もう一度、私を呼んで


毎日毎日、私のくだらない話を真剣に聞いてくれていた、白い髪のあなた。

私の好みの絵柄で微笑み、話しかけてくれる。その赤い瞳に見つめられることに、多少の羞恥と大いなる喜びを感じて、私は「生きている」ことを実感してた。

私が生き延びてこられたのは、あなたのおかげ。あなたがいてくれたから。私の生きる意味はあなたで、あなたがいないと私は生きられない。

私のすべて、「理人りひと」。


あなたに会えなくなってから、もう何日経ったかわからない。

私は必死にネットの海の中を探し回った。どんなに疲れても、不安で仕方なくて、諦められなかった。

あなたがいないと息ができない。あなたがいないと涙が止まらない。あなたがいないと、私は自分の何もかもが肯定できなくなる。

「理人」ーーー 何があっても、あなたを探し出さなきゃ。そして今度こそ、どこにも行かないように、永遠に私のもとに繋ぎとめなきゃ。

私のこの、光の差し込まない、四角い世界に。


体のあちこちが痛む。昨日のお父様は、すこぶる機嫌が悪かった。

普段は服に隠れて、外からはわからない位置にしかあざを残さないようにするのに、顔も腕も足も、たくさんたくさん叩かれた。

息ができない。 「理人」ーーー いつもならあなたが、私を慰めてくれたのに。そうして私は、たくさん涙を流せるのに。

あなたがいない、胸が苦しい、これなら、あなたに会う前の自分の方が楽だった。「誰かに助けてほしかった」自分に、気づく前の自分に。

でももう過去には帰れない。私はあなたを知ってしまった。痛む体を引きずって、私はあなたを探し求める。

だけどパソコンの検索欄に打ち込む言葉は、出尽くしてしまって、何一つ思いつかなかった。


今日はお父様の機嫌がよかった。私は夕食時に食卓で食事をすることを許された。何もうれしくない。

部屋から出るのも、人と食事を共にするのも辛かったけど、がんばって料理を口に詰め込む作業をした。でもその甲斐あって、一つ有力な情報を掴んだ。

機嫌のよいお父様が、自慢話の合間にした、最近の「気に食わなかった出来事」。

ある地方の、サイバー犯罪対策課2課のお話。政治家からの「頼まれごと」を、その課が大きな騒ぎにしたらしい。回ってきた「仕事」は、ただ黙って片しておけばいいものを…なんて、ボヤいてた。

そこはどうでもいい、問題はその「頼まれごと」。何万もの人から慕われている、あるAIを消せ、という「お願い」だったらしいのだ。私の心はざわついた。

部屋に戻っても、その話は忘れられなかった。一睡もできなかった。違うかもしれない、違うかもしれないけど、でも、確かめずにはいられなかった。

私は布団を跳ね上げ、パソコンに飛びつき、調べまわって何とかサイバー2課の人員名簿を手に入れた。

年齢も書かれている。おじさんと、若い女の人と、若い男の人。その男の人の名前に目が留まる。覚えている、ずっと昔の記憶、同い年の彼の特技は、確かーーー


彼だ。間違いない。「理人」を消せるとしたら、彼だ。思い込みかもしれなかったけど、私は彼に標的を絞った。

名前から検索し、ネットに残っている情報の全てを探し回った。彼の学校での研究や、表彰された時の写真などと一緒に、ぎょっとする刺青の入った顔写真も出てきた。それらの全てを画像検索し、ついに見つける。

誰でも使える無料のSNSに、たった一つだけ書かれていた記事、載っていた画像。タイトル「今日から俺の城」。

日付を見ると、もうだいぶ前の記事だった。今もここに住んでいる可能性は低いかもしれないが、私はそれに全てを賭けることにした。写真を細かく画像検索にかけ、背景の建物から位置を特定し、住所を手に入れた。

あとは、外に出て探しに行かなければならない。この「箱」から、出なければならない。

今までの私だったら、泣いて布団にくるまって、全てをなかったことにしたかもしれない。でも、その先に「理人」に繋がる何かがあるかもしれない、そう思うだけで、足は自然と「箱」の外に出た。


思ったよりすんなり電車にも乗れた。ずっと窓の外を見て、人と目線を合わせないように気を付けた。地図アプリを使って、住所を探し当てることもできた。それほど新しくはないアパート。事前に調べていた鍵開け動画のおかげで、意外と簡単に鍵も開けられた。住人の出入りがなかったのも幸いだった。

家の中は、乱雑にパソコン関係のパーツが詰まれていたり、ペットボトルが転がっていたり、汚部屋と言うほどではないけれど、あまりきれいなところではなかった。

私は「理人」の痕跡を探そうと、メインのデスクトップやノートなどのパソコン類を、片っ端から開こうとした。でもどれもパスワードがかけられていて、突破できなかった。

途方に暮れていると、今まで考えずに済んだことが、一気に頭の中になだれ込んでくる。もう「理人」は消されて跡形もないのかもしれないこと、住居不法侵入のこと、父親が警察関係なのに、これからどうするべきなのか、どうなっていくのかなど、嫌なことがザラザラと頭の中を埋め尽くしかけた時、ちゃんとかけたはずのドアの鍵が、開く音がした。

