Episode 4-1 放課後少女とロンリーガール①
「こんにちは、双海さん」
六花と映画館に行ってから、早一週間。
放課後の喧騒から逃げるように屋上へと来た玲を迎えたのは、元担任の稲野紗香だった。
「ども」
柵に寄りかかっている紗香の手元には、かなり膨らんだ携帯灰皿。
既にタールのにおいが屋上に充満していた……ついさっきまでSHRだったはずだが、この様子だと吸いたくて早めに切り上げたのだろう。
玲は壁に背中を預け、本を読み始める。
そよ風が吹くたびに、玲が座る日陰に陽だまりの匂いが運ばれてくる。五月も中旬になり、夏の気配を感じる気候になった。もうじき屋上で過ごすのもつらくなると思うと、少し寂しさがある。
「……」
「……」
屋上で紗香とばったり会うのは、そう珍しいことではない。
もともと屋上は紗香が喫煙所として使用していて、玲は紗香の喫煙を他言しない代わりに、いわば口封じとして、屋上の使用許可をもらっている。玲の方がビジターの立場だ。
紗香は煙草を吸い、玲は適当に時間をつぶす。
話したいことがあれば会話して、特に話すことが無いなら会話しない。お互いに気まずさを感じない、ともすればドライな雰囲気が玲は気に入っていた。
「——そういえば」
と、沈黙を破ったのは紗香だった。
「はい?」
玲は本から顔を上げ、紗香の方を見る。
「どう? 天瀬さんとうまくやれそう?」
紗香は二本目の煙草を取り出しながら、なんとなしの風に聞いてきた。
しゅぽ、と小気味よいライターの音とともに、紗香の表情に影が落ちる。中天をすこし過ぎたところにある太陽は、俯き加減の紗香の表情までは照らせない。
「——はい、大丈夫だと思います」
断言して——ふとスマホの画面を確認する。通知はまだない。
「そう。それは何より」
紗香はふはーっと息を吐いて、煙を味わうような間をおいてから破顔した。
「双海さんなら、上手くやれると思ってたわ」
「買いかぶりすぎですよ。オレは……」
……いや、反射的に謙遜したけど、実際に上手くやれてないな?
あの日——映画館デートをした日のことを思い返すと、たじたじ過ぎて悶えそうになる。
もっと上手いエスコートの仕方も、六花の言葉に対するもっと上手い返しもあっただろうに。
ここにきて、対人関係を蔑ろにしてきたツケが回って来たのだった。
煩悶する玲に気付く様子もなく、紗香は続ける。
「やっぱりいいでしょう、後輩。
……高校生の特権よね、嬉し恥ずかし初デート……ちぐはぐな距離感にたじたじなコミュニケーション。相手の一挙一動に舞い上がったり落ち込んだり、些細なひとことが相手のすべてに思えてしまったり……少なからず痛々しさを孕んでこそ真のアオハルよね。
どんな進路を選ぶにせよ、高校を卒業したらこうはいかないもの…………戻りたい」
「先生、たぶん沢口と仲良くなれますよ」
呆れながら半眼を向けると、紗香は真顔で、
「えっ、やだ」
ばっさりと切り捨てたのだった。
「……あばよ、沢口」
玲は瞑目して、友人を偲んだ。
「まぁ、アオハル云々はともかくとして——どうだった? 映画、楽しめた?」
「——えぇ、楽しかったですよ」
口に出して、自分の言葉に納得した。
そう、楽しかったのだ。
不完全な会話も、手探りの距離感も、ボタンを悉く掛け違えるようなコミュニケーションも、あれはあれで、楽しかった。
圭一や紗香との会話にあるような「リズム」が確立されていない、関係の初期段階ならではのハラハラ感。玲がここ一年――《師匠》が死んで以来——避けるようになってしまった、新しく他人と関わることのワクワク感。
自然発生的な人間関係ではなく、作為的な人間関係——仲良くなろうとする人間関係でしか得られない、駆け引きめいたスリル。
めんどくさかったり、嫌だったり、恥ずかしかったり——そういう負の感情も含めて、玲は「楽しかった」と先週のことを思い起こすことができた。
「そ。よかったよかった」
紗香はそれ以上踏み込むことはせず、ただ柔らかな表情で玲を見ている。
その佇まいは「後輩と関わって良かったでしょ」などと正解だった答案を誇示するでもなく、ただ
玲は、少し気恥ずかしさを感じながら口を開く。
「その、紹介してくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ。天瀬さんも、双海さんのおかげで楽しそうだったわ」
「そりゃ良かったです。……そういえば、ブラザー・シスター制度の試験運用にあたって、面談とかあったりするんですか?」
ふと気になったので紗香に聞いてみる。
もともと、玲と六花はこの学校に導入されるらしい《ブラザー・シスター制度》の実験台として紗香に引き合わせられた。となれば当然、経過観察としての面談くらいあるだろうと思ったのだが……
「?」
紗香は要領を得ない様子で、きょとんとしていた。
「……」
「……なんだっけそれ?」
「……」
「……?」
「……オレと天瀬さんはブラザー・シスター制度の実験台として——って、まぁ、そうだよな……」
もはや半眼を作る気力もなく、玲は呆れてため息を吐いた。
「ぶらざー……? あっ、あぁ! はいはい。あれね、うん、もちろん覚えてるわよ」
「いや、
「…………。その、ごめんね?」
