Episode6-1 夏の日暮れと浴衣ガール
▢▢▢
真っ当に生きたかったな、と思う。
真っ当に生きて、真っ当に恋愛して、真っ当に就活して、真っ当に結婚して、真っ当に死にたかった。なんてことを思って、そこに垣間見えたある種の自己陶酔に嫌気がさした。
俺——沢口圭一はベッドから身体を起こすと、部屋の隅にあるムスタングに手を伸ばす。
いくら一軒家とはいえ深夜だ。ヘッドフォンアンプに繋いで、適当に爪弾いた。
「……ままならない、なぁ」
告白された時、真っ先に浮かんできた感情は、恐怖だった。
これまでのバンド活動では、少なからず速水あかね(好きな子)への感情をエネルギーにしてきた。つまり、俺のバンド活動は「中学時代からの片思い中の相手がいる男」というアイデンティティとセットで成り立っている。
だから。
——もし彼女と結ばれて、幸せになってしまったら?
それは今の俺じゃない。色んな人が認めてくれた、プロになれると言ってもらえた、バンドマン・沢口圭一じゃない。
俺は幸せになってはいけない。
幸せになってしまったら、自分を自分たらしめているエネルギーが、霧散してしまう。ここでエネルギーを失うわけにはいかない。気の抜けた音楽なんて認められない。何も成し遂げていないのに、幸せになるわけにはいかない。
だって、すぐそこにプロの道が開かれているのだ。
昔……まだ音楽にハマる前の中学時代、あかねは目を輝かせて好きなバンドのことを語ってくれた。その表情があまりに眩しくて、俺も、彼女にそんな表情をさせるようなバンドをやりたいと思った。
そこに、もうすぐ行ける。あちら側に立てる。こんな機会、人生で二度あるかは分からない。これを逃せば、きっと悔やんでも悔やみきれない。
だから、怖かった。
だから……、逃げた。
あれだけ好きだった——今でも好きな女の子が向けてくれた好意から、逃げた。
「……ぁ、ぁ……ぁぁぁぁぁアアアアッ!!」
そんな理屈があるか!
あかねの感情を蔑ろにし、自分の思いさえ踏みにじり、あまつさえ中学時代の俺とあかねを裏切ってまで、自分の保身を優先させる莫迦がどこにいる⁉
——俺がダメになるとメンバーに迷惑がかかる。
——俺一人の感情に、バンドメンバーを巻き込むわけにはいかない。
だから何だふざけんな! 言い訳すんな知らねぇよ死ね!
回る思考はどんどん加速して、とりとめのない思考が遠心力で散らばっていく。
「なにがしたいんだよ、俺は!」
ハッキリしないなら死ねよ! と叫んだが、その声は枕に吸収されて消えた。
枕に顔をうずめる程度の理性が残っていながら、狂っているような演技をする自分が無性に腹立たしくて、涙が出た。
もう分からない。
真っ当に生きたい。
真っ当が何かなんて知らないし、きっと〝真っ当な人〟にも相応の苦労と苦悩があるのだろうけれど、それでも願わずにはいられない。
真っ当に生きたい。すべてを忘れて幸せになりたい。
——そしてまた、その言葉の裏に潜む自己陶酔に気が付いて、怒りのままにギターを弾いた。
▢▢▢
「朝はパン♪ 夜はパンパン♪」
「くたばれ」
あかねの告白を目撃した翌日、玲は圭一とともにラーメン屋に来ていた。
時刻は午後一時半——ちなみに平日で、普通に学校がある日だ。学校はサボった。
「知ってるか、パンって戦国時代の鉄砲伝来と同時に日本に伝わったらしいぞ。ポルトガル万歳」
「
ずるずる、と塩ラーメンを啜りながら、玲は息継ぎのついでに応える。
「そうそう。あと、バイクを「単車」って言うのは、もともとバイクとサイドカーがセットで使われてたかららしい。サイドカーとセットじゃないバイクを「単車」って言ってたんだそうな」
「へぇ」
「ちなみに俺の
「沢口、麺のびちゃうぞ」
「……そうだな」
ずるずる。
「……」
「……」
ずる…ずる…。
「…………」
「…………」
圭一は鈍い動作で、噛むようにして麺を食べ進める。
圭一はラーメンが大の好物らしい。
バイクの維持費とバンド活動で常に金欠だが、なけなしの金を持ってバイクで遠くのラーメン屋に行くのが月イチの楽しみ……と言っていたのだが。
「……はぁ……うまいなぁ」
そう零した圭一は、じっと、どんぶりの中を見つめている。
半透明のスープに映る圭一の表情が、ため息のひとつで頼りなげに揺れた。
