第2話 少女の日常

――木の歪み、弦の張り具合、風の動き。

それらを感じ取りながらすっと静かに体を開く。


力を入れるのではなく、体の隅々に滞りなく流れる何かに意識をやった。

クリシェが『ふよふよとしたもの』と認識する、魔力と呼ばれる実体を持たない力。

筋肉を動かすことなく魔力によって手足を操り、体は操り人形のようだった。


記憶にある一流の狩人を模倣し、自分の体に落とし込む。

体の力みや強張りは、魔力による肉体操作を日常的に行う彼女には無縁であった。

体の全てをイメージ通りに、操るのは常に理想の自分。


そういう術について学んだのは二つか、三つ。

生まれてからの日数が定かでないクリシェの認識ではその辺りのことだった。


クリシェの体は歳相応に未熟で非力であるが、そうした魔力を操ることで大人のそれに近い――いや、それ以上の力を生み出すことが出来る。

子供には少し辛い弓であっても、容易に扱えるのはそうした理由があった。


音や草の動き。

引き延ばされたゆったりとした時間の中でそれを捉え、静かに呼吸を止める。

一瞬の静寂――そこで弦が風切り音を響かせた。


放たれた矢は藪の中に吸い込まれ、命を奪う鈍い音。

見ることなく命中を確信すると、首を貫かれた兎に近づき、じたばたと悶える姿を無感動に眺める。

そしてその足を掴むと川へ向かい、逆さに向けると小刀で首を裂いた。

心臓から送り出された血液が勢いよく溢れ、ぼたぼたと地面を汚していく。


「ん、いい感じです」


素早い血抜きはおいしいお肉の秘訣――そうでないと肉に臭みが出てしまうのだった。

クリシェは手早く紐を取り出し、木にその脚を括り付け、地面を頭に逆さに吊るす。

次第に痙攣が薄れ、動かなくなり。

そうして命が失われていく様をぼんやりと眺めていると、背後から物音。


「……クリシェ、何をしてるんだ?」

「とうさま、おじいさま」


藪から現れたのは二人の男。

髭を口の周りに生やした長身細身の男はゴルカ。

若くして狩人を取りまとめる一流の狩人で、クリシェの義父に当たる。


もう一人はグレイスの父親――クリシェの祖父にあたるガーレンであった。

七度の従軍経験を経てかつては百人隊長にまで成り上がった村の英雄。

白髪を雑に伸ばした姿とそうした経験も相まってか。

どこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたがクリシェのことは溺愛しており、何かと世話を焼いてくれる好好爺。

彼女もまたこの祖父によく懐いていた。


この村の狩人は二人一組で行動するのが普通で、ゴルカもその例に漏れずグレイスの父であり自らの師であるガーレンと共に狩りを行なう。


今日も獲物を仕留めたらしい二人は、一匹の猪を竿に括り付けて運んでいた。

矢は三つも刺さっており、中々苦労をしたのだろう。

その体は肉付きも良く、大物と言える獲物であった。


「えへへ、弓の練習をしてました。クリシェも狩りが出来ればとうさまたちも楽が出来ると思いましたので」


見ての通りだと言わんばかりに彼女は告げる。

正しいが正確とも言えない説明であった。


少し物足りない鍋にお肉が欲しいと考えたクリシェであるが、食い意地が張っているとは思われたくはない。

あくまでこれは弓の練習。そのついでに兎を獲ったということにしたかった。


クリシェは自分本位で自己愛が激しく、極めて理想が高い。

自身の身なりは清潔に整え、人前では作法の類をきっちりと守り、村で美徳とされることに対してクリシェは労力を惜しまない。

そんな彼女の根本にあるのは、自分は他者より優秀であって然るべきだ、といういっそ傲慢な観念であり、強い美意識である。


そんな彼女にとって、動物的欲求や感情に支配されることなどまさに愚かさの証明に他ならない。

当然自分はそうした感情に惑わされない理性的な姿を見せるべき――そう考えるクリシェにとって、我慢出来ない食への欲求は実にはしたない、理想の自分を阻む致命的な欠点、恥部であった。


