第17話 世間知らず
フラッドリーヒル宮殿におけるリュウの立場は、音読調査のために特別任用された魔道士官というものだった。しかし音読調査はリュウが何もせずとも順調に進んでいく。どうやら特別任用とは名ばかりで、その実は女王の話し相手としての登用だということに、リュウは気付き始めていた。
三食昼寝付きの生活も、そればかりが続くと倦む。
ありあまる自由時間を利用して世界間移動の研究を進めてみるも、マナ不足という事態に直面し、停滞しがちであった。
リュウの自宅や日本、地球といった宛先を魔道士の言葉で指定することができるのに、いざ
マナの
雪原地帯で
リュウが研究資金を欲しているのはこのためで、工面できたらほとんどは魔道士を雇う人件費となるはずだった。
宮仕えとなった折には高給を期待したが、それは単なる世間知らずというものだった。少しばかり職位の高い公務員でしかなく、恵まれた衣食住を保証されること以外は一般の民とそれほど変わらぬ収入額だ。
何もなさぬまま自室の机に向かって溜め息をついていると、ドアがノックされた。
「リンドウ・リュウ様。陛下がお呼びでございます」
特大の溜め息に続いて、転送魔術を唱える。宛先は「女王の居場所」。こんなに雑な宛先指定をしていたら、いつかはハプニングが起こるかもしれないなどと考えなくもなかった。今のところ、女王の守りは完璧だ。
今回の移動先は、王の執務室だった。
「ごきげんよう、リンドウ・リュウ」
「ごきげん麗しゅう、陛下。本日これで三度めです」
女王の話し相手を二週間も務めているうちに、リュウは多少の嫌味も言えるようになっていた。彼の気のせいでなければ、女王もそれを望んでいるようだった。
女王の合図で、官吏も衛兵も部屋を出る。最後の一人は、去り際にわざとリュウと目を合わせてニヤニヤした。
その男が部屋から遠ざかる足音を聞くと、キャサリンは少女の口調と態度になって、あきれたような口調でこう言った。
「あれ、あなたのことをわたしの愛人だと思っているのよ」
「それは困りますね」
「わたしも十七歳ですから、もうすぐ結婚相手を決められることでしょう。婚姻後の姦通は罪ですが、婚前の関係については多少は黙認されるものです。それで、そういう相手だと思われてしまったのですわ」
「はあ、そうですか。陛下、御用件をお聞かせ願います」
もう雑談の聞き役はごめんだと言わんばかりに、リュウは女王の言葉をぶった切る。
「ふふ。そういう態度、いいわね。お友達みたいで楽しいわ」
(いや、そうじゃなくて早く用件を……)
「あなたとお話できて楽しい二週間でした。音読調査はまだ二ヶ月以上続きますが、あなたにはフラッドリーヒルを出る許可を出します」
「……?」
「自由に行動してよくってよ」
突然のことに理解が追い付かない。硬直しているリュウに向かってキャサリンはいくつかの質問を投げかけた。
「あなた、雪原地帯にいた頃はリリジャール様と二人っきりで過ごしていたのよね?」
「はい」
「町に出たり、学校へ通っていたりしたことは?」
「買い出しに行く程度でした。
「お友達はいて?」
「いません」
「そうですか。言いにくいのだけれど、あなたはもう少し外を見た方がいいと思ったのよ。読み書きができるのだから、王都の図書館に行ってみるのはどうかしら。近くに文化人の集まるサロンもあるわ」
「それは、簡単にいうと僕に一般教養がない、と」
「そこまでは言いませんけれどね……」
魔道士の
いつもはっきりとものを言うキャサリンが、珍しく口ごもっている。他人の教養レベルについて口を出すのははしたないと躊躇いながらも、士官に採用したのがキャサリン自身の独断であった手前、リュウには常識的な行動をしてほしいという本音があった。
リュウ本人の方にも、いくつか自覚がある。
雪原地帯の住居ではすべての水を井戸と湧き水でまかなっていたため、カークランド全土がそのような技術レベルだと考えていた。実際は、大きな都市では水道が整備されている。
複写と転送の魔術によって、日刊の新聞などの情報網が発達していることも知らなかった。都市部と農村部で識字率に格差があることや、文字を読めない魔道士の就労問題が起きていることも、フラッドリーヒル宮殿に来てから知った。
魔道の学習のために大量の読書をしたという自負があったが、それで得た知識が実際の世の中とあまり結びついていなかったのだ。
キャサリンは
恥ずかしさと悔しさが入り混じり、リュウは頬の内側を軽く噛んだ。
キャサリンの声は、そんな彼を慰めるように優しいものだった。
「わたしからの命令は一つだけ。王都の図書館へ行って魔道書以外の書物を読み、司書と話すこと。それ以外は好きに行動なさって。王宮魔道士官の制服があれば、大抵の施設へ入れます。支度金も渡します。来週の今日、この宮殿でまたお話ししましょう。楽しみにしていますわ」
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