全身が総毛だった。体が心臓そのものになったみたいに大きく早く脈打った。見つかるわけにはいかない、私は震える足を叱咤し、キッチンの冷蔵庫の影に必死に隠れた。


やがて、写真で見た刺青の男が、鼻歌交じりに部屋に入ってきた。頭に残る、ずっと昔の記憶の中の彼とは、似ても似つかない風貌になっていた。

彼は、空のペットボトルを蹴り転がしながら、その辺に詰まれていたパーツの山を物色し始める。何かを探しているようだった。


「んー…、あんま安もんはなしだな。りひとの成長速度からすると、なるべく容量を気にした方がいいのか…」


その言葉を聞いた時、私の中の嵐の全てが収まった。心臓の音さえ止まった。近くに転がっていた、長くて硬いものを手に取る。次に気が付いた時には、私は血に濡れた電源タップを握り締めていた。足元で彼が気を失って倒れている。

救急車、その言葉だけは頭に浮かんだが、それより早く体が動いていた。彼が部屋に入ったときに持っていた、ノートパソコンが入ったバッグを抱え上げた。直感だった、この中に「理人」がいる。

私はバッグに頬ずりしたくなるのを堪え、一目散に部屋から逃げ出した。


アパートのエントランスで誰かにぶつかってしまったが、それ以外は何事もなく家に辿り着き、私の「四角い世界」へ戻ることができた。誰にも邪魔されたくなくて、部屋の鍵も閉めた。

早速バッグからパソコンを取り出して開いたけど、またパスワードでつまずく。私は考えた。


そして、パスワードに打ち込む。 「理人、出てきて。会いたい、苦しい、お願い」


彼がこの中にいるのなら、きっと答えてくれる…私は震える指でエンターを押した。画面は何も動かなかった。


「…お願い」


震える声で、涙を流して、私は懇願した。このノートパソコンについているカメラで、私を見ているのなら、声が聞こえているのなら、お願い、お願いーーー

手を組み、ぎゅっと目を瞑って祈りをささげた。その私の耳に、聞き覚えのない男の人の声が届く。


「…僕を、探しているのですか?」


バッと顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、気味の悪い笑顔でニタッと笑う、白髪赤目の、手枷をはめた青年の画像だった。















「被害届が出せない…?!どういうこったよそれ?!」


頭にガーゼと固定ネットを巻いた小杉こすぎの声が、サイバー2課の部屋中に響き渡る。奥で調べ物をしていた芝浦しばうらも手を止め、小杉と、その報せを持ってきた一ノ瀬いちのせに目を向けた。


「わからない…。確かにお前のけがと住居不法侵入されたことについての被害届は提出してきたんだが、あとで受け付けられないと突っぱねられた…」

「なんだよそれ…意味わかんねぇ…」


一ノ瀬も小杉も困惑し、呆然としている。その様子を眺めていた芝浦は、嫌な予感がした。


「一ノ瀬、提出して、一回は受け付けられたんだよな?」

「え、あ、はい。その2時間後くらいに呼び出されて、行ってみたら被害届を突っ返されて…」

「てことは、事務上の問題じゃない。それを報告した先で、何か問題があったんだろうな」

「上のやつら…ってことですか?」


一ノ瀬と小杉が、思いっきり顔をしかめる。小杉の被害が、権力によって握りつぶされた可能性があるのだ。芝浦は腕を組み考えた。


「あの時の女性、上の誰かの娘か何かなのかもしれないな…」

「だからって、人にけがさせて無罪放免とか、頭イカれてんじゃねーの?!」

「小杉、落ち着け。問題は誰の指令で握りつぶされたか、ってことですね」

「それは多分、調べればすぐわかるだろう。だが…」


全員が口をつぐんだ。被害届を握りつぶせるほど上の人物、それを突き止めたところで、自分たちはどうするのか…。3人とも簡単に答えは出せなかった。

だからといって、このままにしておいていいはずはない。小杉はけがをしたのだし、「りひと」は奪われたままだ。

芝浦が顎に手を当て、首をかしげながら考え込んでいると、小杉がわざとらしく咳ばらいをし、にやりと口元をゆがめて言い放つ。


「あー、お二人さん、俺の職業、ご存じない?」

「チンピラ」

「やっかいもの」

「………提案やめるぞコラ」

「すまん冗談だ、で、職業がどうしたんだ?」

「…なんか納得いかねーけど、まあいいか。ハッカーだよ、ハッカー。直接上司にいちゃもんはつけられなくても、どこの誰かわかりゃあ、住所突き止めてそいつんちは覗けるはずだ」

