第17話 始まりの日

 一瞬、目を丸くして息を呑んだ皇太子だったが、すぐに柔らかい表情を浮かべてシルヴィアの頬に手を添え、そっと口付けてくれた。

 そんな軽く唇を重ねただけの口付けでも胸が高鳴る。だが、求めているのはこれではない。


 唇が離れるや、シルヴィアは取り縋るようにして訴えた。


「違うのです……あの……確かめたいことがあるのです……ですからっ……」

「オリヴィア?」

「ねっ、閨でするような口付けをして下さいませっ!」


 意を決して口にしたが、必死になるあまりつい大声になってしまった。頬がかっと燃え上がるように熱くなる。

 言われた皇太子は絶句してしまっている。居たたまれないものを感じるが、それどころではなかった。


 動揺の色を見せながらも、さすがに皇太子は切り替えが早い。しばしシルヴィアの赤い顔を凝視していたかと思うと、再び唇を合わせてきた。

 希望通りの深い口付け──舌を絡められ、息も唾液も貪り取られ、まるで交合のような口付けに翻弄される。


 思わず目的を忘れてしまいそうなほどの激しい口付けに、解放された後も息が整わず、シルヴィアは皇太子の胸にしがみついて虚脱してしまっていた。


「……それで? 何を確かめたかったのだ?」


 背を撫でながら問われ、ぐったりとしたシルヴィアは、何とか思考を取り戻し、未だ息が上がったままの身の内に注意を向ける。

 ここまでされても、やはり本来覚えるはずの感覚がない。


「……確かめ…て下さい……」

「確かめるために口付けを強請ねだったのだろう?」

「……自分では確信が持てないので……その、確かめて頂きたいのです……」

「だから、何を?」


 当惑しきったように問われ、シルヴィアは更に強くしがみつき、その胸に顔を強く押し付けて、消え入りそうな声で言った。


「……み、未通の確認を……して下さいませ……」

「は……?」


 かなり長いこと沈黙が続いた。さすがの皇太子も、なかなか思考を通常に戻せずにいるらしい。


「覚悟は早めの方が良いと思いますので……できれば、今……」

「……君が何を言いたいのか、まるで理解できないのだが……」


 ほとほと困り果てたといった様子で、皇太子が呟く。


「聖女…様の力のせいだと思うのです……多分、その……わたくしを健康にするのに、癒しをかけられたのではなく、元に戻されたのではないかと……」


 身に宿る力の使い方は、イメージによるところが大きい。健康を損なった体を直すのに、病や傷を癒して健やかな状態にするのか、病や傷を無かったことにして健やかだった頃に戻すのかの違いである。


 つまりは病を癒したのではなく、この体の時間を病む前に戻したのだ。自分であれば、病や怪我を直すには癒し、欠損部位を復元するには限定的に時間を遡らせるといった具合に別物として扱っていた。

 だが、聖女の力に慣れていないオリヴィアは、元に戻すことをイメージしてしまったのだろう。


『癒すだけで済む相手全てに時を遡る力を使ったら……負担が大き過ぎます。体力が持たないわ……後で、風の精霊にお使いを頼みましょう。それより、まずは……』


 自分の問題を解決しなくては──と顔を上げると、まっすぐ自分を見つめている皇太子と目が合った。

 その顔からすると、言っている意味は理解してくれたようだ。


「私は医師ではないし、器具もない。指で確かめるしかないが……それは怖いのだろう? 皇宮に戻ってから医師に……」

「いっ、嫌です……例え医師だろうと、貴方以外の殿方に触れられたくありません」


 きっぱりと応えると、皇太子の表情が少し緩んだ。


「……そうか。しかし……本当に大丈夫なのか? 嫌なことを思い出して、また以前のように──」

「大丈夫です。貴方が優しい方だと言うことは良く分かりましたから……貴方なら、きっと平気です」

「……分かった」

 

 そう短く答えた皇太子は溜め息を一つ吐き、ちらりと馬車の窓の方を見やる。つられてシルヴィアも窓から外の様子を見た。

 パレード用の馬車とは違い、外から中が見えないよう窓には厚めのカーテンがかけられており、窓自体もさほど大きくはない。まだまだ日は高いが、カーテンの開口部からは、道沿いの木々くらいしか見えなかった。


 馬車を囲んでいるはずの近衛の騎馬も、中から見える位置にはいない。馭者に指示を出すための小窓の引き戸を閉めた皇太子は、昨夜のようにシルヴィアの体を掬い上げるようにして、自分の膝に座らせた。

