約束

ウワバミ

第1話

 地上の重力を振り切って、鳩は澄み切った空へと羽ばたいていった。奴らは地面を蹴って舞い上がり、翼を大きく広げれば、僕が自力では決して到達することができない空の世界を悠然と飛行することができる。

 授業中、教室の窓を通して見た、鳩が飛翔する様子に憧憬の念を抱いた。奴らは重力から解放されて、この世界を自由に飛び回り、あんなに高い場所から地上を望むことができる。しかし、僕はどうであろうか。重力どころか、この机と椅子から離れることすら許されず、目の前の教師の話を聞くことしか選択肢が残されない。なんだか自分の方が鳥かごに捕らわれた鳥のような気がしてくる。

 ああ、もし鳥だったら、今すぐに彼女のところへ飛んでいくのだが。そんな仮定法の例文に出てきそうなことを考えた。

「私が鳥であることは、現実ではありえないので仮定法を用いますね」

 今まさに英文法について解説しているこの教師によれば、僕が鳥になることはどうやら実現不可能らしい。魔法の絨毯に乗ることも、動物と会話することも、人生をやり直すことも全部、実現不可能。全くもって夢が無い。なんてこの世界はつまらないのだろうか。

 右前方にある彼女の席に目を遣る。彼女の席は今日も空席だ。夏休みが終わってから、彼女は一度も学校に来ていない。

 彼女のいない学校生活は味気ないもので、世界から色味が失われたような気がした。会えないというもどかしさでどうにかなりそうだ。馬鹿げているとは分かっていながらも、鳥になって彼女のところに飛んでいきたいという願望を捨てることができなかった。



   ***



 彼女と出会ったのは高校の入学式であった。出会ったといっても、恋愛漫画のような劇的なものではない。ただクラスが同じだったというだけだ。

 正直、一目惚れだった。一目惚れというものが本当にあることを、このとき初めて知った。

 彼女は底なしに明るかった。

「私は、ウサギみたいに寂しいと死ぬタイプだから」

 そんなことを言っていた気がするが、確かにその通りで、彼女が一人でいるところを見たことがない。彼女は他人の距離感から、すぐに友達の距離感へと持っていくことができた。きっと、ああいう人間は全人類と渡り合うことができるのだろう。

 そんな行動力溢れる彼女に僕はどんどん惹かれていった。彼女に「おはよう!」と声を掛けられた日には、何度神様に感謝しただろうか。

 しかし、もう彼女の笑顔が見れなくなってしまった。その事実がただただ僕を絶望させた。



   ***



 回想から現実に引き戻すかのように、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。持ち主が不在となり置き物と化した彼女の机をもう一度見る。整然と並べられた机と机の間にぽっかりと空いた穴は、ブラックホールのように僕の心を吸い寄せていく。

 彼女が川に身を投げたあの日から、彼女の時は止まったままである。



   ***



 彼女は眠っていた。とても安らかな表情で。

 あの日、病院に駆けつけた僕が目にしたのはそんな光景だった。悲哀なのか、絶望なのか。訳の分からぬ感情が現れては消えていった。ただ、彼女との約束を守れなかったという事実が僕の胸を締め付けた。



   ***



 悪い事だとは分かっているが、彼女に会いに行くことにした。これ以上、彼女に会えないことに耐えられる気がしなかった。

 その夜、家族が寝静まってから、布団をそっと抜け出して外に出た。相変わらず空気はじめっとしていて、夏の面影を残している。

 自転車に跨がり、夜の道をがむしゃらに突っ走った。街灯に灯された色とりどりの丸い光が前から後方へと流れていく。目指す場所は決まっている。夜風に逆らいながら、ひたすらに自転車を漕ぎ続けた。

 眼前に灰色のコンクリに覆われた建物が現れた。自転車をその場に置き、建物の敷地内に入り込む。

 「関係者以外立入禁止」の看板が付けられたチェーンを乗り越えて、外付けの非常階段に足を踏み入れた。とても静かだった。自分の息づかいと、足を踏み出す度に軋む鉄の音しか聞こえない。

 前の段差に足を乗せるという行為を繰り返しているうちに、一枚の鉄扉の前に辿り着く。扉を押してやると、蝶番を軋ませながら扉は重々しく開いた。

 誘われるように、一歩、一歩、歩を進めていく。

 歩いて、歩いて、やがて立ち止まった。

 ここから一歩踏み出せば彼女に会える。緊張と高揚が入り混じった状態でゆっくりと深呼吸した。



   ***



 僕の地域では、毎年花火大会が催される。河川敷に出店が並び、大勢の人がそこから花火を見る。

 彼女も花火大会に行くということを小耳に挟み、僕も行くことにした。本当はふたりきりで見に行くことができたらどんなに素敵だろうかとも思ったが、彼女の周囲にはいつも人がいるので、それはかなわない。

 

 当日、河川敷は人に覆われ、賑やかな雰囲気に包まれた。

 僕は人混みの中に彼女を探した。彼女の声はよく響くのですぐに見つけることができた。わたあめを頬張る彼女を観察していると、最初の花火が数発打ち上がった。彼女の周囲にいるクラスメイトに気づかれないようにしながら、花火と彼女を交互に眺めた。



   ***



 一歩前に出て、慎重にドアを開けた。

 そこには彼女が、いた。病室のベッドの上に、あの日と同じ安らかな表情で眠っている。腕から点滴へとつながる管を何本か生やしながら。病室は個室で、ドアには「面会謝絶」と書かれていたので、家族以外は見舞いに来ていないのだろう。

 彼女は川に飛び込んでから救助され、進歩した現代医療により命を救われた。彼女は意識を取り戻したが、脳に障害を負ってしまったらしい。

 僕のことも忘れてしまったかもしれない。いや、忘れてくれた方がかえって良いのかもしれない。



   ***



「僕がユートピアに連れて行ってあげるよ」

 僕は彼女にそう約束した。星が綺麗な夜だった。

 

 花火大会の帰り道、彼女がひとりになるまで尾行した。彼女がひとりになったタイミングで声を掛けた。大きい橋の上で、下に流れる川は、今し方花火大会が行われた河川敷につながっている。彼女は少し驚いた表情になったものの、すぐにいつもの笑みを浮かべて、世間話を開始しようとした。

 僕には分かったことがある。それは、このディストピアでは彼女と結ばれる機会がないことだ。たとえ、そんな機会があっても、彼女の周囲には人が多すぎた。決して僕だけを見てくれるようなことはないのだろう。 

 だから、ふたりでユートピアに行くことにした。僕と彼女しかいない最高のユートピアに。

 僕は、彼女の首につかみかかった。彼女の顔は恐怖でひきつり、体をよじって抵抗した。彼女はがむしゃらに暴れ回り、僕の拘束から脱出すると、何を思ったか橋の上から川に飛び込んだ!

 水面が花火のような水しぶきが上がった。それでも良いかもしれないと思った。ここで僕も川に飛び込めば、目的は達成できる。川の手すりに足をかけ、空を見上げた。夜空に火が点いたような、そんな星空だった。

 そして、夜空に足を踏み出そうとした、ちょうどそのとき、

「おい!おまえ何やってんだ」

 後ろから、通行人に強い力で引き戻されてしまった。どうやら計画は失敗してしまったようだ。



   ***



 相変わらず、彼女は安らかな表情で眠っていた。

「次こそは、約束を守るから」

 そう言って、眠っている彼女の手を握った。






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