部屋の隅に立っていた永遠子が、するりと歩みを進め、私の隣までやってきた。私は動けなかった。本当は、永遠子から離れたかったのだけれど。

 「……明日には、帰って。」

 私が絞り出した台詞を、永遠子は水の流れでも聞くみたいに聞き流した。そして、数秒の沈黙の後、すいと口を開いたのだ。

 「愛されるのは、苦手だったわ。」

 その台詞を私は、聞き流すことができなかった。

 「愛されてたと思うの!? 私に!?」

 かなり取り乱した声が出た。愛、なんて言葉を永遠子が口にしたことへの怒りと混乱があった。私が確かに永遠子を愛した14年前、永遠子はそんなものはこの世に存在しないみたいな顔をしていた。この世に存在しないし、決して望みもしないという、いっそ超越したみたいに冷たく整った横顔。

 永遠子は静かに私を見やり、唇だけで微笑んだ。

 「違う?」

 違う。私はそう言い放ちたかったのに、声が出なかった。声帯を震わすほどの力も、もう残っていなかったのだ。そんな私を見た永遠子は、今度は両目もふわりと笑わせた。そうして笑っていても、やはり永遠子は冷たく見えた。どうしても、彼女はうつくしすぎて。

 「ずっと、私はものだったから。……あなたもそうだったわね。ものとしての私を愛していた。でも、私、はじめて愛されたいと思ったのよ。」

 ものでもいいから。

 そう呟いた永遠子の声は、部屋の静寂にしんと沈んだ。

 私は永遠子の言う意味が分からずに絶句していた。ものだった。ものとして愛した。はじめて愛されたいと思った。ものでもいいから。それぞれの言葉が、引きちぎった首飾りみたいにばらばらと私の前に転がっていた。

 永遠子はじっと私の目を見つめていた。三日月みたいに鋭い色を宿す、それでいて脆い瞳。私がかつて、必死で求めた永遠子のうつくしさだった。

 その色で、私はわずかに冷静さを取り戻した。そして、ものだったと言う永遠子の半生に思いを寄せた。

 援助交際、妊娠、堕胎。多分、嘘ではなかったそれらの噂。アルコール中毒とヒステリーだった永遠子の両親。中卒で村を出て行った彼女がどうやってこれまで生きて来たのか。洋介くんの父親は誰なのか。きっと、永遠子はうつくしすぎたのだ。私も、永遠子のうつくしさに吸い寄せられ、それを搾取しようとした人間としては、彼女をもの扱いした人間達の仲間ではあった。

 「……愛されたい、だなんて。……私、必死だったのに。必死で、」

 あなたを愛していた。

 その言葉は、言えなかった。永遠子のうつくしさしか見ていなかった自覚はあった。永遠子をものとしてしか愛さなかった自覚があったのだ。

 

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