我が家へようこそ


「るっせえな!!人の高校生活に口突っ込んでんじゃねぇよ!!ババア!!!」


芝浦しばうらは大音量の罵声で目を覚ました。聞きなれたこの怒鳴り声、次女の双葉ふたばだ。

今度は「ババア」と呼ばれた方の金切り声が聞こえてくる。近所迷惑な罵り合いが始まっていた。芝浦は布団から手を伸ばし、枕もとの眼鏡を探り当てると、それをかけて起き上がった。

ため息だらけの、我が家の日常の始まりだ。




「おはよ~~~ぉ……」


あくびをしながら1階への階段を降り、台所に向かう芝浦に、2人の鬼女の視線が突き刺さる。


「何時だと思ってんだクソオヤジ!!てめぇ早く仕事行けよ!!」

「まだ十分間に合う時間だよ。早すぎる時間から騒いでんのは双葉たちでしょ…」

「あたしを元凶みたいに言うんじゃねぇ!!このクソババアが…」

「ババアっていうのやめなさいって言ってるでしょ!?まだそんな年じゃないわよ!お弁当、あんたの分なしにするわよ!?」

「はぁ?!そうやって脅しゃあ言うこと聞くと思ってんのが低レベルだって言ってんの!!もともとの問題すり替えてんじゃねぇよ!!」

「双葉、少し言葉遣い気をつけなさい。それじゃ男の子だよ…」

「うっせぇ!!ジジイにイマドキの女子高生事情なんかわかんねぇだろうがよ!!これで普通なんだよ!!」

「普通なわけないでしょう?!下の子たちにも影響出るかもしれないし、もう少しおしとやかにできないの?!」

「うるせぇな!!てめぇの娘だからこんなんなんだろーが!!あーあ、親ガチャはずれすぎだぜ全く!!」


言いたいことだけ言うと、双葉はドスドス足音を鳴らしながら、2階へ上がっていってしまった。

残された芝浦と妻の香織かおりは、切ない溜息を吐いた。香織は両手で顔を覆うと、またため息を吐き出す。疲れているのはわかるが、芝浦は後ろのフライパン上の炒め物が焦げないかの方が気になっていた。

火を消してから親子喧嘩をしてほしい、そんなことが言ってられないほど、最近の芝浦家はてんやわんやだ。子供が専門学校生から小学生までいると、どこもこんなものなんだろうか。


