第18話 逢引き
皇太子から嬉しい言葉をかけられて、ついつい感極まって泣いてしまったシルヴィアは、まるで庇護対象と定められたかのように、ずっとその腕の中に囚われていた。
とっくに泣き止んでいると言うのに、あやすように頬や頭を撫でられ、全く離してくれる様子がない。
『嬉しいですけど……これはこれで、少々辛いのですが……』
何せ、ずっと胸の奥が疼き続けている。鼓動は収まったものの、柔らかい笑みを向けられる度、吐息を頬に感じる度、時折りかけられる優しげな声を聞く度、その手が触れてくる場所を変える度、胸の奥がきゅっと絞られるように感じた。
『この方は、もう少し自分が他人に与える影響を理解すべきじゃないでしょうか……』
これを敢えてやっているのだとしたら
以前、市井の様子を小鳥に同調して見て回っていた時に、耳にしたことのある言葉が浮かんだ。
『もしや、これが世に言う“天然たらし”……?』
とても複雑な気分になってしまった。胸の奥が甘い疼きから、もやもやしたものに変わった気がする。
他の女性にも、こんな思わせぶりな態度を見せているのだろうかと思うと、何だか面白くない。
「……他ではしないで下さいね」
我慢できずに、つい本音が口を突いてしまった。
「そんな優しいお顔……他の女性にも向けられたら嫌…です……」
眉を顰めて上目遣いで訴えると、皇太子は目を丸くし、ふいに破顔の笑みを浮かべた。
間近で向けられるには強力過ぎる。胸のもやもやが一瞬で吹き飛び、代わりにまた胸が強く高鳴った。
「素直な君は、本当に可愛いな……」
そう嬉しそうに囁きながら、シルヴィアの頬に口付ける。された方は堪ったものではない。
心臓はうるさいし、顔は燃えるように熱かった。
あり得ないほどに情報通の耳年増ではあるが、一般の女性が生きていく上での実体験は皆無に等しい。
ここ数日で割合と濃い体験をたくさんしたものの、まだまだ未経験のことが多過ぎる。
どんなに膨大な知識や情報があっても、全てに上手く対処できるわけもなく、己の心ひとつまともに制御できない。
そんな昇り降りの激しい精神状態に、シルヴィアは戸惑っていた。
『い、いい加減離れてくれないと、心臓が壊れちゃいそうです……』
赤くなって身を縮め、どうして良いか分からずに動揺していると、馭者との連絡用小窓の引き戸をノックする音が響いた。
皇太子がシルヴィアの頭を軽く撫でて身を離し、小窓に近づく。
「どうかしたか?」
「伝令が参りました。こちらを──」
僅かに開いた小窓の引き戸から書状が差し込まれる。それを受け取って、皇太子は向かい側の椅子に座った。
足を組んで書状に目を走らせ、何やら難しい顔で考え込んでいる。やがて書状を元通りに折り畳んだ皇太子は、窓から外を見やって言った。
「そろそろ着く頃かな。昼を大分過ぎてしまっている。腹が空いているんじゃないか?」
良く考えてみれば、ほぼ流動食に近い朝食を食べたきり、陽も大分傾いてしまっている今の時間まで、何も口にしていなかった。
現金なもので、指摘されると急に空腹を感じ出した。この体に入ってから、食事に対する積極的な欲が全く無かったので、改めて健康を取り戻したことを実感する。
「私は大神殿で待機している間、茶と軽食を出されたので、我慢できないほどではないが……朝はほとんど食べていないんだから、君は相当空いているはずだ。健康になったのだから、尚更だろう?」
「確かに、うっかり忘れておりましたが、思い出したら結構空いておりますね」
そんな話をしているうちに、馬車が停まった。皇宮に着いたのかと窓から外を見やったが、どうも様子が違う。
「ここは……」
「帝都の広場近くだ。フェスタへ連れて行く約束をしただろう?」
「フェスタ! そうでした!」
思わず子供のように手を叩いて、目を輝かせてしまっていた。シルヴィアにしてみれば、フェスタと言わず街中を歩くのも初めてである。
行きの道中で約束した時には、叶わないことと思っていただけに、改めて喜びが込み上げてくる。
「街中を歩くのも、フェスタも初めてです。とっても嬉しいです」
すっかりはしゃいでしまっているシルヴィアに、皇太子は微笑ましいものを見る目を向けながら、子供に言うように諭す。
「近衛に囲まれて歩くことになるから、どうしたって目立つだろうが、それでも少しでも目立たないようにした方が良い。私たちのこの格好では余りにも場に相応しくないので、マントを用意させる。少し待っていてくれ」
「はい」
皇太子は一人で馬車から出て、小走りで寄ってきた侍従たちに指示をしている。そのうちの一人が後ろに付いて来ていた使用人用の馬車へ走り、薔薇色のマントを手にした侍女を連れてくる。侍従の手にも暗灰色のマントがあった。
乗り込んできた侍女にドレスの上からマントを羽織らされ、そのまま手を借りて馬車から降りる。外に出て、髪が完全に隠れるようフードの位置を侍女に調節してもらいながら、シルヴィアは周囲をちらりと見渡した。
同じように侍従にマントを着せかけられながら、皇太子は何やら書状のようなものをしたためている。
「これをロベルトに至急届けてくれ。他の者に預けるようなことなく、必ず本人に手渡しするように」
