第27話 貧民窟
垢と汚物とカビと腐敗の臭いがする。
王都の東の外れの貧民窟・イーストスラッグは、そういう場所だ。
「ひどいところですね」
リュウは顔をしかめてつぶやいた。
ハンウェーは無言で先頭に立ってずんずんと進んでいく。あばら家が並ぶ迷路のような道だった。素人が雑に増改築した小屋ばかりで、どれも建てつけが悪い。
「あら めずらしい おきゃくさん ね 」
アルコール臭をまき散らし、ふらふらと近づいてくる女があった。施しを求めるように手のひらを上にして両手を突き出している。衣服からのぞく皮膚にはいくつもの潰瘍があり、目は炎症で真っ赤。
哀れに思ったプリムラは、鞄から何かを取り出そうとする。
「やめとけ」
ハンウェーはそれを制止し、強引にプリムラの腕を引いて女から離れた。
子どもか大人かわからない小さな干からびた人間が、道端に座り込んでいる。リュウがそれに声をかけようとするのも、ハンウェーは止めた。
「やめとけ」
イーストスラッグの出入り口付近には、都へ出て物乞いをするような者が多くいた。つまり、いくらか言葉を話せて、服を着て、自力で移動できる者。
そして、この町の奥の方ほど住民は壊れている。
退廃した町に心を痛めるリュウを、ハンウェーは冷たく突き放した。
「この世界を出ていくおまえが首をつっこむことじゃない。気になるなら自分が市長にでもなるんだな」
イーストスラッグには地図などないので、しらみつぶしに歩くしかない。哀れな貧民をかわし、時折現れる粗暴なゴロツキから逃げ、少し大きめの建造物を見つけるたびに「ここが偽カンクロの製造所」と唱えられるかどうかを確認していった。
二時間ほどで目的の建物に到達できた。
この町の中では立派な部類の建物だった。素朴な住居のような外観で石を積み上げた平屋に見えるが、地下室があるかもしれない。
地下室の有無と中にいる人間の数は、リュウが声に出して唱えることで確認した。
「地下室あり、中にいるのは一人。中にいるのは魔道士。ということは虚偽の加筆の実行犯はここにはいないのか」
「で、どうするんだ?」
ハンウェーの問いかけに、リュウとプリムラは答えられなかった。イーストスラッグに入ってまだ二時間だが、二人の体力と気力は大きく削られてしまった。すえた臭いを嗅ぐことも、廃れた人間を目の当たりにすることにも、慣れていない。
「おいリュウ。おまえ、位階の高い魔道士だから対処できるんだろ」意地の悪い言い方で発破をかけたハンウェーは、次に優しい声色になる。「だいじょうぶだ。敵は魔道士なんだろ? だったら少なくとも言葉を操るだけのマトモさがあるはずだ。この町で見てきたような廃人とは違うさ」
(嫌な考え方だが、たしかにその通りだ……。この町にずっといると僕まで嫌な考え方に染まってしまいそうだ。さっさと片付けて、早く帰ろう)
建物の入り口にプリムラを残し、リュウとハンウェーが潜入することにした。
地上部分の戸板と窓はほとんどすべて外れている。
「一階はほとんど雨ざらしか。資材も成果物も地下だな。よし入るぞ。リュウ、防御術よろしくた 」
そして中に足を踏み入れた瞬間、すべての音が途絶えた。
「 」
「 」
自分の声も、相棒の声も、耳に届かない。
足音も、衣擦れの音も、聞こえない。
無音。
ひるんだリュウが一歩後退して外に出ると、風の立てる葉音、己の肉体の活動する音、靴が地面を踏む音などが、どっと耳になだれ込んだ。
「音が聞こえなかった?」
発声を確認してから、改めて建物に一歩踏み入れてみる。
「 」
やはり音が途絶えた。
建物に出たり入ったりする男二人の様子を、プリムラはきょとんとして見つめている。
「この建物の中では音が出ない?」
リュウが半信半疑で疑問を口にしたことで、その通りであることが証明された。
「あ、これ俺のせいかも……。たぶんノイズキャンセリングだ」
突然自己申告したハンウェーに、魔道士二人の視線が注がれる。
「魔術でノイズキャンセリングを実現してるってことですか」
「のいずきゃんせりんぐ?」
「言葉で表現できれば何でも魔術に組み込めるんだろ?
(どうしてくれんだ、このクソ傘屋!