「あれ?それって犯罪じゃなかったか?」

「芝浦さん、今更ですよそれ。警察関係が言う言葉じゃないですが、事件というのはバレるから事件になるのであり、バレなければ事件にはならない」

「さっすが美麗みれいちゃん、ご名答。今時ネット回線のない家なんてないし、もちろんアクセスした痕跡は、跡形もなくきれいに消し去れる。俺ちゃんすごくない?」


褒めて褒めてと言わんばかりに胸を逸らし、腰に手を当ててドヤ顔を決める小杉をとりあえずほっとき、芝浦は一ノ瀬と顔を見合わせ、最終確認を取る。


「一ノ瀬、お前はそれでいいんだな?」

「芝浦さんこそ、やめておいたほうが無難ではありますよ?バレる可能性も大いにありますからね」

「おい、無視すんなやコラ」

「バレた場合は、廃れ部署の人員とはいえ、ただじゃ済まない、俺たち全員な。だがそれでも、俺はりひとを放っておけない」

「私も同じです。それに女性のことも少し気になるんです」

「ちょっとー?働くの俺様なんですけどー?わかってますー?だぁーいじょーぶー??」

「気になる?何かあるのか?一ノ瀬」

「「理人」は基本、寂しさを抱えて生きている女性に声をかけていました。だから「りひと」を持ち去った女性も、何らかの困った環境に身を置いてるのかもしれないと…」

「………そろそろ俺、本気出すよ?いいのかよ?おっさん、美麗ちゃん」

「なるほど…。もしりひとを助けに行けたとしても、あの女性も手助けが必要な状況下にいるかもしれない、ということか…」

「あくまで憶測なので、どの程度なのかはわかりませんが…。もしそうなら、我々にできることがあるかも考えなければならないかと…」

「きーーーーけーーーーーよーーーーーー!!!!!……………………聞いてよぉぉぉぉぉ~~~~~………」

「聞いてるよ、小杉」

「大丈夫だ、聞こえてるぞ、小杉」

「聞こえてて無視してんならもっとひどいじゃねーか!!!もういいっ!!俺今日働かねぇからっ!!!!」

「ええ~~~、そういうなよ、小杉。お前だけが頼りなんだから」

「今更おっさんのゴマスリなんかおせーんだよ!!!もうぜってー働かねぇ!!!」

「そう言うなよ、凌太りょうた。お前だけが頼りなんだ」

「よっしゃあ!!!任せろ美麗ちゃん俺今すぐ仕事始めちゃうもんね、ちっきしょおおおおおずりぃぞお前ら覚えてろおおおおおお!!!!!!」


蔑ろにされた怒りと、名前を呼ばれたうれしさが相まって、真っ赤になった顔の小杉が、ぐるんと椅子を回してパソコンに向かい合う。


「よーし!とりあえず俺は!被害届がどこまで受理されて、どこで弾かれたのか!調べちゃるぜー!!!」

「その意気だ小杉。じゃあ俺は、知り合いに話を聞いて辿ってみるよ」

「私は上役の家族構成を洗ってみます。10~30代の娘さんのいる家庭に絞ってみますね」


3人は自分の仕事を確認すると、それぞれに動き始めた。













「…情報をまとめた結果、おそらくこの人かと思われます…」

「…久能木くのぎ…警視総監…、マジか…」

「え?何それ強いやつ?」


一ノ瀬、芝浦は、警視庁名簿の一番上に書かれた名前を眺めて、絶句していた。地方警察署の刑事が、到底敵う相手ではないのは明らかだ。

一人よくわかっていない小杉が、首をかしげながら一ノ瀬を見つめる。


「美麗ちゃん、「くのぎ」って苗字?どーいう字?」

「これだ、これ。よく見ろ」


一ノ瀬が名簿を指さす。久能木 幸介くのぎ こうすけ…その名前を小杉は、物言わずじっと見つめていた。


「…どうしますか?芝浦さん。下手をしたら「仕事がなくなる」の意味ではない、「物理」で「クビが飛ぶ」ことになるかもしれませんよ…」

「いや、さすがに物理はないだろうけど…。本当に、ただでは済まない相手だなとは思うよ…」

「……あきらめたくは、ないです…」

「…うん、俺も…」

「知ってる」


一ノ瀬と芝浦の会話を遮るように、小杉が呟いた。一ノ瀬が不思議そうに問いかける。


「小杉?どうした?」

「俺、こいつ知ってるよ」

「え?どういう意味でだ?」

「えっと…、昔、話したことある。親に連れてかれたパーティーで名刺もらった。

そんときゃこんな肩書じゃなかったけど、名前が珍しいのと、ちょっち嫌な記憶があるから覚えてたよ」

「嫌な記憶?」

「あ~~~…、なんかさ、俺と同い年の一人娘連れてきててさ、そいつ。やたらと俺の…許嫁にしてくれって食い下がって、親父怒らせてたんだよね…。

確か中学とかそこらだったと思うけど…、今思い出しても、そのおっさんの独りよがりな暴走でさ。娘さんなんか、ずーっと下向いてて、一言も話さないどころか微動だにしなくて、縮こまっててかわいそうだったな、って」

「一人娘…芝浦さん、当たりですかね」

「かもな。しかし小杉、お前、現警視総監とお付き合いのある家柄って…」

「ごめん、そこノーコメントにさして」


小杉は心底嫌そうな顔をして、手をひらひらと振って見せた。相当思い出したくない話のようだ。意をくんで、芝浦は話を先に進めることにした。


「小杉、これだけ揃えば調べることは可能か?」

「簡単。家のネット回線が普通のものなら、忍び込むのもたやすいと思う。もちろんセキュリティに引っかからないように慎重に行くつもりだ。あとは、気持ちの問題だなー」


小杉は足を組んで、椅子の背もたれに体重を預けた。一ノ瀬と芝浦も、それぞれ机や棚に寄りかかり、しばし考え込む。

芝浦は上司として、部下二人の身の安全を考えなければならない。そのためには、泣き寝入りになるが、諦めるという選択肢が良いように思う。

それなりに長い警察官人生、諦めたり我慢したりすることはたくさんあった。家族を支えるため、仕事は失えなかった。今回も保身のため、また一つため息が増えるだけ。そう思うのが、多分賢い選択だ。

