されるだけあって、グレイスは魅力的――頭を下げたグレイスに男たちの視線が集まるのをクリシェは幸せになった頭で感じ取る。
「ああ、奥さんもお美しい。どうです、良ければサービス致しますよ」
「あら、嬉しいですね。クリシェ、他に欲しいものはある?」
尋ねられて少し考え、首を振る。
クリシェはいつも必要最低限、無駄遣いはしない。
他の野菜は予備があり、特に今欲しいというものもなかった。
強いて言うならばカボチャがもう一つあってもよかったが、それは贅沢だと我慢する。
「今日はクリシェ、カボチャのスープが食べたかっただけですから」
「ふふ、そう。ええと、じゃあそうね……んー、思いついたらまた、明日の朝ということでも構いませんか?」
「ええ、構いませんよ。美しい女性の頼みとあれば断れません」
「お上手ですね。じゃ、クリシェ、行きましょうか」
クリシェはカボチャを抱え、キャンディをなめながら頷いた。
その様子にグレイスは苦笑を漏らして、クリシェの持つカボチャを取って小脇に抱え、手を繋ぐ。
温かい感触。
クリシェは頬を緩め、グレイスに手を引かれるまま広場から背を向けた。
「美しい女性の頼みとあればってことはあたしもいいってわけだね、商人さん?」
恰幅のいい女丈夫は堂々とそう告げ、それに乗っかるように女達が真似をして。
そんな声を聞きながら、クリシェはカボチャをどう料理するかに思いを馳せた。
岩塩こそふんだんに取れるものの、砂糖はこの村においては随分な貴重品だった。
木の実を砕いたクッキーや果物で甘味を得ることが出来るが、やはり手段は限られる。
この地域にないカボチャの甘味は独特なもので、基本的に塩味主体となるいつものスープとは違うものを作れるというだけでカボチャはクリシェにとって非常に魅力的な食材だった。
切ったカボチャを煮崩れしないように注意しながら優しく煮込み、その合間に小麦粉とバターを練って伸ばしては重ね、パイ生地を作り、ペースト状のカボチャを入れる。
近所の家でオーブンを借り、焼き上げる時間をじっとそれを見つめながら、クリシェは知らず鼻歌を口ずさんでいた。
「ふふ、今日は一段とご機嫌だねぇ。そんなにご馳走作って」
「はい。クリシェ、一昨日カボチャを買い損ねたからすっごく食べたかったんです。……えへへ、オーブン、ありがとうございます」
「あはは、いつでも借りに来ていいんだよ。貸したお礼にクリシェちゃんの手料理が食べられると思えば安いもんさ」
ガーラは楽しげに笑う。
夫に先立たれ、子供を『事故』で亡くした今となっては、彼女にとってクリシェだけが日々の癒やしとなっていた。
クリシェによって愛する子供の命を奪われたことを知らない彼女は、息子の代わりとして彼女に深い愛情を注いでいる。
クリシェもまた、目の前の女の幸せを奪っておきながらも平然と彼女の愛情を受け取り、微笑む。
クリシェに罪悪感など存在しない。
どこまでも歪んだ関係に、心を揺らすこともなかった。
「……あの子にも、一口でいいから食べさせたかったもんだね。クリシェちゃんには申し訳なく思っているよ。あの馬鹿息子、謝らないままいっちまったんだから」
一瞬誰のことかと考え、ああ、あの二人のことかと思い出す。
果たしてどちらが血縁だっただろうかと考えこんだ。
クリシェは基本的に物事を忘れることがないが、興味のないことはすぐにどうでもよくなってしまうため、思い出すには多少の時間が掛かる。
その沈黙を別な意味で捉えたガーラはすまないね、と苦笑する。
「……歳を取ると感傷的になっちまう。許しておくれ」
「いえ。クリシェは気にしてませんから。……大丈夫ですか?」
「ああ……代わりにクリシェちゃんがいてくれるからね」
実際に気にもしていない。
多少の後悔がないではないが、すっきりしたという気持ちの方が大きいからだ。
近所でオーブンを持っていたのはガーラの家だけで、それを料理に使いたいクリシェとは昔からよく付き合いがあった。
しかしクリシェが子供を殺してからは女傑と呼ばれた彼女も随分な悲しみようで、一時期は自殺してしまうのではないか、という話すらあったほど。
クリシェは当然、そのことについて特に気にしているわけではなかった。
