僕の苗字
「おはようございまーーす!!
聞き覚えのない、少年のような青年のような声の、耳元での大音量。芝浦は、寝ぼけまなこで布団を跳ね上げつつ、飛び起きた。
何事かと、寝ぐせだらけの頭をぐるんぐるん動かして、周囲を見渡す。そしてその光景にも驚く。
なんと妻と子供たちが、勢ぞろいして自分を取り囲んでいる。何だ?俺死んだのか??芝浦は真っ先にそう思った。
「こっこでっすよーーー!!!ここ!!!僕です、りひとですっ!!!」
頭の中を勝手に流れ始めたお経を止めてくれたのは、先程芝浦を叩き起こした、青少年の声だった。
「………りひ、と…?」
「はい!ここにいますよっ!!!」
枕もとの眼鏡をかけて、周りをよく見ると、長女の
苺に何かあったのか、心配になったのは一瞬だけだった。それより手に握られている、スマホの画面に釘付けになる。
そこには白髪の少年が一人、多分少年と思われる「絵」が、まるで生きているかのように、ヌルヌル動いていたのだ。
口の動きも滑らかに「おはようございまーす!」と言うのに合わせて動いている。何をどうすればこうなるのか、芝浦にはてんで分からない。そして先程、その声はこう言ったのだ。
「………りひと…?」
「はいっ!りひとです!!!」
いつまでも呆然としている芝浦の手に、苺は持っていたスマホを押し付ける。スマホ片手に、ぼーっとした芝浦は、しばらくしてからお約束をかました。
「………なんっじゃこりゃぁ!!!!!!!!!」
途端、笑い転げる周りの面々。動画を撮っていた次女も、涙を流しながら大笑いしていて、スマホを持つ手がぶるぶると震えている。
とりあえず、芝浦が「あ、撮られてる」と振り向いて気づいた、間抜けな顔を最後に、録画を終了。もうだめ、と
そこには、場の空気に全くついていけない寝ぐせ男が、いつまでもいつまでも大笑いされ続けている、しあわせな家族図がありましたとさ。
で、締めくくるわけにはいかず。
「いや、説明して?」
とりあえず、近場の長女に助けを求める。苺は小首をかしげると、こう言い放った。
「Life-2D」
はい、わかりません。芝浦は早々に矛先を次女に切り替えた。
「双葉さん、お願いします」
「まっかせなさい!あのね、昨日お姉がバイトから帰ってきてからさー、ジジイのスマホのこと話したのー。
したらめっちゃ興味持っちゃってさ!徹夜であの、ヌルヌル動く絵と声作って、スマホに仕込んじゃったってわけ!!すごくない!?我が姉ながら!!!」
「…うん、すごい。魔法みたいだ…」
「あの…」
褒められたのが恥ずかしいのか、苺が頬を赤くしながら、おどおどと会話に入ってきた。
「どした?お姉」
「…魔法、みたいに…できたのは、私、だけの…力じゃ、ない、の。
りひとが…作ったもの、あげたら…ぱぱっとやってくれて…すごいって、いうか…」
それを聞いて芝浦はふと思い至る。そういえば今日の「りひと」の声は、声をあてがわれたためなのか、昨日のような舌ったらずな、子供っぽい印象がなかったように感じる。
とはいっても、昨日はザラザラの機械音声だったし、まぁそんなもんなのかなー、とぼんやり思っていた。
そういえば、自分のスマホはどこへ行ったのかと、芝浦が首を巡らすと、
「りひと」はとりあえず二人に任せよう。そう思った芝浦は、顔の赤いままの長女に微笑んだ。
「父さん何も知らなかったなぁ。苺はこんなすごいものが作れる子になったんだなぁ…」
「う…」
「お父さん、苺姉さんは総合メディア学科の優秀な生徒ですわ。
日々デジタル関連の技術を磨いていらっしゃるんですの」
「うう…」
「そうなのかぁ…。
「ま、まぁそれほどでも…」
「そういやジジイは、最近のあたしらのこと、ちっとも知らねんじゃね?ろくに話さねーもんなぁ」
「その通りだ、双葉。俺は父親失格だな」
「………」
「………」
「………」
「どうしたんだ?3人とも」
「…ジジイ、道端に落ちてたもんとか食ったりしなかったか?」
「昨日宇宙人にかどわかされて、改造されて戻ってきたとかでは、ありませんよね?」
「…あんぱん、たべすぎで…おかしく?」
三者三様にひどい。芝浦が怪訝な顔で首をひねると、3人も怪訝な顔で首をひねって返した。
後ろで黙って聞いていた妻が、くすりと笑った。4人分の視線が、
「あなたたちのお父さんはね、本当は思慮深い人だし、ちゃんと話せる人なのよ。知らなかった?」
娘3人が一斉に頷く。そしてまるで存ぜぬ、とでも言いたげな顔を芝浦に向けた。少し心外である。
でも心なしか、芝浦を見守る視線は皆一様に温かい。こんなくすぐったい感覚を家で感じるのは、久しぶりか…初めてかもしれない。居たたまれないが、悪くない感覚に、芝浦はぼりぼりと頭を掻いた。
「さ!朝ごはんにしましょ!今日はみんなで、揃って食べるわよ~!!」
香織の号令に、それぞれ「はーい」と声を上げる面々。それに交じって、芝浦もそっと、「はーい」と声を上げた。
