1.邂逅

 こぽこぽと柔らかい泡の音がする。

 真っ暗で静かで、ひんやり冷たい。深く沈んで、ずっとこのまま眠っていたい。


 ――そう考えていたのに、体にぬるりとしたものが巻きついて押し上げようとした。がどういうことなのかは分からないが、ざわざわとした不安が胸の内に湧き上がる。


(嫌や……このままがいい)


 胎児のように膝を抱え、強く目をつむる。それでも押し上げられる感覚は消えてくれない。


『――愛しい、子』『かわいい子』


 ふいに脳内へ直接声が響いた。

 男のように、あるいは女のようにも聞こえる。囁きが集まり、幾重にも響いてくる不思議な声だ。


『もう一度』『もう一度』『次は大丈夫』『怖くないよ』『ごめんね』

『きみの』『きみが』『次は』


『幸せになれますように』


 大きな手が、頭を撫でたような気がした。



+++



 目を開く。

 ぶれていた焦点が徐々に合い、見たことのない天井を瞳に映す。少し遅れて、自分が今『目を覚ました』ことに気づいた。


「…………エッ?」


 どういうことだろうか。

 覚えている最後の記憶は、炎に包まれるところまでだ。確実に死んだと思ったのに。


「なん、で」


 声がおかしい。まるで幼い子供のようだ。

 喉を触ろうとした自分の手が視界に入った瞬間、絶句した。モチモチのパンのように小さな手だ。明らかに20歳のそれではない。


(まさか……まさか、また転生した……ってこと!?)


 がばりと起き上がる。その勢いで、肩から藍色のふわふわとした髪が滑り落ちた。


(オンディーラだったときと同じ髪……同じ容姿の、女の子だ。嘘やろ……)


 二度と転生なんてしたくないと願っていたのに、あまりにも酷すぎる。


 何度繰り返したって同じだ。自分には異世界転生なんて向いていない。

 誰かと目を合わせて話すことすらできないのだ。そんな状態でどうやって生きていけというのだろうか。


「もうええて……どうしろっていうねん……」


 溜息を吐きながら目を覆う。深呼吸を繰り返し、なんとか自分を落ち着かせようとした。


(ていうかまず、ここどこ……)


 泣き出したい気持ちを抑えながら、頭を動かして辺りを見回す。


 自分は大きなベッドの上にいた。

 これはキングサイズではないだろうか。シーツの感触から、高そうな素材であることが窺える。


 部屋の調度品はダークブルーを基調としており、まるで深い海の中にいるようだった。

 細やかな彫刻が施された家具や銀細工、シャンデリアなどから見るに、かなり裕福な家のようだ。


(なんか……世界観、違くね?)


 前世で住んでいた隙間風の吹くあばら家とは大違いだ。温度差で風邪を引きそうである。

 耳を澄ませると、かすかに潮騒が聞こえる。海が近いのだろうか。


 かつてプレイしたゲームや読んだ漫画にこんな場所はなかったはずだ。おそらくは完全オリジナルの異世界だろう。

 もしくは――考えたくないが、魔女狩りに遭った前世と同じ世界という可能性もある。


 できれば前者であってほしい。前世と同じ世界だったら、ここで舌を噛んで死んだほうがマシかもしれない。


(舌を噛む勇気もないくせに……)


 膝を抱え、シーツに顔をうずめた。

 これからどうすればいいのか分からない。どういう状況なのかも分からない。


 何も分からなくなり、死んだ魚のような目で現実逃避を始める。

 実はこの部屋だけが世界の全てで、扉を開くと時空の狭間に飲まれる……なんてことはないだろうか。窓から腕を出したら、そこが空間の切れ目でちょん切られたりして。


 そんな馬鹿みたいな妄想をしていたとき、タイミングよく扉が開いたせいで大きく体が跳ねた。


「ヒッ!?」

「……起きたか」


 現れたのはとんでもない美丈夫だった。

 軍服を身にまとった男が、黒い長髪をなびかせながらつかつかと歩いてくる。

 歳は二十代後半くらいだろうか。若々しさの中に貫禄も見える、一番近づきたくないタイプの人間だ。


(やっぱ世界観違くね!? これ絶対乙女ゲームの世界やろ!? いや待って顔が良すぎる、直視できない、なんでワイがこんな目に……!)