不愉快な子供を殺しただけで、クリシェとしては正当、罪悪感など存在しない。
けれどその時期は特にオーブンを使った料理に凝っていたため、しばらくガーラをなだめながらオーブンを使う日々を送る事になり――それが客観的には、一人になってしまったガーラの様子を毎日見に行く甲斐甲斐しい娘だと捉えられた。
クリシェとガーラについて語られる、村の美談の一つ。
誰よりガーラ自身がその美談を実体験として信じ込んでおり、本来では愛する息子の仇であるクリシェのことを溺愛していた。
その歪みを指摘するものは少なくともどこにもいない。
クリシェは美談の少女のまま、何も気にせず、何食わぬ顔でガーラに接する。
「おばさんが良ければクリシェの家で一緒に食べませんか?」
「そりゃ嬉しいが……グレイスも迷惑だろう」
「かあさまはおばさんが良ければお誘いしなさいって。クリシェも熱々をみんなで食べてもらった方が嬉しいです」
やはり食べさせるなら感想程度は聞きたいし、夜は冷え込むのだった。
ガーラにパイを切り分け、感想まで聞くとなると流石に少し冷めてしまうため、食事は纏めて取る方がクリシェに取っても都合が良い。
全くもって自分本位な理由から来るクリシェの誘いであるが、多少のオブラートに包まれているおかげでガーラは都合良く解釈した。
「……本当、クリシェはいい子だね。そういうことならご一緒させてもらうよ」
「はい、抱っこのお礼もありますし」
「はは、そう言われちゃ商人が来る度肩に乗せてやらないとね」
クリシェは微笑み焼き上がりを待つ。
ガーラはそんなクリシェを優しい目で見守る。
村には彼女を中心とした虚飾と歪みで満ちていた。
焼き上がったパイをまるで宝石でも扱うようにガーラが取り出しては皿に乗せ、冷めないように厚手の布を被せて持った。
家には既に両親と祖父、三人が揃い、二人を暖かく迎え入れる。
既に日は落ち外は夜闇に包まれていたが、ぐつぐつと中央で鍋を温める炎が土壁で覆われた室内を明るく照らす。
「かあさま、ちょっと火が強いです……」
「ご、ごめんなさい……加減がちょっと」
カボチャのスープはクリシェの自信作。
少し温めるだけで食べ頃なのだが、母グレイスは不器用であった。
スープは沸騰しぼこぼこと音を立て、クリシェはそわそわと心配そうに火を調整するグレイスを見つめるとパイの切り分け作業を中断。
火ばさみを渡して欲しいと言わんばかりに手を差し出す。
「あ、あの……クリシェがやりますから、かあさま、パイを切り分けてもらってもいいですか?」
「はい……」
情けないグレイスの声に他の三人が笑い声を上げ――
「……?」
――賊だ! 賊が来たぞ!
と、辺りに悲鳴のような怒声が響いた。
「っ……!」
咄嗟に反応したのはガーレンだった。
鍋を叩くようにひっくり返し、真下で煌々と部屋を照らしていた炎を消す。
次いでゴルカが壁に立て掛けてあった小剣と弓を取った。
二人の顔は真剣味を帯び――
「あ、あれ……クリシェのスープ、が……」
ばしゃん、じゅー。
待ちに待ったカボチャのスープを目の前で火消し水にされ、クリシェは固まっていた。
訪れるはずの幸福を台無しにされたクリシェは、呆然とカボチャのスープであったものを見つめる。
「グレイス、ガーラ。お前達は隠れていろ。……いいな?」
ガーレンが低い声で有無を言わさぬ調子で言った。
「グレイスとクリシェちゃんは任せときな、ガーレン」
「お父さん……」
ガーラは応じて硬直していたクリシェを抱き寄せ。
グレイスがガーラに遅れてクリシェを抱きしめ、震える声で父に声を掛ける。
「わしは軽く様子も見て自分の得物を取りに行く。ゴルカ、三人を頼むぞ」
「ああ、わかった。……気を付けてくれ。グレイスやクリシェの泣く顔を見たくはない」
「わかっておる。いくらか老いたが、これでも戦場をくぐり抜けた体だ。軟弱には出来ていない」
ガーレンは音も無く引き戸に近づき、ゆっくりと開く。
そして周囲を確認した後、静かにその体を夜闇へ滑らせる。
ゴルカはすぐに戸に近づき、隙間から外を眺めた。
「カボチャ……クリシェのスープが、ばしゃん、って……」
