過日のこと

第0話 リッド・リリジャールの失踪

 ~リュウ、十五歳~


 雪原に大地が姿を見せる短い夏。


 澄みわたる青空の下で、リュウは片膝をつき右手を地面に押し当てた。


「わが名は竜胆りんどう りゅう

 日本ひのもとに生まれ、井戸より出でし異邦人なり。

 リッド・リリジャールの導きにより、魔道を修めし者なり。

 魔道士は言の葉のしもべ。

 この命尽きるまで、偽りを封じまことのみ語ることを、真世界オースに誓う。

 偉大なる真世界オースよ、願わくはマナを貸し与え給え」


 唱え終わると、空気中から無数の青い光の粒が湧き出し、リュウの体を卵の殻のように覆った。光はリュウの体をこじ開けて押し入り、全ての臓腑を駆け巡り、再び体外へ出ると殻ごと霧散して消えた。


 リュウは強烈な吐き気に耐えながら、失いそうな意識をつなぎとめた。


(やった! やったぞ! マナが応えてくれた!)


 かがんだまま師匠の方を振り向いて、親指を立てる。それを受けた師匠リッド・リリジャールの方もまた親指を立て、笑顔を見せた。サムズアップはリュウがこの世界に持ち込んだジェスチャーであった。


 こうしてリュウは真世界オースとの契約に成功し、魔道士として一人前になった。


 マナとは真世界オースに漂う神的な力のことである。修行の間は、師匠がこの世界より借りたマナをさらに弟子が借りることで魔術を行使していた。それが、自立の儀式を終えて晴れて独り立ちできたのだった。


 晴れ晴れとした顔のリュウを見守るリリジャールは、魔道の師であり育ての親でもある。皺の刻まれた口元が喜びでほころんでいる。

 町からも里からも遠く離れたリリジャールの家の周りは、見渡す限り柔らかな草花に覆われている。虫や小動物の他は、白髪の老人と黒髪の少年の二人しかいない。いつも通りの静かな朝だ。


「まだ緊張しているね、リュウ」

「はい。手が、震えています……」

「堂々とすれば良い。魔道士としての人生の、一つの通過点だ」


 師匠は弟子の肩を優しく叩いた。

 リュウはその分厚い掌の温もりを感じながら、深呼吸する。


(通過点か……。本当のことだとわかってても、師匠の言葉は時々軽いんだよな……)


「お前はこれで魔道士会AFSの会員となる資格も得た。わしを通じてではなく、一人の魔道士として、世界間移動の研究を進められる」


 右も左もわからぬ異世界にたった一人で迷い込み、大魔道士グランドソーサラーに拾われたのが十歳の頃であった。

 リリジャールはリュウに言葉を教え、衣食住を提供し、何くれとなく世話を焼いた。その上、魔術のてほどきまでした。

 上下水道がなく井戸や川から水を調達する。電気もガスもない。自動車も飛行機もない。代わりに魔術がある。そんな生活に馴染もうとすればするほど、故郷を思い出し、幼いリュウの心は黒い影で覆われていった。


 リュウが充分に言葉を覚えた十二歳の頃、リリジャールは「世界間移動の魔術」という道標をリュウに示した。魔道士会AFSの総力を以てしても、未だ成すことの叶わぬ魔術。それを完成させた暁には元いた世界に戻れるかもしれない、とリリジャールは言った。


 リュウは魔術の初歩から学習を始め、貪るように教えを吸収した。生まれ育った世界から突然切り離された恐怖も、家族や友人と会えない寂しさも、勉学に励む間は忘れることができた。


 それからの三年間はあっという間だった。


 一ヶ月ほど前にリュウは十五歳になり、成人の仲間入りを果たしている。


(僕にとっては大きな到達点なんだ! よし! これからもっと頑張るぞ!)



 ~リュウ、十六歳~


 次の夏が来て、すぐに去り、また大地が雪に閉ざされる頃。

 十六歳になったリュウと師匠は、夕餉の後の語らいを楽しんでいたはずだった。


 世界間移動の魔術について、師匠が本音を漏らすまでは。


「異邦人の子どもを育てれば、郷愁を抱き、世界間移動に対して強い動機を持つだろう。そしてわしの研究の助けになるだろうと考えた。実際にそうだった。その上、若ければ若いほど物覚えがよい」


(そんな利己的な理由で僕を保護していたのか!?)


 六年間降り積もった望郷の念と、瞬間的に湧き上がった怒りの全てが、リュウの胸の内で弾けた。


「これほどまでにお前が優秀だとは思っていなかった。これほどまでに情が移るとは思っていなかった。ただの研究対象として接すれば良かったと、今では悔やんでいる」


 師匠の告白を聞き終える前にリュウは転送魔術を開始した。


採集コレクト開始。転送マナ、目標、十!」


 転送マナの青い光の粒が、リュウの両手に向かって集まりだす。


採集コレクト終了!

 変換コンバート不要!

 濃縮コンセントレート省略!

 展開デプロイ、省略!

  対象:リッド・リリジャール!」


 雑な詠唱をするリュウの声は怒りで震え、防御魔術を張ろうとするリリジャールの表情はマナの光で覆い隠された。


実行エグゼキュート!」


 感情に突き動かされるがまま、詠唱を終えた。


 展開デプロイ時に宛先を指定しない転送魔術は禁忌だ。転送の対象物がどこへ行くのか、誰にもわからない。


 リリジャールは、老いた顔とは不釣り合いに壮健な肉体を誇っていたが、あっけなく消えた。家屋は堅牢な防御術に守られていても、その中にいるリリジャール自身の体は魔道的に無防備だった。

 大魔道士グランドソーサラーも、養い子の前ではただの人であろうとしたのだろうか。

 尋ねようにも彼はもういない。


 少年は、大魔道士グランドソーサラーを消し去った。

 魔道士会AFS会長の失踪に世間は騒然とした。

 リュウは沈黙を貫いた。



 〜リュウ、十八歳〜


 プリムラと出会い、女王と言葉を交わし、物語が動き始めたのだった。

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