もちろんクリシェとて人間――それくらいは良いのではないか、我慢出来ないのだから仕方ないのではないかとも思ってはいる。

しかし悲劇と言うべきか。

どこか人としての大切なネジを締め忘れた頭は、同時に自身への強い客観性を有していた。

クリシェが持つ強い客観性は、そんな自分の些細な欠点を許せない。


「えと、そうしたら丁度、兎が通りかかったので……これはと思って狙ってみたのです。その……そのですね、と、とうさまたちも毎日狩りでお疲れでしょうし、こう、たまにはお肉をいっぱい食べた方が良いのではないかと、その……」


――クリシェは食いしん坊なのではなく、みんなのために頑張ったのです。

決して食欲に振り回されているわけではなく、これはいつも良くしてくれている両親のため。

そう胸を張って説明しながらも自分がはしたないことをしている自覚はあり、結果として生まれるのはそんな言い訳の域を超えない辿々しい言葉であった。


「と、ともかく、クリシェはとうさまたちのお手伝いをしたかったのです」


だがそれでもこれは彼女にとって完璧な理論武装。

これならば自分が食いしん坊などとは思われまいと自信満々である。


「くく、わかったわかった。親孝行な良い子だな」


祖父ガーレンはそんなクリシェに苦笑した。

当然ながら大人達にそのような言い訳が通じるはずもなく、ただ、彼女の言い訳をする姿が面白いから放っておかれているだけである。

そうして言い訳する度に自身へ向けられる苦笑の意味を彼女は良く理解していなかった。


「えへへ、はいっ」


そんなことともつゆ知らず、言い訳が上手く行ったとクリシェは微笑む。

ガーレンはいつも通りの孫娘の姿を笑いつつ、立て掛けてあったクリシェ手製の弓を手に取り眺め――だがもう一人、父親のゴルカはどこか困惑した様子で固まっていた。

少し考え込むようにして、恐る恐るといった調子で尋ねる。


「……その兎を、クリシェが?」

「はい。今血抜きをしているところです」


その言葉に眉をひそめ、クリシェを見つめる。


「誰に教わったんだ? 俺は教えたつもりがないが……」

「……? クリシェはとうさまに何度か、見せて頂きました」


小首を傾げるクリシェに、まさか、とゴルカは呟く。

何度かクリシェに矢を射るところを見せてやったことはある。

だがそれだけ。

その扱い方を教えたつもりなど毛頭なかった。

そもそもクリシェは女であり、狩人にはなれないのだ。


「見よう見まねなのでとうさまほどじゃないかもですが、クリシェもちゃんと、狙ったところにまっすぐ飛ばせるようになりました」


一矢で綺麗に首を射貫かれた兎の死体に目をやる。

一流の狩人であるゴルカならば射るところを見るまでもない。

迷いなく深く突き立った矢と位置で、その腕前は理解できる。

だからこそ、心の内に動揺があった。


「……何度か見ただけで」


ゴルカもクリシェが恐ろしいまでの学習能力を持つことは以前から知っていた。

しかしこうして目の前で、長年培ってきた自身の技術があっさりと習得されているところを見れば、心の内には僅かな怯え。


恐らくクリシェはその『何度か見せられた弓』をしっかりと頭に焼き付け、知らない間に自分のものとしていたのだろう。

ゴルカの脚の位置、呼吸、弓の構え、その全てを数度見ただけで寸分違えることなく記憶し、理解し、その要点を掴んで。

彼女に備わっているものは、異常なまでの知性と才覚。

知っているつもりであったが、それでも心の内に生じた動揺は拭いきれない。


考え込むゴルカを横目に、ガーレンは口を開いた。


「クリシェ、この弓はお前が作ったのかい?」

「はい。少し出来が悪いですが、兎を射るには十分でした」

「少し、木の選択を誤ったな。綺麗に削ってあるが、節や繊維をよく見ないといけない。今度わしが教えてやろう」

「えへへ……ありがとうございます」


頭を撫でられクリシェが微笑み、そしてその紫の瞳をゴルカに向けた。


「……どうかしましたか? とうさま」

「ああ、いや……クリシェ、森の深いところには入っていないだろうな」

「はい、言いつけ通り。兎はここのすぐ近くにいたものです」

「森の奥では魔獣が出たという言い伝えがある。何度も同じことを言われて気が滅入るだろうが、くれぐれも気を付けなさい」

「はい、とうさま」


素直に頷くと、そろそろでしょうかとナイフを取り出し、クリシェは兎の腹と両手脚を裂いていく。

鼻歌でも歌いそうな調子で皮を剥ごうとし、しかし上手く剥がれず眉根を寄せた。