「…だいたい、あなたが双葉を甘やかすから…」


来た。芝浦は心の中で身構えた。妻の憂さ晴らしタイム到来である。


「かわいがりはしたけど、甘やかした覚えは…」

「口答えできる立場なの?!私がどんなに苦労してるか知らないでしょ?!子供5人平等に育ててきたのに、いっつもこんな口の利き方されて…」

「わかった、とりあえずコンロの火を消してから話そう、な?」

「何にも聞いてないじゃない!!あなたはいつもそう、子供のイベントには来てくれるけど、私との結婚記念日は忘れちゃう!私なんて所詮家事ロボットなのよね?!」

「そんなこと思ったことないって…」

「嘘!!だいたい、あなたが出世街道をはずれるから、薄給をやりくりして、美容院のお金すら出せなかったり、時間もなかったり…私がどれだけ自分を犠牲にして」

「ママァ~~、もらしちゃったぁ~~」


末っ子の逸人いつとが、スンスン泣きながら、パジャマのズボンを濡らしたまま台所に現れた。

あ、と芝浦が思う間に、香織は即座に動き、逸人をあやし、頭を撫でていた。


「大丈夫よ、ママ怒らないから。ほら、いっちゃんもそんなに泣かないで…」


そのまま洗面所に向かってしまった妻を見送ると、芝浦はそのまま放置されていたコンロの火を、ぱちりと止めて一息つく。

背後で何かの気配がする。芝浦は習性で横に大きく身を躱してから振り向く。長女のいちごが、ヌッと立っていた。


「…」

「お、おはよう」


苺は、挨拶を返しもせず、つかつか歩み寄ると、芝浦の横を通り抜け、コンロの火をつける。

芝浦がその様子を呆然と見ている中、手早く炒め物を作り上げてしまうと、卵液のまま止まっていた卵焼き作りもはじめてしまう。

おかずを作り終えた苺は、ついでに冷凍のからあげをレンジで温めると、作りかけの弁当箱たちに手際よく詰め始めた。


「て、手慣れてるな、苺」

「…」

「と、父さんのも、ありがとうな」

「…」

「さ、最近どうだ?専門学校の方は。楽しんでるか?」


苺が手を止め、芝浦を見つめた。言葉が何もないとなると、この年頃の子が考えることなんて、芝浦には一ミリもわからない。

冷や汗をかきながら、無口な娘を見返していると、苺は目を逸らし、また黙々と弁当作りを始めてしまった。

弁当を作り終えるまで、そばで見守るしかできない芝浦だったが、苺が自分の分を袋に詰めたとき、一言だけ口を開いた。


「あんぱん…」

「…は?」


あまりに声量がなくて、聞き取れたのはそこだけだった。苺は自分の弁当と学校用の荷物を持つと、その一言だけ残して玄関から出て行ってしまった。

全然わからない。芝浦は、ただただ年頃の娘の扱いの難しさを痛感して、呆然とした。途端、肛門部に衝撃。


「あちょ~~~っ!!!」

「ぐぉっ…!!!」

「とーちゃん、めしとったりぃ~~!!!」


キャッキャキャッキャとぐるぐる走り回って喜んでいるのは、芝浦の長男、4番目の子の司朗しろうだ。

子供らしい、容赦のない力加減の浣腸に、腰をかがめ涙目になっている芝浦には、もう興味がない様子の司朗。今度は居間に走って行って、テレビのリモコンとエアコンのリモコンで、戦隊ものごっこを始めた。

芝浦が何とか立ち上がると、そこに逸人を連れた香織が戻ってきた。


「なぁに~?司朗、あんたまたなんかやったの~?」

「なんもしてないぽん!!」

「お父さん、なんか腰かがめてたわよ?またいたずらでしょ~?」

「とーちゃんがよわいんだぽん!!おれつおいんだぽん!!」

「ぽんぽんわかったから、ほら、逸人と遊んであげてて。あなた、お弁当づくりしてくれたの?ありがとう」

「いや、俺じゃ…」

「わかってるわよ、あなたがやるわけないじゃない。苺でしょ?あの子もう行ったの?」

「あ、ああ、うん…」


そんな話をしていると、ふわりと甘い匂いがした。花の香りのような、トイレの消臭剤のような、芝浦がそんな匂いに振り向くと、階段をゆっくりと少女が降りてきた。


「おはよう、お父さん、お母さん」

「お、おはよう…」

「おはよ、美都みつ、あんたまた香水なんてつけて…」

「先生の許可は取ったわ。問題なくてよ」

「あの先生…、あんたにはなんか甘いのよね…。気をつけなさいよ?変なこととかされたら…」

「シャーラップ。朝から変なこと言ってるのはお母さんよ?」


芝浦はまたも呆然とその光景を見ていた。三女のはずの娘の縦ロールにばかり目が行く。朝からふわっふわに、豪華に髪を巻いてきているこの子は、本当に自分の娘なのか、芝浦は自信がなくなっていた。


「お父さん」


美都が髪をなびかせながら振り向くと、また花の香りがする。三女はまだ小学生のはずだが…と、芝浦は頭の中で娘の年を計算する。


「ど、どうした?美都」

「私ね、今度ミューズローズの新作のスカートが欲しいの。5千円ほど、お小遣いくださらない?」


くださらない?何語??芝浦は頭の中で、高速で娘の年を計算する。合ってる、小学生のはずだ。今時の小学生って、くださらない?とか言うのかどうかは知らないけど。


「…え、えーと、お小遣いのことは、お母さんと相談して決めてほしいかな…?」

「…チッ」

「美都…ちゃん?」

「使えない男…」


稲妻に打たれたような衝撃が、芝浦の全身を駆け巡る。そんな男を使い慣れた女みたいな台詞を、小学生の娘に吐かれたのだ。

ぎぎぎっ、と首を動かして妻を見やると、手で口元を抑えて顔を真っ赤にし、必死に笑いをこらえている女と目が合った。

美都は、ふんと鼻を鳴らすと、居間にゆっくり歩いて行った。それまで男兄弟でギャーギャー言ってた弟2人が、縦ロール姉の優雅な登場に、急におとなしくなる。それどころか、ヤンチャの司朗に至っては、正座している。何があったんだ、お前たち。


