3
入らないで、と、私は言った。永遠子の前に立ちふさがったまま、できる限りきっぱりと。どれくらいきっぱりした物言いになっているかは正直自信がなかった。永遠子がいなくなってから、私はどんなことに対しても、自分の意志と言うものをほとんど失っていた。
言ってから、めまいがした。入らないでって、どこに? この部屋に? 私の平穏な生活に? それとも心の中に?
するとそれを見越したみたいに、永遠子はにっこりと微笑を深めた。
「どこに?」
歌うような、永遠子のきれいな声。
私は下着の下を、冷たい汗が這うのを感じた。じっとりと、気持ちの悪い汗。永遠子の裸身にめまいを誘われ、仕事を休む時にいつも感じる汗だった。
「……この家。」
私はなんとか言葉を紡ぎ出した。この家、なんていう台詞が完璧じゃないことくらい、自分でも分かっていた。それでもなにか言わなくてはと、私は必死で。
「この家?」
永遠子は笑ったままの赤い唇に、ほっそりと伸びた人差し指をあてがった。本当に、この家? と、からかい半分に問いかけるみたいに。
私は何度も頷いた。それは、自分に言い聞かせるみたいに。
この家に、入らないで。もう、私の生活にも心の中にも踏み込まないで、私はあなたを追い出そうともがいてもがいて、それだけでこの十数年が構成されているくらいなのだから。
悔しさで、涙が出そうだった。こんなにあっさりと、私の十数年の努力が突き崩されてしまう。永遠子にはそれができる。こんなふうに気まぐれに、私の前に姿を現して、あなたの子よ、なんて戯言を口にするだけで。それだけで、私はもうめちゃくちゃだ。
「来ないで。出て行って。もう二度と来ないで。」
私は切れ切れにそれらの言葉を吐き捨てた。どれも本心だった。なのに、心が、いや、身体か、分からないけれど、私の一部が猛烈に永遠子を求めている。永遠子は、そんな私の混乱なんて、百も承知だったのだろう。十数年前、私に身体を差し出したときと同じで。だから永遠子は、平気な顔で私の肩に触れ、ふわりと軽い力で私の身体を押しのけた。
永遠子に触れられると、もうだめだった。それだけで、身体が崩れそうだった。私はふらりとよろけ、その場に座り込んだ。永遠子は平然と私の傍らをすり抜けて部屋の中へ入って行った。
そして、私に手を差し伸べたのは、永遠子の子どもらしき少年だった。ベージュのダッフルコートを着、ぐるぐるに紺色のマフラーを巻かれたその少年は、妙に大人びた気づかわしげな表情で、私にまっすぐに右手を伸べていた。
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