この世界に、私たちはいる


芝浦しばうらさん、個人的な呼び出しは困ります。私はもう、あなたの部下ではなく、公安の人間なんですから」

「わかってる。時間は取らせない。まずはこれを聞いてくれ」


芝浦は普段人気のなさそうな、さびれた倉庫が立ち並ぶ、夕暮れ時の港の外れに、昔の後輩を呼び出していた。

捜査一課時代、真面目で優秀で生意気すぎることで有名だった、芝浦の後輩。今はその功績が認められて、公安の警察官に抜擢されている。

彼は録音を聞き終わると、真っ直ぐ芝浦を見た。


「…で?」

「わかってる、これだけじゃ証拠にならない。だからこれから大元のデータを持ってくる。公安に動いてくれるように、掛け合ってくれないか?」

「…持ってこれるんですか?」

「ああ、必ず」


黒の手袋をした手を顎に当て、後輩は悩むそぶりを見せた。芝浦は後輩を見つめ、返事を待った。


「…知っての通り、公安は国家体制を脅かし得る集団を専門に取り締まる組織です。

今回の件がそれに当てはまるか、まずは会議にかけなければ、確たるお返事はできません」

「それもわかってる。だがもう、俺にはできることがこれしかないんだ。お前に…いや、貴方に賭けるしかない」

「…賭けは嫌いです。ですから、確たる証拠を。話はそれからです」

「掛け合ってくれるんだな?」

「…あなた次第です」


一切無表情の後輩は、そっけなくそう言うと、懐から手帳を取り出し、何かを書き記した。それをちぎって芝浦に押し付けてくる。


「アドレスです。ここに」

「わかった。証拠が確保出来たら、必ず送る。目を通してくれよ」

「…わかりました」


話が終わると同時に、踵を返して後輩は自分の車へ歩いて行った。相変わらず、必要最低限しか会話の成立しないやつだ、芝浦はホッと息をつき、自分が後輩に対して、緊張していたことに気付いた。

ぐずぐずしている時間はなかった。芝浦は急ぎ足で大通りに向けて歩き出す。一ノ瀬、小杉と合流しなければ。

芝浦は、アドレスの書かれた紙を丁寧に折り、スーツのポケットにしまう。今の自分が持てる最大の切り札。どうか力を発揮してほしい、願いを込めて、ポケットを叩いた。

この時はまだ、シェルターで待つ波乱のことなど、芝浦は知る由もなかった。












芝浦が公安とコンタクトをとるよりも、かなり前の時刻。


民間の保護シェルターの中でも、トップレベルの秘密保持能力があるという施設に、一ノ瀬いちのせ久能木母娘くのぎおやこを移送した。

今は緊急の一時保護という形だ。このまま裁判所からの保護命令が出るまで待機できればいいが、それが出るまでにどのくらいかかるのか、詳しくはわからなかった。

病院で処置を受けた望愛のあは、鎮静剤が効いたのか、車の中でもぐっすり眠っていて、身体に異常はなかったようだった。母親の方も落ち着きを取り戻している。

施設につくと、職員が総出で母娘を出迎えてくれた。安心できるよう一室に通すと、あたたかい毛布やお茶などを2人に運んでくれていた。

さすがに職員は慣れているようで、望愛の傷や腫れあがった顔にも、顔色一つ変えずに対処している。言葉かけも優しくて、一ノ瀬も安心していた。


民間のシェルターという割に、ここの施設が堅牢で設備が整っているのは、DV被害から立ち直り、今は会社の社長をしている女性が、自らの経験をもとにここを作り、出資しているかららしい。

施設内を見て回り、避難経路を確認していた一ノ瀬が、ロビーの椅子に座り、これからのことを考えていると、職員がお茶を持ってきてくれた。ふわりと香るベルガモット。アールグレイティーのようだ。

一ノ瀬は職員に礼を言い、その香りで疲れを癒した。芝浦と小杉こすぎはどうしているだろう、無事だろうか。気になってスマホを手に取った。

スマホに連絡は特になかったが、ニュースで例の動画のことが、結構大きく取り上げられていて驚いた。今の時代は本当に情報の出回りが早い。うすら寒くなるほどだが、第一段階は成功していたようだ。

ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、突然一ノ瀬のスマホの着信が鳴り響いた。相手は小杉だった。慌てて電話に出る。


