第15話 二人の選択

 ──全く、其方は……もう少し神を敬うべきだとは思わぬのか


 ややしばらくして、呆れ返ったような声が響く。シルヴィアにしてみれば、赤子の頃から慣れ親しんだ存在で、神といえどおそれを抱いたことは一度もない。

 家族というものを知らない身ではあるが、今まで見聞きしてきた世俗の様子からすると、祖父と孫娘の関係が一番近いような気がしていた。


「もちろん敬っておりますよ? でも、納得いかないことは、はっきりさせませんと。一体、どういうおつもりで、あのようなことをされたのですか?」


 思わず責める口調になってしまった。だが、神は諫めるでもなく応える。


──其方は実によく働いてくれた。歴代の聖女とは比べものにならぬほどにな

「はぁ……わたくしは、自分にできることをやってきただけですが……」

──既に其方は、他の者が一生かけて行う分くらいの働きを為しておる


 そう言われても、別の聖女が同時に存在することはないのだから、比較対象があるわけでもなく、シルヴィアにはまるでぴんとこない。

 助けを求められれば助け、自分が護りたいものを護り、慈しみたいものを慈しんできただけだ。


 他の聖女たちと違うことがあるとすれば、自分には外の世界を見聞きする力があったために、庇護するものを具体的に把握できていたという点かもしれない。

 だから、一生懸命になることができた。それだけのことである。


──自由と望む人生……それが其方への褒美だ

「え……?」


 予想外のことを言われて、シルヴィアは目を丸くした。


──だが、あの器ごと外には出せぬ。だから、入れ替える魂と別の器を探していた

「それがオリヴィアだと……?」

──折よく、それをあの者が望んだのだ

「ま、待って下さい……悪意ある者によって、オリヴィアは誤解していただけなのです。真実が分かったのですから、もう……」

──其方は望まぬのか?

「……!」


 問われて、思わず息を呑む。振り払ったはずの未練に、つい逡巡してしまった。


──あの者と話し合うがよい。其方の望む通りにしよう

「でも……」

──愛し子よ、決して悔やまぬ選択をせよ。我は其方の幸せを望んでおる


 選択と自らの幸せ──それは、聖女として生まれ、聖女として生きる人生には存在し得ないものだった。

 今まで、自分に選択肢など存在しなかった。人々の幸せを望んで喜びを得ることはあっても、自らの幸せが何かを考えることすらなかった。


 だが、この短い間に自分は望んでいなかったか。傍で皇太子の治世を見ていたいと思った。与えられるぬくもりに満たされた。離れたくないと思った。

 皇太子と共に生きていくのはオリヴィアだと思う度に、胸の奥が痛んだ。あれは嫉妬──


『万民のためにある聖女が、たった一人に固執して、あまつさえ嫉妬心を抱くなんて……』


 もう聖女ではいられない。そんな資格はない。だからと言って、普通の女性として生きていけるのか。生きて良いのか。

 何より、他人の人生や可能性を奪うことにならないのか。それを奪われたオリヴィアが不幸になってしまわないか。


「どうしたら良いのか分かりません……」


 生まれて初めての心の葛藤に、途方にくれてしまったシルヴィアは、触れたままの神の水晶に額を押し付け、弱々しく呟いた。

 だが、神は沈黙し応えてはくれない。


 背後でパシャリと水音がし、シルヴィアの手に別の手が重ねられる。力なく顔を上げると、オリヴィアに後ろからそっと抱き締められた。


「聖女様……いえ、シルヴィア様。どうか教えて下さい、貴女の本当のお気持ちを。そのように悩まれているということは、殿下とご一緒に生きられたいというお気持ちがあるからなのではないですか?」

「……!」


 びくりと肩が跳ね、身が震えた。


「もしかして、わたくしのことを気にしていらっしゃるのでしょうか?」

「だって……貴女は国を出る時に、皇太子妃となって世俗で生きる決意をしたのでしょう? せっかく新たな人生を決めたのに……あの老女たちの悪意で一度は挫けてしまったけど、真実を知ったのだからもう……」

「それは、わたくしに選択肢が無かったからでございます。わたくしは、十歳の時に神の僕となることを自ら選択致しました。でも、帝国へ嫁ぐために無理やり還俗させられ、国民の命を護るためには逃げることもできず──」


 シルヴィアを抱き締める腕に力が籠る。


「──他に選択の余地がない中で、それならばと何とか前向きになろうと思っただけなのです。今のわたくしは、他に選択ができることを神に示されました。選択できなかったのは、シルヴィア様を犠牲にしてしまうと思ったから……けれど、先ほどのお話で、その心配はないのだと思えました。そうであれば……わたくしは、神の僕に戻りとうございます」