「だ、大丈夫だよクリシェちゃん。……まだカボチャは半分残ってるし、なんなら次に商人が来た時におばさんがたくさん買ってあげるよ。オーブンだって半分クリシェちゃんのものみたいなもんだからね」
少し早口になりながらも、クリシェを落ち着かせるような声音でガーラは告げる。
実に良い出来映えだと思っていただけに、クリシェのショックは大きく、まだ立ち直れていなかった。
じっとスープの残骸を見つめるクリシェの様子を見たガーラは、彼女がこの状況に混乱しているだけと考え、頭を何度もなでさすり大丈夫だと繰り返す。
「そ、そうですね、また……また作れば……、作れば」
クリシェは呆然としながらも、その心地よさに身を委ねることでショックから目を逸らそうと試みる。
「グレイス、保管庫は一杯?」
「え? ぁ……そんなには、ないわよね、クリシェ」
カボチャが、クリシェのカボチャが――
クリシェの頭の中ではひっくり返るスープの映像が繰り返されていた。
その映像から目を逸らそうとクリシェは必死に努力し、ガーラの言葉に意識を傾ける。
「え、と……はい。でも、全員は隠れられないと思います」
そして混乱で意味が理解できていないらしい母の代わりに、ガーラの聞きたいことを理解し答えた。
「ゴルカ、いざとなったらあたしをあんたの妻ってことにしなさい。グレイスもクリシェちゃんもこんなに綺麗なんだ。捕まったら何をされるか分かったもんじゃない」
「ガーラ、何を――」
「いいから。あんたにもクリシェちゃんにも返しきれないくらいのものをもらったんだ。それに、あんたと違ってあたしは失うものなんて無い。聞き分けな」
「っ……」
一瞬の沈黙が降り、ゴルカがわかった、と頷く。
「ガーラ、すまない……」
「いいんだよ、ゴルカ。……グレイス、クリシェちゃんと一緒に下に」
「……はい」
促すようにガーラは、グレイスとクリシェを床下に誘導する。
演技が上手く行くならば悪くないだろう。
クリシェはぼんやりとそう考えながらも、無手では怖いと部屋の包丁を二本掴んだ。
「……クリシェちゃん。心意気はいいけれど、絶対、何があっても馬鹿なことは考えちゃだめよ。あたしたちに何があっても、あたしたちがいいって言うまで開けちゃ駄目。それは最終手段、分かってる?」
「……はい。おばさんも気を付けてください。オーブンまた使いたいですから……」
「ふふ、こんな時にも肝が据わってるね。おばさんも安心だ」
文字通りの意味であったが、冗談として受け取ったガーラは笑う。
家の下に作られた食料保管庫に二人を押し込めると、扉を閉め、絨毯で隠す。
「クリシェ、大丈夫、大丈夫だから……」
震えるグレイスの声を聞きながら、クリシェは音に耳を澄ませる。
地下に潜れば馬の足音がより伝わってきた。
足音は遠い。
方角からすれば広場だろう。
森の近くにあるこの家に近づいている様子はない。
しばらくしてガーレンがやってきた。
賊がこちらに来るならば、家の中で迎え撃つよりはガーレンが森に潜み、挟み撃ちにするほうが良いと話がついたらしく、ガーレンはまたすぐに家を出て行く。
震えるグレイスの振動は非常に迷惑であったため、馬の足音は遠いので大丈夫です、と彼女をなだめつつ、クリシェは時間が過ぎるのを待つ。
一刻、二刻と時間が過ぎクリシェは空腹を我慢し続ける。
本当ならばお腹の中に収まっていたはずのカボチャはもういない。
ばしゃん、じゅー、と火消し水へ変えられたのだった。
一体クリシェのカボチャスープが何をしたというのか。
空腹が一線を越えると、今度は眠気。
何度も欠伸を噛み殺しながらグレイスの胸に顔を押しつけ、唇をむにむにと動かす。
狭くぎゅっと抱きしめられているせいか、非常にぬくぬくとした快適空間。
寝るには最高の条件が整っていたが、この状況でそれは許されない。
カボチャと睡魔に理性を戦わせて数刻。
もう大丈夫だと声が聞こえたのはしばらくしたあとのことだった。
村の男がやってきて、賊の撃退を知らせたのだ。
ガーラは上に置いたらしい荷物をどけ、扉を開けて二人を引き上げると、泣きながらクリシェとグレイスに抱きつく。
クリシェはそこで眠気との戦いを諦め、空腹を忘れるように熟睡した。
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