「も、もしもし?」

美麗みれいちゃん?わりぃちょっと時間ないんで、手短に行くよ!」

「あ、ああ、わかった。無事で何より…」

「1・これからじゃんじゃんうちの署から電話かかってくると思うけど、取り次がないようにして!おっさんと俺も、一時的に着拒してる」

「着拒?さすがにそれはまずいんじゃ…」

「警視総監直々で…いや表立ってはできないと思うけど、裏で捜査が始まっちまいそうなんだ。だから一時的に、警察を避けて動く」

「そんな、なぜバレたんだ…これからどうすれば…」

「2・久能木くのぎの裏事情掴んだ。これから俺は美麗ちゃんのいるシェルターに向かう。そこで裏事情のデータにハッキングをしかける。りひとも準備しといてくれ!」

「り、りひとも…?!わ、わかった、久能木 望愛くのぎ のあのところにいるはずだ。話してみよう」

「公共の交通機関使うと足がつきやすいから、民間のタクシー使って向かう。あ~、金足りっかなぁ~」

「心配するな、私の方で用意しておく。頼むぞ、小杉」

凌太りょうたって呼んで?」

「りょ・う・た」

「くぅ~~~っ!!またねっ…!」


小杉の電話は慌ただしく切れた。一ノ瀬は、とりあえず所属の署の番号を、どの課も、ありったけ着信拒否に設定した。あとで謝って回らなければならない。

聞いた感じだと、事は着々と進んでいるようにも思えたが、着々と追い詰められているようにも思えた。きっと時間との勝負になる。勝てるだろうか、不安がよぎる。

一ノ瀬は、少し冷めた紅茶を一気に飲み干した。不安がっている場合じゃない、こういう時こそ、やれることをやらなければ。

一ノ瀬は立ち上がると、久能木母娘の通された部屋へ向かった。小杉の指示通り、「りひと」に準備をしておいてもらうために。








小杉は到着と同時に、ロビーを占拠した。職員や一ノ瀬への挨拶もそこそこに、持ってきたノートパソコンを広げ、それにかじりつく。

自分に目もくれない小杉なんて見たことがなかった一ノ瀬は、少々面食らったが、それだけ彼は本気なのだと感じ、身が引き締まる思いがした。

施設にお願いし、ここのWi-Fiのパスワードも教えてもらい、書き留めておいた。それを一ノ瀬が小杉に差し出すと、ひったくられるように取り上げられる。

電話での指示通り、望愛を説得して「りひと」の入ったパソコンを借りてきていた一ノ瀬は、無言で作業を始めた小杉のテーブルの斜め前に、パソコンを開いてそっと置いた。画面に現れた「りひと」が声を上げる。


「小杉さん、指示を!」

「…待ってろ、とりあえず、親父の会社のデータベースは、久能木家住所を引っ張り出す時に、一回アクセスしてんだ。問題はここのどこにあるのかだが…、一番深いとこ潜ってきゃ見つかるか…?」

「パソコン繋いで共有してください。僕、探せる気がします…!」

「気がしますってお前、大丈夫なんだろうな?」

「「理人」の記憶があれば、多分僕にできることははっきりしてたんだろうと思いますが、今の僕は「なんとなく」です。やってみないとわかりません!」

「そうかよく言った託す!成長しろよ、りひと…!」

「はい!」


小杉は持ってきたカバンから、type-cのUSBケーブルを引っ張り出した。パソコン同士を接続すると、小杉の持ってきたパソコンの画面に開いていた様々な窓が、一気に動き始める。「りひと」が早速探索を開始してくれたようだ。

データ探索を「りひと」に任せつつ、小杉もその画面を目で追う。画面を見ながらぶつぶつとボヤく内容には、専門用語も混じっていて、一ノ瀬には全く分からなかった。


「…セキュリティは都度都度突破して、足跡は…時間内でできる範囲で消してくか。パスワードがあるだろうな。AI解析ソフトいけるか…?今までブルートフォースアタックか辞書だったもんな…」

「小杉さん、僕はAIです!」

「わーってるよぉ、でもAIだからって何でもできるわけじゃねぇだろ、それぞれに専門分野があってだな…」

「敵対的生成ネットワークによるパスワード解析ですよね?僕にもできそうです、やってみます!」

「マジかお前、万能すぎんだろこえーわ引くわ。てか俺いらねぇじゃん」

「いえ、いてください!エラーがあったら対処をお願いしたいです!」

「くっそ、これじゃ俺の方が成長の機会かぁ?しょーがねぇなやってやんよ…!人間サマの頭ナメんなよ!!」

「その意気です!がんばりましょう!!」


やはりこの2人、仲がいい。何の手出しもできない一ノ瀬は、ぼんやりそんなことを考えていた。

だが我に返り、自分にもできることをしなければ、と、一ノ瀬は、同じく呆然としていた職員たちに呼びかけた。突然シェルターに現れた大人の男に、恐怖を感じている入居者がいないか、一緒に見回りをすることになった。

小杉と「りひと」。二人だけの熱く静かな闘いは、始まったばかりだった。




時間だけが、じりじりと無常に過ぎてゆく。小杉も「りひと」も必死だった。

小杉がロビーを占拠した時には、突然の顔刺青の男の来訪に、DV被害者でもある施設の入居者たちは、震えあがって誰一人、部屋から出てこようとはしなかった。

だが一組だけ、久能木母娘だけが、部屋から出てきてロビーの様子を、心配そうに見守っていた。

娘の望愛の方は、おそらく「りひと」が気になって見ているのだろう。母娘で寄り添って、指と目以外は、じっと動かない小杉の背中と、文字画面だらけで絵が見えなくなった「りひと」のパソコンを、じっと動かず、静かに見守っていた。

望愛の顔の腫れはまだ引かない。青あざもくっきり残っている。痛々しいその姿で、突然の来訪者を見守る姿は、次第に他の入居者の警戒心をやわらげていった。

トイレなどで部屋から出てきた入居者の中には、用が済んでも部屋に帰らず、ロビーに佇む久能木母娘にならって、静かに小杉を見守るものも出てきた。

そして一ノ瀬がふと気づく頃には、多数の入居者が皆ロビーに集まり、声もなくただ静かに、小杉と「りひと」の闘いを見守っていた。それは静かに、応援しているかのようにも、一ノ瀬には思えていた。

そのまま、何時間が経過しただろう。長かったようで短かったかもしれない時間の中、小杉の久しぶりの声が、静寂を破る。


「………最後っぽいな?」

「そうですね、もうセキュリティらしきものも、パスワードらしきものも、見当たらない気がします」

「パスワード何重にもかかってたな…。りひとがいなかったら突破にあと10倍の時間はかかってた…、ミッションインポッシブルすぎるぜ…」

「まだ終わりではありませんよ、小杉さん。フォルダの中を見て、必要なものを早くコピーしましょう」

「わかった。りひと、お前は周りのセキュリティシステムを警戒しててくれ。頼むぞ」

「はい、お任せください」


会話の内容を聞くに、どうやら本命に辿り着けたらしい。一ノ瀬も周りの入居者、職員たちも、肩の力がふっと緩んだ。

指以外まったく動いてなかった小杉が、手を上げるとがりがりと頭を掻きむしった。その姿に、入居者たちが一瞬ぎょっとする。一ノ瀬は思わず吹き出した。


「…あー、数字ばっかで何が重要なんだか全然わかんねぇな…。まあいいや、画像とか音声ファイルとかもあるけど、全部まるっとコピーしとこ」


小杉はぼやくと、最後にタン!と音を立ててエンターキーを押した。画面には、ナウダウンローディングのバーがじりじりと伸びていくさまが映し出される。小杉はパソコンから手を離し、大きく伸びをした。