 視線をさ迷わせている間に、彼はベッドの端へ腰を下ろした。

 マットレスが沈み込む感覚にすら「ヒン」と小さな悲鳴が出る。もう駄目だ。彼が何者なのか知らないがいっそのこと殺してほしい。


 男は蒼い瞳を細めてしばらくこちらを見つめたあと、そっと口を開いた。


「体は大丈夫か? どこか痛いところや、違和感のあるところは?」

「あぇ……え? いた……くは……」


 ないです、と口の中でモゴモゴ答える。

 鋭い目元から冷たそうな印象を受けたが、思っていたよりもずっと穏やかな声だ。


 それに戸惑ったおかげか、オンディーラの飛び出そうなくらい跳ねていた心臓は少しだけ落ち着いた。


「君が海に浮かんでいるところを、うちのメイドが見つけたんだ。自分の名前は覚えているか?」

「な……えっ、と…………」

(海に浮かんでた? 分からん、なにも……)


 名前はしっかり覚えているが、女であった前世と男であった前前世、どちらで答えるべきだろう。


 しかし、ここが前世と同じ世界である可能性はまだ充分にある。とりあえず何も覚えていないフリをしたほうが良いような気がした。


「わ、わからん……ない、です」


 消え入りそうな声で答える。男は目を伏せて何かを考えている様子だった。


「……分かった。では、君は今日からネレスと名乗るといい。ネレス・ネルヴィーノと」

「……へ?」

「私の名前はアルヴァロ・ネルヴィーノだ。君さえ良ければ、私の養子になってはくれないだろうか」

「なっ、なんで!?」

(いや急すぎる、なにごと!?)


 思いっきり大きな声を出してしまったが、男は穏やかにこちらを見つめている。「よ、養子て……なんで急に、そこまで……」と弱々しく尋ねた。


「君に行くあてはないのだろう? だったら断る理由はないはずだ。雨風を凌げる家も、朝昼晩の食事も、暖かい風呂もある。君のしたいことはなんでもしていい。私は君を助けたいと思ったんだ……それだけでは理由にならないか?」

(こいつ、ロリコンか……?)


 柔らかく微笑みながら首を傾げた男――アルヴァロに対して、間違っていたら大変失礼なことを考える。


 だって、そうでもないとおかしいだろう。

 海に浮かんでいた怪しい子供を養子にしようだなんて、ロリコンかろくでもない目的があるくらいしか考えられない。


 しかし、彼の提示した条件は非常に魅力的だった。


 もしかしたら……もしかしたら、本当に善意で言ってくれているのかもしれない。

 アルヴァロの言うとおり行くあてはないし、外に出たらきっと三秒で死ぬ。この世界のことなんて、自分は何も知らないのだ。


「あ……あの……」

「どうした?」

「し、質問があって……ここは、どこですか……」

「ネミラス王国という国の南部、バラエナ領だ。私はその領主を務めている」

(ああ、くそ……ッ! 前世と同じや……そんなことある!?)


 一番当たってほしくなかった予想が的中してしまった。思わず唇を強く噛む。

 前世で暮らしていたのは東部だったため、場所は離れているが……同じ国である時点で、駄目だ。生きていける気がしない。


(無理、また絶対処刑される、もう窓から飛び降りたほうがいいかもしれん)


 ちらりと窓に視線を向けて握りこぶしを作る。震えるその手に、大きな手がふいに重なった。


「大丈夫か? 落ち着いて……私は君を傷つけないし、聞きたいことになんでも答える。恐れることはない」


 彼なら守ってくれるのかもしれない、そう思いたくなるほど優しい声だ。

 しかし彼が女神ミフェリルの信者だった場合、自分にとっては最悪の敵である。


 この世の終わりかどうか判断するために「も……もうひとつ……」と震える声を絞り出した。


「ああ」

「あ、貴方は……女神ミフェリルを、信仰していますか?」

「嫌いだ」

「……エッ?」


 間髪入れず返ってきた言葉に目を丸くした。

 さっきまで柔らかかった声音が、突然低くなったように思えたが……気のせいだろうか。


 思わず顔を上げてアルヴァロを見る。彼は柔らかく微笑んでおり、目が合うと嬉しそうに笑みを深くした。


「世界で一番嫌いなんだ、その女神は」

(そんな笑顔で言う台詞やない……)


 ますます彼が何を考えているのか分からなくなった。

 しかし、女神ミフェリルを信仰していない――それだけで、充分だ。


「わ、分かり……ました。養子に……なります」

「そうか……! ありがとう――ネレス。これからは遠慮なく、父と呼んでくれ」


 父と呼ぶのを躊躇われるほど美しい男は、心の底から嬉しそうに笑った。


(意味分からんけど……変なヤツやけど……多分、いい人そうな……気がしないでもない)


 怪しくはあるけれど、同時に彼の元なら大丈夫だろうという気もする。

 もちろんやっぱり悪人でした、という可能性もあるがその時はその時だ。とりあえずネレス・ネルヴィーノとして生きてみよう。


 かつて魔女として処刑された青年はそう決めて、小さな手で養父となった男の手をおそるおそる握り返した。

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