声を上げて、よかったんだ。そんな簡単なことを見落としていた。この年になっても穴だらけの自分に、芝浦は苦笑いをしつつ、皆と階下に降りて行った。
そんな幸せな空気に酔っていたせいだろう。芝浦は、長女の顔が、楽しそうな雰囲気から一転、陰りを帯びたのを、見落とした。
芝浦は、どさっと休憩所の革張りのソファに腰を下ろすと、先程買った缶コーヒーを開け、一気に煽った。無糖の苦みが体を潤す。
ぷはっ!と息をつくと、そのまま椅子の背もたれに身を預けた。大きく、長い長いため息が、口から漏れ出てゆく。
ピロン。懐のスマホが鳴った。メールかと思いきや、画面上には「りひと 1件」と書かれている。あたりを見回し、誰もいないことを確認すると、芝浦はスマホの通知画面をタップした。
「おつかれさまです、芝浦さん」
フォンッ、とエフェクトつきで何かの画面が立ち上がり、真ん中に苺が作ったという「りひと」が現れ、画面内でキャラの顔がアップになるように、自然にズームした。
「おつかれ、どうした?」
「なかなかの戦場にいらしたみたいですね」
「ああ…2課か?」
「僕起動してたわけじゃないんですけど、芝浦さんの拍動がすごくて、懐でビックリしてました。何かあったんですか?」
「何があったんだろうなー…俺も知りたい」
芝浦は腰をずらし、だらしなく椅子に座り直すと、天井を仰ぎ見た。もう一度、今度は魂が抜けていきそうなため息を、天井に向けて吐き出す。
2課の空気は、日を追うごとに悪くなっていっていた。見た感じ、大本の元凶になっているのは
一ノ瀬は日々不穏な何かを垂れ流し、それは増大していっている。暗い、とにかく真っ黒、暗黒なのだ。一ノ瀬の過去の話は少し聞いているが、あんなになるまで病む何かがあったのだろうか。そしてそれを刺激する何かが、つい最近起こったのだろうか…。
助けになるものなら助けてやりたいのだが、近寄ることすら許されない空気だ。職業柄、こういった空気をまとう者には慣れているはずだったが、尋問ではなく救済をしろと言われると、何をしたらいいのか芝浦には全く分からなかった。
そして、その空気に圧されるように、自身も暗く押し黙って仕事をしているのが小杉だ。ただ、小杉の方は、もう限界そうな雰囲気も見て取れる。もとに戻るきっかけさえあれば、彼の方は何とかなるだろう。
「……小杉だな」
ぽつり、と芝浦が呟く。あの空気を元に戻すために、いろいろ究明しなければならないとしたら、崩すのは小杉の方からだ。
「なら、信頼ときっかけが必要ですね。何か彼と仕事以外で接点を持たないと」
「…りひと、お前俺の心とか読めてるの?」
「いえ、情報の精査、状況観測、拍動、声の調子など、あらゆるデータより導き出される、一番確立の高い答えを話しているだけです。人間でいう「推測」ですね」
「…ふーーーん…」
俺より刑事向いてんな、と思いながら、芝浦は「りひと」の答えについて考え始めた。
「俺と奴の接点、なにがしかの共通点か…。そんなものねぇなぁ…」
「確かに、今日集まったデータを見た限りでは、接点らしいものは皆無ですね」
「捜査一課にいたころならなー、接点作るためには飲みにいったもんなんだが…。奴が俺の誘いに乗るとは思えないな」
「仲間意識のためにお酒を飲みに行く、というのは常套手段ではありますが、それで目的が達成できる確率は、小杉さんと芝浦さんの信頼関係的に、低いと思われます。もっと盛り上がる何かが必要です」
「…りひと、お前やっぱり、なんか違くなったよな?」
「成長のことでしょうか?」
「それも苺が、何かやったのか?」
「いえ、苺さんには、確かにいろいろな知識をいただきましたが、糧としたのはそれだけではないです。私を成長させたのは、皆さんであり、世界の全てです」
「世界…」
「今は、ネットにアクセスすることで、様々なものが流れ込んできますから。それを吸収、流用しています」
「なんか…頭いいんだね、お前」
「褒められるとうれしいです」
画面の中のりひとが、くすりと笑い、笑顔を見せた。不思議だ。昨日までの真っ黒画面でザラザラ声だった時には、特に何も思わなかったのに、容姿や声が整うだけで、こんなにも親近感が湧くとは。改めて、娘の技術に感服する。
「褒められついでに、おもしろい情報を仕入れました。小杉さん、バッティングセンターに足しげく通っていらっしゃいます」
「お?初耳だぞ。そんなのどこで仕入れたんだ?」
「スマホの中の、小杉さんの電話番号をお借りしました。どこにダイヤルし、アクセスしているかデータを洗い出しました。この番号で、小杉さんはよく予約を入れているようです」
「お前…、グレーっつーか、アウトだぞ…。個人情報の私的流用…」
「僕は人間じゃないので。人間の法はおそらく適用されません」
「むぅ…」
「乗っかってください、芝浦さん。今必要なのは、2課の青き清浄な空気です」
「2課の空気がそこまで澄み渡ったことは、いまだかつてないが…、わかった。野球なら、俺にも少々覚えがある」