その背にちらほらと、拍手が送られる。その音に驚いて振り返った小杉は、自分を見守るたくさんの人たちに、さらに驚かされた。


「えっ?ナニコレ??」

「みんなお前たちの静かな闘いを見守っていたんだよ」

「見守るって美麗ちゃん……えっと、ミナサマ、アリガトウゴザイマス?」

「終わったんだな?」

「いや、ダウンロード終わるまでは、俺たちの闘いはまだまだこれか…」

「小杉さん、ダウンロード終わりました。サーバーから撤収しますね」

「りひと、お前な、ちょっと空気読めよ。俺今定番台詞の途中…」


小杉が言葉を切って顔を俯かせた。片手で顔を覆い、苦しそうな呻きを漏らしている。

一ノ瀬は慌てて駆け寄り、丸まった小杉の背に手を当てた。


「小杉、どうした?!」

「………や、ばい…ちょっと、余裕ねぇなこれ…」


小杉は息を切らせながら、カバンからスマホを取り出した。震える指でコールし、スピーカーモードにしてスマホをテーブルに置いた。


「…もしもし、小杉か?」

「おっさん…、突破したぜ…。データ、どうすりゃいい…指示くれ…」

「お前、声どうした?なんでそんな弱々し…」

「指示を…!」

「…わかった。手に入れたもの全て、俺が送るアドレスに送信してくれ。それが終わったら、お前はちゃんと休むんだ」

「大丈夫です、私が看病します」

「一ノ瀬か?悪い、頼む。ハッキングの件もそうだが、小杉はその前に父親にも会ってるんだ。あれだけ会いたくなかった相手と対峙したんだ、かなり無理をさせたんだと思う」

「はっ……、ひ、人を…そんな…ひよわ扱いしてんじゃねー、よ…」

「小杉、よくやってくれた。あとは送信だけ頼む」


電話は繋がったまま、ショートメッセージでアドレスが届く。小杉にはもう指を動かす力も残っていないのか、うなだれたまま動かない。見かねた一ノ瀬がスマホを掴み、操作を始めた。


「美麗さん、僕にアドレス見せてください!」

「りひとか?!さっき保存したデータの送信、頼めるか?」

「はい!お任せください!」


一ノ瀬は、小杉のスマホの画面を、「りひと」のパソコンのカメラに向けた。パソコンの画面に、読み取ったアドレスが浮かび上がる。アプリが立ち上がり、メール送信の準備が始まる。

繋がったままの小杉のパソコンから、「りひと」のパソコンにデータがコピーされる。それを圧縮し、メールに添付すると、件名に「久能木データ」と記し、本文に「急ぎでお願いします。2課」と打ち込み、送信した。


「送信完了です」


「りひと」のその声と同時に、小杉の体はぐらりとかしぎ、一ノ瀬に抱き留められた。


「小杉!大丈夫か?!」

「…み、美麗ちゃんこそ…だいじょぶ…?」

「私?私は何ともないぞ、大丈夫だ」

「…そか、よかった…。男に触ってるから…不快な、思い、させてっかなと…」

「小杉…お前…」

「余計な…心配、だったかな…ごめん…」

「いや、そんなことはない、ありがとう…。

…私は、性的な意味合いを含む触れ合いが難しいだけで、普通に触っただけなら、不快に思ったりはしないから大丈夫だ」

「…よかっ…、お、れ、…嫌がられてたらやだなーって…、俺…おれ…」

「小杉、もういい、もういいんだ。大丈夫だ、あとは私がやる。もうゆっくり休め…」


言葉の最後は涙声になった。一ノ瀬にとって、自分の特殊性を知らせた相手からの、はじめての気遣いがもらえた瞬間だった。

一ノ瀬が、ぎゅっと小杉を胸に抱きしめると、安堵したように小杉は目を閉じた。


「…おつかれさまでした。小杉さん」


「りひと」のパソコンから、そう声がした途端、バシュッと小さな音とともに画面が真っ暗になった。見守っていた望愛から悲鳴が上がる。

一ノ瀬は顔を上げると、片手を「りひと」のパソコンに伸ばした。


「りひとっ?!…あつっ?!」


一ノ瀬は思わず手を引っ込めた。「りひと」の入っているノートパソコンが、ひどい熱を持っていたのだ。おそらくスペックの限界に迫る力を発揮していたのだろう。

機械のことは詳しくないからよくわからないが、冷めたらもとに戻るんだろうか。一ノ瀬はあたふたと、パソコンと腕の中の小杉の顔を見た。


「……俺の…パソコンと…りひ、とのパソコン……でん、げ…ん…つけ、たまま…繋げて、おいて…。

あっちのパソコン…壊れてたら、ヤツなら…乗り移るくらい…すると、思う…。大丈夫…だから…」


目を閉じたまま、弱々しい声で呟いた小杉の頭を、一ノ瀬が撫でる。熱い、そこで初めて気づいた。小杉も発熱している。


「すみません、どなたか、医療関係の方いますか?!」


一ノ瀬が振り返って声を上げると、入居者の一人が「先生呼んできます!」と、廊下の奥へ走っていった。

泣きそうな顔で「りひと」のパソコンに近づいた望愛に、一ノ瀬は、先程小杉から告げられた内容をそのまま伝えた。少しほっとしたのか、望愛は「りひと」のパソコンのふちを、そっと撫でるにとどめてくれた。



こうして、「保護シェルターの闘い」は、幕を閉じたかに見えた。




一ノ瀬は、シェルター内の保健室で小杉を診てもらった。脳を使いすぎたための知恵熱のようなものだろう、という診断だった。命に別状はないようで、ほっとしていた。

しばらくベッドに横たわる小杉を見守っていた一ノ瀬だったが、寝息も安定していることから、静かに眠らせた方がいいだろうと判断し、部屋を後にした。

ロビーに戻ると、望愛の母親が、慌てた様子で何かを探し回っていた。周りの入居者たちも一緒に探しているようだった。


「どうかしましたか?」


一ノ瀬は望愛の母親に声をかけた。彼女は一ノ瀬の姿を見ると、泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝ってきた。

