第16話 キャサリン・カークランド
フラッドリーヒル宮殿の王の間は若竹色を中心とした内装で、以前リュウが侵入した部屋に似ていた。大きく異なるのは、一つの壁面が巨大な書架であることだった。
「今から少し、肩書を下ろす」
そう言って女王は耳飾りと首飾りと髪飾りを外し、クロスの敷かれたテーブルにそれらを置いた。
ソファに腰かけた彼女の表情は軽やかで、口調も声色もがらりと変わった。
「あなたもお座りになって」
「ありがたきお言葉でございます」
「そんなに堅苦しくなさらないで。女王っぽくふるまうのも疲れるのよ」
プライベートの時間だということを強調するキャサリンだったが、リュウの緊張はほぐれない。
(アクセサリーを外しても神々しいな。なんというビジュアルの強さよ)
「わたし、もっとあなたとお話ししたいのよ」
「……」
「もう! わたしが女王だから礼儀を気にしているのね? なれば女王として命ずる。くつろげ」
(そんな命令ある?)
「承知いたしました。仰せのままに」
全身でくつろぎを表現するために、近くのソファに腰を下ろし、背もたれに体を預けた。
「それでいいのよ。でね、まずはこれを見てほしいの」
キャサリンは手元に紙とペンを用意し、縦に五文字書いた。
空沼 うつつ
「日本語!?」
リュウはソファにもたれたばかりの上半身を起こして身を乗り出した。何度見てもそれは漢字とひらがなだった。
「やっぱり。あなた、おばあ様と同じ国の出身ね?」
「おばあ様は日本人だったんですか」
「そう。ウロヌマ・ウツツと読むのよ」
うきうきとした様子のキャサリンは、さらに二文字を書いた。
静岡
「シズオカというところに住んでいたんですって」
「僕は東京に住んでいました」
「ニホンの都ね」
リュウは突然あふれ出した涙を止めることができなかった。
ボタボタと落ちる滴を袖で拭う。
キャサリンがそっと差し出したハンカチを受け取り、礼を述べようとしたが声にならなかった。
薄いハンカチは湿って重くなった。
肩を震わせるリュウを、キャサリンはじっと見守る。
コチコチと時を刻む時計の音と、すすり泣きの小さな声だけが部屋に満ちた。
どのくらい泣いただろうか。
落ち着くのを待って、キャサリンは語り始めた。
「おばあ様から聞いていた
「あの……先ほどは、取り乱してしまい失礼いたしました」
「大変なご苦労があったことでしょう。あなたはよくここまで頑張ったと思いますわ」
いたわりの言葉をかけられたリュウは、戸惑った。立場を利用して強く出るばかりだと感じていた女王の印象と、祖母について語るキャサリンの雰囲気はまるで異なるものだった。
「ツツおばあ様は昔話や神話というものをよく聞かせてくれて、おとぎ話とも少し違うそれにわたしは惹きつけられたの。イザナギ・イザナミや、アダムとイヴのような創世神話が特に素敵だと思ったわ」
「おばあ様はこの国の言葉を話せたのですね」
「必死に勉強したと言っていたわね。それはそうよね。突然見知らぬ国にきて、知らない男にいきなり求婚されたんですもの。言葉がわからないことにはどうしようもないわよね」
「僕も必死に言葉を覚えました」
「本を出せるほどに上達するなんてすごいわ。ほとんど不自然じゃないもの」
「つまり、多少は不自然だと?」
「何かこう……違うのよね。硬い感じかしら。うまく言えないのだけれど」
必死の学習の成果にダメ出しをされて、リュウの心が折れそうになる。それを察して、キャサリンは慌てて話題を変えた。
「あ、あのね、ツツおばあ様のお話ももっとしたいのだけれど、本題は違うのよ。メッセンジャーの正体のこと。かたくなに隠すのはなぜ?」
「僕の作品がただ日常を書きつづっただけのものだとバレたら、他の異邦人も同じことをすると考えました。できるだけ長く僕の作品が売れてほしいので、ライバルが増えるのは困ります。まあ、時間の問題だと思いますが」
「なるほど、そういうことだったのね。おそらく、それほど心配ありません。出版できるほどに
「……?」
「ふつう、井戸から子どもの体が汲み上げられても復元されませんもの。大人が新しい言語を覚えるのは大変なのよ。話すのはどうにかなっても、読み書きまでは難しいのだわ」
「子どもは、復元されない?」
「
「……」
リュウは言葉を失った。あまり知りたくないことだった。異邦人の価値は情報で量られると言われたようなものだ。己の目的のためにリュウを復元したリッド・リリジャールだけでなく、誰もが異邦人を単なる資源のように扱うのだろうか。そのように悪く考えてしまう。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、キャサリンは変わらぬ調子で話を進める。
「そういえば、わたしの他に、メッセンジャーの正体を知っている人はいるのかしら」
「プリムラ・プロウライトという魔道士が知っています」
「面接で急に泣き出した子ですわね。恋人なのかしら?」
「違います」
「あらそう。魔道士の言葉は真実ね。他には誰かいて?」
「僕を襲って原稿を奪おうとした強盗ですね。ご存知かと思いますが」
「あれは……。申し訳ないことをしたと思っています」
(いやいやいや。ごめんで済んだら警察いらないっていうか、いくらなんでも酷い)
不快感をあらわにしたリュウに対して、キャサリンは事情を説明し始める。
「マーク・マロリーより先にあなたに接触する必要があったのよ」
「左大臣のマロリー様のことですか?」
「ええ。おそらく彼は私的に異邦人を囲っていて、
「僕は子どもの頃にこちらへ来ていますから、たいした知識は持っていませんが」
「それでも、マロリーが何を重要と判断するかわかりません。彼に気付かれず、彼より先に、と思ったらああするしかなくて……」
(物理で襲ってくるとか脳筋かよこいつ)
背景には宮廷でのパワーバランスがあったようだが、リュウにとってはただの略奪行為である。
その原稿盗難未遂事件について、リュウは一つの疑問を思い出した。
「あの時、僕が転送魔術で陛下のお部屋へ侵入した時に、なぜ防御魔術に阻まれなかったのか、理由がわかりません」
「簡単なことですわ。『メッセンジャー本人の侵入は許可する』という例外規定を設けていたのよ。まあ、あなたが拘束して連れていた男の侵入まで許したのは間違いだったわね。警備の長は罰を受けたはずよ」
(なにそれ)
「わからない、という顔をしているわね。わたしも人よ。焦がれた相手との逢瀬を夢見たりするわ。それがおばあ様とふるさとを同じくする方であれば、なおのこと」
(はい???)
「と、とにかく、あの男はわたしの手の者ですから、あなたについての情報が洩れることはありません。安心なさって」
ここで礼などを述べたら負けな気がすると思い、リュウはキャサリンの言葉に無言と無表情を返す。
二人の会話が途切れたところで、時計が正時を告げる音を鳴らした。
「今日は楽しかったわ。またお話しましょうね」
キャサリンは別れの言葉を告げ、女王としての公務へ赴くために部屋を去った。
間をおかずに自室へ戻ったリュウは、その日の残りの時間を虚無感に支配されて過ごした。これまでの人生で味わった艱難辛苦とは異なる、孤独の冷たさに侵されそうだった。
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