「……あれ?」

「クリシェ、やり方がちょっと違う。そうするときはここからだ」


ガーレンが優しく笑ってそれを手伝い、簡単に兎の皮を剥いでみせると、


「……なるほど」


クリシェは感心したようにそれを眺める。

――その瞳が蛇か何かのように、どこか無機質な輝きを灯らせていることにゴルカは気がついた。

クリシェの美しくも愛らしい、その大きな紫の瞳は、時折恐ろしいものであるかのようにゴルカには感じられる。


何かを観察するとき、決まってクリシェはどこか超然的に物事を捉えた。

大人の男でも一歩引いてしまうような転落死体を目にした際もそう。

クリシェはその時も、そんな目で損壊した死体を見つめていたことを思い出す。

それが同年代の友人であったにも関わらず――クリシェは冷静に、ともすればどこか無機質な瞳で観察するのだった。


クリシェは自身が見られていることに気が付くと、小首を傾げてゴルカを見返す。

そして得心がいったような顔になり、僅かに頬を染めて言った。


「簡単そうに見えたのですけれど、クリシェ、やっぱりまだまだです……」


出来て当然――クリシェが自分へ求める能力は非常に高い。

ゴルカの視線に対する全くの勘違いから、自身の間の抜けた失敗を眺められているのだと考えたクリシェは恥じらい目を泳がせる。


妖精のように愛らしい娘の表情。

歳相応の姿にはっとして、ゴルカはそんなことはない、と首を振る。


「……俺も子供の頃はそうだったさ。それだけできりゃ十分だよ」

「ああ、ゴルカが小僧の頃にはおっかなびっくり、自分の手の皮を剥ごうとする始末だったからな。その点クリシェは肝が据わっておる」


――肝が据わっている。

いや、そういう問題ではないとゴルカは思う。

解体に慣れ親しんだ今であっても、先ほどまで生きていた獣の臓腑を取り出すのは不快であるし、グロテスクな内臓を見るのは決して気持ちのよいものではない。

しかしクリシェは平然と内臓を取り出し、兎を肉へと変えていく。


クリシェは普通の人間が感じるような恐怖心というものを感じないのではないか。

ゴルカはそう考えていた。


「とうさま、猪の解体クリシェもお手伝いしてもいいですか?」

「……ああ、いいぞ。その前に手を洗いなさい。爪に入った血の汚れは時間を置くと取れにくくなってしまうから」

「はいっ」


クリシェはとてとてと川に手をつけ、血に塗れた手を拭う。


その様子を眺めて首を振る。

どうであれ愛する自分の娘であることには変わりなく、人と変わったところがあってもそれを受け入れるのが親だろう。

ゴルカはそう考え、自身が覚えた恐れを恥じた。


彼女が人とは少し変わっていることは、ゴルカにもグレイスにもわかっていた。

利発で明晰、何をやらしても天才的で、すぐに彼女は要点を掴む。

しかし反面会話の類は不得手で、言葉を言葉通りにしか理解できず、些細なことでも会話が噛み合わないことがある。

頭が良すぎる弊害か、それとも別な理由か。


そうした彼女を気味が悪いと考える村人も多くあることを知っている。

どうすればよいかと二人で何度も話し合い、時には喧嘩もしながら、そんな娘が他人と馴染めるように二人は努力した。

彼女の良い点、悪い点を分かった上で、二人は彼女を自分の娘として愛し育てている。


子供に恵まれなかった二人にとって、クリシェは神が授けた贈り物。

彼女の歪みに気付いてなお、二人はそう考えた。

何よりクリシェを得てからゴルカとグレイスの生活はずっと楽しいものになったのだ。


――人とは少し違う彼女が折り合いをつけて生きられるように。

ゴルカはそう考え、愛しい娘を見つめながら、改めて決意した。







採掘された岩塩と同じく、狩りの成果は村の共有物である。

一度加工所の女達のところへ預けられ、小分けにされ、熟成され、そうして干し肉や塩漬け肉などの保存食へと加工され――とはいえ全てが全て共有のものとなってしまうなら、狩人にもやる気が生まれない。

そのため獲物を狩った狩人には肉の一部分を得る権利が与えられ、大抵は保存食に加工がしづらい脂身の部分を家に持ち帰ることが認められていた。


猪は数日吊して熟成させた方が旨みが出る。

その恩恵にあずかるのは三日後となるが、兎や鳥などの小物はこの例外。

鹿や猪などといった大物は狩人でなければ狩れない獲物とされるが、兎や鳥は危険なく子供でも狙える獲物とされており、これらに関してはそのまま家に持ち帰ることが許される。