何があったのか聞くと、スマホがなくなった、と彼女は言った。背筋に悪寒が走る。彼女のスマホは、電源を落としたのみで、GPSを切ってはいなかった。

もし誰かが盗んで、電源を入れてしまっていたとしたら…。久能木警視総監が、家に妻子がいないことに、もう気づいていたら…。一ノ瀬は急いでスマホの行方を追い始めた。


それは、部屋の一角でかたまって、何かをしている数人の子供を見かけた時だった。一ノ瀬は直感に従って、彼らに声をかけた。彼らは大いにびくつき、飛び跳ねた。当たりだと思った。

少年たちが隠すものを取り上げると、やはり望愛の母親のスマホだった。どうやらゲームをしたくて、スマホを盗んだようだった。電源は入れられ、電波も繋がっている。アウトだった。

向こうにもう、居場所を特定されていると思って行動した方がいい。一ノ瀬は自分の失態にショックを隠せないまま、子供たちのいる部屋を出ながら、自らのスマホで芝浦に電話した。


「…もしもし?」

「芝浦さん、一ノ瀬です、すみません、私のミスです…!」

「一ノ瀬、落ち着け。何があった?」

「シェルターの子供たちが、ゲームしたさに久能木 望愛の母親のスマホの電源を入れてしまいました。もう久能木に居場所を特定されていると思った方がいいかと…」

「電源が入れられたのはいつだ?」

「すみません、私も小杉が倒れたことで動揺して、詳しい時間が…。久能木母娘もロビーにいたし、部屋にスマホを置いていたなら、ひょっとしたらもうだいぶ前から…」

「一ノ瀬、落ち着くんだ。居場所は特定されている方向で動くことにしよう。次に候補に挙がっていたシェルターの名前を憶えているか?そこに電話して、これからかくまってほしいと伝えるんだ。

今俺もそちらのシェルターに向かっている。万が一に備え、一旦そちらのシェルターに寄って、お前たちが無事に移れたのを確認したら、俺もお前たちの後を追う」

「はい…、申し訳ありません」

「謝罪は行動で示せ。久能木母娘を守り通すんだ。頼んだぞ、一ノ瀬…!」


一ノ瀬は電話を切ると、深呼吸をした。久能木母娘の部屋に向かいつつ、次の候補だったシェルターへ電話をかける。

緊急事態であること、夜遅くなるが受け入れてほしい旨を急いで伝えると、電話の向こうから優しい声で、大丈夫ですよ、お待ちしています、と返答をもらえた。

ほっとして電話を切り、一ノ瀬は久能木母娘の部屋に飛び込んだ。一ノ瀬に驚いた望愛の母親が、ひぃっ、と小さな悲鳴を上げて謝罪を始めた。


「すみません、すみません…!スマホは、あの、本当に申し訳ございませんでした!」

「それはもういいんです、それよりすみませんが、ここを離れます!久能木さん、望愛さんも、急いで準備してください」

「えっ…?」

「居場所が知られてしまった可能性があります。他のシェルターへ移動しますので、どうか早く!」


一ノ瀬は身振り手振りを大きくし、急いでいることを伝えたが、久能木母娘は固まったまま動かない。


「久能木さん!どうかお早く…久能木さん?」


久能木母娘は、一ノ瀬の呼びかけに無反応だった。固まったまま微動だにせず、眼差しはどんよりと曇り、うつろだった。

一瞬でそんな状態になってしまった2人に、動揺を隠せない一ノ瀬は、声を大きくして母娘を急かした。


「久能木さん!!こんなことしてる時間ないんです!!早くしないと久能木警視総監がここに来て、また…!」

「………そうよ。あの人から逃げられるなんて、あるわけないんだわ…」


望愛の母親が、口だけをもそもそ動かし、小さく絶望を呟いた。声は小さかったはずなのに、それは部屋に響き渡り、一ノ瀬の心を震わせた。

母親の隣で、望愛がゆっくりと床にうずくまり、そのまま頭を抱えて丸まった。望愛の母親は、うつろな眼差しのまま、床の一点を見て動かない。

一ノ瀬は焦っていた。どうしよう、私のミスだ、失態だ、何とかしなければ、何としても守らなければ、そのことだけで頭がいっぱいだった。

仕方ない、こうなったら力づくで…と、一ノ瀬は望愛の母親の腕を掴んだ。だが、その腕は鉄でも掴んだかのように硬く、体は岩のように重くなっていた。引っ張ってもびくともしない。

たった一瞬、たった一言での母娘の変化に、一ノ瀬の心はざわついた。この2人は、今までどれだけ長い間、絶望に浸って生きていたのだろう、それは人間をこんな状態にしてしまうものなのか。

一ノ瀬は改めて、「人間の尊厳を奪う行為」の罪深さを思い知った。だが、今はその思いに打ちひしがれている場合じゃない。どうしたらいいかわからなくて、思わず部屋の中を見回した。


