28.大海

 何度魔法を放ち、剣を振り上げただろうか。

 普段なら何ということはないはずの鎧が重く感じる。煩わしさを振り払うようにエドアルドは素早く周囲を見渡した。


 魔獣の標的となっているこの街は、西から南へ流れる川に沿ってなだらかな楕円の形をしている。それに沿うようにして組んだ隊列が、交戦を始めたばかりだというのに乱れ始めていた。

 癒術師に全員治療してもらったとはいえ、精神的な疲労までは回復できない。倒しても倒しても湧いてくる魔獣に部下たちの士気は下がっている。


「団長! 北西からさらに100頭ほど来ています!」

「これ以上は人を割けない、バリケードを増やせ! 集中しろ!」


 後方で偵察をしていた従騎士の報告に怒鳴り返し、また腕を振るった。

 剣に光魔法を纏わせ、斬撃を飛ばす。バリケードの前に積み上がった魔獣の死骸が消し飛ぶものの、すぐに新たな魔獣が突進してくる。


「うわあああっ!」


 悲鳴が聞こえて即座に視線を向けた。

 突破されそうだったバリケードへ、重ねるように新しく岩壁が生成される。その強固な魔法に弾き飛ばされた魔獣へ天から降ってきた槍が突き刺さった。

 槍に見覚えがあったエドアルドは上空を見る。


「バラエナ辺境伯……!」


 全てを見渡せるような空の上、黒髪の男が少女を片腕で抱えながら浮かんでいた。交戦中だというのにエドアルドは思わず動揺する。


 救援要請を受けてやってきた、この国で最も強いと謳われる魔術師。騎士とは役割が違うが、エドアルドは彼のような存在になりたいと思っていた。


 バラエナ辺境伯は誰よりも教会に忠誠を誓い、この国のために働いてきた人物だ。

 彼が神子に選ばれたと風の噂で聞いた者たちはみんな喜んでいた。彼こそが女神ミフェリルの代弁者となるに相応しいと誰もが思ったことだろう。もちろん、エドアルドも。


 祝祭の当日。期待していた発表はされず、ただバラエナ辺境伯が体調を崩し、療養に入ったとだけ聞かされた。儀式の途中で呪われてしまったのだという。


 闇に染まったかのような風貌に、戦場ですら微笑みを絶やさないと言われていた彼の苛立った素振り。それを見れば呪われてしまったという噂が真実であることは明白だった。

 先日起きた事件は報告を受けている。彼がいま抱いている『娘』が、闇魔法適性者であったということも。


 バラエナ辺境伯はあの娘しか眼中にないようだった。エドアルドと話しているときも、常に彼女へ意識を向けていることは分かっていた。

 娘が闇魔法の適性者であったことは気の毒に思うが、それにしても過保護すぎる。違和感を胸に抱えながらエドアルドは眉をひそめた。


「バラエナ辺境伯だ……!」

「良かった、これで戦いが終わる」

「おい余所見するな!」

「先日のような魔法はまだか?」


 バラエナ辺境伯は時々押し負けそうになっているところへ槍を数本降らせるが、それ以外は手出しをしようとしない。


(貴方はいったい何を考えているんだ……?)


 最初は彼の到着に沸き立っていた部下たちも段々と様子のおかしさに気づく。不安が伝播してまた乱れ始めた隊列に「魔獣だけを見ていろ!」と怒号を飛ばすしかなかった。


 まさかこのまま見ているだけなのだろうか。先日のように、神の御業のような強大な魔法で全てを救ってくれるのではなかったのか?


