Ⅱ 人魚の歌声には魔除けの魔導書を

「──おい、ほんとにここに街なんかあったのかよ? どう見ても完全に密林ジャングルじゃねえか」 


 翌朝、大きな荷物を背負ったエーリクととに小舟に乗り、河口近くの穏やかな入江から対岸へと上陸した俺は、サント・ミゲルの近郊とは思えぬ、熱帯植物の繁茂する林の中にいた。


 ここにはコローネの造った街があったというが、一面緑に囲まれたこの景色からはどうにも信じられねえ……いつもの灰色のジュストコールに灰色の三角帽トリコーン、赤いチェックのスカーフというシャレオツでシティ派な俺様の恰好には似つかわしくねえ場所だ。


「だからハリケーンで完全に破壊されてからずっと放置されてたんだって。ほら、あそこに壁が少し残ってるだろう?」


 それでもエーリクの言葉に目を凝らしてみれば、蔦や木の根の絡みつく石積みが草木の中に埋もれている。


 それに小舟を着けて上陸した円形の入江も、よくよく見れば波除けの岩を並べて埠頭を整えたような形跡が窺える。


 原住民による虐殺に自然災害、それに船を沈める魔の海域……何かと〝呪われた土地〟として、長年、誰も近づかなかったためにすっかり密林ジャングルに飲み込まれちまったが、確かにここは〝ヌエバ・イサベーリャ〟と呼ばれた植民都市だったみてえだ。


「けどよ、ここにいんのはほんとに人魚なのか? 噂通りに女の幽霊ってこともあんだろ? それにコローネが人魚を見た場所がここだっていう確証もねえ」


 岩場から振り返り、霧のかかった小高い山を眺めながら、少々気になっていたその疑問を俺はエーリクにぶつける。


 この近辺に船を沈める魔物がいるとしても、そいつが人魚とは限らねえ。


「いや、人魚に間違いない。コローネの航海日誌には、青く静かな水を湛える深い川の、ヤシとシダ、それに蔓で覆われた水辺に人魚は棲んでいたと書かれているが、それはまさにこの河口の景色に当てはまる……コローネ達はここで人魚を見たんだ。この河口から沿岸部にかけて、船を難破させる人魚が潜んでいるんだよ!」


 だが、いかにも南国らしい河口の景色をぐるりと見渡しながら、その疑念をエーリクはきっぱりと否定する。


 ……と、その時だった。


「──ララーララ〜ララーララ〜…」


 どこからか、不意に美しい女性の歌声が聞こえてきた。


「な、なんだ!? ま、まさか、これが人魚シレーヌの……」


 周囲に響き渡る、その妖しくも美しい歌声に俺はキョロキョロと海岸線を見渡す。


「……あっ!?」


 すると、やや沖合へといった所に、すっぽんぽんの若い乙女が半身を海面上に出して浮かんでいる。


 赤味を帯びた金の髪におそろしく蒼白い肌をしているが、涼やかな眼をしたけっこうな美人さんだ。


「…ラララーララ〜ラララーララ〜…」


 口を大きく開いてやがるから歌ってるのはこの嬢ちゃんに間違いねえだろう……にしても、立ち泳ぎをしてるにしたって、この体勢で浮かんだまま、しかも歌まで唄なんざ、そこらの人間にできる芸当じゃねえ。