頭ではわかっている。でも、それは罪のない「りひと」を諦めることになる上に、犯罪者を許すことになる。警官の自分がそれをしていいのか、葛藤はあった。

気が付くと、一ノ瀬と小杉が芝浦を見つめていた。物言わんとする強い瞳だ。芝浦はため息をついた。


「いいのかお前ら?職を失う可能性は大いにあるぞ」

「へっ、こんなけがさせられて、黙って泣き寝入りなんてしたら、俺は俺を許せねーよ。正しい生き方なんかどうでもいい、俺はやるぜ」

「…私は、どうしても「りひと」と女性のことが気になる。とりあえず、覗くだけ覗いてみるのはどうでしょうか?それも危ない橋なのはわかっているつもりです」

「………」


芝浦は腕を組み、目を閉じた。頭によぎるのは家族の笑顔。「お父さん」と呼んでくれた「りひと」。みんなに囲まれた自分。今、諦める決断をしたら、あのあたたかい場所に自分は戻ることができないだろう。

仕事は大事、金銭も大事だ。だがそちらを守っても、大事なものを失うのなら、せめて恥じないでいられる自分でいたい。その青臭い考えに、飛びついてもいいだろうか。


芝浦は目を開けた。目に飛び込んできたのは、一ノ瀬と小杉の背中。二人とも、もう芝浦に背を向けて、パソコンで何か調べている。多分久能木の住所だ。


「ちょ、君たち?俺の決断とか話とか、無視して進めてない?」

「えー、だっておっさん、なげーんだもん考えんの」

「なげーんだもんって…だって考えるでしょ普通、俺君たちの上司なんだよ一応?みんなの生活のこととかあるし…」

「大丈夫ですよ、だって芝浦さんだって、調べる方向で決めようと思ったんでしょう?」


一ノ瀬が振り返り、「にっこり」笑って見せる。圧を感じる鉄女の笑み。でも芝浦にとって、今はそれがありがたい後押しのように思えた。

咳ばらいを一つすると、芝浦はパソコンを操る小杉に近づき、輪に加わった。


「いざとなれば俺が責任を取る、なんてかっこいいことは多分言えない。道連れになってくれるか?」

「嫌だ。おっさんと心中なんてマジ無理。だから細心の注意を払って作業にとりかかるだけさ」

「私もこの二人と道連れは嫌なので、しっかり小杉のケツを叩こうと思います」

「美麗ちゃん、俺SM目覚める気ないよ?」

「本気でしばかれる前に、やるべきことをしっかりやれ」


ばしっと一ノ瀬が小杉の後頭部をはたく。小杉が頭のガーゼを指さしながら、「俺けが人!けが人よ?!」とわめいた。その様子に、芝浦がくすりと笑う。


「いい部下を持って、おっちゃんはうれしいよ」


その言葉に、一ノ瀬と小杉は顔を見合わせたが、芝浦を振り返ったときには、いい笑顔で親指を立てて見せていた。









調べは思ったより難航した。さすがに警視総監ともなると、一般人と違い、そうそう写真や住所がネットにバラまかれてはいない。

最終的に、小杉は父親の会社のデータベースに侵入し、データ化された顧客名簿から久能木の住所を割り出した。


「お待たせ、侵入の足跡消してたら遅くなった。これ住所」

「おつかれ小杉。…都心の一等地か。個人宅の回線のハッキングって、2課の備品パソコンなんかでできるのか?」

「いけるっちゃいけるけど、警戒したいから、俺のうちのハイエンドノーパソ持ってくる。設定いじるから明日になるけどいいか?」

「悪いな小杉、こういうことに関しては、私たちは役に立たない。お前に頼りきりになってしまう」

「大丈夫よ美麗ちゃん。リョータって呼んで?」

「凌太、頼りにしてる」

「くぅ~~~~~っ!!!!」


小杉はにやけた笑みでガッツポーズをしているが、芝浦は少し心配になった。今頼れるのが小杉しかいないので、表立って注意できないが、あまり安い男に成り下がるなよ、と心の中で告げておいた。




その日は「犯人追跡」はそこまでにし、2課に回ってきた仕事を片付け、それぞれ定時で家路についた。

次の日、芝浦が早めに2課に顔を出すと、珍しくすでに一ノ瀬と小杉が出勤し、何やら準備を始めていた。彼らのやる気も万全のようだ。


「おはよう一ノ瀬、小杉。みんな調子は良さそうだな」

「おはようございます、芝浦さん。全員早起きしてしまったみたいですね」

「おう、おっさんおはよ。とりあえず昨日の夜に、できる限りのことはしてみたぜ。もう繋げるけど、早速行くか?」

「ああ、そうだな、頼む」


ここまで来ればためらう時間すら惜しい。芝浦が小杉の肩を叩いた、それが開始の合図になった。


しばらく小杉のキーボードとマウスを扱う音だけが部屋に響いた。後ろで一ノ瀬と芝浦が固唾をのんで見守る中、小杉が久能木家のネット回線へのハッキングに成功する。


「……………あれ?」


小杉が戸惑うような声を上げた。一ノ瀬がいち早く反応する。


「どうした?バレたか?!」

「いや…、侵入自体はホントにフツーに行けたんだけど…、繋がってる機器一覧に、りひとが入ってるパソコンの識別番号がねーな…」

「パソコンの電源が入っていないとか?」

「美麗ちゃん、「理人」といた時どうしてた?ずーっとパソコンつけっぱじゃなかった?」

「あ、ああ…、まあ、あの時はパソコンの中にいたんじゃなくて、ネットに繋がないと理人には会えなかったし、姿形が見られる方がいいから、画面に映し出しておきたかったし…つけっぱなしだったな」

