第12話 帰還と別れ

 聖女への謁見ともなると、皇族といえども威儀を正さなければならない。朝食を終えるや、シルヴィアは大勢の侍女に取り囲まれ、あれよあれよという間に正装へと着替えさせられた。


 正装ではあるが、出向く先が大神殿であるため、白を基調とした清楚な印象の衣装で、装飾品も控えめである。

 迎えに来た皇太子は黒を基調とした正装で、本来なら堅苦しい衣装のはずが、何故だか全く欠片も地味に見えない。


『黒い衣装が金髪を引き立てて、麗しいお顔がよく映えてますこと……目の保養になりますね』


 女性たちが憧れる気持ちがよく分かる。思わず見惚れてしまっていると、皇太子はじっとシルヴィアを見つめて、優しげな笑みを浮かべた。

 不意打ちをくらってしまって、胸がとくんと高鳴った。


『は、反則です……』


 そんな内心での抗議が通じるはずもなく、皇太子は女性を束で卒倒させそうな極上の笑みを向けたまま、シルヴィアの手を取って歩き出す。

 手を繋いで部屋を出る二人に、侍女たちは皆、微笑ましいものを見るような目を向けていた。


 近衛騎士たちの護衛を受けて、皇室の紋章を掲げた豪奢な馬車に乗り、皇都の北にある大神殿へ向かう。

 大神殿から出たことのないシルヴィアは、馬車に乗ることすら初めてだった。


 中は思ったよりも広く、椅子も背凭れもふかふかのクッション貼りで、座り心地も乗り心地も良い。

 市井の馬車は揺れが酷いと耳にしていたが、皇室用の最高級の馬車は違うようだ。


 皇太子は向かいの座席ではなく、当然のように並んで座り、絶えず体のどこかが触れ合っているくらいの間近にいた。


『えっと……これは、夫婦ならば当然の距離なのでしょうか……?』


 閨では境界がないほどに密着し繋がってはいたが、一歩寝所から出てしまえば、夫婦といえども健全な距離を保つものだと思っていた。

 少なくとも日中に、外で密着している男女の姿など見かけたことはない。


『馬車の中は、外ではないのでしょうか? いえいえ、宮殿の中でも手を取られてはいましたが、それ以上近づくことなんて……』


 正直、あまり近づかれるのは精神衛生上よろしくない。体が触れ合う度、相手の体温を感じる度に、ついつい閨でのことを思い出して身の奥が熱くなる気がする。

 さすがに明るく清々しい中で、そんな気分に引きずられるわけにはいかない。


 シルヴィアは気を反らそうと、車窓から外を眺めた。皇太子宮から広大な皇宮の敷地を抜け、大きな正門を通って市街へと出て行く。

 距離感を気にしていたのは馬車に乗り込んだ直後くらいのもの。外を眺めるうちに、いつしか夢中になっていた。


「まぁ、あれは市場ですか?」


 鳥に同調して上空から覗いたことはあるが、横から眺めるのは初めてだった。ついつい様々なものに目を惹かれてしまうシルヴィアに、皇太子がいちいち興味深い説明を加えてくれる。

 何を聞いても、どんな質問をしても淀みなく回答されて、返事に窮することがない。


『この方……どれだけ市井のことに詳しいのでしょうか。まさか、お忍びで出歩いてたり……? このきらきらしい姿では、目立って仕方ないと思うのですけど』


 ますます底が知れないと思いながら、示された先に目を向けると、広場のような場所が華々しく飾り立てられている。

 出店のようなものが数多く立ち並び、時間的にまばらではあるが、人が集まり始めていた。


「あれは……」

「ああ、フェスタだ」

「なんのでしょう?」

「……私たちの結婚祝いだが?」

「え……? もうひと月も経っていますのに?」

「他国に嫁した姉上とは違って、今回のような帝国への輿入れは、母上以来おおよそ三十年ぶりだからね。ただでさえ皇族の結婚は一大行事なのに、更に戦争を終結させて和睦をもたらした婚姻ともなると、国民が歓迎して祝いが長引くのも仕方ないだろうな」