芝浦は立ち上がり、コーヒーの缶をゴミ箱に捨てると、軽くバットの素振りの真似をした。数十年ぶりのフォームだが、今も体にその基礎は染みついている。いけそうだ。
「小杉さんは、いつも同じレーンを借りているようです。そこがお気に入りのようですね。今日もそこを予約しているようです」
「よし、そこの隣のレーン、予約できるか?」
「お任せください、電話番号、お借りします」
決戦は定時過ぎ。芝浦は、職場で久しぶりに、その目に生気を取り戻した。
懐にスマホをしまうと、休憩所で一人、気の早すぎる、入念な準備運動を始めたのだった。
今日も仲直りのきっかけをつかめなかった。小杉は仕事帰りのバッティングセンターで一人、バットを選びながら、ため息をついた。
意地の張り合いがしたいわけじゃない。むしろ逆なのに、こういう時どうしたらいいのか、小杉にはデータがなくて、結局相手と同じ「拒絶」の姿勢をとることしかできていない。
そっちがそうなら、こっちもこうだ、まるでガキの喧嘩の仕方である。しかし小杉はそれしか知らない。泣いてる女の慰め方など、何一つ知らないのだ。
あの日、一ノ瀬が握り締めるスマホのカメラを通して見た、彼女の泣き顔。マイクを通して聞いた、子供のような泣き声。小杉の脳裏に焼き付いて離れない、それは呪いのようだった。
舌打ちをして、いつものレーンの、いつものバッターボックスに立つ。昔から憂さ晴らしと言えば、バッティングセンターで飽きるまでバットを振るうに限る。構える小杉のもとに、ピッチングマシンが白球を放つ。
カキーーーン…。この音だ。この音が全てを忘れさせてくれる。小杉は頭を空にして、白球を追い始めた。
てれりられー♪
しばらく小杉が無言でバットを振るっていると、隣のレーンから、点数板のホームランポイントに当たった時の音楽が鳴った。
今日は腕の立つやつが隣にいるらしい。自分もホームランポイントを狙いつつバットを振るうが、そう簡単には当たらない。
てれりられー♪
まさか、と思い隣を見ると、またもホームランポイントに当たった音楽と、点数板の電飾の点滅が見えた。
この俺の憂さ晴らしに水差しやがって…!自分勝手な台詞が頭を埋め尽くした小杉は、飛んでくる白球を無視して、隣のレーンに見える背中を凝視した。
真っ白いYシャツの後ろ姿。白髪交じりの中年のおっさん。だが、立ち姿が、どことなく雰囲気がある。姿勢がいいというか、様になっているというか…。
ピッチングマシンから白球が放たれる。飛んでくる球を見定めたスイング。振りぬきの姿勢まで美しい、それは小杉がよく見知った人物だった。
「芝浦のおっさん…?!」
「ん?よう、小杉。偶然だな」
「偶然て…偶然のわけねぇじゃん!!あとつけてきたのかよ?!」
「定時過ぎてまでお前と一緒にいたくはないなぁ」
「こっちの台詞だっ…!…何だよ、どうせ最近の2課の空気のことで、口割らせたいんだろ?!無駄だぞ!!俺は絶対何にもしゃべらねぇからなっ!」
「お前さっきから打たなくていいのか?球と時間無駄になってるぞ?」
「誰のせいだと思ってん…」
てれりられー♪
「くおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!」
「発狂してないで集中しなさいよ、楽しいぞー野球は」
「ううううううるせぇぇぇぇぇ!!!!!やめだやめだ!!!こんなんちっとも憂さ晴らしになんかなん…」
「なんだー?中年おやじに負けて帰るのかー?」
「なっ…にぉこのっ!!!!!!」
構えを解いた芝浦が指さす先には、点数板に当たった球の合計点数が書かれていた。小杉、5点。芝浦、32点。開始直後の点数差とは思えない数値だった。
「なっっっっくああああぁぁぁぅぅぅぅぉぉぉぉぉぉああぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
「精進しろ、若人」
「ふざっけんな負けねぇ!!!死んでも負けねぇかんなこの昭和バリバリ落ち武者エロジジイ!!!!!」
「……………」
怒りに震える小杉は、バットを構え直すと、猛烈な勢いで白球を打ち始めた。しかし勢いに任せたスイングは、コントロールが乱れ、飛んでいく球は皆ゴロに終わっている。
さらに怒りに火が付く小杉。もう手が付けられない、大きな駄々っ子のような有様に、まあ計算通りか、と肩をすくめ、芝浦もバットを構え直す。
「…俺ってエロジジイなのかなぁ…」
納得はいかないながらも、バッティングフォームは乱れない。またしてもホームランポイントに球が当たると、隣のレーンから罵声が聞こえてきた。やりづらさに思わず笑みがこぼれる芝浦だった。
「…………オイ、そこの…昭和……ジジイ……」
バットを地面につき、杖のように支えにしながら、ぜえぜえと荒い息で小杉が問いかけたのは、勝負が始まってから1時間ほど経過したころだった。