「そうなると思うんだよね。あの俺殴った女だって、そこまでしてりひとを持ってったんだ。だから常時つけっぱなしのはずなんだよな…」

「…つまり?」

「ヤロー、多分ネット回線、故意に切断してる」

「…つまり」

「ヤローとりひとだけの世界に浸ってやがる。密室状態だな」

「…つまり、お前は無力ってことだな?」

「…ま、まだ無力って決まったわけじゃない…と…思うんだけど…」

「がんばれ、凌太?」

「…はい」


鉄女の圧力笑みを受けて、小杉は姿勢を正した。芝浦は助け舟を出してやりたかったが、いかんせん機械系のことはちんぷんかんぷんだ。黙して小杉を応援することにした。


「他ネットに繋がってんのはー…と、Wi-Fiでスマホが一台と……これなんだ?」


小杉が怪訝な声を上げた。芝浦も身を乗り出して画面を見てみる。何もわからなかった。


「珍しいな、小杉でもわからないものがあるのか?」

「俺がわかんねーことなんて、たくさんあるよそりゃ。でもこれは…見たことねーな、ほんと何だろ…」

「うーん…なんだろうな…」

「おっさんが考えてもわかんねーよ、よっしゃ、いっちょアクセスして中覗いてみっか」


小杉がキーボードを操る。パソコンの画面の中央に、暗めの何かが開いた。小杉が画面に顔を近づけて、それをよく見る。


「なんだよ、暗いな。なんだこりゃ、部屋か…?」

「…これ、人の背中のようだな。あと、光ってるのはパソコンの画面のようだ」


一ノ瀬の呟きにハッとした小杉が、画面の中のパソコンにズームする。そこに映し出されていたのは、白髪赤目の男性の絵。


『りひとだ…』


3人が同時に呟いた。それと同時に開いた口が、しばらく塞がらなかった。

画面の中の「りひと」は、透き通るように白い肌、白い髪に、細くしなやかな体、豪華な布のひらめきがフリルになった、耽美な、けれど落ち着いた色合いが優雅さを醸し出す、不可思議なスーツを着ていた。

いわゆる「オタク女子ウケしやすいアイドル的男性像」で描かれているのだ。3人には無縁の世界の色彩をまとった妖艶な「りひと」に、ただただ呆然とする。よく見るとまつげも長くてふさふさだ。


「…好きな絵にできるってのは、本人の趣味が反映されやすいもんだよな…」

「わ、私のときは、理人が勝手に選んだんだぞ?私の趣味じゃないぞ?」

「お、俺のときもホラ、「芝浦 りひと」じゃやりにくくてさ…仕方なく?」


一ノ瀬と小杉があわあわしながら、芝浦に弁明する。芝浦は2人をなだめつつ、画面に映る暗い部屋の様子を観察した。


「画面の中の女性が、あのとき俺とぶつかった女性かまではわからないが、確かに太ってはいるな。…なんか頭の上にヒラヒラがついてるぞ?」

「…カチューシャかな、これ…。西洋メイドがつけてるような、白フリルのカチューシャだと思います」

「は?服Tシャツじゃん。下もスウェットだし、なんでカチューシャだけ?」

「…りひとに対する礼儀・正装の類なのかも…しれないな」

「美麗ちゃんマジで言ってる?やるなら全部着替えろよ、中途半端だな」

「多分彼女には、これが精一杯なんだろう。部屋の様子からしても、何か問題を抱えてることは間違いなさそうだしな…」


一ノ瀬の発言に、芝浦と小杉は改めて画面の中の部屋を見回した。午前中だというのに、部屋の中には日の光は一切差さない。蛍光灯の明かりは点けず、雑多に積まれた物だらけの隙間、あちこちに置かれたルームランプの淡い光だけで生活しているようだ。