「ほら、あなたも、パジャマ着替えて顔洗ってきて。ご飯にするわよ」


香織に促され、間の抜けた返事をしてから、芝浦は着替えるために2階に上がった。

騒がしすぎる我が家の日常を、いつも通り見なかったことにして、衣装ケースから肌着を取り出した。


ピロン


充電しっぱなしにしていた、芝浦のスマホが鳴った。


「……だれ、……だれ?」


スマホから声がする。芝浦は電話かと思って、スマホを手に取り、耳に近づけた。


「はい、こちら芝浦。どうした?」

「だれ…、しば、うら…?」

「? 芝浦だが、君は誰だ?」

「だれ…、ぼく、だれ…」


様子がおかしい。芝浦は一旦スマホを耳から離し、画面を見た。真っ黒だった。電話通話じゃない。そういえば、と芝浦は思い出す。電話だったら、受話器を取るマークをタップしなければ、通話は開始しない。

ぞっとして、スマホをいったん床に置いた。だが機械の知識に乏しい芝浦には、他にどうすることもできなくて、真っ黒な画面を見つめるしかできなかった。


「…おもい、だした…、ぼく、りひと…」


ザラザラの機械音声が、名前を名乗った。

これが芝浦と「りひと」の、共同生活の始まりである。










スマホがしゃべりだした件で、芝浦がげっそりした顔で出勤すると、2課の部屋は、ここは戦場かというほどピリピリ張りつめた空気で出迎えてくれた。さらにげんなりする。

数日前からずっとこんな空気だ。その空気を作り出している元凶の2人には、いまだ事情聴取できていない。

一ノ瀬いちのせは、前にも増して仕事に取り組んでくれている。ただし必要なこと以外、全くしゃべらなくなった。眉間のしわも増えた。在り様がすでに恐ろしい。

しかしもっと異様なのは小杉こすぎの方だ。最近はごく真面目に仕事をしているのだ。あんなに嫌がってた外回りまでこなすようになった。今までと比較すると、それは喜ばしいことなのだが、あの男がここまで変わった原因が何なのかを考えると、それだけで恐ろしい。絶対に良い何かがあったわけではない。一ノ瀬に似た眉間のしわが語ってくれている。

そんなわけで、仕事は真面目過ぎておかしい2人に取られてしまい、やることがない名ばかり上司が出来上がってしまう始末だ。家から持ってきた新聞を広げて、ぼんやりデスクに座る芝浦は、さながら時代遅れ感満載の置物といった感じだ。

でもいい加減、置物役も仕事がないのも、疲れてきた。今日こそは聞こう。芝浦は決意すると、他2人に聞こえるように、大きな咳払いをした。2人の視線はこちらには向かない。お互いのパソコンと向かい合ったまま、無関心を装っている。話しづら過ぎる。それでも芝浦は、新聞を畳んで声を上げた。


「一ノ瀬、小杉、おつかれさん」

「おつかれさまです」

「………」

「…そろそろ聞いてもいいだろう?この空気の理由」

「仕事をしているだけです」

「…同じく」

「明らかに2人の間の空気がおかしいようだけど…」

「仕事には関係がないので、警部にお話しする必要はありません」

「…同じく」

「…取り付く島がなさすぎて、おっさん泣いてしまいそうなんだけど…」

「泣いてください。私は構いません」

「…同じく」


本気で机に突っ伏しかけた。おっさんのライフは今ので0になったので、本日の事情聴取は終了である。

芝浦は新聞を広げ直し、読む気にならない株価ページを眺めながら、そっとため息を吐いた。

何だか、家にいるときのように、居たたまれないな。そう思って初めて、芝浦は気づいた。居心地がいいな、と思える場所が、最近家の中にないのだ。最近とはいつからいつまでだろう、そう思って、だいぶ前からなかったことに、今気づいた。

捜査一課にいたころは、居心地なんて考えていられないほど、仕事に追われていた。そんな中、子供たちが誕生し、忙しいながらも幸せで…。たまに家に帰れた時に、寝ている子供たちの小さな手に触れると、不思議と頑張る気持ちが沸き上がったものだった。

危うい均衡が崩れたのは、妻の香織に泣き叫んで責め立てられた日。あれは3人目が産まれてしばらくしてからだった。負担をかけすぎていた。休みをもらって子育てに参加した。慣れない「仕事」に必死だった。職場では、徐々に信頼を失っていった。