その時ふと、入り口に少女が立っているのに気が付いた。少女といっても、小学校高学年から中学生くらいの女の子だろうか。じっと部屋の中の3人を見ていた。


「…あなたは…?」


一ノ瀬が声をかけると、少女は部屋に踏み入った。ゆっくりと久能木母娘に近づくと、彼女たちに触れられる距離で止まり、落ち着いたきれいな声で、2人に語り掛けた。


「…逃げられるわけない、また戻らなくちゃいけない、誰かに助けを求めたのが間違いだった、家族の秘密は守らなくちゃいけない、家族を壊してはいけない…そう、思うよね」


痛みへの思いやりに満ちた声が、かつて同じ絶望の中にいたものの声が、母娘の心にそっと触れる。


「…でもね、どんなに自分を壊しても、自分を殺しても、欲しかった理想の家族は、手に入らないんだよ…。私たちを責め立てるその人も、もう長い間壊れちゃってるから…。

いつか終わりにしてあげないと、私たちも、その人も、救われないんだよ…。自分を、その人を、救ってあげられるのは、自分しかいないんだよ…」


一ノ瀬の中の焦りの火が、澄んだ水のようなその声にかき消された。水は心に染み込み、落ち着きと安堵の涙を誘う。


「今は信じられなくても、しょうがない。でもね、暴力のない世界で、人のあたたかさに触れて、色のある世界に触れて、風に触れて、自分のあたたかさに触れて、そうして取り戻していくの。

それはゆっくりと、長い時間をかけて、私たちの中に返ってくる。生きていれば、生き延びれば、それは必ず戻ってくるの」


久能木母娘が顔を上げた。目には輝きが灯り、静かに語る少女を見つめる。


「今は逃げなくちゃいけない。決してあの人たちにまた、自分を殴らせてはいけない。

この世界に、私たちはいる。私たちは、いてもいいの。もっと世界を知って、人を知って、自由の楽しさと寂しさを、味わっていいの」


望愛の母親の目から、涙がこぼれた。目には生気が戻り、少女の言葉に心を動かされたのが、傍から見てもわかった。

望愛は丸まったままだったが、小刻みに震えている。きっと声を殺して泣いているのだろう。2人を閉じ込めようとした氷が、溶けたのが一ノ瀬にも伝わった。

少女は、望愛の母親の服の袖を、少しだけ引っ張った。それだけで促されたように、望愛の母親はゆっくり一ノ瀬のところまで歩き始めた。

次いで、丸まっていた望愛の背に、少女は手を当てる。望愛は顔を上げると、自分の左手を、じっと眺めた。掠れた声で、小さく呟く。


「………私、……結婚…した…んだ、…だから…」


呟きが終わると同時に、望愛は力強く立ち上がった。少女と視線を合わせ、頷くと、しっかりした足取りで、一ノ瀬の元まで歩いてきた。

一ノ瀬は、少女に向かって深く頭を下げた。もし時間が許すなら、もっと話を聞いてみたい、そんな思いを抱いたことを、一礼に込めた。

頭を上げると、久能木母娘と視線を合わせ、頷き合う。時間はきっと残されてはいない。早急に移動しなければ。

久能木母娘に持ち物と、いまだ有線で繋げたままの2台のパソコンを持ち出せるよう、準備することをお願いして、一ノ瀬は部屋を飛び出した。

走って保健室へ向かう。寝ている小杉を起こさなければならない。移動できるほど状態が良くなっているといいけど、ダメなら担いで移動させるしかない。

そんなことを考えつつ、スマホを手に取る。移動用の車の手配をしなければならない。一ノ瀬はタクシー会社に電話をかけようとした。

だが、タクシー会社の検索ができない。スマホの画面を見ると「圏外」表示になっている。教えてもらった施設のWi-Fiも試したが繋がらない。

心がざわついた。その時、どこかから何か、重いものが滑り落ちるような音がした。


「美麗ちゃん逃げろっ……!!!」


切羽詰まった小杉の叫び声。一ノ瀬は全てを察した。踵を返し、久能木母娘の部屋へ向かう。

どうか、どうか…一ノ瀬は、これまで罵倒しかしたことのない神にまで祈った。どうか、みんなが無事で、一緒に笑いあえて、あたたかさと、色のある世界と、風に……。


久能木母娘の部屋へ飛び込んだ。そこで見たのは、祈りなどでは動かしようのない、現実だった。









黒づくめの機動隊に取り押さえられたシェルター内のものたちは、全員ロビーに集められた。

小杉は、具合の悪い中、顔を真っ赤にして抵抗していたが、彼の力で敵う相手ではない。無駄な抵抗だった。

集められたものたちの中、久能木母娘は別格で確保…というより、保護されている。この件の全容は、部隊の誰にも知らされていないのか、単に圧力がかかっているのか。彼女たちは逃げたのではなく、さらわれたことになっているのかもしれない。


オールクリア、電波妨害されていない無線機で、誰かがそう告げているのが聞こえた。しばらくして、今度はスーツ組の刑事と思しきものたちが、建物内に入ってきた。

その中の一人が、声を上げて久能木母娘に走り寄り、二人を抱きしめた。あれがおそらく、久能木警視総監。

警視総監は笑顔で二人に話しかけていたが、遠目にでもわかるほど、母娘は無表情だった。母親の方は、一時見せていた、あのどんより曇った目をしている。

あの二人はまた、もとの地獄へ帰ることになってしまうのだろうか。一ノ瀬は自分のふがいなさを責めた。何もできなかった自分が恥ずかしかった。


「おう久能木ィ!!てめぇ、自分の暴行棚に上げて、何イイ奴ぶってんだコラァァァッ!!!!!」


唇を噛みしめて下を向いてしまった一ノ瀬の背中を、気合入れろとブッたたくような声で、小杉が怒鳴った。だがもともと体調が悪かったせいもあってか、怒鳴った後咳き込んでしまった。機動隊員も彼を囲み取り押さえた。

それを厳しい目つきで一瞥すると、久能木警視総監はさらに母娘を深く抱きしめ、二人に何かを囁いていた。その声に従順に、二人は促されるまま、警視総監と共に歩き出す。

だが、望愛が数歩だけで止まった。左手の薬指を、きつく右手で握り締め、望愛は父親に向かって口を開いた。


「………わ、わた、私は……わたし、は、あな、たの…お、おもちゃじゃ…ない……」


声は小さかった。だが捕らえられたシェルター内の誰もが、その声に聞き入った。視線で励ますように、望愛を見つめる。

一ノ瀬だけが息をのんでいた。ここでの抵抗は得策ではない。焦りが募る。だがその焦りも届かず、望愛は大きく息を吸い込んだ。


「…私はあなたのおもちゃじゃないっ!家には戻らない、二度とあなたに、私を殴らせない、蹴らせない、私はもう、あなたのものじゃない!!」


望愛の握り締めた、左手の薬指。その指にはきっと、指輪があるのだ。どんなときもそばにいる、そう誓ってくれた「彼」との絆が、その指にある限り、彼女は孤独ではないのだ。