きゅるん、と白衣の袖をつまんで萌え袖にした紗香に、玲はありったけのドン引きの視線を注いだ。
「し、仕方なかったの! 学年主任から事あるごとにかけられるプレッシャーと自己責任と言って誰も助けてくれない環境と部活の顧問と実験の準備で忙殺されて、どうしても手が回りそうになかったの……!」
〝何〟に手が回らないのかを言外に、悲痛な面持ちで訴える紗香。
左手で握りつぶされた携帯灰皿のふくらみを見るに、悲しいかな今の発言内容と心労は事実なのだろう……玲は生きることにまつわるワビサビを感じた。
「……先生も、大変すね」
「そうなのよ……大学で実験とレポートに追われ、大学院で実験とレポートに追われ、教師になったら顧問と日直と授業とテストと実験に追われる――退職するまでね」
「……※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・職業ならびに法律とは関係ありません」
「教師なんて、フィクションよりも法律と関係ないわよ」
「世知辛すぎるなぁ……」
玲は
「……教師って、世界が狭いのよ。
小中高大と「学校」組織のなかで生きてきて、そのまま教師として「学校」に入る。
知ってる世界は「学校」だけ。だから世間も社会も何にかはせん、学校組織だけのローカルルールがまかり通る。
……そんな狭い世界しか知らない人間が、社会に出ようとする子たちに何かを教えようなんて、思い上がりもいいところね……はぁ」
目を細めて紫煙を吐き出す紗香の横顔には、やるせなさが滲んでいた。
無力感というには少し大人びて、諦観というにはまだ若い、そんな表情。
玲は会話の接ぎ穂を探して周囲を見たが、そこには放課後の喧騒から少し浮かんだ、十数メートル四方の屋上があるだけだった。
逡巡ののちに、玲は聞く。
「……先生は、どうして教師になったんですか」
「ん~?」
玲の問いに、紗香はいたずらっぽい表情で。
「元カレにおすすめされたからかな♡」
「……オゥ」
突然飛び出てきた生々しい話に、玲は目を覆った。
「まぁ、今は絶賛彼氏募集中の身なんだけど……良い人いたら紹介してね?」
「……気が向いたらで」
玲が素気なく応えると、紗香の表情が急に曇った。
「…………そろそろ本格的に考えないとマズい年なのよね私」
「だ、大丈夫ですよ。センセ美人だし、そのうち良い人できますって」
「前時代的な考えかもしれないけど——女性には賞味期限があるのよ」
「……今をときめくうら若き高校生に生々しい話やめてもらえます?」
「それに、賞味期限だけじゃないわ。
歳を経るごとに自分自身の感性も弾力を失っていって、しまいには何もかもに期待することをやめてしまうの……。そうなったが最後、うつろな瞳で『あの頃は』『私が○○の頃は』『若いうちにちゃんと○○しておきなさい』『早く良い人捕まえときなさい』『今は良いけどこの先』みたいなうわごとを繰り返すだけの悲しき獣が生まれてしまうの。
未来への期待を捨てた時、その期待はもう取り戻せない過去へ——そして自分より若い世代へと向けられるの。だからほんともう、ちゃんとしてほしいわ……婚期を逃すと大変とか出会いは作らないと生まれないとか知ったこっちゃないっての……」
「……めんどくさ……」
話題が仕事の愚痴に戻ってるし、聞いてないこと喋るし……。無駄に見た目が美人なだけに、かえってやかましさが際立っている。
普通に生きていれば引く手あまただろうに、どこか「残念」というか、絶妙な「これじゃない」感があるのだ。もうちょい頑張ってほしい。
「……双海さん。あなたはこうなっちゃダメよ……。
私も学生のときには、理想や美化された過去に囚われて他の選択肢を蔑ろにしてしまったけれど、今あるもの、手に入れられるものに目を向けることも大切だったの」
紗香は煙草の火を揉み消し、また一本取り出そうとして手を止める。
空っぽになったソフトケースを握りつぶすようにポケットに押し込んで、紗香は続けた。
「思い返せば、最初のいちどで正解を得ようとしていたのね……一度目で正解を得ても、それが「正解」だと信じられるはずもないのにね。
比較と選択と反省の連続でこそ——失敗してこそ、いずれ「正解」の何たるかが分かるものよ。だから、若いうちに選んで、悔んで、悶えて、もんどり打ちながら生きていくといいわ……」
「なるほど、これが悲しき獣」
その後も紗香はうわごとのように『あの頃は』『私が○○の頃は』『高校生のうちにちゃんと○○しておくといいわ』『そのときは良いけど後々』などと繰り返していた。
その言葉には、玲を通して過去の紗香自身に語り掛けているような、自分事めいた切実さがあった。が、それはそれとして説教くさいので玲は聞き流した。
告解めいた言葉を続ける紗香を尻目に、玲が本のページをめくっていると。
ぴろん。
「お、」
スマホの通知を見て、玲は立ち上がる。
「じゃオレ、そろそろ行くんで。さようなら」
「そ、そう……その、いつ来てもいいからね?」
「うす、じゃ」
祖父母宅への帰省から帰る時の気分はこんな感じなのかなぁ、と思いながら、玲は屋上を後にする。
もっとも――玲には祖父母はおろか、両親もいないのだが。
Episode4-2へ続く。
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