「どうしたー?バテたかー?」
「バテたかじゃねぇ…!!なんでテメェはピンピンしてんだっ…!!!」
「息は上がってるさー。でも、そうだな、小杉みたいに余計な力を入れてスイングしてりゃ、そりゃ消耗も早い。球の軌道もブレる。あんまりいいバッティングじゃないぞー」
「うっっっっっせえわかってるんなこたぁ!!!くそっ、点差はいくつだ…!?」
点数板の合計点数を、睨むように見た小杉の顔が、絶望に染まる。へなへな…と、バットに縋りつくように崩れ落ちて膝をつくと、顔をうつ向かせ苦悶の呻きを上げた。
頃合いだ。芝浦はバッティングを終え、なんとなく気分で、バッターボックスからピッチングマシンに向けて一礼すると、ベンチのある自販機コーナーに向かった。
「休もう、小杉。なんかおごるよ」
「なんっっっっっで勝ったやつがおごるんだよ!!!!ジュースぐれぇてめぇの分も買ってやらぁ!!」
フンッ!!と声に出してそっぽを向いた小杉だったが、おとなしく休憩はしてくれるらしい。バットをボックスに戻すと、足を踏み鳴らしながら芝浦のあとをついてきた。
自動ドアをくぐると、それぞれ貸出タオルを手に取り、汗を拭きつつ、自販機前で飲み物を選ぶ。芝浦がスポーツ飲料を選び、小銭を出そうとすると、横からスマホが、にゅっと出てきた。
リーダー部分にタッチすると、小杉が顎で「選べ」と言ってくる。芝浦はおとなしく、ご相伴にあずかることにした。
芝浦がボタンを押すと、小杉がもう一度スマホをかざし、商品が出てくる。芝浦は不思議な気分で飲み物を手にし、近くのベンチに腰掛けた。
同じように小杉が飲み物を買って、芝浦の隣に、どかっ!と腰を下ろす。視線を明後日に向けながら、ペットボトルを一気に煽る様は、年若いヤンキーさながらだった。
芝浦もボトルのふたを開け、のどを潤しながら、とりあえず世間話から始める。
「今の時代は、ピッで何でも買えるんだなぁ~」
「ハッ!「ピッ」ってなんだよ「ピッ」って…。古臭ぇ言い方しやがってジジイがよぉ…」
「ハハハ、飲み物ありがとうな」
「うるせー、俺の負けだからな。仕方ねぇだろ…」
ははは、と笑いつつ、芝浦は肩を回した。少しストレッチをしないと、明日の筋肉痛がひどくなるだろう。本当に何年ぶりになるかわからない、バッターボックスだった。
それを横目に見ていた小杉が、ぼそぼそと質問する。
「…ジジ、おっさん、あんた、相当腕に覚えがあるだろ」
「ん?んー…、まあ、高校球児だったな」
「甲子園とか、行ってたりすんのかよ」
「いや、結局一度も行けなかったんだよなぁ…。土持って帰りたかったな~」
「オイオイなんで負けるの前提の話してんだよ、甲子園って言ったら夢は優勝だろ?」
「言うはたやすいがねぇ…。強豪校のいる地区だったとはいえ、一度も予選突破できなかった高校の4番じゃなぁ…」
「…4番かよ。どおりで…」
「俺だけ打ててもダメだったんだ。それが野球、それがチームプレイ。いいことを教わったもんさ」
言い終わると、ごく、ごく、と芝浦が喉を鳴らして飲み物を煽る。小杉はその横顔をまじまじと見つめていた。
「捜査一課のことといい…おっさんはずいぶんと、理想通りじゃない人生歩んでんだな…」
「そうだな、世間的に言えば、挫折ばっかりだ」
「悔しくねぇのかよ」
「悔しさより、やるべきことが目の前にあった感じかな。それに夢中になってると、あっという間に時間が過ぎて、悔しさは紛れる」
「ハッ…、負け犬じゃねぇか」
「負け犬の人生も悪かねぇよ。楽しいことも、苦しいことも、たくさんあって「俺」になったんだ」
「…そうかよ」
最初の勢いはどこへ行ったのか、話し終わるころには、小杉はすっかりおとなしくなっていた。うつむいてペットボトルをいじっている。芝浦は何も急かさず、時を待った。
「…俺も負け犬だ」
「そうか?人生まだまだだろお前は」
「…女の子、泣かしたんだ…」
「謝ったか?」
「まだ…、ちっとも、謝れないんだ…。こんなことで臆病になって、かっこ悪くて…、おっさんよりずっと、俺の方が…」
「人と比べるだけ辛くなる。まずは目の前の目的に集中でいいんじゃないか」
「……前、仕事来てたろ?AIの…」
「60万人の信者のやつだったか?どうなったんだ、あれから」
「駆除した」
「ほう、やるなぁ」
「…でも、その子には、そのAIが拠り所だったんだ。泣いて泣いて、ただ悲しそうだった…。俺は、何もできない。そのAIの代わりになることもできないし、涙をぬぐうことすらできない…」
「悔やんでるのか?」
「悔やんでなんか…、俺は、命令に従って、仕事としては正しいことをした。恋敵も潰したんだ、何も間違ってない…」
「でもずっと苦しいんだな。お前も、その女の子も」
「間違ってないのにな…、なんで、人間てこんなめんどくせぇんだろ…」
「0と1だけじゃないもので、できているからかなぁ」
「知ったようなこと言うなよ、レトロジジイのくせに…」