 彼に対して不信感を募らせていた、そのとき。

 腹の底に響くような地鳴りとともに大地が小さく揺れた。


「魔獣か!?」

「いや、バラエナ辺境伯かもしれん!」

「いったい何が――」


 全員が動揺した瞬間。

 エドアルドたちの眼前でザパァン! と激しい水しぶきが上がった。全身に水がかかり、反射的に腕で庇う。


「く……っ、何事だ――なっ!?」


 魔獣が新しい動きを見せたのだろうか。慌てて濡れた瞼を拭い、目を見開いたエドアルドは絶句した。


 海がある。


 騎士たちは全身から水を滴らせながら立ち尽くす。

 たったの一瞬で魔獣が全て消えた。

 代わりにあったのは、ただ静かにたたえられた海だ。


 それは冬の夜にあるような、暗く、全てを飲み込んでしまいそうな色をしていた。10キロ先にある西の森まで続いている。

 魔獣の姿は影も形もない――否、森から溢れ出てくる魔獣はまだ対岸にいる。しかしそれらは、まるで喜んでいるかのように身を躍らせて次々に海へと飛び込んでいった。


「だ……団長……」


 隣にいた部下が声を震わせる。

 こんな規模の魔法は魔族ですら難しいだろう。海の色には、明らかに闇の魔力が混ざっている。視線が自然と上空にいる二人へ動いた。


「まさか……」


 エドアルドがそう呟いた瞬間、次は海の中心で激しい水柱が立った。

 勢いよく飛び出してきたのは……触手だ。

 二階建ての家の何倍もありそうな、巨大な青い触手がうごめいている。反射的に「構えろ!」と叫んだ。


 吸盤のついたそれが2本、3本……4本と増えたあと、一度海に潜る。再度出てきたとき、触手たちは巨大な建造物を持ち上げていた。


 海の中から派手な水しぶきを上げて出てくる建造物は全体的に四角く、何本も立った柱に支えられているような外観をしていた。

 見るからに禍々しい気配を纏ったそれが完全に海上へ現れると、触手たちが海へ戻っていく。


「……あの触手……まさか、文献にあった」

「……オプスマレスの?」

「神が姿を見せたというのか?」

「あの建物はなんだ!?」

「なぜこんな場所で」


 しばらくの静寂のあと、堰を切ったように騎士たちは騒ぎ始めた。黒い建造物を凝視しながらエドアルドはぽつりと呟く。


「あの、娘だ」

「団長? 娘……とは?」


 隣にいた部下が訝しげに首を傾げる。


「バラエナ辺境伯の娘は、オプスマレスの神子だ」


 エドアルドがそう言った瞬間。

 その場にいた全員に緊張が走った。



+++



「何あれ知らん……! ワ、ワイじゃない、なんか勝手に神殿出てきたんやけど何……!?」


 一方そのころ、ネレスは触手と神殿に怯えていた。

 魔法が成功して喜んでいた矢先、全く想像していないものが自分の魔法から出てきたのだ。怖いに決まっている。

 しがみつくネレスの背中を撫で、アルヴァロは嬉しそうに微笑んだ。


「安心してくれ。あれは文献でしか見たことがないが、おそらくオプスマレスを祀るための神殿だ」

「お、オプスマレスを祀る……? じゃああの触手は……」

「神が干渉してきたのだと思う。しかし……そうか、あのように昔は建てていたんだな」


 なにやら納得している様子だが、ネレスは全く状況が分からない。けれど悪いことではなさそうであるため、すこしだけ安心して息を吐いた。


「それにしても素晴らしい魔法だな。海を作るなんて想像もしなかった」

「そ、そうかな……ヘヘ」


 鼻の下を擦りながら照れる。神殿云々は置いておき、海を作り出したこと自体は会心の出来だったため、褒められると素直に嬉しい。


「神子であることを抜きに、貴方には魔法の素質があると思う。だからこそオプスマレスも気に入ったのだろうな……せっかくの機会だ、神殿に入ってみるか」

「エッ、あの暗そうなとこに……?」

「中は明るいかもしれないだろう? 暗かったら私が明かりを灯そう」

「わ、分かった……あ、待って!」


 移動を始めたアルヴァロを慌てて止める。


「騎士団の人たちベチョベチョにしてもたから、先に水分取ってから……」


 そう言った瞬間。光の斬撃が飛んできた。


 舌打ちをしたアルヴァロが手を振り、瞬時に岩壁を作り出す。粉々に砕けた岩壁が落下するのを見ながら、ネレスは「……へ?」と気の抜けた声をあげた。


「な、なにが……」


 どこから飛んできたのだろう。そう考えて(いや1箇所しかないやろ)と頭を振る。

 剣を構えた騎士団が視界に入ったネレスは、無意識にアルヴァロの服を強く握った。


「……どうやら、あちらを先に片付けたほうがいいようだな」


 彼もまた騎士団を見下ろしながら、低い声でそう言った。

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