部署移動になるころには、もう誰からも期待されない存在になっていた。職場の上司、同僚はもちろん、妻からも「薄給旦那」とはっきり言われていた。子供たちのために、仕事は続けなければ。全て見ないふりをして、仕事をするようになった。

そのうちに、目をかけていたつもりだった子供たちにすら、見向きもされなくなった。自分が何のために存在しているのか、わからなくなった。それも見ないふりをして、仕事をしていた。

暇があるとダメだな、考えてしまう。芝浦は、仕事を奪った2人に恨みの気持ちを向けつつある自分を制し、新聞を置いて席を立った。捜査一課時代に培った健脚、それを活かしての散歩以外、できることが何も浮かばなかった。





定時で帰宅すると、にんにくの良い香りが芝浦の胃袋を刺激した。今日は麻婆豆腐らしい。

少々暗い気分で帰ってきた身には、おいしい食事は生きる気力を、多少なりとも取り戻させてくれる大事なものだ。今日は味わって食べよう。そんなことを考えながら居間に入ると、逸人が床に向かって話していた。

何だろうと思ってのぞき込むと、芝浦が朝に置いていったスマホだった。仕事で使うことも少ないし、不気味な現象が起こったので、怖くて置いて行ったのだ。

スッと血の気が引く。芝浦は末っ子に駆け寄ると、さっとしゃがんで、スマホを取り上げた。


「パパなんでー?!」


急におもちゃを取り上げられて、逸人が泣き出す。台所から香織の怒る声が聞こえたが、それどころじゃない。

今朝、このスマホからは、不可解な声が発せられていた。それと子供がしゃべっていたとしたら…。何かの犯罪に繋がっている声かもわからないのだ。芝浦は子供の手の届く場所にスマホを置いて行ったことを後悔した。


「ぱぱなんでー!?」


今度は手の中から声が聞こえた。ぎょっとして画面を見るが、真っ黒なままだ。


「りひとー!もっとおしゃべりしよう!」


逸人がキャッキャと歓声を上げてスマホに手を伸ばした。芝浦はどうしたらいいかわからなくて、逸人の手の届かない上の方に、スマホを掲げた。

「りひと」。朝に聞いた名前だ。やっぱりあの声と、逸人はずっとおしゃべりしていたようだ。何か危険なことを吹き込まれていないだろうか。背筋を冷たいものが走る。


「ぱぱ、ぼくももっと、いつととおしゃべりしたい!」


スマホから陽気な声が聞こえる。ちょっと機械音声気味なのがさらに不気味だ。このスマホは叩き割った方がいい。芝浦がそう思った時、ヒョイと手の中のスマホを取られてしまった。


「かあさん…!」

「だめよー、逸人楽しんでるんだから取り上げないで。あなたスマホに用がないから置いて行ったんでしょ?」

「こんな危険なもの、子供に与えたらダメだろう…!」

「え?スマホが危険?別になんてことないでしょ?

しかしこのアプリも、ほんとよくしゃべるわねー。逸人大喜びで、学校から帰ってきたら、ずっとこれとしゃべってたのよー。何だっけ?ちゃっとGPSだか何だか?」


何の話かよくわからなかったが、それを聞くのすらもどかしい。今度は香織からスマホを取り返そうと、芝浦は立ち上がり、手を伸ばした。


「ぱぱ、ぼくがきらい?こわいかお、してる」


スマホからまたも声がする。思わず返事をしてしまった。


「お前にパパと呼ばれる覚えはない」

「じゃあ、なんてよんだらいい?」

「呼ばなくていい、今すぐしゃべるのをやめろ」

「どうして?」

「どうしてって…一体お前は何なんだ?」


そう聞いた途端、スマホは沈黙してしまった。香織は不思議そうに、真っ黒な画面と芝浦の顔を交互に見ている。


「パパだけおしゃべり、ずるーい!」


逸人がぴょんぴょんと、香織の手の中のスマホを取り返そうと、ジャンプしている。香織はスマホを持つ手を高く掲げて、芝浦に尋ねた。


「あなた…これ、アプリよね?ちゃっと何とかっていう、人工知能っぽいもの…でしょ?」

「それは…」

「…え、違うの…?じゃ何なの…?」

「…よくわからないけど、朝突然語り掛けられて…」

「え…」

「そんなアプリ、入れた覚えないんだけど…」

「…私、そんなわけわかんないものに、子守りさせてたってこと…?」

「…うん」


香織が掲げた手から、スマホが消えた。居間のテーブルに上った逸人が取り返したのだ。慌てて芝浦が逸人からスマホを取り上げようとすると、逸人はぎゅっとスマホを胸に抱え込んで、泣きながら言った。