・・・
昨日。
結局、告白をきっかけにしてあの場はお開きとなった。
振られて「そっか、」と寂しげに言ったきり動かなくなったあかねと、どうしたら良いのか分からずに口を噤む圭一。押しつぶされてしまいそうな重い沈黙が公園に流れ、予想外の展開に玲と六花も身動きが取れなくなっていた。
「……帰りましょうか。せっかくだし送るわよ」
沈黙を破ったのは紗香だった。
それ以上そこにいても出来ることはないし、圭一もあかねも、他人に泣き出しそうな表情を見られたくはないだろう。玲と六花は、ありがたく紗香の車で送ってもらうことにした。
「……」
「……」
このご時世に珍しいマニュアルのスポーツカーの車内には、重い空気が流れている。
いっそ告白の件を茶化せればよかったのだろうが、告白された瞬間に見せた圭一の怯えたような表情を思い出すと、そんな気分にもならなかった。
「……友達と恋人って、なにが違うんですかね」
意外にも、沈黙を破ったのは六花だった。視線は助手席の窓の外に向けたまま、どこかうわの空な様子。
「お互いを好き合ってるかどうか、かな……いやそういう経験ないから知らないけど」
言っている途中で自信がなくなって、どんどん声が尻すぼみになる。
「でも、沢口先輩はあの女性のこと好きなんですよね……?」
「……うん、そのはず、だけど」
何か事情があったのかは分からない。ただ、事実として、圭一はずっと好きだった女の子からの告白を断った。あれだけ好きだった女の子を振る理由は、正直なところ玲には見当がつかない。
「好きってだけじゃ、身動きが取れないこともあるのよ」
スコン、とギアが一段階落ちると、回転数の上がったエンジン音が車内に響き渡る。
赤信号で停車すると、紗香は前を向いたまま続けた。
「みんな器用に生きられたら、良いんだけどね」
器用に生きられたら。
その言葉は春の夜風のように、肺の奥深くまでするりと滑り滑り込んできた。
その夜——というか明け方、玲は圭一から「ラーメン食いに行かね」と誘われ、今に至る。
もっとも、誘われた時は「放課後に駅前のラーメン屋に行かないか」くらいの意味だと思って快諾したのだが、気が付けばバイクの後ろに乗せられ、片道一時間先にあるラーメン屋に来ていた。
「うん、やっぱり味噌だよな。味噌」
圭一はスープを飲み干すと、ひとり納得したように頷く。
「ま、たまに食うと美味いな」
「だろ? このコクの深さ、クセになるよな」
からっと笑うと、圭一は満足げに息を吐き出した。
「ふぅ……。ラーメンって、なんでこんなに美味いんだろうな? バイクでツーリングして温泉に入ってラーメン食ってアイスを食う。それだけで幸せになれるんだよなぁ」
しみじみと言う圭一に玲が言う。
「いいなそれ、オレもやってみたい」
「免許取ったらいんじゃね? 双海んちにもあるだろ、バイク」
「あるけど、あれは大型だし」
バイクの免許は十六から取れる、というのが世間一般的な認識だが、実際はちょっと違う。
バイクには排気量によって区分がいくつかあり、十六歳で取れるのは「中型」までの免許だ。
玲の家にあるバイク——師匠が形見に置いて行ったバイクは「大型」と呼ばれるクラスのバイクであり、大型の免許は十八歳にならないと取得できない。
「んじゃ来年までお預けだな。定期的にエンジンは掛けとけよ?」
「……あぁ、そうするよ」
使われないものは、あっという間に劣化していく。
特にバイクは劣化が顕著だそうだ。一週間も動かしていなければエンジンは掛かりづらくなるし、一か月も乗らなければ錆びが目立ってくる。
そう。
玲が使わない限り、あのバイクは朽ちていく。もう、玲以外、あの家にはいないのだ。
「——み? 双海? 聞いてるか?」
「あ、あぁ、悪い、なんだっけ」
「……お前、人が大事な話をしてるときに……」
このやろ、と圭一は冗談めかして続ける。
「——俺さ、今度あかねに告白しようと思うんだ」
「——ぶッ⁉」
玲はお冷を吹き出した。いま、なんと???
「うわきったね!」
「い、いやいや、待て待て待て待て!」
昨日のことを思い出す。昨日確かに、あかねの告白を圭一が断っていた。
圭一は告白されるんじゃなく、告白したい側だった? そんなことにこだわって、好きな子の告白を無下にした?