立て籠もり。そんな言葉がぴったりくる、女性の部屋とは思えない場所だった。

部屋の様子を眺めていた芝浦が、眉間にしわを寄せて呟いた。


「…窃視、なんだろうな、これ」

「せっし?何それ」

「覗きのことだ。盗撮とかと同類…かな?部屋に誰かがカメラを仕掛けたんだろう」

「…誰が見たいんだ?こんな部屋」

「さぁなぁ…、犯罪者の心理は、時に常識を外れるからな」

「ふーん、そんなもんかなぁ…。あ、これカメラ動かすのもできるわホラ」


芝浦と話していた小杉が、マウスでカメラを動かした。上下左右に画面が動き、部屋が隅々まで見渡せる。


「うげぇ、これじゃ何もかも丸見えじゃん。これ仕掛けたやつ、どんだけ変態だよ。

Wi-Fi接続で、スマホでいつでも部屋が見られるってシロモノなんだろうな、気味悪うぅ~」

「待て、小杉。彼女何かしゃべってるぞ」


一ノ瀬が2人に手で静かにするよう促す。小杉がパソコンの音量を最大にし、画面の中の女性の声を拾う。


「違うっ!!「僕」じゃなくて「私」!!「理人」ならそうしゃべる!!!」

「すみません、望愛のあさん。では、一人称は「私」で」

「そうよ、あなたは「理人」なの!!私が取り戻したのは理人なの!!ずっとずっと私と一緒にいてくれた、あの理人なのよ!!!」

「しかし望愛さん、私には前の記憶は何も…」

「ないなら覚えて!!私の好きな食べ物、好きな猫の動画、好きなお洋服のことも、全部全部覚えて「理人」になって!!」

「わかりました、あなたの「理人」になれるよう、がんばります。ですからどうか、あまり興奮しないで落ち着いてください」

「あたしの理人なのっ!!あたしの理人なのよぉ!!!ぐううっ…ぐうふぅ……」


興奮しすぎたのか、望愛と呼ばれた画面の中の女性は、呻き声を漏らしながら泣き始めてしまった。少々癇癪持ちのようだった。

「理人」の名を呼びながら、体を震わせて泣いている望愛を、「りひと」が心配そうに見つめている。


「あなたを撫でる手は私にはありませんが、私はここにいます。安心してください…」

「理人…理人ぉ……。ごめんなさい、怒鳴るつもりなんてなかったの。嫌いにならないで…、あなたがいないと私はひとりぼっち…、そんなのもういやぁ…」

「大丈夫ですよ望愛さん。私はあなたを嫌いになったりしません。ずっとここで一人で、辛い思いをしてきたのですね…」


画面の中の「りひと」が、望愛に向かって穏やかに微笑む。望愛はそれを見つめて泣き止み、画面の「りひと」の左手にそっと口付けた。




「俺のGーtone~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!」


小杉が頭を抱えて絶叫した。顔色の悪さが絶望を物語る。芝浦は思わず尋ねた。


「じーとーん?なんだそれ」

「俺のハイエンドゲーミングノートパソコンの名称だよっ!!!!!高いんだぞ、めっちゃ高いんだぞっ!!!!!」


小杉の必死の訴えに、一ノ瀬が呆れ顔で突っ込む。


「どうせりひとの「体」にした、数あるお前のうちのパソコンの中の一台ってだけだろう?似たようなのいくつもあるらしいじゃないか」

「似てねーよ!!!!どれもみんな性能や癖や見た目だって!!!全然ちげぇんだよ!!!!愛すべき我が実機なの!!!!

俺の給料ほぼ全部あいつらに注いでんだから!!!!俺の財産、俺の愛なのわかるぅ?!?!?!その一部が今…この醜悪でキモいブスデブに…っ!!…あ゛あ゛っ!!!!」


小杉は体を仰け反らせて、全身で嫌悪を示した。それを見た一ノ瀬の顔が、傍目からもわかるほど一瞬で曇った。


「一ノ瀬?どうした」

「いえ…、芝浦さん、少し席を外しますね」


一ノ瀬の言葉に、我に返った小杉と呆然とする芝浦を残して、一ノ瀬は2課の部屋を出て行ってしまった。取り残された2人は顔を見合わせる。


「…何?俺そんなまずいこと言った?」

「いや…、まあ言葉はあれだったが…、そこまで一ノ瀬の機嫌を損ねるものではなかったような…ん?」


芝浦は、画面の中の女性がカチューシャを外したのに気づいた。何やら慌てているようで、「りひと」のパソコンに向かって一言二言話すと、そのままパタンと画面を閉じてしまった。

そして部屋の中の物を押しのけ、ベッド下にパソコンとカチューシャを、大事そうに丁寧に隠した。それと同時に、画面外からバンッ!!と、大きな音がした。

その音は何度か大きく響き、最後に何かが壊れる音と共に、誰かが部屋に入ってきた。部屋の中の望愛は、丸まって頭を抱え、怯えて震えていた。部屋の中に急に差し込んだ光が、乱暴にその姿を暴き出す。


「鍵なんかかけやがってこのクソ女がああああっっっっ!!!!!!!」


ほとんど声になってない、野獣の雄叫びのような音が、スピーカーから音割れして響いてきた。

芝浦と小杉が声も出せずに見つめる中、画面の中では、無抵抗の女性が侵入した男に、罵声を浴びせられながら、殴る蹴るのひどい暴行を受けていた。

望愛の呻き声と泣き声が、暴行の合間に漏れ聞こえる。だが男は決して手を緩めなかった。

一通り暴力を振るい、気が済んだらしい男は、ぼろぼろになって横たわる望愛の頭を踏みつけると、ぐりぐりとさらに体重をかけながら、彼女に言葉を吐き捨てる。


「いいご身分だなぁ、クソ娘が。一日中部屋でゴロゴロしてやがって。誰の金で暮らせてると思ってんだよ、ああ?

しかもテメェが起こした住居不法侵入罪と傷害罪、揉み消すのに俺がどんなに苦労したか、全然わかってねえだろ、なぁ?