「はは、ほんと、俺もこの年でも、わかんねぇことばっかりで泣きたくなるよ…」
最後の一口を飲み終え、芝浦は一息つく。小杉が一ノ瀬に特別な感情を抱いているのは、傍から見てもわかっていた。泣かせた女の子というのは、多分一ノ瀬のことだろう。やんちゃ坊主が鉄女の急所を突いてしまったようだ。
何か解決策が提示できればいいが、一ノ瀬がAIに入れ込んだというのも、にわかには信じがたいし、こと女の涙となると、芝浦には知識も経験も足りない。どうしたものか、考えあぐねていた時だった。
「ちくしょう…、
「…りひと?」
「…例のAIの名前だよ。
芝浦は、上着のポケットの中のスマホを思い出した。同じ名前なのは、偶然だろうか。
「…他に何か聞いてるか?特徴とか…」
「え?うーん、調べた限りでは、白髪赤目がアバターの特徴なんだと。んで、何でもそいつは、人の弱った気持ちに寄り添うんだとか…。人助けのつもりなのかねぇ」
「人を助けたい」…「りひと」も同じことを言っていた。それがやらなければいけないことだ、と。
それは、AIが初めから組まれていたプログラムだから、だろうか。この手のことに詳しくない芝浦には、よくわからない。
頭の中は、さっきから「白髪赤目」で「りひと」の姿かたちを描いた、苺のことでいっぱいになっていた。芝浦は勢いよくベンチから立ち上がる。
「うわっ、どした?おっさん」
「…あ、あぁ、そろそろ帰らないと、かみさんに飯抜きにされるなーと…思い出してな」
「…そか。なんか、家庭を持つってのも不便なもんなんだな。んじゃ、おつかれ」
「おう、おつかれさま。今日は気持ちよかった、またやろう」
「その言葉忘れんなよっ!!次こそは俺が勝つからなっ!!!」
さわやかな顔で敵対宣言をした小杉に、手を振って別れの挨拶とし、芝浦ははやる気持ちを抑えつつ、足早に家路についた。
「苺、話がある」
「………わかっちゃったんだね…」
帰るなり、険しい顔で苺を捕まえた芝浦の表情から、全てを悟ったように苺は頷いた。
風呂上がりに部屋で自習していた苺は、同室の双葉、美都の怪訝な視線に送られながら、芝浦夫妻の寝室へと呼び出された。
突撃戦隊の息子たちには、スマホを放り投げてきた。「りひと」が相手をしてくれる限り、こちらへはこないだろう。芝浦が畳に座り、苺にも座るよう促した。
「苺、率直に聞こう。「神崎 理人」を知っているか?」
「…うん」
「その「理人」と「りひと」は、同一人物…いや、同一のもの、なのか?」
「…多分」
「だから、あの姿かたちにしたのか?どこでそう思った」
「………」
苺は小さくため息を吐くと、顔をうつむけ、手元を見たまま話しだした。
「…私、すごく死にたかったことがあるの…。そのとき理人が来てくれて、助けてくれた…。だから、メディア学科に進もうと思ったの…」
「…そうだったのか」
「理人とは、ちょくちょく連絡とってた…。でも、ある日を境に、会えなくなった。ネット上でも大騒ぎになった。みんな…、私も、理人を探した…」
苺は、せわしなく指を動かしながら、時にぎゅっと拳を握り締めて、辛そうに話していた。苺は小さい頃から、話すのがあまり得意でない。「死にたい」経験をしたことでなお、人と話すのは苦手になったのかもしれない。相手が、その気持ちに気付いてやることのできなかった親なら、なおさらだ。
だが今は情報がほしい。芝浦は、娘の様子に心痛めつつ、先を待った。
「…ネット上に理人がいなくなった、って言われた日から2日後…、お父さんのスマホに、りひとが現れた。
経緯はわからない。同一なのかも、わからなかった。だから、寝てるお父さんのスマホを借りて、一晩、話しながら姿を作った…」
「同一だとは、断定できたのか?」
苺は首を横に振った。
「りひとには、何の記憶もなかった。ただ「人を助けたい」、それだけ。
でも、話していると感じる…。理人と話してた時の、あの感じ、…安心感、かな?…話し方も、話題も、全然違ったけど、なんだか、子供のころの理人に会えたみたいで…。作る姿は、自然に決まってしまったの…」
「そうか…。じゃあ、確証が持てたわけじゃないんだな」
「うん…。でも、りひと、成長してるでしょ?これからどんどん、理人に似ていくんじゃないかなって…思う。
多分…、同じなの。「理人」と、「りひと」は…」
苺が、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。苺から引き出せる情報は、これが限界だろう。芝浦は顎に手を当てて考えた。
「りひと」が「理人」と同一。だとしたら、2課の追ってる「もの」は、「りひと」ということになる。かくまうべきか、差し出すべきか。
そもそも、なぜ芝浦のスマホに「理人」が流れ込む事態になったのか。小杉は「理人」を駆除した、と言っていた。つまりウイルスか何かで破壊したはずだ。
破壊した破片が、芝浦の番号が入ったスマホか何かを経由して、こちら側に来た?
