第16話 自らの足で
最奥の泉に“聖女”を残し、シルヴィアは一人で奥の間に戻る。そこには、世話係の女性神官の中で一番年長である者が控えていた。
「……ご用事はお済みでございますか?」
「ええ」
「では、別部屋で休まれている皇太子殿下にお使いを出しましょう」
他の女性神官に指示をした後、シルヴィアを謁見の間へと促す。奥の間を隔てる扉が閉められる音に、どこか郷愁めいた気持ちが浮かんだ。
もう、ここに聖女として
紗の帳の向こうには誰もいない。ふと、赤子の時から自分に仕えてくれていた女性神官に、お礼を言わなければと思った。
そちらに目を向けると、女性神官はじっとシルヴィアを見つめていた。とても、とても優しい目だった。
思わず、心の中だけで『今まで』と呟き、後に続く言葉を声に出す。
「──ありがとう」
自分を見つめていた目が僅かに潤んだ。その時、唐突に悟った。他の者がどうかは知らない。
だが、この者は間違いなく、今オリヴィアとなっている自分がシルヴィアであることに気づいている、と。
「ご存じでしょうか……私たち聖女様のお世話をする女性神官には不文律があるのです。聖女を導くのは神のみ、教えることはあっても決して導いてはならない──と」
女性神官の目から
「不敬を承知で申し上げます。ずっと……密かに望んでいたことがあるのです。一度だけ……お許し願えないでしょうか?」
「……構わないですけど、どんな──!」
疑問を口にしようとして、最後まで言い切る間もなく抱き締められていた。耳元で涙声が囁く。
「ずっと……ずっと、こうしたかったのです。赤子の内からずっとお育てしてきたのですから……。這うようになられ、掴まり立ちをされるようになり、ご自分で歩かれるようになり……そこからは線引きされて、必要以上の接触は禁じられました。決して特別な感情を向けられることがあってはならない、私たち神官も、聖女にとっては万民と同じ存在であらねばならない。特別な存在を作ることは、聖女の心を歪ませる……聖女にとっての特別な存在は、神のみなのだからと」
「そうですね……確かに、そうかもしれません。このように温もりを与えられてしまえば、やはり特別な感情を抱いてしまう……きっと、聖女としては良くないことなのでしょう」
そのことを、この短い間にシルヴィアは体感していた。そうして今、与えられる温もりにも種類があるのだと気づく。
『きっと、この温もりは親が子に与えるものに近いのでしょう……。“夫”の温もりとは間違いなく別物ですね。でも、心地良い……わたくしを、こんな風に思ってくれていたということが嬉しいです、とても……』
シルヴィアの目にも涙が浮かんだ。自分を抱き締めてくれる女性神官の背を、シルヴィアもまた抱き締める。
「今まで、わたくしの傍にいてくれてありがとう……」
今度は、隠すことなくはっきりと口に出した。
「わたくしは、頑張ってお勤めを果たしてきたご褒美に、自由と望む人生を与えて頂いたのです。これからは、わたくしの代わりにあの子を……新しい聖女を支えてあげて下さい」
「……あの方はあの方で、神の僕に戻られることを望まれたのですね」
世俗から隔絶された大神殿ではあるが、さすがに、自国の皇太子妃となったオリヴィアの事情は耳にしているらしい。
シルヴィアは笑みを浮かべて身を離した。女性神官もまた笑みを浮かべる。
「ご心配なく……心を尽くしてお支え致します」
そう返して紗のカーテンに手を伸ばし、通れるように開けてくれた。そこから出て行こうとするシルヴィアの背に、遠慮がちな問いがかけられる。
「恋を……されているのですか?」
「……分かりません。ただ、一緒にいたいと……あの方の治世を傍で見ていたいと思ってしまったのです」
「そうなのですね……
「ありがとう……」
壇から降りて、シルヴィアは謁見の間の中央辺りで足を止めた。複数の者たちがここへ近づいてくる気配を感じる。
背筋をぴっと伸ばし、重厚な扉を真っすぐ見つめる。
やがて先導してきた神官によって扉が重々しく開かれ、近衛騎士を従えた皇太子の姿が見えた。
近衛騎士たちを扉の向こうに残し、皇太子は一人で中へ入ってくる。
その姿を目にした途端、シルヴィアの胸がとくんと鳴った。目を伏せたまま中へ足を踏み入れた皇太子がゆっくりと顔を上げる。
シルヴィアを捉えた目が驚いたように見開かれた。
目が合った途端、弾かれたように、シルヴィアは駆け出していた。情動に突き動かされ、その胸へと飛び込む。
皇太子は目を瞠りながらも、しっかりと受け止め、優しく抱き締めてくれた。
「オリヴィア?」
自分の胸に顔を押し付け、しがみつくシルヴィアを見下ろしながら、どこか戸惑ったように名を呼び掛けてくる。
『また会えました……もう、こんな風に触れ合うことはないと思っていましたのに。嬉しい……この方の傍に戻れたことが、こんなにも』