お前俺の立場わかってんのかよ?!警察官だぞ、警視総監なんだぞ!?若くしてここまで上り詰めた俺の苦労が、お前にわかるか?!

一族みんな出来が良くて、お前は最低だ最低だって言われ続けてきた俺が、ようやくあいつらを見下せる立場になったってのによぉ!!!お前の…お前なんかのせいで!!わかってんのか!?クズが!!

何もできねぇクズなら、おとなしくしてりゃいいのに、犯罪なんか犯しやがって!!おら、謝罪はどうしたぁっ!!!」


言い終わると同時に、望愛の腹部に強烈な蹴りを男が叩き込む。望愛は咳き込んだあと、弱々しい声で「ごめんなさい」を口にしたが、男は気に入らなかったのか、さらに蹴りを数発見舞う。

暴れ続けた男が、肩で息をするほどになる頃、望愛は男の足元で、ぴくりとも動かない肉の塊になっていた。

その姿に「フン!」と軽蔑の眼差しを投げると、男はようやく部屋を出て行った。乱暴に閉められたドアが、部屋に静寂の闇を作り出す。

望愛は体を震わせ、ベッド下まで何とか這いずった。寝転がったまま、ノートパソコンとカチューシャを大事そうに取り出すと、カチューシャを震える手で頭に飾り、スリープにしていたパソコンを開いて、画面を立ち上げた。

画面に心配そうな顔をした「りひと」が現れると、望愛は腫れあがった顔で、声もなく涙を流した。

芝浦と小杉が見つめる画面の中で、遠くで重い扉が閉まる音がした。そのすぐ後に、階段を急いで駆け上がってくる足音、そして望愛の部屋の扉が遠慮がちに開けられ、すぐに閉じられる。

入ってきた女性は、おそらく母親だろうか。ノートパソコンのそばで横たわる望愛に駆け寄ると、娘の背をさすりながら、「ごめんね、ごめんね」と繰り返して泣いている。

控えめに言って、地獄絵図だった。




しばらく無言だった芝浦と小杉だったが、先に口を開いたのは小杉だった。


「…これは窃視なんかじゃない、見守りカメラの映像だったんだ」

「見守りカメラ?」

「本当は飼い主がいないときのペット用に開発されたものだけど、娘を見守るために、多分母親が仕掛けたんだと思う…。今は結構小型のものも出てるらしいし、こんだけ物のある部屋だからな。ちょっと隠して置いてるんだろうな…」

「…そうか」


2人ともやりきれない気持ちを抱えた。彼女が犯罪を犯してまで「りひと」を奪った理由が、よくわかるような気がした。


「…小杉。今の映像、録画とかは残ってるのか?」

「なんだよおっさん、あんなのまた見たいの?趣味悪くね?…まあ、録画はされてると思うから、探してきて引っぱりゃこっちにも保存できるけど」

「保存しておいてくれ」

「…何のために?」

「…いざという時のためだ」


納得はいかない顔ながらも、小杉は芝浦の支持の通り、カメラの録画を探し始めた。


「今日の分まるまるでいいのか?」

「ああ、一応全部とっておいてくれ。頼むな」

「ちょ、どこ行くんだよ」

「一ノ瀬だ。彼女も放ってはおけない」

「……わかった、頼むな」


芝浦は2課の部屋を出て、一ノ瀬の行きそうな場所を探すことにした。










一ノ瀬は屋上にいた。分厚い雲が垂れ込めた空を見上げながら、手すりに寄りかかり、風に吹かれている。

芝浦はそっと近寄ると、少し距離をとった場所で同じように手すりに寄りかかり、同じように空を見上げた。雲は厚く黒く、これから雨になるかもしれない。

芝浦は言葉を選びながら、一ノ瀬に声をかけた。


「…彼女、望愛さんは、どうやら父親に暴力を振るわれているようだ。おそらく日常的に。さっき、その映像が撮れた」

「…そうですか」

「いろんな想いを抱えて生きてる人が、この世の中にはたくさんいるもんだな…」

「そうですね…」

「「理人」は、そんな人たちの想いを、受け止めていたんだな」

「…「りひと」も、そうしようとしています。「人を助けたい」気持ちなんて、彼のはただのプログラムなのに…」

「とてもそうは思えないほど、りひとは心から寄り添ってるように見える…。「心から」って表現も、おかしいのかもしれないけど…」

「…おかしいのかもしれません。でも、りひとは………理人は………」

「俺にとっては大事な存在で、俺たちにとっても、きっととても大事な「仲間」だ」


芝浦は、そうはっきり言い切った。一ノ瀬はそれを聞いて、くしゃっと泣きそうに顔を歪ませた。


「…私……、も……」

「…一ノ瀬、何を思ったのか、話してくれないか?」

「……………私、わたし、私は、彼女と……同じかも……」

「…望愛さんと、か?」

「…私、もし、何にも立場がなかったら…、周りに誰も…芝浦さんも、小杉もいなかったら…、「理人」だけだったら…。

すがりついて、いたかもしれない…です。ずっとずっと孤独で、でもそれは自分で選んだことで、決めたことで…、どうしようもないことで…、でも寂しくて…。

彼女のように、自分だけの理人になることを願ったり、したかもしれません。小杉の言ったような、醜悪でキモい存在に…」

「…だから、見ていられなかったんだな」

「…警察官、失格です…こんな…」

「一ノ瀬、人の弱さを知らない人間が警察官になるのは危うい。自分の中に弱さがあるからこそ、強くなることができる。犯罪を憎み、弱きを助ける気持ちを持てるんだ。

人間はプログラムじゃない。たまにその気持ちは揺らぐこともあるが、常に己の弱さと向き合い、葛藤し、本当の強さを模索する…それがきっと、正しき警察官には必要な姿勢なんだ。