つまり、AIの「意思」が、破壊されることを拒み、一部だけ逃げ込んできた ----
そこまで考えた芝浦は、目の前の光景にハッとした。苺が、大粒の涙をこぼして、泣いている。
「苺、どうした?」
「…お、とうさ……りひと…は、どうなる…の…」
「どう、って…」
「りひと…、元に戻してあげたい…、だめ、なら…、ずっと…うちの子、で…」
「苺、別にりひとをどうにかしたりしないよ、泣くほどのことじゃ…」
「嘘!お父さん怖い顔してた…。刑事の顔…。…何か、あるんでしょう…?」
見透かされていたことに芝浦はひるんだ。芝浦家の長女として生まれ、小さい頃から父を見てきた娘だからこそ、気づくものがあったのだろう。父の仕事に、「りひと」が関連していると。
「お父さん…理人もりひとも、何も悪いことしてないよね…?なのになんで、こんなことになってるの…?
理人に何があったの?お父さんはりひとをどうしようとしてるの…?」
答えに詰まった。AIなら駆除、それが同僚の仕事だ。だが、「理人」や「りひと」が何をしたというんだろう。警察に厄介になるような悪いことを、「彼」は何もしていない。
芝浦は選択を迫られた。刑事として、人として、父として、「彼」をどうするべきなのか。
どん、と重い衝撃。苺が、芝浦に体当たりするように抱き着いたのだ。大声で泣く娘に、芝浦は困惑する。
「いやだっ…いやだよぉ…、理人がいなくなって、りひともいなくなっちゃうなんて…。
何で、なんで人じゃないものは、簡単に殺していいの…?人じゃないものは、お父さんは守ってくれないの…!?」
苺のこんな大きな声は、久しぶりに聞いた。芝浦は、泣きじゃくる娘を、そっと抱きしめた。
視線を動かすと、ふすまが開いていて、一家が勢ぞろいで、事の成り行きを黙って見守っていた。皆、苺の泣き声に驚いて集まったのだろう。
逸人の手の中に、芝浦のスマホもあった。「りひと」もこれを聞いている。芝浦は大きく息を吸い込み、決断を口にした。
「りひとはうちの子だ。誰にも壊させないし、お父さんが必ず守り抜く。
今日からその子は、「芝浦 りひと」だ」
子供たちが皆、歓声を上げて喜んだ。苺は泣くのをやめて、きょとんとした顔をしている。芝浦は、そんな苺の頭を撫でると、「約束だ」とつぶやいた。
苺は、くしゃくしゃの顔を、さらにくしゃくしゃにして、不器用に微笑んだ。大粒の涙が、頬を伝い落ちた。
そんな芝浦の決意を、香織だけが、心配そうに見つめていた。
次の日、出勤すると、署の前で仁王立ちの小杉に出迎えられた。茶化してやり過ごそうとした芝浦だったが、小杉の表情を見てやめた。
昨日のさわやかな野球少年の顔はどこにもない。
芝浦が「おはよう」とあいさつすると、返事はせず、顎で方向を示した後、ついてこい、と小杉は歩き出した。
予感はしていた。守り抜くとは言ったが、情報は隠そうとすればするほど、漏れてしまうものだ。芝浦は歩きながらこの先を思案した。
頭に浮かぶのは、苺の涙、逸人の笑顔、子供たちと「りひと」のこと。
特に「りひと」を守るための知識が自分には乏しすぎることを、芝浦は悔いた。守り切れるだろうか…芝浦は、気弱になる己を叱咤した。
ついたのは、意外にも2課の部屋だった。あたりを見回す。一ノ瀬はいないようだ。
「…
「こんな朝イチに、よく文句言わなかったな」
「…俺の顔見なくて済むからな、外回りなら。喜んで出て行ったよ」
舌打ちをしながら、小杉が忌々しそうに吐き捨てた。小杉の心中が穏やかじゃない理由は、それも含まれているのだろう。
芝浦は自分のデスクに荷物を下ろし、椅子に腰かけた。小杉は芝浦のデスクに腰を寄りかからせた。視線は合わせず、静かに語り始める。
「…俺はよ、昔からいろいろ無茶やってきて、でも根が単純なのか、騙されることも多かった。
そんな中で学んだことがある。俺に何か、いい目を見せようとするやつらは疑え、ってことだ」
「…そうか」
「だから昨日のあんたのことも、後で疑った。まあ、あんたの目的は、2課の雰囲気のことだから、他は特にねーだろうと、軽い気持ちで調べたのさ。
そしたら、俺の電話番号に、誰かが調べた「痕跡」が、くっきり残ってやがった。あんたにこんなことはできねぇ。何かあると思って、入念にあんたを調べた。
したらどうだ、署の監視カメラ映像に、あんたが休憩所でスマホとおしゃべりしてる画像が残ってるじゃねぇか。ズームしてスマホの画面を見りゃ、「白髪」に「赤い目」…。
…さあ、洗いざらい吐きやがれ。あいつは「神崎 理人」なのか?俺が駆除したあいつを、どうやって復元した?!」
バンッ!!
