Episode1-3 初夏のにおいと気弱な後輩③


「……えーっと、」

 玲は紗香が座っていた席に腰掛け、六花に向き直る。

 どうしよう、何から話したものか。


「改めまして、2年の双海玲です。よろしくお願いします」

「あ、えっと……1年3組の、天瀬、六花です。……よろしくお願いします」

 おずおず、といった様子であいさつしてくる六花。

 玲は初めて六花の顔を近くで見て、「かわいい」という平凡な感想を漏らした。顔に影を落とす野暮ったい前髪のせいで暗い印象を受けるものの、顔立ちはかなり整っている。


 たぶん、そのうちクラスの男子に「この子の可愛さに気付いているのは自分だけだ」みたいな目も当てられない優越感を抱かせることになりそうな、そんな感じ。玲は我ながら失礼極まりない印象だと嘆息した。


「……」

「……」

「…………」

「…………」

「えっと……ご趣味は……?」

「……特に、……ない、です……。ごめんなさい……」

「……そっ、かぁ」

 情報量なさすぎて、たとえばこれが何かの第1話情報量が必要な話でのセリフだったら作者を殴ってるな、と玲は強く思う。いきなり自分語りするのも気が引けるので、会話の糸口を探してちらと周りを見回すと、机の上に置かれた一冊の本が目に入った。

「それ、どう? 面白い?」 


——『変身』 フランツ・カフカ

 

 たしか、真面目に生きてきた主人公が、ある日突然虫になってしまう話だ。

虫になって、家族から疎まれ、除け者にされ、挙句の果てに父親に投げつけられたリンゴが背中にめり込んで、それが原因で死ぬ。主人公が死んで、家族は解放されたことに喜ぶ。

 あまりにショッキングな話だったから、一読しただけなのに忘れられない。

「いえ、あんまり……」

「…………そっかぁ……」

「……」

「……」

 完。



 だが、なんとか対話を試みようと玲は不屈の闘志で立ち向かう。

「えっと……それ、めっちゃ痛そうだよね」

「……?」

「ほら、最後さ。お父さんに投げられたリンゴが背中にめり込んで――」

「ぁ…………そ、そうなんです、か……」

「あっ、………………ごめん」

 ネタバレだった。

 名著だからと油断した。完全に初見のネタバレの反応だった。

玲は申し訳なさを感じて窓の外を見る。四階の教室。青い空。白い雲。どこまでも続く、水平線——空を飛んだら気持ちよさそうな日だなぁ……でもオレ飛行機ダメなんだよなぁ……そうだぁ、ここから自分で飛べばいいんだァ、あはは~……。

「……」

「…………」

「……」

「…………」

 もう今日は無理だ、と玲は悟った。沈黙が雪だるま式に膨れ上がり、もはや崩すも砕くも、かえって六花に気負わせる原因になりそうだ。と、思ったら。


「あ、の……」

「は、はい!」

「双海……先輩は、なにか……趣味あります、か」

 恐る恐ると言った様子で、六花が聞いてきた。

「あ、あぁ、趣味ね。趣味……映画、かな? うん、映画鑑賞」

「映画……」

「そうそう。最寄り駅に映画館あって、そこでよく見てる。天瀬さんは映画館とかよく行く?」

「……私、じつは、映画館行ったことなくて、」

「え、マジか」

「はい……あ、トト□は、見たことあります。……DVDで」

「あ、うん。ト〇ロね……トト□、うん、面白いよね」

「はい……」

「…………」


 せっかく向こうから話しかけてくれたのに! 上手く拾えなかった……!