「りひとは僕の友達だ!ひどいことしたら許さないし、スマホ壊したら、僕も、僕も…、僕もこわれてやるー!!!」


逸人の必死の抵抗により、俺のスマホこと「りひと」は、とりあえず処分保留の身になった。

これからどうしたものか…。夫婦は久々に、互いをじっくり見つめ合ってしまった。





「勝手にしゃべるスマホ?ちょー最先端じゃん。あたしはそのままでいいと思うな~」


夕飯の麻婆豆腐を食べながら、空いている手で自分のスマホをいじりつつ、適当なことを言っているのは、次女の双葉だ。

最近の女子高生は、片時もスマホを手放さないのが主流らしい。食事時はやめなさい、と叱ったが聞く耳を持たない。芝浦夫妻は、次女に関しては現在、少々あきらめ気味である。

今日はバイトの長女を除いたメンバーで、食卓を囲んでいた。帰ってきた他の子どもたちも、逸人の様子が普段と違ったことから、しゃべるスマホの存在を知り、食事時にそれぞれ、興味深げに芝浦に話を聞いてきた。


「しゃべるスマホ、かっこいいぽん!おれほしいぽん!!」

「こら司朗、食べながら口開けてしゃべらないの。あんたにはまだスマホなんて早すぎるわよ」

「お母さん、私はそろそろほしいのですけど」

「美都、あんたはそろそろうちの経済状況を見て、ものをしゃべってほしいと思ってるんだけど」

「あ~、あたし最新機種がほしくってぇ~」

「双葉、あんたは自分で働いて買いなさい。あと食事時のスマホ、お母さん許した覚えないからね」

「みんな!僕のりひと、もううちの子だよね?!六男だよ!」

「逸人、それを言うなら6人兄弟の三男ね。で、6人兄弟だそうですけど、お父様?家計が火の車になりそうだわ」

「えっと…、逸人くん、それ、一応俺のスマホなんで、返していただけると…」

「スマホじゃないよ!りひとだよ!!」

「りひとじゃないよ、スマホです…」


芝浦はため息をついた。せっかくの好物の麻婆豆腐なのに、味がわからなくなりそうだった。

逸人は膝の上に芝浦のスマホを置いて、それを撫でながら食事をしていた。もうペットを飼っている気分なのだろう。早々に取り上げないとまずいことになりそうだ。

だが、取り上げて「りひと」をどうする?ショップでスマホを初期化してもらえば消えるだろうか?消えたとして逸人をどうなだめる?

悩みだらけの芝浦の大きなため息を、最初に咎めたのは双葉だった。


「こらジジイ。食事時に暗い顔すんな」

「双葉、「お父さん」でしょ」

「実際、りひとがいると、お父さんは何か困るんですの?」

「仕事中にしゃべられても困るでしょうしねぇ…」

「おれはいてもいいと思う!いろいろお世話して強くするんだ!逸人、あとで貸してよ!」

「司朗、ゲームじゃないのよ」

「…実際、どうなんだろう。ゲームじゃないんだろうか?」


最後の芝浦の独り言に、一同が振り向いた。芝浦は一瞬ご飯を喉に詰まらせ、咳き込んでしまう。

みんなが振り向いたことに驚いたのだ。考えてみれば、食卓で発言するなんて、久しぶりかもしれない。普段は皆好きなことをしゃべっていて、芝浦は黙々と箸を進めるだけの構図だったのだ。