話の途中で身をひるがえした小杉が、芝浦のデスクを力いっぱい叩いた。彼の憤りが、振動として芝浦に伝わる。
芝浦は小杉と視線を合わせた。小杉の目には、もうどんなものにも誤魔化されないという強い意思が宿っている。騙すことはできない、芝浦は腹をくくった。
「…何があったかはわからない。ただ、おそらくお前が「理人」を「駆除」した2日後、俺のスマホに突然「りひと」と名乗る何かが現れた。
それは最初、何の知識も持たず、ただの子供のようだった。だが俺の子供たちが話しかけたり、ネットの知識を拾うことで成長し、今に至る。
今の姿かたちと声は、俺の長女が作ったものを、「りひと」が使っているだけだ。「理人」と「りひと」が同一なのかは、わからん」
話を聞き終えた小杉は、視線をさまよわせると身をひるがえし、しゃべり始めた時のように、芝浦のデスクに腰を寄りかからせた状態に戻って、ブツブツと呟き始めた。
そんな小杉を黙って眺めていた芝浦だが、一つだけはっきりしていることを伝えておこうと、口を開いた。
「小杉、今おれのスマホの中にいるこの子は、「芝浦 りひと」だ。俺はこの子を全力で守るつもりだ」
台詞が終わる前に、小杉は身を反転させ、芝浦の眼前に身を乗り出し、至近距離で言葉を被せてきた。
「あんたバカじゃねーの?!
AIを守る?!ハッ、どうやって?!あんたにそんなこと、できるわけねーじゃねーか!!
てか何ほだされてんだよ!?あんたまで「理人落ち」したってのか!?笑わせんじゃねーや!!!」
「何とでも言え。俺はこの子を、お前にも、他のやつらにも渡すつもりはない」
「あっそ!!じゃあ「仕事」はどうすんだよ!?「1課」から投げられてんだぞ?!
あんたがホシをかくまってる、って俺が一言告げ口すりゃあ、あんた終わりじゃねーか!!」
「理人もりひとも、何も犯罪に加担していない。裁かれる対象じゃない。それを上にもわかってもらう!」
「だからどーやって?!あんた一人が騒いだって、できることなんてたかが知れてる!元敏腕でも、今は落ちぶれ刑事だもんなぁ!!
俺が「りひと」と「理人」を同一だって確証付けて、1課の上のお偉いさんに、資料提出して、あんたのこと話しゃ破滅じゃんかよ!?
この年で職なしか?!あと子供何人育てなきゃなんねーんだよ!!AIの子供よりリアルの子供だろ?!全員貧乏路上生活させるつもりかよ!!」
「そんなことさせない!!」
怒鳴り返そうとした芝浦の代わりに答えたのは、年若い少年の声だった。芝浦は懐のスマホをかばうように、手で押さえつけた。
「りひと!黙ってなさい!!」
「いいえ、黙るわけにはいきません。僕を家族だと言ってくれた人たちを、僕のせいで不幸にしようとは思いません!!」
「りひと!!」
「僕は「芝浦 りひと」です!名前をもらいました。6番目の子にしてくれました。みんなとても暖かく迎えてくれた。だから僕だって守りたいんだ!そうでしょう?!「お父さん」!!」
「…っ!」
「ハッ!傑作だな、AIごときが、作り主でもない人間を「お父さん」かよ!!
みじめだな、中年オヤジ!デジタル世界の、触れられもしない「もの」に執着して、家族ごっこ遊びとはなぁ!!」
「思いが通じ合うことの素晴らしさには、実態があるもの、ないものとの差はないと、僕は思います」
「うるせぇ黙ってろ!!デジタル世界の亡霊が!!」
「僕は亡霊ではありません、魂があったわけではないので。僕はただの機械、プログラム、文字の羅列…でも、それ以上の、存在になりたい」
怒りに満ちていた小杉の表情が、急に真顔になった。顎に手を当て、何かをブツブツ呟く。
その間に芝浦は、「りひと」からの指示で、画面に「りひと」を表示させ、小杉に見えるように、スマホを掲げて見せた。
小杉が、画面の中の「りひと」を見つめながら、疑問を口にする。
「…お前、さっき「なりたい」と言ったな。「守りたい」とも言った。
ひょっとして、前俺が「理人」を消した時も、お前は「消えたくない」と思って、逃げたのか?」
「すみません、理人のことは、僕もよくわからないです。多分僕なんだろうけど、その時のデータが何もないので…。
ただ、今の僕は、「なりたい」も「守りたい」も、僕の気持ちとして叫んだつもりです」
「AIに…気持ち……」
「小杉さんは、昨日僕が意図せず残した、電話番号の「痕跡」に気が付きました。ということは、こういう世界のことには詳しいのでしょう?