「お、おい、あれってほんとに人魚じゃねえか!?」


 俺はいつになく興奮気味に、やはりそちらを窺っているエーリクへと声をかける。


「……なんて美しい声なんだ……ああ、今、そっちへ行くから待っててくれ……」


 だが、どうにもエーリクの様子がおかしい……俺の声も聞こえていねえらしく、何やらブツブツ呟きながら、フラフラと海の方へ歩いていっている。


「おい、どうしたんだよ? まさか、人魚の歌に惑わされちまったんじゃねえだろうな?」


「……美しい歌だ……それに君もなんて美しいんだ……君になら、喰い殺されたって別にかまわない……」


 なおもエーリクは歩みを止めることなく、俺が訝しがってる内にもどんどん海の中へ入って行っちまう。


「おい! 止まれ! しっかりしろエーリク! ……クソ! 完全にイっちまってやがる……」


 俺も慌てて海へ飛び込むと、辛うじてまだ下半身しか浸っていない浅瀬でエーリクにしがみついて止めた。


「離してくれ……彼女のもとへ行かせてくれ……」


「…ララーララ〜ララーララ〜…」


 それでも突き進もうとするエーリクを冷たい瞳で真っ直ぐに見つめながら、乙女はなおも無表情のまま歌を唄い続けている。


「ヤベえな……なんとか正気に戻さねえと……」


 しかし、なんでこいつだけ惑わされて俺は無事なんだ? ……そうか。もしかしてシグザンド写本・・・・・・・の……。


 その不可解な差について疑問を抱く俺だったが、少し考えるとすぐにその答えに思い至る。


 大きな声じゃ言えねえが、俺が魔物や悪霊相手に商売をやっていられるのには少々秘密がある……じつは、ご禁制の魔導書グリモワーを密かに持っていて、そいつを武器に商売をしているのだ。


 魔導書グリモワー……それは、この世の森羅万象を司る悪魔(※精霊)を召喚し、使役することで様々な事象を自らの思い通りに操るための方法が書かれた魔術の書だ。


 だが、それの持つ強大な力から宗教的権威であるプロフェシア教会や各国の王権によって、無許可での所持・使用が厳しく禁じられている。いわゆる〝禁書〟ってやつだな。


 とはいえ、いくらおかみが禁じようがこんな便利なもん、無許可でもなんでも使わねえ手はねえ……裏の市場マーケットじゃ非合法に取り引きされているし、稀少な魔導書を輸送する船を襲って奪い、その写本を作って売り捌く海賊なんてのもいたりなんかするらしい。


 かくいう俺も、下の本屋がこっそり売ってるのを非合法に購入した口なんだが、その本屋のジジイから買った魔導書『シグザンド写本(巻末付録『サアアマアア典儀』付き)』ってのがちょっとばかし変わった品で、普通の魔導書が悪魔を召喚して願いをかなえる目的で書かれているのに対し、古代異教の〝ラアアエエ魔術〟を元にしたこいつは、魔物を封じたり、追い払ったりするのに特化している。


 無論、今日もそいつを懐に忍ばせているんで、おそらくはその力で歌声の魔力を遠ざけているんだろう。


「そうとわかりゃあ……おい! エーリク! 目を醒ましやがれ!」


 俺は急いで『シグザンド写本』を取り出すと、鼻の下の伸びたエーリクの顔にそいつを押し付けてやる。


「……ハッ! お、俺はいったい……うわっ! なんで海の中!?」


「ようやくまともになりやがったか……やい! 人魚だか幽霊だか知らねえが、てめえの術はもう通用しねえぜ!」


 我に返って驚くエーリクの傍ら、今度は乙女に見せつけるようにして『シグザンド写本』を前方へと掲げてみせる。


「キィィィィィィーッ…!」


 すると、その魔導書から発する太古の魔術の気配を感じとったのか? 乙女は突然、恐ろしい形相を浮かべ、耳障りな金切り声をあげてその場を逃げ出した。


 瞬間、パシャン…と海面から水飛沫が上がり、人間の脚くらいはあろうかという大きな魚の尾鰭が、銀色の鱗を陽光に輝かせて波間に翻る。


「幽霊じゃなく、ほんとに人魚の方だったか……」


 そのまま乙女は海の中に消えちまったが、俺はこの目で、確かに人魚が存在しているのを目撃した。


「……に、人魚だ! やっぱり人魚はいたんだ!」


 惚けていたらエーリクも今のはしっかり見ていたらしく、なにを今更という感じだが驚いている。


「ま、なにはともあれ、これで確かにいることはわかった……てなわけで、さっそく捕えるための罠でも張るとするか……」


 今の『シグザンド写本』に対する反応を見て、すでに俺の頭の中にはある作戦が浮かんでいる……目をまん丸く見開いたエーリクにそう告げると、俺は口元を愉しげに歪めてみせた──。

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