だが、その「彼」は現実の肉体を持たない。望愛を守ってくれる盾にはならないのだ。一ノ瀬は望愛に向けて走り出そうとしたが、取り囲んでいる機動隊に止められた。


直後、ゴリッという鈍くて大きな音が、シェルター内に響き渡った。捕らえられたものたちから悲鳴が上がる。皆、目を瞑り、そむけ、その耐えがたい光景を避けた。

一撃で望愛は崩れ落ちる。近くにいた母親は、恐怖で動けない。倒れた望愛に、一発、二発と、男物の硬い革靴での、容赦ない蹴りが入る。望愛はすでに反応することすらできていない。

目の前の光景に、動揺するそぶりを見せる機動隊員、スーツ組の刑事たちも数名いることにはいたが、全員動こうとはしなかった。皆何も見ていないかのように、あらぬ方に視線を向ける。

暴力を働いている男が、権力者だから。目の前の犯罪を取り締まろうとはしない。保身のために。


一ノ瀬の中で何かが切れた。

機動隊の制止を力づくで振り切り、望愛のもとに駆け寄る。そのまま望愛をかばうように身を挺し、警視総監の蹴りを、まともに体に食らった。

自分の意に沿わない行動をした一ノ瀬が、心底気に入らなかったのだろう。警視総監は、訳の分からない怒声をあげると、そのまま一ノ瀬ごと、望愛を思いっきり蹴り上げ始めた。

小杉の悲痛な叫び声が聞こえる。機動隊員にやめさせるよう懇願する、シェルターの人の声も聞こえる。一ノ瀬は目を瞑り、痛みに耐えながら、様々な音に聞き入っていた。

痛い。成人男性の暴力というのは、こんなにも痛いものなのか。望愛は特別に鍛えたこともない体で、これを何年も、何年も繰り返され続けてきたのだろうか。

自然と涙が滲んだ。痛みを感じるたびに、体が、自分が、尊厳が、ボロボロにされていく。守らなければ。こんな思いを、もうこの女性に、女の子に、させてはならない。

一ノ瀬はぴたりと望愛に寄り添い、何をされてもかばう姿勢を崩さなかった。

どのくらい蹴られ続けたか、時間の感覚もなくなる中、ふと暴力が止み、ハァハァと荒い息遣いが聞こえる。気が済んだのだろうか。一ノ瀬がぼんやりする意識の中で気配を探ると、かすかな金属音の響きが聞こえた。


嫌な予感がした。顔を上げ、なんとか後ろを振り向くと、男の引きつった歪んだ笑みと、構えられた黒く光る殺意が目に入った。

小杉の叫び声、シェルターの人たちの悲鳴、機動隊、刑事たちの焦りと動く気配、全てが、ひどくゆっくりに感じられた。一ノ瀬は、望愛の前から退こうとはしなかった。自分たちに向けられた銃口を、ただ見つめた。




パン。


威力にしては、ひどく軽い音が、シェルター内に響く。銃口は、下を向いていた。

やたらと黄色いおもちゃの竹刀が、久能木警視総監の銃を構えた腕を、打ち下ろしていた。竹刀の持ち主は、多数の機動隊員に集られてもみくちゃのボロボロになった、芝浦だった。

竹刀が眼前に飛んでくる。一ノ瀬は思わず、身をひねって竹刀を掴んだ。やるべきことを体が瞬時に理解する。

痛む体に鞭打って、一ノ瀬は立ち上がると、短すぎる竹刀を久能木に向けて構えた。相手に武器を持たれたことに気付いた久能木は、慌てて銃を構え直す。

だがその構えが整う少し前に、一ノ瀬のすり足が間を詰めた。上段に構えられた黄色が、目にも止まらぬ動きで、相手の頭に打ち下ろされる。




パァァン!


威力どおりの重くも軽い音が、シェルター内に響く。久能木の頭を、見事な面で打ち抜いた一ノ瀬が振り返る。久能木がゆっくりと、崩れ落ちて床に膝をつくのが見えた。

静寂の間のあと、ワッとシェルター中から歓声が沸き上がった。うずくまる久能木に近づいた一ノ瀬が、床に落ちた銃を、玄関方面に向けて蹴る。ちょうど取り押さえられて床に押さえつけられていた芝浦が、それを受け取り、近くの機動隊員に渡した。さすがに機動隊員も、銃を警視総監に返すことはなく、スーツ組の刑事の一人に渡していた。

痛む頭を押さえ、立ち上がることもできずにいる久能木警視総監に、手を貸そうとするものはいなかった。苛立ちと焦りで上ずった声をあげた警視総監の「命令」で、ようやく周りの機動隊員、刑事たちが、一ノ瀬を捕まえようと動き始めた。小杉がギャンギャン吠え声を上げる中、サイバー2課の面々は全員が、捕らえられようとしていた。



「その必要はない。全員解放しろ」


玄関口を埋め尽くす機動隊員の向こう側から、突然、男性の凛とした声が響いた。次いでその人物が告げる。


「公安だ」


途端、黒い人の山が、ざあっと左右に割れた。真ん中に立つその男は、ロングコートの裾を風になびかせ、スマホで誰かと通話している。電波妨害は、おそらく外で彼が解除させたのだろう。