「世俗に……他の人生に未練はないの?」

「わたくしを大切にしてくれようとしていた殿下や、侍女たちには申し訳ないのですが……全く未練はございません。心配はございますけれど……」

「心配?」


 水晶から手を離し、シルヴィアは小首を傾げて振り向いた。抱き締めていた手を降ろし、オリヴィアは身を離して俯く。


「わたくしのような者に、聖女の役割が務まるのかと……その、あまりにも力不足でございますので……」


 思わず、くすりと笑ってしまった。シルヴィアは、またも身を縮めているオリヴィアを正面から抱き締める。


「大丈夫です。その体にいる限り、神が常に傍にいて下さるから」

「それは……とても心強いことでございますね」

「ええ」


 自分のものだった体──その背を撫でて身を離し、その顔を真っすぐ見つめる。


「本当に良いのですね」

「……はい」

「後になって、やっぱり返してと言われても、もう返しませんよ?」

「はい、絶対に申しません」

「では……今、この瞬間から、貴女は聖女シルヴィアです。わたくしは、皇太子妃オリヴィア……あら? 今、気づきましたけど、わたくしたちの名前って似ていますね」

「今頃ですか?」


 新たな聖女がぷっと吹き出し、シルヴィアもまた屈託なく笑った。二人でひとしきり笑い合った後、もう一度、神の水晶に向き直る。

 水晶に両手を押し当て、シルヴィアは万感の想いを篭めて語りかけた。


「神よ……今まで、ありがとうございました。わたくし、一人の女性として生きていきたいと思います。必ず……幸せになります」

──そうか。其方の生を見守るとしよう。時折り、ここへ顔を見せにくるが良い

「よろしいのですか?」

──構わぬ


 二人して泉から上がるや、精霊たちが寄ってきて、濡れた体や衣装から一瞬で水気を払ってくれた。


「ありがとう」


 彼らとも、もう戯れあうことはない。幼い時分からずっと側にいてくれた精霊たちだけが、聖女と対等に接することのできる存在だった。

 人の関係でいうところの“友”だったのだと、今更ながらに思う。


「これからは、あまり会えなくなるわね。神にお許しを頂いたから、偶にこちらへは顔を出すつもりではいるけれど……」

──私たちは、ずっと一緒にいるつもりだけど?

「え?」


 光の大精霊が不思議そうに言う。風と水の大精霊も笑みを浮かべながら言った。


──私たちが貴女といたのは、貴女が大好きだからよ。聖女だったからじゃないわ

──貴女の魂はとても温かくて、光に満ちているもの。一緒にいると、とても心地良いの


 女性の姿を取った大精霊たちは、そんなことを言いながら纏わりつく。一方で男性の姿を取った闇と大地の大精霊は寂しそうに、少し離れたところで火の精霊が拗ねたように言った。


──我は、残念ながら行けない。神の許しを頂けなかった……

──我も、この地から動けぬ故、仕方ない……

──我は人の身には苛烈過ぎる故、もともと傍近くに寄るのを神に禁じられている……


「そうなのね……でも、良いのかしら? 三人もここを離れてしまって……」

──闇と大地はここに元からいたけど、私たちは別に、この地に縛られているわけではないもの

──貴女に惹かれて、ここに留まっていただけよ

──ええ、好きなところへ好きなように行くのが私たち

「嬉しい……貴女たちが一緒にいてくれるなら、とても心強いわ」


 満面の笑みを向けた後で、シルヴィアは“聖女”に目を向ける。


「聖女の力の使い方は分かりますか?」

「癒しや浄化をかけるのと同じ感覚でしょうか」

「そうですね。ただ、神官の力とは比べものにならないので、注意が必要かも……基本、人が持つ力ではないので」


 聖女の力は神の力に準ずると言って良い。癒し一つとっても、欠損部位を再生するくらいは当たり前、二十人程度ならば一度に回復させられる。病気もしかり、どんな難病だろうと重病だろうと治せないものはない。


 ただ、神とは違って限度がある。体力的に──重い症状を回復させるには、聖女といえど相当に体力を削られる。聖女を回復できる者はいないため、自然回復に頼る他はない。

 なので、聖女の身に深刻な負担がかからぬよう、体調管理を含め日々のスケジュールに至るまで教団が厳重に管理していた。


「そうだわ、ちょっと試してみて」

「試す? どうやって……」

「貴女、ずいぶんと不摂生したでしょう。この体、食べ物をまともに受け付けないの。体も痩せこけちゃってるし、顔も窶れてるでしょう? 丁度良いから、健康に戻してほしいの。せっかく美味しそうなお料理を出されても、全然食べられないなんてつまらないもの」


 思わず“聖女”に指を突き付けて、強要するシルヴィアだった。

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