2.過去

「さて……そうと決まれば、まずは着替えと食事だな。服は君が眠っている間に少しだけ用意した。いま持ってこさせよう」


 そう言ったアルヴァロは腕を上げ、ついと伸ばした指先に水で出来た小さなベルを作り出した。軽く弾けばリンッと涼やかな音を立て、そして静かに消えていく。


「わ……!」


 目を丸くしたネレスに「魔法を見るのは初めてか?」とアルヴァロが尋ねる。こくこくと頷いて、ネレスはもう一度わぁ……と感嘆の声をあげた。

 本当に初めて魔法を見た。生前――オンディーラだった頃は魔法を使える人間が周りにおらず、癒術師にお世話になることもなかったため目にする機会がなかったのだ。


(今のでめちゃテンション上がった……! 魔法ヤバすぎ、ワイも使いたい! いや使えへんやろな……)


 頬を紅潮させたかと思えば肩を落とした様子のネレスに何かを察したのか、アルヴァロは小さく笑った。


「君もできるよ。水のニュムパに愛されているようだから、練習すれば先程の技もすぐに使えるだろう」

「エ! にゅ……にゅむ……?」

「ニュムパだ。魔術を使うために必要な力の根源……と言えば分かるだろうか」

(愛されてる……って言い方だと意思があるみたいやん。てことは魔力やマナじゃなくって、精霊みたいなもんか?)


 首をやんわり傾げたまま「たぶん」と呟く。もう少し話を聞きたいと思ったが、ちょうどそのとき扉をノックする音が部屋に響いた。びくりと肩が跳ねる。アルヴァロが安心させるようにネレスの手を握った。


「大丈夫だ、彼女はいい子だよ――入れ」

「しっ、失礼いたします!」


 上擦った声で現れたのはメイドだった。ウェーブがかった灰色のボブヘアで、右目に眼帯を付けているおっとりとした顔立ちの少女だ。両手で大きなトランクを提げている。

 緊張からか表情が強ばっていたものの、ネレスと目が合った瞬間彼女は琥珀色の瞳を輝かせた。とても感情表現が豊かなようだ。


「メイドのキアーラだ。屋敷の様々な雑事をこなしてくれている」

「キアーラです、よろしくお願いいたします!」

「よ……よろ、しくお願いします。……ネ……ネレス、です」


 たどたどしく消え入るような口調も気にせず、キアーラは「ネレスお嬢様ですね!」とにっこり頷いた。


「ネレス。家族である私を含め、屋敷の者に敬語を使う必要はない。それは自分より立場が上の人間にだけ使うものだ」

「ぅえっ!?」

(敬語のほうが定型文だから声に出しやすいんやが!? タメだとエセ関西弁めちゃくちゃ出そうなんやが……!)


 アルヴァロの言葉に、当分はとても会話に困りそうだと冷や汗を流しながらおずおずと頷く。

 突然コミュニケーション能力を要求してくるの、やめてほしい。


「では、私は昼食を用意させてこよう。着替えは任せたぞ」

「はい!」


 キアーラに声を掛けたアルヴァロが立ち上がる。今まで正面で向き合っていたため見えなかったが、彼は後ろで髪の一部を結んでいた。ひらりと白いリボンが揺れるさまを目で追いかける。

 暖かい手が離れて不安になり、手を伸ばそうとして(いやいやいや!)と慌てた。


(中身は成人男性のくせに何やねんこの体たらくは! 前前世と前世合わせたらもう40越えとるんやぞ! エッ40!? 最悪や鬱になってきたもう無理かも、何もかもダメ、ワイはこんな歳になっても女の子とまともに話すことのできない社会の底辺です……)


「――ス様? ネレスお嬢様、大丈夫ですか?」

「はっはいぃ……! じゃなかった、え、えっと……!」


 気づけばアルヴァロの姿はなく、キアーラが心配そうにこちらを覗き込んでいた。返事を聞いて彼女がほっとしたように表情を和らげる。


「良かった、お体がよろしくなかったらすぐに言ってくださいね。それで、その……申し訳ありません。置く場所がなかったので、ベッドの上に広げさせていただきました」

「へ……? あっ!」


 キアーラが示すほうへ視線を向けると、いつの間にかベッドの上に衣装が3着並べてあった。左からフリルが多く可愛らしいドレス、控えめで落ち着いたドレス、コート付きの半ズボンと全て系統が違う。


「アルヴァロ様は、ネレスお嬢様がどの系統の服をお好みになるのか知ってから沢山服を買いたいそうなので、お好きなものを選んでください!」

「わ……わかっ、た……」

(そんなに服いらん……! ドレスとか着たことないし、やっぱ無難にズボンのやつかな)


 寒色系でかっこいいし、と半ズボンの衣装を指差そうとしたとき、キアーラが「それにしても不思議ですねえ……」と呟いた。


の影響で異性装が厳しくなったのに、ズボンを用意するなんて……」

「ドゥエッ!!??」

(なななっなっなななんて!?)


 全ての生を含め、人生で一番大きな声が出た気がする。驚いたキアーラが「わ!」と勢いよく顔を上げた。


「あっ、も、もしかしてズボンを選ぼうとしてました!? ごめっ、も、申し訳ありません! 全然大丈夫ですよ、屋敷の外はともかく、ここの人たちはみーんな優しいしネレスお嬢様の味方ですから! お嬢様が一番好きなものを選んでください!」

「あっ、や、ち、ちがくて、えっと……その……!」


 ネレスとキアーラはお互いにわたわたと腕を動かし、ふたりが落ち着くまで部屋には荒い呼吸音が響いた。

 ネレスがしたいのはバッドコミュニケーションではない。この場で登場するはずのない名前のことを知りたいのである。なんとか息を整え、ネレスは眉尻をしょんぼりと下げたキアーラに恐る恐る問いかけた。


「あ、あの、そうじゃなくて、災厄の魔女の影響……って?」

「あ、ああ……! そちらを聞きたかったんですね。20年くらい前のことらしいんですが、災厄の魔女として処刑された人が男装をしていたっていう理由で教会がピリピリして、異性装にとっても厳しくなったんです」

(ハァ!? たっ確かに、畑仕事でスカートは最悪すぎてずっとズボン履いてたけど……! てか災厄ってなんだよグレードアップしてんじゃねえよめちゃくちゃ名前広まってないか!? 別人だったりしない!?)

「そ、そのオ、オンディーラって、なんで……魔女って呼ばれ、てるの?」

「なんでも、とんでもない禁忌の術を使って東部オロスティ地方にある村を全焼させたらしいですよ。怖いですよねえ……」

(いや誰? 人違いやわ、それ)


 すんっと鼻を啜ってネレスは無表情になった。人違いだ。たまたま前世の名前と同じだけで、たまたま同じ東部に住んでいただけで、たまたま同じ男装をしていただけ。きっと赤の他人だ。前世で死んでからそんなに時間も経っていないだろうし――。

 聞かなければいいものを、ネレスはどうしても気になって口を開いてしまった。


「今って……何年?」

「煌樹歴ですか? 896年ですが……」

(ワイが処刑されたのは874年! 896引く874はな~んだ! 22ーッだいたい20年前ー! ワーッパパ上に前世の名前言わなくて良かった~!!)


 ネレスは死んだ魚のような目で「真ん中のシンプルなドレスにしよかな」と珍しく流暢に喋った。

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