男は通話したまま、ロビーの真ん中、騒ぎの中心の警視総監のもとまで歩いてきた。

まだ頭を押さえている久能木警視総監が、顔をしかめながら男にたてついた。


「…こんなところに何の用だ?ここに公安がするような仕事はない、帰れ!!」

「私も早く帰りたいので、手短に伝えますね。久能木警視総監、あなたを金融商品取引法違反、その幇助の罪で逮捕します。

ついでに今の発砲も重罪ですよ。警察官職務執行法第7条、ちゃんと覚えてますか?」

「い、今の発砲以外には、私を逮捕できる証拠はあるのか?!」

「あります。今電話で確認していますが、取引データの精査、照合が終わりました。あなたを拘束するに足るという結論で、会議もまとまったそうです」

「…なぜ、なぜ公安がこんなにも早く動いているんだ?!おかしいだろ?!この程度、国家体制を脅かすような罪でもないのに?!」

「あなた方が儲けた金、それがどこに流れているかによっては、国家体制を脅かす罪になる可能性もあります。

それにあなたは立場が立場でありながら、余罪もたくさんある。我々は前からあなたをマークしていたのですよ」


男は不意に視線を逸らした。視線の先には、意識を失っている望愛の姿があった。機動隊から解放され、駆け寄ったシェルター職員によって介抱されている。

途中から一ノ瀬が守ったとはいえ、もともとのケガも残った体だ、相当なダメージを受けたことだろう。病院に運ばねばならない。

男は視線を久能木警視総監に戻すと、感情のない顔でさらに告げた。


「…傷害罪については、まあ我々の立ち入る問題ではありませんが、今の地位からあなたを退かせるには、十分な罪になるのではないでしょうかね」


興味もなさそうにそう告げると、男はスーツ組の刑事に指示を出し始めた。久能木はその言葉に絶望すると、うなだれたまま動かなくなった。




現場は公安から来た男が取り仕切る体制に代わった。外からサイレンの音も聞こえてくる。救急車が来たのだろう、一ノ瀬はぼんやりとそんなことを考えていた。

霞みがかったような視界の中で、望愛が担架に乗せられて運ばれていくのが、見えた気がした。望愛の母親も頭を下げながら、何か言っていたような気がしたが、全く聞き取れなかった。

そして、横で小杉が泣きながらずっと縋りついている気がするが、なぜかその声も遠くから聞こえてくるように思える。感覚が自分のものではない感じ。蹴られすぎただろうか。

そこに、もみくちゃにされたスーツと髪の毛を直しながら、解放された芝浦が近づいてきた。小杉は鼻水を垂らしながら、芝浦に泣きついた。


「おっさん!!美麗ちゃんが…美麗ちゃんが…!蹴られすぎておかしくなっちゃった!!なんか全然無反応で、俺ちっともかばえなくて、役立たずで…」

「大丈夫だよ、小杉。お前は十分よくやってくれた。一ノ瀬も多分、一時的なものだ。極度の緊張から解放されて、安心したからこそ、手放し切ってしまったんだろう。すぐ元に戻るさ」


芝浦はそう言うと、懐からぐっしゃぐしゃになったポケットティッシュを取り出した。適当にしわを伸ばしたそれを、小杉に手渡す。おとなしくそれを受け取った小杉は、鼻をかんで動揺を落ち着かせた。

小杉が再度話しかけようとすると、芝浦は急に声を上げた。


「あっ!忘れてた、タクシーの運ちゃん!!ノリノリで突っ込んでくれたけど、車と体大丈夫だったかな?!

罪に問われないように、後でこっちの管轄の人たちに口添えしないと…。悪いことしたなぁ…ほんと」

「何、おっさん、一般人に何か手伝わせたの?」

「いや、手伝わせたっていうか…建物の中に用があるから、表の警備を振り切ってくれ、って言ったら…すげえ勢いで突破するわ、ドリフトかますわ…おかげで、この建物に入った時に食いつかれる機動隊の人数を大幅に減らせたのはよかったんだけどなー…」

「…警察手帳見ると、ノリノリになる一般人って、たまにいるよな…」

「燃えちゃうんだろうなぁ…ドラマみたい~とかなって…」


芝浦がため息をついた後、ハハハ、と乾いた笑いを漏らす。車の中で相当怖い思いをしたのかもしれない。


「それより小杉、ハッキングの件、よくがんばってくれた。あれがなかったら……ん?」


スーツの袖が引っ張られ、芝浦が振り向く。おそらくシェルターにいた子だろう、小学生くらいの男の子が、困ったような怒ったような複雑な顔で、芝浦を見上げていた。

芝浦はしゃがんで、男の子に問いかけた。


「どうした、僕?危ないから、ここの職員さんたちと一緒に、離れて待っててくれないかな?」

「…あれ、ぼくの竹刀…」


少年が指さす先、一ノ瀬がまだ呆然としながら、右手にしっかりおもちゃの竹刀を握り締めて立っていた。なるほど、返してほしいようだ。

芝浦は立ち上がると、少年を促して、一緒に一ノ瀬の前に立った。ぼうっとする一ノ瀬の肩を、少し強めに叩いてみる。


「一ノ瀬、本当によくやってくれた。その竹刀、もう握ってなくていいんだぞ、この子に返してやってくれ」

「……しばう、ら、さん…」

「ああ、もういいんだ。もう大丈夫だから。さあ、竹刀を返して…」

「……しない……」


一ノ瀬は、まだ呆けた状態ながら、少年の前にかがむと、持っていた竹刀を返却した。少年はそれを受け取ると、唇をかんでうつむいた。芝浦が怪訝に思って、少年に問いかけようとした時、少年は顔を上げ、一ノ瀬の顔を見てはっきり告げた。