暗黙の了解として小物を狙って森に入ることは狩人たちの間で禁じられているため、これらの扱いはあくまで狩りのついでの成果品。

そのためこれらを狩っても共有物として加工所へ納入する狩人も多く、小物ばかりを狙う狩人は蔑まれることもあって、表立ってこの決まりが問題となることもなかった。


狩人ですらない子供のクリシェが仕留めたとなれば当然兎は家のもの。クリシェは満足げに兎を持ち帰り、その日は兎一羽を半分スープに放り込み、半分は焼き物に。

普段から考えればなかなか贅沢な食事であった。

丸々と太った兎は脂も乗っていて、煮れば肉汁が溶け込み、焼けば油がしたたり落ちる。

ガーレンも呼んで四人で食卓を囲み、話題の中心はやはりクリシェ。


「……自分で狩った獲物だ、美味かろう?」

「はい、おじいさま。前のお祭りの時に食べた兎が最後でしたから……久しぶりの兎はやっぱりおいしいです」


兎の腿を囓るとほどよい油が口の中に広がる。

塩と香草、シンプルに焼き上げられた肉は舌の上で踊り、極上の美味を訴える。

頭にあるのは多幸感。

スープに口付ければこれもまた絶品。

肉の旨みが溶け出し、トロトロになったスープとパンの相性は素晴らしい。


「そうか、わしのもやろう」

「ぇ、と……は、はい……」


やや躊躇するようにガーレンから肉をもらって頬を緩める。

ガーレンは微笑みながらゴルカを見た。


「ゴルカ、久しぶりに食べるそうじゃないか。たまには兎くらい持って帰って食べさせてやりなさい。クリシェも育ち盛りだろうに」

「あ、クリシェはそういうつもりで言ったんじゃなくて……」

「子供が遠慮するな。わしが子供の頃はぶたれるまで腹が減ったと言ったもんだ」


わしわしと頭を撫でられクリシェは嬉しそうに目を細める。

グレイスが楽しげに笑い、ゴルカは少し考え込むようにして頷く。


「まぁ、確かに。俺もグレイスも小食だから気付かなかったが……クリシェには少なかったかも知れんな」

「そうね……クリシェはこう見えて食いしん坊さんだもの。商人さんが来たときも目をきらきらさせてお魚とかチーズとかを見てるし」

「……え?」


いそいそと、下品にならない程度に口の中へと肉とパンを詰め込んでいたクリシェはその言葉に固まり、目を見開いた。

そして目を泳がせ、告げる。


「そ……そんなことないです、クリシェは食いしん坊さんじゃ……」


その言葉に三人が噴き出すように笑った。


「なんだクリシェ、俺たちが知らないと思っていたのか?」

「ふふ、本当かわいいったらないわね。……クリシェがこう見えて実はすっごい食いしん坊さんだってことくらい、村のみんなが知ってるわよ?」


クリシェは途端に白い頬を紅潮させ、羞恥に身を竦めた。


「う、嘘です……そ、そんなこと……っ」