神に選択肢を与えられた時、オリヴィアのことを思ってとはいえ、どうして一瞬でも迷ってしまったのか不思議なくらいだった。
この温もりは自分だけのものだと強く思う。
傍らにいた案内役の神官が、こほんとわざとらしく咳をする。ようやく我に返ったシルヴィアは、はっと顔を上げた。
謁見の間の扉は、まだ閉められていない。扉の向こうでは近衛騎士たちが皆、こちらを見ている。
「も、申し訳ありませんっ……いろいろありましたので、つい……」
現状に気づいて慌てて離れようとしたシルヴィアの肩を抑え、皇太子の手が丸みを取り戻した頬を包む。
「ずいぶんと面変わりをしたな……」
「はい、あまりにも不健康そうだと聖女様が癒して下さいました」
「そうか。それは良かった」
「はい!」
微かな笑みを浮かべて覗き込まれ、シルヴィアは満面に笑みを浮かべて応えた。大輪の花が咲き誇るような、輝くような笑顔──
今まで、大神殿の奥庭で精霊たちと戯れていた時くらいにしか浮かべたことのない表情だった。しかも、全く自覚がない。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。もう……大丈夫です。これからは、美味しいものもちゃんと食べられます」
「そ、そうか……それは良かった」
何故だか皇太子の目が泳ぐ。その頬は少し赤い。
「では、帰るとしよう……何があったのかは、馬車で聞くよ」
そう言って有無を言わさずシルヴィアの手を取り、やたらと性急に扉へと向かう。
思わず背後を振り返ったシルヴィアの目に、カーテンの向こうで深々と頭を下げる女性神官が見えた。その口元に笑みが浮かんでいたことなどは、さすがに気づきはしなかった。
大神殿からの帰りの馬車の中、やはり二人は並んで座っていた。だが、行きと違うのはシルヴィアが体ごと皇太子の方を向いて、ずっとその横顔を見つめていることだった。
しかも全くの無意識で、緩みきった満面の笑みを浮かべたまま──
「……それで、何があったのだ?」
少々落ち着かない様子だった皇太子が、居住まいを正して問う。その真剣な表情に、シルヴィアはようやく我に返った。
『あー……どうしましょう? まさか本当のことなんて言えませんし……』
慌てて頭をフル回転させ、少々気が咎めるが適当に話を作った。
「その……神は、幼い頃からお仕えしていたわたくしのことを、気にかけて下さったのです。労いのお言葉をかけて下さいました」
「神が? まさか直接?」
「ま、まさか……聖女様がお伝え下さったのです。直接なんて、あり得ません……」
神の言葉を直接聞けるのは、唯一聖女のみである。下手なことは言えない。もし教団に伝わりでもしたら、第二の聖女と言うことにされてしまう。
「それはそうだな。しかし、それなら何故、わざわざ奥へ連れて行かれたのだ?」
「それは……」
確かに、聖女が神託を告げるのであれば、謁見の間で済む話だった。今までずっと、例外なくそうしてきたのだから。
「……実は、神のお計らいで、精霊の加護を頂いたのです……」
「精霊の!?」
「はい……ずっと神の僕として勤めて来たわたくしが、世俗に戻って暮らしていくのは大変だろうと……それと、良からぬ者たちから身を護るためにもと……」
「それは、また……ありがたい話だ。君の身はもちろん帝国を上げて護るが、精霊の加護があれば万全だ」
「はい……」
実際には加護ではなく、精霊そのものが付いているのだが、さすがにそれは言えない。
思わず内心で苦笑していると、皇太子は体を向けてじっと見下ろしながら、シルヴィアの手を押し包むように握り締めた。
「神と聖女に感謝しなければ……ずいぶんと君は明るくなった。それに、私に笑顔を向けてくれるようにもなった……」
そう嬉しそうに言って目をしっかりと合わせたまま、握りしめた手を持ち上げて口づける。
シルヴィアの頬が熱を帯びていく。それが、自分でもありありと感じられた。そのまま抱き締められて、更に身の奥がまた疼く。
『あ、あら……?』
疼いてはいる。だが、行きの時までとは疼く場所が違う。あの時は、皇太子と体が触れ合う度に、下腹──つまりは子宮辺りが疼いて、明るく爽やかな日中だと言うのに、恥ずかしながら情欲を呼び覚まされたりもした。
今、疼いているのは胸である。下腹の辺りは全く疼いてもいない。当然ながら情欲も全く感じない。
不思議に思って、シルヴィアは皇太子の腕の中で、じっと正式に自分のものになったばかりの体に注意を向けてみた。
『え……どういうことでしょう?』
こんなにも皇太子と触れ合っているというのに、あの下腹の疼きと共に、熱を帯びて溶けだしてしまいそうな感覚がない。
まるで、全く違う体のようだった。
「あ、あの……」
確かめようと、シルヴィアは意を決して皇太子に請うた。
「……口づけをして下さい……」
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