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永遠子は笑っていた。なにもかもを諦めたみたいな、古びた観音像みたいに平らかな微笑だった。
「洋介は、堕ろさなかった。……信じてくれないでしょうけど、あなたの子どもかもしれないと思ったからよ。」
嘘だ、と喚きたかった。だって、永遠子は、少なくとも私が知っている永遠子は、そんな夢想家ではなかった。もっと現実的で、現実に疲れ切ってはいても、それに向き合うことを止められない女だった。それなのに、あの子供の父親が私だなんて、そんなことを思うはずがない。
でも、私が知っている永遠子と、今目の前にいる永遠子が全然違っているように見えるのも確かだった。今目の前にいる永遠子は、本気なのかもしれなかった。本気で、あの子供の父親は私だと思っているのかもしれなかった。
そして、私は……、私は、なにも言えなかった。堕ろされなかった子供の、永遠子によく似た白い顔を思い浮かべた。今頃、寒い寝室でひとり布団にくるまって眠っている、あの男の子。あの子は、どんな経緯で生まれ、ここまで生きて来たのか。それを知りたいと思った。
けれど、知ってしまえば責任が生まれる、私には、それを背負う度胸がなかった。やはり、永遠子をものとしてしか愛さなかったからだろうか。うつくしい永遠子の、うつくしい肉体。それを私は、一個の彫刻を仰ぎ見るみたいにしか愛さなかった。
「……でも、あなたは、あの頃、全然私のことなんか、好きじゃなかったでしょう。」
私に言えるのは、それだけだった。永遠子に愛されたことはないと、その自覚ははっきりとあったから。永遠子は私を愛さなかった。ものとしてどころか、かけらも。永遠子が愛したのは、祖母が眠っていたあの部屋の、完全な静寂だけだ。
永遠子が、ふわりと音がしそうなくらい長い睫を伏せた。白い頬に、灰色の影が伸びる。
「好きも嫌いも、なかったわ。あの頃の私には。」
「じゃあ、今は?」
「……あなたに会いに来たのは、あなたを好きだからではないの?」
他人事みたいに、永遠子が言った。小さな女の子が、空の青さの理由を問うみたいな、無心の口調だった。私は、黙った。永遠子は、本当になにも分かっていないのかもしれない。自分の感情を、なにひとつ。
もしかしたら、と思った。もしかしたら、今私が、そうだよ、と頷いて、永遠子の感情を愛だと規定したとしたら、永遠子は私を愛するようになるのかもしれない。それは、小鳥が始めに目にした動く物体を、親だと認識するみたいに。
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