そんな玲の思考を、圭一の言葉がぴたりと打ち切る。
「実はよ、昨日、あかねに告白されたんだ」
「……お、ぉう」
有無を言わせぬ表情。その表情に秘められた感情は自虐のようでもあり、その実、後悔な気もする。
「でも、怖くなって断っちまった。あかねと接点が欲しくてバンドを始めたはずなのに、バンドのために……あ、いや、ごめん嘘。バンドのためじゃないな、自分のため、自分のやりたいことのためだわ。んで、とにかく振っちまったんだよ。」
表情を変えず、圭一は話し続ける。
「だから、今度は俺から告白する。いつになるかは分からない——もしかしたら一年後かもしれないし、卒業してからかもしれない。
だけど、いつか、胸を張ってバンド活動を誇れるようになって、俺はあかねに告白する。実績も技術もないままじゃ、俺は自分を認められない。まだ幸せになる時じゃないって思っちまう」
だから、と言いさした圭一に、玲は言葉を被せた。
「沢口は本当にそれでいいのか? あかねはモテるだろうし、その気にならなくても彼氏できそう……」
「ぐッ、ぐ、ぐぇ—ッ……ぐゲゲゲゲ」
「異音。異音出てる」
玲は今にものたうち回りそうな圭一を半眼で見る。
「ぐっ……だ、だけど、俺は……俺は、……俺は、まだ付き合えない。何も成し遂げてない。ちゃんとバンドで成果出して、自分を認められるようになって、それから迎えに行きたい」
たとえこの選択の結果、あかねに彼氏ができてしまっても。
圭一が苦しそうに顔を歪めながら言い終える。玲は小さく「そうかぁ」と呟いて、天上を仰ぎ見た。
「……沢口の気持ちは分かった。うん、難しいよな」
玲には夢がない。だから、夢を追って——そしてその夢を掴みかけている人に対して、特に言えることはない。そこにはきっと、玲には想像しきれない感情があるのだろう。
だから、言うべきことは一つ。
「じゃあ、あかねの気持ちはどうするんだ。自分に自信がないから待ってて——なんて、身勝手じゃないか?」
べつに、咎めるわけじゃない。
全ての人間は少なからず身勝手で、自分の都合で動いている。それが前提だ。自分の都合と他人の都合が重なった時に、付き合うなりなんなりすればいい。
しかし。
「わかってる。でも俺は……あかねを言い訳にしたくない。俺はみっともない人間だから、もしバンドがうまく行かなくなったら、心のどこかで恋人に原因を求めちまう気がするんだ」
圭一が顔を上げる。彼の顔には悲壮な表情が浮かんでいた。
今にも泣き出してしまいそうというより、さんざん泣いて、泣き止んだ後のような。
「——だから、付き合えない!
見ててくれよな双海! 俺がビッグなバンドマンになって、何もかもを手に入れて億万長者になって民間で宇宙開発企業を立ち上げて地球上のあらゆる女性たちは言わずもがな銀河系に発生したあらゆる生命体からモテまくったにも拘わらずそれらすべてをなげうって、あかねの為に走る姿を!」
「それでいいのかお前」
・・・
ラーメン屋から出た玲たちは、しばらくバイクで海沿いを走ってから家に帰った。
別れ際、圭一がポケットから紙きれを取り出す。
「そうだ、双海——これいる?」
「?」
どうやらチケットらしい。券面には【第52回花火大会 ペア観覧席S席】と書いてある。
「来週の花火大会、俺んちが協賛してるだろ?」
「え、そうなのか」
「……そうなんス。店にポスター貼ってあったっしょ」
「そうだったっけ……」
「それで有料席のチケットもらえたんだけど、もしよかったら天瀬さんと使ってくれよ。ほら、俺は……店の手伝いあるからさ」
「でも、いいのか? コレ——」
言いかけた玲を、圭一が制止する。
「……いいんだ。速水さんは友達と行くだろうし」
圭一はそれ以上言わず、ヘルメットのシールドを下げた。スモークのかかったシールドは、彼の表情を隠してしまう。
「ありがとう、じゃあ、もらおうかな」
「おう。もろとけもろとけ」
礼を言って受け取ると、圭一はにかっと笑ったような雰囲気で手を振って、バイクで走り去っていった。
「……」
ぽつんと自宅の玄関先に立つ玲は、手元のチケットを見る。
ペア席一万円。
……もちろん、招待券に値段なんて書いてあるはずがなくて。
だからきっと、これは彼なりにけじめなのだろう、と玲は言い聞かせて、そのチケットを財布にしまうのだった。
(Episode6-2に続く)
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