「…おねえさん、おばちゃんのスマホ、ゲームしたくて盗んじゃって、ごめんなさい…」


その言葉を聞いて、一ノ瀬の思考から霧が晴れる。周りの物音も耳に戻り、自分の置かれた状況が理解できた。

一ノ瀬は、目に意思を取り戻すと、うつむきがちな少年を見つめながら、なるべく優しく声を発する。


「…そうか、君はあの時の…」

「おねえさん、真っ青になって行っちゃったから…、悪いことしちゃったの、わかったから、僕たち先生…職員の人に正直に話したんだ。

そしたら竹刀持ってロビーに来いって言われて…、ここで正座して、お説教受けてた…。竹刀は、先生が持つの。叩かれるわけじゃないよ?」

「大丈夫、「叱ってる」っていう、わかりやすいポーズなんだよね」

「うん…ここの人たちは、みんな誰も、暴力はしないよ」


少年は一生懸命、一ノ瀬にこのシェルターの良さを訴えようとしていた。この子は今きっとここで、幸せなのだろう。

この子たちがゲームをしていなかったら、この場所の割り出しにはもう少し時間がかかったかもしれない。でもこの子たちがゲームをしていなかったら、ロビーに都合よく竹刀が転がってなかったことになる。奇妙な縁に、一ノ瀬は思わず微笑んだ。子供たちに怒る気持ちは、最初からなかった。一ノ瀬は手を伸ばし、少年の頭をぎこちなく撫でた。


「次からは、ゲームがやりたかったら、盗むんじゃなくて「貸してください」と言いなさい。どんな小さな盗みでも、犯罪は犯罪だからね」

「うん…ごめんなさい」

「はい、許します」


一ノ瀬が笑むと、少年も恥ずかしそうに微笑んだ。大事そうに竹刀を抱えると、「僕も強くなるんだ」と言い残して、シェルターの人々の輪の中に、走って戻っていった。

しゃがんでいた一ノ瀬が立ち上がると、目を潤ませた小杉と、ぐしゃぐしゃで貧乏くさいおっさんになった芝浦が、彼女を見て嬉しそうに微笑んだ。


「まさかこれで大団円エンドだなんて、思ってませんよね?」


少々苛立ちを含んだ物言いで、ロングコートの男が言い放った。少年と2課のやり取りを、どうやら見守ってくれていたらしい。忙しい男を待たせたようだ。

男は近づいてくると、芝浦を睨みながら話し始めた。


「…お疲れ様です。けがはしてませんよね。してたら面倒なんでやめてくださいよ」

「よう、お疲れ。動いてくれてありがとうな、こんなに早く来てくれるなんて思ってなかったよ」

「私が早く来ていなければ、あなたたちは破滅でしたよ。まったく、なんて綱渡りをしてくれるんですか」


男は眉間にしわを寄せながら、中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。なかなか様になっていて、かっこいい仕草だった。


「あなた方は、これからのご自分の心配をなさるべきですよ。

県をまたいでの、全く管轄の異なる場所での職務活動、暴行動画を故意に流したことでの名誉棄損、あとホワイトハッカーに禁じられている、任務ではない個人的なハッキングなどの容疑がかけられています。

今回、あなた方のおかげで助かった命はあるのかもしれませんが、自分たちの犯した罪の処罰は、きっちり受けてくださいね」

「どうか、お手柔らかに…」

「手心なんて一切加えないように、と伝達しておきます」


公安の男は、芝浦を一睨みすると、コートの裾をひるがえしながら、踵を返した。その背に、芝浦がもう一声だけかけた。


「本当にありがとうな。こんなに早く来てくれたことも、こんなに早く逮捕状を取ってくれたことも、感謝する」


その声に、男の足がぴたりと止まる。男は背を向けたまま、話し始めた。


「…こんなに早く逮捕状なんて、持ってこれると本気で思ってますか?」

「え?…え、じゃあ、何がどうなって…」

「その足りない頭では、永遠に答えが出ないでしょうね。特別に教えてあげますよ。

…私の独断行動です。証拠の鑑定は他に任せて、私は行動を起こしました。逮捕状は、踏み込む直前に画像添付で来ましたよ。だから正式には、警視総監は今は仮逮捕です。

この私にこんな異例なことをさせるなんて、まったく…。これで貸し借りはなしですからね」

「え?俺、お前に貸しなんて作ったことあったっけ?」


男の話がぴたりと止まる。背を向けたまま、沈黙が流れる。どうやら言うつもりのなかったことを言ったらしい。


「…とにかく、処罰は重いですよ。始末書で済めばいいですがね。覚悟してください。では」


歩き出した男の背中に、再度芝浦が声をかける。


「昔の先輩後輩とはいえ、なんでここまで…」


その声に、男の足は再度止まる。だがすぐに答えは返ってこなかった。やがてぼそりと、呟くような独り言を吐いて、男は今度こそ芝浦たちの前から姿を消した。


「………知りませんよ、人徳でしょ…」




「……なーにぃ、あのツンデレ」

「…芝浦さんは昔から、あの人柄で周りから慕われてた、ってことなんだろうな…」


男の最後のボヤきを聞き逃さなかった小杉と一ノ瀬が呟くと、芝浦が盛大に咳き込んだ。むせたらしい。


「何照れてんだよ、おっさん。気持ちわりぃーなー」

「そう言うな。人に褒められるのは慣れてないんだろうから」


そう言った小杉も一ノ瀬も、笑っていた。これから盛大なお咎めが待っているというのに、二人に暗さは微塵もなかった。

口元を拭いながら、芝浦もつられて笑ってみた。処罰は重いだろうが、守りたいものは守りきれた。その胸には達成感がこみ上げて。


「あ」


そして思い出す。


「りひと…そういえばどうなったんだ?」

「あ」

「あ」


一瞬の間の後、3人は慌てて周りを見回す。「りひと」のパソコンはおそらく、久能木母娘がいた部屋に置いたままだ。

あれは私物として回収しておかないと、鑑識に回ったりしていろいろ面倒かもしれない。3人で顔を見合わせ、頷いた小杉がダッシュで取りに行った。

まあいろいろ証拠提出など要求されるかもしれないが、その時はその時だ。今は「りひと」の無事も確かめたい。



これは、サイバー2課の「4人」で、乗り切った事件なのだから。









・2課のみんな・キャラクター絵

https://kakuyomu.jp/users/wanajona/news/16818023214216427496

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