 皇太子の婚姻に伴う行事や国を挙げての祝賀は、もちろん物珍しいこともあって、当然ながらシルヴィアも大神殿の奥からずっと見ていた。

 だが、しばらく続いた公式行事が済んだ後は、特に気にかけてもいなかった。


『和睦の婚姻歓迎はもちろんあるのでしょうけど、皇太子人気の方が大きいのではないでしょうか』


 婚姻式を行った大神殿から皇宮へのパレード。それを見に集まった帝国民の数と熱狂は凄まじかった。

 そんなことを思いながら、人が増え始めたフェスタの様子を眺めていると、皇太子が苦笑しながら言う。


「ずいぶんと関心があるようだな。帰りに少し寄ってみようか?」

「え……?」

「近衛に囲まれてだから、民のようには楽しめないだろうけどね」


 やはり、とても優しい人なのだと思った。一緒にフェスタを見て歩けたら、どんなに楽しいだろう。

 だが、そんな機会が自分に訪れることはない。返事の代わりに、シルヴィアは笑みだけを返した。


 その時、皇室の馬車に気づいた人々が声を上げ、沿道に駆け寄ってきた。どの顔も明るくにこやかだった。

 オリヴィアが皇太子妃として帝国民に受け入れられている。そう感じて安心していると、ふいに後ろから右手を取られて振らされた。


 沿道の国民は皆一斉に嬉しそうな顔で歓声を上げ、手を振り返してくる。その光景はなかなかに感動的ではあったが、皇太子に後ろからぴったりと密着されていて気が気ではない。

 自発的に手を振りながらも、顔が赤くなっている自覚があった。


 皇都の市街を抜けて街道に入り、ようやく元の位置に座り直したものの、シルヴィアの心は全く落ち着かない。

 皇太子の体が触れても、先ほどのような情欲めいた感覚を覚えることはなく、大神殿が近づいてくるに従い、もの寂しい想いが心を占めていく。


 たった一日半の短い時間。たったそれだけ一緒にいただけの相手だというのに、とても離れがたい。

 もう少し一緒にいたい。もっと傍で見ていたい。そんな気持ちに支配されていく。


 鳥に意識を載せて数えきれないほど通ったミラーノ公爵邸。その広大な敷地の横を通り過ぎたことで、大神殿への距離がいかほどもないと気づかされ、どんどんと切ない気持ちが込み上げてくる。


 この相手が特別なのか、それとも濃密な時間を共に過ごして身を重ねたことで情が移ったのか。理由はよく分からない。

 このまま到着しなければ良いのに、などという益体もない想いに囚われていた。




 「ようこそおいで下さいました、皇太子殿下、妃殿下。聖女様がお待ちでございます」


 大神殿前に停められた馬車から、皇太子に手を取られて降り立つと、扉口前でよく見知った副神殿長が丁重に出迎えてくれた。


 世俗の権威とは無縁であることを身上とする大神殿では、皇族といえど教団の長である神殿長が対応することは一切ない。

 例え帝国皇帝であっても同様である。皇族や他国の王族へは副神殿長が、貴族への対応は高位の神官が対応するが、丁重ではあっても決しておもねることはなかった。


 副神殿長に案内され、その後ろに従って大神殿の奥へと進みながら、シルヴィアは自分の手を取っている皇太子の大きな手の温もりに、ついつい気を取られていた。

 やがて自分のよく使っている、聖女専用の謁見の間へと入る。よく知ってはいるが、反対側から入るのも見るのも、当然ながら初めてである。


 白い大理石の柱と壁に囲まれた広い部屋。その奥の一段高くなった所に瀟洒な椅子が一基置かれ、その前に紗のカーテンが引かれている。

 椅子に座る者はヴェールを深く被っているため、その顔は全く見えない。唯一、ヴェールから僅かに覗くプラチナブロンドが、そこに座る者が誰かを知らしめていた。


 皇太子に倣い、謁見の間の中央辺りでシルヴィアは並んで跪く。その途端、椅子に座る“聖女”の体がびくりと跳ね、肘掛けを握り締めた指先が震えた。

 “聖女”は慌てたように、傍らの女性神官に何やら囁いている。


「聖女様がお呼びになられたのは、皇太子妃殿下だけのはずでございます。皇太子殿下をお呼びしてはおりません」

「重々承知している。だが、妃のオリヴィアはこの国に来て間もなく、皇宮に入ってからは一度も外へ出ていない。そんな妃を一人で来させるわけにはいかないので、夫である私が付き添ってきたのだ。その辺りを勘案し、お許し頂きたい」


 女性神官に言われて皇太子が返し、しばし静寂が訪れる。やがて“聖女”は再び何か囁き、女性神官は戸惑いを露わにしている。

 だが、神官の身で“聖女”に逆らうはずもない。


「それでは、皇太子殿下はそのままお待ち頂くか、ご退出し別部屋でお休み下さい。妃殿下はこちらへいらして下さい」


 そう告げながら、紗のカーテンの端を持ち上げて招く。皇太子はあからさまに不満の色を浮かべていた。

 それを抑えるようにその手を握り締め、シルヴィアは一日半の掛け替えのない想い出に感謝を込めて、最上の笑顔を向けた。


『ありがとう……そして、さようなら。二夜限りのわたくしの旦那様……』


 そうして思い切るように立ち上がって壇上に上がり、シルヴィアは紗のカーテンの内側へと入っていった。

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