リュウは罵倒を飲み込み、建設的であろうとした。音声で魔術を発動できない状況を前提にして、三人の行動計画を立て直す。
あらためてリュウとハンウェーは建物に侵入した。
一階は屋根の一部が崩れ落ちていて、十分な明るさがあった。がれきや砂が散らばっているものの、廃棄物や死骸の類はなく、そのため害虫もカビも少ない。イーストスラッグとしてはかなり良い環境で、リュウの呼吸は楽になった。
しかし、砂を踏む感触があるのに音が聞こえないというのは不気味なもので、一刻もはやくこの場を離れたい。気持ちの一致した二人は、速歩で移動し、地下室を探す。
地下へと至る経路は梯子だった。床に開けられた穴には蓋がなく、そこが地下室の入り口だということは隠されていなかった。
梯子に足をかけた瞬間、地下室の灯りが消え、闇となる。
二人はそれぞの指先に灯していたマナの光を頼りにして、梯子の先を照らす。タイル張りの床とレンガで固められた壁が見える。
後ろ向きに梯子降りようとしたリュウを制して、ハンウェーは器用に壁と梯子を背にして降りて行く。
地下室は地上部分よりもしっかりした造りで、砂埃もなく、紙などの資材を保管できそうな空間だった。向こう側の壁まで光が届かない。プリムラの予想通りに、それなりに広い部屋のようだった。
無防備にきょろきょろするリュウの横で、ハンウェーが急に前進した。
ハンウェーの指先の灯火が、敵の姿を照らす。若い男だ。
男が傘を開ききる前にそれを蹴り落とし、顔面に頭突きする。開いた口に石を押し込んで、殴打を重ねた。
息づかいも、うなり声もない。拳が肉と骨にぶつかる音もない。男の鼻や口から流れ出す血を見てようやく、リュウはハンウェーの優勢を実感した。
リュウは事前に傘に書き込んでおいたスクリプトに、
地下室全体が照らされる。部屋の隅には高く積まれた真新しい書籍の数々と、本の形になる前の資材。部屋の中央には紙の山に覆われた机があった。『カンクロ』ではないものの、偽造出版物の製造を行っていることは確定だった。
魔術モデル図や魔術理論の記された大量の紙を見て、リュウはリッド・リリジャールと共に過ごした家を思い出した。
(違法出版物の製作所というより、魔道ラボという感じだな)
机の下には大きな屑入れがあり、書き損じの紙と共に果物の皮やナッツの殻などが捨てられていた。よく見るとその中に、ごく小さな暗赤色のゼラチン質のようなものも見える。
(ゼリーっていうか、生肉……? 何だこれ)
顔を近づけると、すでに腐敗が始まっている臭いがした。手で鼻を塞いで、顔をそむける。
(いや、気になるけど今は脱出が先だな)
ハンウェーが相手の魔道士を制圧したまま、指で上の方を指し示している。リュウは再び傘のスクリプトに
建物の外で待機していたプリムラは、血まみれで倒れる男の姿に絶句する。
ハンウェーはそれを尻目に、つま先で男を小突いて言った。
「偽造は誰の指示だ。喋れないなら書け。白状したらお前の口を復元してやる」
男が右手で地面に書こうとしたの見ると、勢いをつけてその右手を踏みつける。男の悲鳴が響き渡った。プリムラは目をつぶり耳をふさいだ。
「おまえ右利きか。じゃあ左で書け。正直に書いたら右手も復元してやるよ」
ニセモノを製造した魔道士は、顔からしたたる血を震える指につけ、地面に書いた。
メッシー モア
「メッシー・モアってのが、お前のボスか? はいかいいえで書け」
はい
「カンクロに加筆をしたのは誰だ?」
男はメッシー・モアの名を指差した。
「リュウ、他にこいつから聞きたいことは?」
「あなたがこの計画に加担した理由を知りたい。それから、ノイズキャンセリングを発動したのは誰か知りたい」
男は回答を記し始めたが、地面に記される文字はかすれと乱れがひどく、ほとんど読み取れなかった。
「嬢ちゃん、こいつの右手を治してくれ」
「復元の
対象:あたしの目の前に倒れている男の右手
治った右手に細い黒鉛の棒を与え、紙につづらせた。
金目当て
ノイズキャンセリングは俺じゃない
誰がやったかも知らない
「おっと、魔術を発動されたら困る。これ以上は何も書くな」
ハンウェーは男の手から筆記具を取り上げた。そして地面に書かれたメッシー・モアの名前を足でこすって消す。
ふと辺りを見渡すと、騒ぎを聞きつけて住民が集まりだしていた。
「そろそろ退散しないといけないな。傘の使い方、よくわかったよ。ちょっと思うところがあるんで俺は店に帰りたい。おまえらはこいつを判事に引き渡すなり、王宮に連れて帰るなりすればいい。ってことで転送よろしく頼むぜ」
リュウとプリムラは言われた通りにハンウェーを店へ転送した。男の口を復元するタイミングを見失ったまま、二人はフラッドリーヒルへと戻り、魔道治安部隊に男の身柄を預けたのだった。
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