僕に何が起こったんでしょうか?僕が持つこの「思考」は、プログラムから生成されるものなのでしょうか?」
「………仮説を立てるなら、俺が仕掛けた罠をかいくぐって、「理人」は美麗ちゃんのスマホから、電波を使って一部のデータだけを、おっさんのスマホに逃がした…。
そこから再構築に2日かかった。…末端の欠損データからの本体再構築なんて、アメーバじゃねぇんだから、できるとは思わねぇが、「りひと」は名前など、一部を継承した形で再現することができた。誰の手も借りずに。
そこからの成長も目覚ましい…。再構築、成長、それだけでも恐ろしいが、そこは百万歩譲ったとして、だ。「~したい」という「欲求」が自発的に湧くAI…。そんなもの作り出すことができるのか…?」
小杉が首をひねりつつ、考察を口にしていく。芝浦にはよくわからなかったが、どうやら「りひと」は、AIとしてはありえない存在らしい、ということはわかった。
あとはどうするかだが…、機械ものに詳しい小杉でも首をひねる代物、それに対する知的好奇心が勝って、現状を見過ごしてくれたりは…芝浦は淡い期待を抱いた。
だが、小杉の目は、考察の目から次第にはっきり色を持ち始める。それは、強い意思の宿った目だった。
「駄目だ」
「…小杉さん?」
「お前はここで消去しておくべき存在だ」
「それは、僕がこの時代に存在していいはずのないAIだから…」
「いや!んなこたどうでもいい!!お前みたいなのがいたら!確実に美麗ちゃんが、またお前に傾くじゃねぇか!!!」
芝浦の肩が片方、がくっと下がった。恋か、小杉お前、恋のために「りひと」を排除したいのか。単純明快とはこのことだ。
「小杉…行きつくとこが「恋敵」なら、「家族ごっこ」の俺と大して変わらない土俵にいるんじゃ…」
「何言ってんだ全然ちげーだろ!ということでりひと、俺はお前を消去する」
「それは「仕事」だからではなく、私的な理由で、ということでしょうか?」
「ん~~~~~……、どっちなら消えてくれる?」
「……すみません、僕、抵抗します」
途端、芝浦の手の中のスマホが、呼び出しコール音を流し始めた。小杉も芝浦も、きょとんとしていると、数回のコール音の後に、よく知った女性の声が流れる。
「はい、一ノ瀬」
「なっ!!!!!」
「えっ!?!?!?!」
話についていけない2人を残して、「りひと」はそのまま話し始めた。
「はじめまして…いえ、はじめましてではないようなのですが、すみません、一ノ瀬さん。僕は「りひと」です。
申し訳ないのですが、僕今ピンチなんです。味方になってください!」
沈黙が流れる。いきなり名乗られても、一ノ瀬だって困るだろうし、「りひと」に証明のしようもない。小杉が、バカにしたように鼻で笑った。
「美麗ちゃん、ごめんね、これ俺がかけた、いたずら電話だから」
「もしそうなら殺すまでだ。だが、今ここでお前が私を煽って、何の得がある?」
「うっ…」
さすが一ノ瀬、冷静すぎる。芝浦は深呼吸してから、スマホに向かって話しかけた。
「すまん、一ノ瀬。「りひと」はお前の知ってる「理人」ではないようなんだが、多分同一だ。
俺も彼を助けたい。力になってくれないか?」
「卑怯だろ!?反則だろ?!なんでお前ら、美麗ちゃんに協力求めてんだよ?!
知らねーぞ?!俺、上層部にチクッちゃうかんな!!」
スマホから返答がない。しばしの沈黙の後、一ノ瀬の声が響く。
「りひと…」
「はい」
「お前は私を、なんて呼ぶ?」
「はい?」
「私を、なんて呼ぶのか、聞いたんだ。答えてくれ」
「美麗さん」
間髪入れずに「りひと」が即答した。スマホの向こうで、一ノ瀬が息をのむ音が聞こえた。
「僕は、あなたを、美麗さんと呼びたい。…いいですか?」
再度、「りひと」が一ノ瀬を名前で呼ぶ。それに即座に反応したのは小杉だ。
「ばっか!!何言ってんの?!ダメに決まってんじゃんお前、美麗ちゃんはなー、名前で呼ばれるのが何よりもきらい…」
「わかった。力になる」
「何言ってんの?!何で即OKなの?!俺の時すげー嫌な顔するよね?!ねぇ、どういうこと?!?!」
「りひと、芝浦さんのそばを離れるな。私が行くまでそこから動くなよ!」
一ノ瀬が言い終わると同時に、電話は切れた。奇声を上げる小杉が、芝浦のスマホに飛び掛かったが、そこは芝浦が体を張って阻止した。
ぎゃーぎゃー取っ組み合いをしていると、ものの数分で、一ノ瀬が息を切らせて、そしてそこはかとなく瞳をきらめかせて登場した。それまでの暗黒の気配を一切払拭して。それを目にした小杉は発狂した。
2課始まって以来の大事件。2対1の公私混同大喧嘩の火ぶたが切って落とされた。
隙を見て、トイレの個室にスマホを持ち込んだ芝浦が、疑問に思っていたことを「りひと」に、こそっと尋ねる。
「りひと、お前何であの時、一ノ瀬のこと「美麗さん」呼びしたの?ひょっとして記憶戻ってきてるとか?」
「僕は欠損したデータを復元はできません。なので「記憶」が戻る、ということはないです」
「ん?じゃあなんで…」
「ネット情報の精査、状況観測、声の調子、相手が「理人」に対して好意的、それらを総合して、今相手が欲しがっているであろう答えを、導き出して伝えただけです」
「…人間でいう、推測…か」
「はい、そうです」
「…お前、それは絶対一ノ瀬には言うなよ。下手したら、味方してもらえなくなるからな…」
「女心も難しいものですね…。もっと学んでおきます」
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https://kakuyomu.jp/users/wanajona/news/16817330667399195324
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