 右足の靴だけを脱がせて座面に上げさせ、ドレスの裾から手を差し込んでくる。


 大神殿の奥深くで暮らしていたシルヴィアは、知識として知ってはいたが、入れ替わるまで下穿きというものを身に付けたことがなかった。

 なので煩わしくも感じていたのだが、この瞬間に女性には絶対に必要なものだと実感させられた。


 下穿きを履いていなければ、どれだけ無防備だったことか。本来、夫以外の男性には触れさせることも見せることもないような場所が、呆気なく暴かれてしまう。

 下卑た輩に襲われた場合はもちろんのこと、事故のような不測の事態があって晒してしまう危険もない訳ではない。


 そんなことを考えていると、下穿きのリボンを解いて触れやすいように緩めていた手が、ドレスの裾から出て行く。

 抗議をしようと口を開きかけたが、皇太子は間近からシルヴィアの目を見据えたまま、自らの指先を舐めた。


「……!」


 あまりにも艶めかしい光景に、思わず声が出そうになるのを必死で堪える。更に頬が熱を帯び、胸の高鳴りが激しくなっていく。

 やがて、十分に濡らされた指先は、再びドレスの中に入り込み、下穿きの中へと滑り込んでいった。


 ぬるりとした指先が柔らかい部分に触れ、こじ開けるように動く。反射的に身を固くした瞬間、また唇を奪われ、先ほどのような深い口付けが繰り返された。


「んっ……」


 口付けからもたらされる感覚に流され、夢中になっているうちに、事は済んだらしい。

 先ほど以上にぐったりとしたシルヴィアが、皇太子の胸に凭れて呼吸を整えていると、頭上から感嘆混じりの声が聞こえた。


「驚いたな……」

 

 力なく見上げると、皇太子は悪戯な笑みを浮かべる。そうして、確認を終えたばかりの指先をシルヴィアに見せ、おもむろに自分の口に含んだ。


「なっ……!」

「うん……君の味だ」


 さすがに耐えがたい。シルヴィアは咄嗟に、その口を両手で塞いだ。なのに、塞いだ手の平を舐められてしまい、動揺のあまりにどうして良いか分からない。

 慌てて手を引っ込め、ひたすら口をぱくぱくさせているのを見やって、皇太子はぷっと吹き出した。


「……済まない。あまりに可愛らしかったから、ついからかいたくなってしまった」


 そう愉しげに声をかけて、ドレスの裾を少しまくり、緩めた下穿きの位置を戻して、解いたリボンを結び直してくれる。

 乱れた裾を整え、座面に上げさせていた足を降ろさせてから、シルヴィアの顔を覗き込んできた。まだ、膝から降ろしてくれる気はないらしい。


「君の言う通りだったよ。処女おとめしるしがあった。つまり君は、初夜を迎える前の体に戻っていると言うことだ」

「やっぱり……」


 心配げな顔を向けられているが、実のところ、シルヴィアとしては嬉しかった。一緒に生きていきたいと望んだ相手と最初からやり直し、シルヴィア自身が一から始められるのだから。

 だが、そんな自分とは違い、また最初から導かねばならない夫にしたら、この状況は面白くないかも知れない。


 急に不安になったシルヴィアは、皇太子の胸元に沿えた手を強く握り締めながら、呟くように心情を吐露した。


「……わたくしは良いのですけど……貴方の方は、ご面倒ですよね」

「面倒? 何を指して言っているのか分からないが、君の方こそ辛いのではないのか?」

「いいえ……酷い誤解をさせられたせいで怯え続け、生きた心地のしなかった日々を無かったことにして、最初からやり直せるなんて、神のお導きとしか思えません。貴方と……一から関係を築き直したいと、心から思います」

「そういう意味であれば、私にとっても喜ばしい。私も同じ気持ちだ」

「でも……体が元に戻ってしまったので、その……閨では最初から導いて頂かなくてはなりませんが、本当にご面倒ではありませんか?」


 皇太子は一瞬目を丸くし、小さく笑って顔を近づけ、シルヴィアの耳に直接吹き込むようにして囁く。


「大丈夫、君の感じるところは全部把握している……君の体を昨夜のように快楽を得られるように開発したのは、この私だからね」

「っ……!」

「多分、そんなに時間はかからない……今の君は、とても素直だから」


 そう嬉しそうに笑って、耳に口づけして離れる。耳を抑えて真っ赤になっているシルヴィアをそっと膝から降ろして隣に座らせ、皇太子は脱がせた靴を履かせてくれた。


『……なんでしょう。なんでしょう……なんだかとっても、手の平で転がされている気分……』


 少々悔しい気がしないでもない。そんな複雑な気分でいるシルヴィアに、皇太子は居住まいを正して向き直り、真摯な顔を向けて来る。


「オリヴィア、これは神から頂いた機会なのだと思う。あの日と同じように、私たちは大神殿から手を携えて出てきた……だから、今日が私たちの始まりの日と言うことにしないか」

「わたくしたちの……」

「ああ、君は今日この日に私の花嫁となり、これから初夜を迎えて私たちは夫婦となる。何もかも、最初からやり直そう」


 そう微笑む顔を見上げながら、シルヴィアの見開かれた目から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

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