そう近衛の一人に命じた顔はかなり厳しい。先ほど伝令がもたらした書状への返事なのだろうが、約束したとはいえ、フェスタなどに時間を費やしていても良いのだろうかと心配になってくる。
自分に近づいて差し伸べてくる手を取りながら、シルヴィアは遠慮がちに尋ねた。
「よろしいのですか? 何か急ぎの用事があるのでは……」
「いや、補佐官に指示を出したから、私自身は特に何もないよ」
そう言って手を取って歩き出す。周囲に護衛の騎士はいるが、彼らも目立たない色のマントに付け替えており、近衛の制服が目立たない。
皇太子もシルヴィアもマントのフードを深めに被っているため、珍しい髪の色も正装も隠れて、普通の貴族がお忍びで出歩いているようにしか見えなかった。
『なんでしょう……何だかとっても手慣れていますね。どおりで市井のことに詳しいはずです』
内心で苦笑しながらも、シルヴィアは浮き立つ気分で、その横顔をそっと見上げた。
「ふふっ……」
「楽しそうだな」
「はい! だって、これ、デートですよね」
「デート……逢引きのことか。まぁ、言われてみれば確かに」
「ね? わたくしにとっては人生初ですけど、わたくしたち二人にとっても、これは初めてのデートでしょう? とっても楽しみです」
「まぁ、そうだな。でも、あまり羽目を外し過ぎないように。できれば、悪目立ちしたくない。君もゆっくり楽しみたいだろう?」
「そうですね。少し落ち着かないといけませんね」
そう言いながらも満面に浮かぶ笑みは隠しようもない。とりあえず深呼吸をして、ウキウキしてしまう自分を少しだけ落ち着かせた。
「では、行こうか」
「はい」
「まずは腹ごしらえからだな」
やはり、鳥や小動物を介して見たり聞いたりするのとは訳が違う。その場に臨む行為には、視覚聴覚の他に、触覚や嗅覚そして味覚が上乗せされる。
知っていることと、体験することの違いをシルヴィアはここでも実感させられた。
「あっ、あれ! あれは何でしょう?」
最初はエスコートに近い状態で歩いていたのが、串焼きやガレットなどで腹がある程度満ちた後は、繋いだ手を引っ張るようにして先に立って歩いていた。
甘い匂いに釣られ、鮮やかな色合いの菓子や飲み物を見つけては、あれこれと興味を示し、どれにしようかと真剣に悩む。
「甘くて美味しい……」
皇太子は皇太子で、引っ張り回されても嫌な顔一つせず、逆にその状況を愉しんでいるようだった。
「一口いかがですか?」
入れ物を片手に、ピックに刺した蜜のかかったカットフルーツを、きらきらした瞳で差し出され、皇太子は苦笑しながらも身を屈めて口を開ける。
その口にフルーツを押し込んでから、シルヴィアも一口食べて満足し、にっこりと笑いながら皇太子を見上げては、また満足した。
食欲が満たされた後は、小物などの様々な店を覗いたり、出し物を見物したりとフェスタを十二分に楽しんだ。
空が茜色に染まり始めた頃、名残惜しい気分を抱きつつも、皇宮への帰途に着いた。
皇太子宮の自室に戻ったシルヴィアは、これから新しい生活を始めるに当たり、初めにやることとして、まずは皇太子妃専属侍女を全員集めさせた。
マントはさすがに外させたものの、正装のまま着替えもせずにソファに座り、集まった侍女たちの顔を一人一人見つめる。
何ごとかと構えている侍女たちに、シルヴィアは硬い表情で告げた。
「輿入れからずっと、わたくしのお世話をしてくれたのに申し訳ないのだけど……このひと月の間のことは無かったことにしたいの」
「どういうことでございましょう?」
突然の話に侍女たちが戸惑いを露わにする中、皇太子妃付きの侍女長であるマルティナが、丁重な態度で尋ねる。
シルヴィアは笑みを返して、それに答えた。
「わたくしはこのひと月の間ずっと、恐怖に怯えて生きた心地もなく過ごしていました──」
「え!?」
驚く侍女たちにシルヴィアは砦で受けた辱めと、帝都へ向かう途中の馬車で筆頭侍女長が言っていたことをつぶさに話して聞かせる。
あまりな内容に誰もが絶句している中、淡々とこのひと月の間のオリヴィアが抱えていた恐怖を、本人から聞いた通りに訴えた。
「昨夜……殿下が寝所にいらした時に、砦でわたくしが受けた仕打ちを耳にされたらしくて、そのことを謝って下さったの。その時にいろいろとお話をして、あれが筆頭侍女長の悪意に満ちた嫌がらせだったことが分かったのです。殿下も、皇室も、貴女方も……誰もわたくしに敵意を持ってはいないと、逆にわたくしを大事にしようとしてくれていたのだと、ようやく知ることができました。だから──」
だから、暗澹と過ごしたこのひと月のことは綺麗さっぱり忘れて、関係の築き直しを含めて、何もかも一からやり直したいのだと。皇太子に伴われて大神殿を訪れたことを好機として、今日この日を新たな始まりの日としたいのだと告げる。
侍女たちは皆、目元を潤ませながら安堵の色を浮かべて、自分たちの主が悪意による誤解から解放され、前向きな気持ちになっていることを喜んでくれた。
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