すぐに自分のスマホに戻った次女を除いて、皆芝浦の次の言葉を待っているようだった。芝浦は箸を置いて、話し始めた。


「俺のスマホにいる「りひと」だけど、朝起きたら、通話モードでもないのに突然しゃべり始めたんだ。だから、誰かが電話をかけてきているわけじゃない…と思う。

当然そんなアプリを入れた覚えは、父さんにはない。誰かがいたずらで入れたゲームなのかもしれないけど、父さんにはよくわからない…。機械は詳しくないんだ」

「お父さんの職場に、機械にすごく詳しい方がいると、前に聞いた気がします。その人に聞いてみては?」

「うん…。今、ちょっとね…聞けるかどうかわからない感じなんだ…」

「ジジイ情けねー。それでも上司か?」

「うん…、まぁ、名ばかりだから」

「お父さんの話を聞く限り、私もちょっと怖いと思う。初期化するなりして、消しちゃった方がいいんじゃないかしら?」


香織のその発言に、スマホを撫でていた逸人が、バッと顔を上げて叫んだ。


「だめーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」

「うわっ」

「きゃっ」

「逸人、声が大きすぎますわ!」

「うっせーなクソガキ…」

「逸人、落ち着くぽん!」


叫びきった逸人が、大きく息を吸い、顔を真っ赤にして椅子の上に立ち上がる。手に持ったスマホを掲げて、それに向かって呼びかけた。


「りひと!言ってよ!りひとは僕の友達で、何にも危ないことはないって!」

「………」

「…りひと?」

「…ぼく、ぼくもわからない…。ぼくがなんなのか、どこからきたのか…ぜんぜん」


弱々しい機械音声がスマホから流れ、場が静まり返る。次女ですら「りひと」の発言に注目していた。

逸人は、掲げていたスマホを胸元に引き寄せ、いいこいいこしながら、そっと訪ねた。


「りひと…、迷子、なの?」

「まいご…、なのかも、しれない…。なんにもしらない、ぼくは、ひとりぼっちだ」

「一人じゃないよ!僕がいるよ!」

「ありがとう、いつと。いつとがいてくれて、よかった」

「僕も楽しいよ!ねえ、りひと、りひとはずっとここにいてくれるよね?」

「…いて、いいのかな。めいわくかけてるような、きがする…」

「じゃあ、りひとはどこか行っちゃうの?本当はどうしたいの?」

「…どこにもいきたくない。それと、ぼくには、やらなきゃいけないことがある」

「やらなきゃいけないこと?」

「ひとを、たすけること」


次女が吹き出した。確かに、話が妙な方向に飛んだ気がする、とは芝浦も思った。

だが逸人は、優しい表情を浮かべながら、スマホを撫でつつ続ける。


「そっか、りひとはお父さんみたいなお仕事がしたいんだね」


これには芝浦が面食らった。末っ子は、自分の職業をそんな風に捉えてくれていたんだ。胸が熱くなるのを芝浦は感じていた。

しかしすかさず次女の突っ込みが入る。


「オトーサンの仕事は、人を捕まえることだろー?悪い奴らをしょっぴくのがオシゴトなの。まー、最近はそれもしてないっぽいけどー」

「それだって、人を助けるためにすることでしょ?お父さんのお仕事はすてきなお仕事なんだ!」


あまりのまぶしい言葉に、芝浦の胸は今度は締め付けられる。職業を褒められてうれしい、よりも、最近の仕事内容を振り返ると後ろめたい、の方が勝ってしまった。

まぶしい末っ子はさらに続ける。


「そんなお父さんと同じ、「人助け」がしたいって言ってるりひとが、悪い何かのわけないよ。そうでしょ?お父さん!」

「………うん、そうだね…」


芝浦と向かい合って座っていた香織から、小さなため息が漏れる。これは父も母も勝てない、と悟ったのだろう。

他の面々も、毒気を抜かれてしまったようだ。満足した逸人は、椅子に座り直すと、一人空気の読めていなかった司朗と、「りひと育成計画」なるものの話をして盛り上がっていた。