欲求を満たすときには常に建前を用意し隠し通してきたつもり。

常にクリシェ的には完璧な建前と言い訳を重ね――しかし、隠し通してきたはずの自身の欠点が村中に知れ渡っているというのである。

クリシェにあるのは驚愕であった。


「食いしん坊のクリシェちゃんっておばさんたちもこっそり話してたりするんだから」


――クリシェの理想からは対極の評価である。

羞恥のあまり目が潤み、真白い肌はリンゴのように赤くなっていた。


うぅ、と唸りながら羞恥を堪える様は歳相応。

三人は再び笑い出した。


「普段はあんなにしっかりもののお嬢さんなのに、なんていうか、ねぇ」

「普段がそうだから余計になんだろうさ」


グレイスの言葉にゴルカが答え、ガーレンが薄く笑みを浮かべ口を開いた。


「親に遠慮なんてするもんじゃないぞクリシェ。何、多少食い意地が張っていようとクリシェは毎日立派に働いておるのだから、文句を言うやつもおらん」

「そ、そういう問題じゃ……」


大食らいの原因は彼女が日常的に行使する魔力の存在が最も大きい。

一定以上の魔力保有者はその肉体そのものが変質する。

体内に取り入れた食物がすぐに分解され魔力へと変換されてしまうのだ。

ここ数年は成長に伴って魔力の消費も増え、既に排泄すら行われていないほどだった。


彼女が見た目不相応に食欲旺盛な理由はそのためで、仕方のないものであるのだが、こうした体質は血筋による継承が主であり、この村にはそうした血統が存在していない。

それゆえ彼女の食欲の理由に気付くものは村にはおらず、それが彼女にとっての小さな悲劇となっていた。


「グレイスも子供の頃は仕事を手伝いもせず、それはもうわがままなもんだったからな。お前は働き者なのに少し遠慮が過ぎる。もう少し欲しいものは欲しい、腹が減ったら食わせろと素直に言ってもいいんだぞ」

「もう、お父さんっ」

「ち、違います、クリシェは本当に食いしん坊じゃ……」


認めたくないクリシェは何度も首を振り、助けを求めるようにグレイスを見る。

グレイスはそんなクリシェを見てくすくすと肩を揺らした。


「ふふ、意地っ張りね。ほら、もうからかわないから沢山食べなさい」


先に食事を終えたグレイスがクリシェの背中を撫でて笑った。

クリシェは羞恥に塗れた表情で黙ったまま、渋々スープへ口付ける。


「もう、みんなしてからかうからクリシェが拗ねちゃったじゃない」

「言い出したのはお前だろうに」

「そうだっけ」


楽しげに笑ってグレイスが言った。


「まぁ、それは置いといて、本当にそうね……家のお掃除も毎日やって、お料理も毎日。森では山菜を拾ってきて、今日に至っては兎を持って帰って……わたしの立つ瀬がないもの。もう少し好きに遊んでいいのよ?」