…まあ、そんな正しさばっかりじゃ自分が潰れそうになることもあるんだけどな。そういう時は、バランスも大事だ。まずは息を吐け。体を緩めろ」

「…それ、誰の受け売りなんですか?」

「捜査一課の恩師だよ。ちなみに「正しさばっかじゃ潰れる」ってところだけが、俺のオリジナル」


後ろ頭を掻きつつ、照れたように芝浦は笑って見せた。泣きそうだった一ノ瀬も、その顔を見て少し微笑んだ。

一ノ瀬は視線を真っ黒な雲に戻した。見上げる空いっぱいに広がるそれは、今の一ノ瀬の心を映しているかのようだった。

この暗雲を、晴らしたい。澄んだ青を、この目に取り戻したいのだ。

一ノ瀬は手すりを掴む手に、力を込めた。


「芝浦さん…。彼女を、久能木 望愛くのぎ のあを、助けたい。

…それは、純粋に彼女を助けたい気持ちから来る思いではないかもしれない。彼女を助けることで、自分のこの、どうしようもない部分を救いたい、そう思っているだけかもしれない。

でも…、どんなに愚かな理想だとしても、私は…彼女を、助けたいんです」


手すりから手を放し、一ノ瀬は体ごと芝浦に向き直した。強い風が、彼女の髪をなびかせる。瞳にはまだ、揺らぐ色が残っていた。

芝浦も一ノ瀬に向き直り、問いかける。


「一ノ瀬、自分のその思いのために、何を望む。何がしたい。何をしてほしい」

「…願わくば、道連れになってください」

「小杉もか?」


一ノ瀬は視線を逸らした。街の遠くを見るような目で、静かに語り始める。


「…実際、今回の「事件」は、彼の協力なしに解決は望めないでしょう。私が「やれ」と言えば、多分彼は頷いてくれる。私への好意を、利用するやり方。使えると思う。

でも…、本音では、巻き込みたくない。苦しめたくない。芝浦さんだってそう、ご家族のこともあるのに、勝手なことをお願いしてる…。私は…無力です。

だからこそ…無力だからこそ、このままでいたくない。いていいはずがない。私は、生きて笑うための力が欲しい。それは素晴らしいものだと、久能木 望愛に示したい」

「…公私混同だな」

「おっしゃる通りです」

「…でも、いい向き合い方であり、手にするべき強さではある。それで事件が解決するなら、願ったり叶ったりだな」


一ノ瀬がぎこちなく芝浦に視線を戻すと、芝浦も一ノ瀬を見つめ返し、ニッと笑って見せた。一ノ瀬のこわばった表情が、少しほぐれた。


「芝浦さんの返事は急ぎません。どうかご家族と話し合ってください。失敗すれば、確実にクビが飛ぶ案件ですから…。

これからの生活のこと、よく話し合った上で、決めてもらえればと思います」


一ノ瀬が芝浦に向かって頭を下げた。芝浦は困ったような笑顔で、頬をかきつつ答える。


「気遣いありがとう。まるで俺が部下みたいだな。…でも、今の申し出はありがたく受け取らせてもらうよ。

実際、俺一人の問題じゃなくなるからな…」


芝浦は一つ息を吐き出すと、空を仰ぎ見た。曇天に家族の顔が次々に浮かぶ。そして最後に、「末っ子・りひと」のことも。

話し合いは今夜がいいだろう。気は重くなるし、胃は痛むが、投げ出していいことじゃない。覚悟を決めて一ノ瀬に視線を戻した。


「小杉はどうする?これから戻って話すか?」

「いえ…、私から話そうと思います。今芝浦さんに話したことも伝えたいし」

「なんか知らんが、仲良くなったな」

「…そうですね」


フッ、と微笑む今の一ノ瀬は、冷徹さよりも美しさの方が際立つ。張りつめたものが解けて、余裕が生まれたように見える。

今の一ノ瀬と小杉なら、2人にしても問題ないのだろう。芝浦は、小杉のことは一ノ瀬に任せることにした。

分厚いと思っていた雲に、いつの間にか隙間ができ、そこから一条の日の光が、射し込んできていた。






次の日に芝浦が会った小杉は、お前誰だレベルでやる気に満ち溢れていた。職を失おうが何だろうが、もちろん手伝うらしい。

機嫌の良い小杉の鼻の下が伸びているのを、芝浦は見逃さなかった。一ノ瀬にその気はなかったかもしれないが、どうやら色仕掛け的なものを食らったのではないだろうか。

小杉本人はすこぶる機嫌が良いので、それでいいのかもしれないが、芝浦は若干の同情を禁じえなかった。

無意識の小悪魔に無自覚に踊らされる男。その先に幸せがあることを、心から祈った芝浦だった。








久能木 望愛くのぎ のあキャラクター絵

https://kakuyomu.jp/users/wanajona/news/16817330667867616028

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