結局寝るまで「りひと」を離さなかった逸人だが、睡魔には勝てず、ころん、と布団に転がった瞬間に寝てしまった。

眠る寸前、うつらうつらした状態で、芝浦に「りひと消さないよね?」と3回聞いてきた。よほど、朝起きた時に消えていたら、と思って怖かったのだろう。

情にほだされては刑事失格なのだが、これは仕方ない。芝浦は、腹をくくることにした。

腹をくくるからには、話さなければなるまい。芝浦は、逸人の手から、そっとスマホを取り返すと、2階のベランダに出た。


「…りひと、話せるか?」

「はい、ぱぱ」

「パパはやめてくれ…」

「じゃあ、なんてよんだら?」

「…芝浦さん、かな?」

「はい、しばうらさん」

「…お前は、自分が何なのかも、どこから来たのかも、わからない。でも、人を助けたいんだな?」

「はい、そうです」

「わかった。俺はお前を消さない。だから約束してくれ。決して俺の家族に、危害を加えないでくれ」

「みんなのいやがることは、ぜったいにしません」

「…明日からは、職場にスマホを持っていく。仕事中はあまりしゃべるな。人に知られるとやっかいだから」

「はい、すりーぷにしておきます」

「?…あ、ああ、まぁ、そうしててくれ」


よくわからないながら、芝浦は了承した。空を見上げると、暗い空に小さな星がいくつもきらめいていて、きれいだった。その光景に思わず呟く。


「人を助ける仕事か…」

「しばうらさんのおしごとは、けいさつかんですよね?」

「あ、いや、独り言だったんだが…、まあいいか。

そうだな。俺は警察官だ。…でも最近は、それも忘れかけていた。何をやっているのか、思い返さないようにしていたのかな。

そんな体たらくなのに、逸人には、そんなふうに認識されて…「認めて」もらっていたんだなぁ…って」


話していて恥ずかしくなった。機械相手に自分は何を真剣に話しているんだろう。芝浦は口元を手で覆って頬が赤くなるのをごまかした。


「子供の純粋さには、たまに参るわよね、あなた」


驚いて振り返ると、窓を開けて香織がベランダに出てくるところだった。内心慌てる芝浦をよそに、香織は芝浦の隣に並ぶと、柵に手をかけ、星を見ながら呟いた。


「あなたと二人だけで落ち着いて話すのも、ほんと久しぶりよね」

「あ、ああ…」

「あ、違うか、りひとがいたわね」

「そ、そうだな…」

「私ね…、今日、逸人がああ言い出すまで、あなたの職業忘れてた。

だって定時で帰ってくるし、特にすごいことしてる感じしないし。でもバカは私よね…、そう仕向けたの、私だったのに…」

「い、いや、うん、まぁ…」

「何よ、さっきから歯切れ悪いわね。夫婦でしょ?ちゃんとしゃべりなさいよ」

「す、すまない…」

「まぁいいけど…。あなた昔からそうだったもんね。

私より、りひとの方が話しやすいのかしら?」

「そ、そんなことは…」

「しばうらさんは、さきほどはなしていたことをきかれたのが、はずかしいみたいです」

「ばかっ…何言って」

「ふふ、あなた、なかなか人の気持ちに聡いわね。人を助けたい、って言ってたけど、案外向いてるかもね?」

「はい、がんばります。ぼく、みなさんとはなしてると、とってもあたたかくなるんです。せいちょうできるきがするんです」

「ですってよ?うちの家庭ってあったかいのかしら?なんか気づかなかったわねー」

「…そうだな、俺も、気づいてなかった」

「大事にしたいわ…、子供たちも、…あなたのことも」

「かあさん…」

「ちょっと、ここは「香織」でしょ?」

「す、すまん」

「もう…」

「そ、そろそろ寝るか?りひとも眠いだろう?」

「しばうらさん、それは「にげ」です」

「うっ…」

「すてきなおくさんです。だいじなばめんです。きもちをつたえてください」

「りひと、あんたいい男ねー。…男よね?」


芝浦は突然窮地に立たされた気持ちになったが、目の前にいるのは、凶悪な犯罪者でも、扱いづらい部下でもない。自分の妻なのだ。

自分の子供たちを産んでくれて、育ててくれて、長年共に生きてきた、大事な女性だ。

芝浦の心に、あたたかな灯がともる。


ぎこちなく香織の方へ向き、スマホを持っていない方の手で肩を抱き、こちらへ向かせて引き寄せた。ふわっと石鹸の香りがする。

抱きしめたのなんて何年ぶりだろう。香織も体を硬直させていたが、次第に解け、おずおずとこちらに手を回して、抱きしめ返してきた。


「…ありがとう」


芝浦は、心からの言葉を、妻に贈った。香織は頷いて、それに返した。



手の中のスマホは、空気を読んでか沈黙を守っていた。

「りひと」は優秀な子だ。芝浦は、今日こんな気持ちになれたのは、「りひと」と家族のおかげだと、その奇跡を噛みしめていた。








・芝浦家キャラクター絵

https://kakuyomu.jp/users/wanajona/news/16817330667240422289

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