顔を真っ赤にしていたクリシェは、涙目で答える。


「え、と……クリシェはお掃除も、お、お料理もっ、楽しいですから」


食いしん坊だからではなく、料理が楽しいからやっているのだと強調したいところであった。

が、彼等の視線を見るにその建前はもはや通用しなさそうな気もしている。


クリシェは不満げに頬を膨らませ、グレイスがその頬をつついた。


「ほーら、拗ねないの。ふふ」

「うぅ……」


ぷひゅー、と間の抜けた音が響いて、恥ずかしそうにクリシェは唸り。

笑い声が家の中に響いた。




そうして食事を終えれば、食器を持って森の中。

少し入ったところの川へグレイスと向かう。

食器を洗うついでに行なうのは一日二回、日課の水浴びであった。


木々に囲まれた川のせせらぎ。

欠けた月の光が水の流れにきらきらと輝き、裸体の少女はその美しい肌を母の手により磨かれる。

銀の髪は月色に染まり、肌は新雪のようであった。


同じく裸体のグレイスは彼女の体を清めつつ、ため息をつくように口を開く。


「本当綺麗ね、妖精さんみたい」

「綺麗になりました?」


羞恥など欠片もなく、両手を広げふりふりと。

食事中は機嫌を損ねていたクリシェも、水浴びをすれば上機嫌。

あまり感情を見せない大人しい娘――そう言われることの多いクリシェであったが、グレイスの前では喜怒哀楽をころころと変える。

子供らしいクリシェの姿に微笑むと、グレイスは頷き。


「ええ、とっても。今のクリシェは世界一の美女じゃないかしら? お姫さまみたいよ」

「えへへ」


クリシェは甘えるようにグレイスに抱きつき、その膨らみに顔を押しつけた。

グレイスは彼女を撫でつつ、草の上に布を敷き、足を川に浸けたまま座り込む。

そうして彼女を膝の上に座らせると、彼女の体が冷えないうちにその銀の髪から水気を拭っていく。


そしてふと空を見上げて微笑んだ。


「ほら、今日のお月様はクリシェの名前とおんなじ、とっても綺麗なクリシェだわ」

「……?」


クリシェも同じく空を見上げて首を傾げ。

グレイスは楽しげに告げる。


「欠けて弧を描く月――古い言葉でクリシェというの。わたしがゴルカにプロポーズされた時に浮かんでて……それがとっても綺麗だったから、自分の娘にはそんな名前を付けようって」

「そうなんですか」

「……興味なさそうね、もう」


グレイスは拗ねたように言って、クリシェの頬を挟み込む。


「わたしの一番の幸せを、あなたもいつか感じることができるように。これはそういうおまじないなのよ」

「おまじない、ですか?」

「そう。わたしがゴルカと出会えたように、クリシェにもいつかそういう相手と出会えますようにってね。ふふ、まだ早いかも知れないけれど」


クリシェは困ったように首を傾げ、空に目をやる。

空に浮かんだ月は月、欠けて今日は光量が少ない。

クリシェに理解できることはその程度――綺麗の意味も分からなかった。

月は汚れたりもしないし、曇るか晴れるかの違いだけ。

だからグレイスの言葉も、おまじないという意味も理解出来ずに首を傾げた。


「んー、クリシェにはちょっと難しそうです……」

「難しく考えなくていいの。……まぁいつか、クリシェにもきっとわかる日が来るわ」


そうでしょうか、とますます困った様子のクリシェに対し、グレイスはくすくすと笑いながらその体を抱いて立ち上がる。

その肌を拭って水気を取ると満足げに頷いた。


「明日は訓練に行くの?」

「はい。ペルも稽古をつけて欲しいって言ってますし」

「すっかりお姉さんね。……止めたりしないけれど、お互い怪我をしないように。折角綺麗な体なんだから痕が残ったら大変だわ」

「かあさま、そんなに毎回言わなくてもクリシェ――」

「わたしは心配なの。はい、両手を上げて」


言われるまま両手を上げると、グレイスは上から長衣をすっぽり被せ下着を手渡し、彼女の額に口付けた。


「親って言うのはそういうものなのよ。我慢なさい」

「むー、はい……」


クリシェは唇を尖らせつつも、グレイスが服を着るのを待って腕を絡めた。

それから互いの指を絡め、何を言うでもなく微笑み合う。


代わり映えのしない日常は、些細な不満はあれど平穏で。

そんな生活は質素ながら豊かなもので、両親に愛され過ごす日々に疑問はなく。

ずっとこんな日々が続くのだろうと曖昧ながらクリシェは思い。


「さ、帰りましょうか。あんまりゴルカを独りぼっちにするのはかわいそうだわ」

「はい」


しかしそれが彼女に取って、この村で家族と過ごす最後の日常であった。

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