 玲は洋画——特にアクションものが好きだ。基本的には配信やテレビでもアクションものの洋画しか見ないので、トト□は流し見で得た知識しかない。主にまっくろく○すけの登場シーンが怖いということしか知らない。

「……」

「…………」

 普段は相手がボケてくれたから、ネタに気づいてツッコむだけで会話っぽくなっていた。しかし今は違う。誰もボケてくれない。誰もツッコませてくれない。

 己の無力さに打ち震えていると、不意にスマホが振動した。そろそろバイトの時間だ。

「……あー、一応、オレ、この後バイトなんだけど」

「あっ……ごめん、なさい」

「いや、全然……えっと、帰りは電車?」

「はい、電車と……あと、船、です。……霜波立島に住んでいるので、」

「へぇ、霜波立なんだ。なんでわざわざこっちの高校に?」

 海の向こうには、霜波立島しもわだちじまという小さな離島がある。そこには高校が無いため、島外の高校に進学することになる……のだが、霜波立島の隣の島に高校があり、本土の東浜高校に進学する生徒は全くと言っていいほどいない。


「その——、……してみたかったので」

「ん?」



「——青春を、してみたかった、ので……」



 消え入りそうな声でつぶやくと、六花はまた俯いてしまった。はら、と目元を隠した前髪が頼りなげに揺れる。


 青春——。

 その言葉が示す意味を、玲もいまだ知らない。

そもそも、もとは人の若い時期を青春と形容するのだから、今はただ生きているだけで青春ということになる——という詭弁を、玲は呑み込んだ。

「うん、そっか」



 揺れた前髪の向こうで、六花が優しく細めた瞳。そこに浮かぶ切実さに気付いてしまえば、そんな野暮な台詞は言えるはずがなかった。



 沈黙が続いていた時には意識に上らなかった、金属バットの乾いた音。吹奏楽部の合奏、運動部の掛け声と、今日持ってきたお菓子の話。移ろいかけた季節に、けれど後ろ髪を引かれて残った春先の冷たさ。吹き込む潮風には初夏のにおいがついていて、教室の埃っぽい木のにおいと混ざっては廊下へと抜けていく。


 きっと、いつか忘れてしまうだろう音とにおいと、彼女の髪の柔らかな揺れかた。

 玲は想像する。

 満員電車の窓の向こうに、今日この日の空の色を思い浮かべる日々を。

 そうしてみると、たまらない気分になって、目の前の女の子に微笑みかけていた。



「できるといいな————〝青春〟」



「っ……はい、ありがとうございます」

「うん。じゃあ、帰ろっか」

「はい、」

 ふ、と柔らかな表情を見せる六花。

 玲は突然見せられた表情に戸惑いながらも、六花と共に帰路についた。



 ……しかし。



「……」

「……」

「…………」

「…………」

 なんだかいい雰囲気で帰るのかと思ったら、全くそんなことはなかった。相変わらず会話が続かない。


 せめてもの救いは、会話が散発的にでも発生した——少なくとも、会話のために話題を出そうとする意識がお互いに生まれた——ことだが、それもボールが二往復しない間に消滅してしまう。


 ここまで話してみて、玲は気づいた。

 この女の子、致命的なまでに世間について何も知らない。

 映画館に行ったことも、ゲームセンターに行ったことも、水族館に行ったことも、ファミレスにさえ行ったことがない。どうやって生きてきたのか心配になるレベルだ。

 これは……確かに、「友達になってあげて」と言われるのも分かる。

 友達になるために必要な、最低限の会話の手札すら六花は持っていないのだ。あるいは――他人と関わるのに必要な、そもそもの「自己」さえ持っていないのかもしれない。


「じゃあ、私、ここなので」

「ん、あぁ。そっか、またな」

「はい、さようなら……」

 港の最寄り駅に着くと、六花は電車を降りた。

 再び動き出した車内で、玲は思わず天井を仰ぐ。

「さようなら、ね……」

 いまいち噛み合わない、機能不全の会話を反芻する。

 ……まぁ、どうでもいいか。

 所詮は一年間だけの関係だ。そんな一過性のものに一喜一憂したところで意味はない。


「……」

 どうでもいい、ともう一度、玲は心の中で繰り返す。

 そう、どうでもいい。他人ひとの人生に、感情に、あるいは行動に、自分が干渉できるなんて思うのは、おこがましいことだ。


「……あ、連絡先、聞くの忘れたな」

 ……だから、慎むべきなのだ。




 ——赤の他人である彼女に、〝青春〟を送らせてあげたいと、そう思うなんて。


 

【つづく】

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