第11話 泡沫の夢

 紗のとばりが下ろされ、外の灯りで仄かに薄明るい寝台の上、シルヴィアは自分を組み伏せる皇太子の顔を見上げた。

 艶めかしいとしか言えない。鮮やかな金髪に縁どられた白い整った顔、綺麗ではあるが年頃の青年らしく、男らしく凛々しかった。


『本当に、非の打ち所のない“王子様”ですよね……貴賤問わず、帝国の女性たちの関心を一身に受ける存在。そのような方に、愛を囁かれて抱かれる……聖女として生まれたわたくしには、二度とない機会でしょう。わたくしは一生、大神殿の奥で聖女として一人で生きていかなければならない……神が下さった、わたくしへのご褒美なのでしょうね、きっと……』


 それとも贖罪なのか──そう思うと、切なくもある。父も母も知らず、家族もなく、友人もなく、自分にあったのは神の愛と、関わったことすらない人々からにまで向けられる崇拝と言う名の依存。


 幼い頃、シルヴィアは大神殿の奥から出たことがなく、限られた女性神官たちのみに囲まれて、世話や教育を受けて育てられていた。

 一日一度、神殿長が訪れて短い会話を交わす以外は、他の者を見たことすらなかった。


 そんなシルヴィアの変わらぬ日常に、初めて変化が訪れたのは、五歳の時──


 奥庭で精霊たちと戯れながら、教えられた花冠を作っていた時に、一人の子供が迷い込んで来た。

 大人しか見たことのなかったシルヴィアが初めて見た子供──それも男の子。そんな存在を目の当たりにした衝撃は大きい。


 この時初めて、シルヴィアは外の世界を意識した。束の間の邂逅はシルヴィアの世界そのものを変えてしまった。

 外のことを知りたい。もっといろいろなことを知りたい、もっともっと──


 自分の世界を開いてくれた男の子に感謝を込めて、シルヴィアは初めて作った花冠を贈った。

 男の子は、お返しにと花を一輪手折って指輪を作り、シルヴィアの指に飾ってくれた。


 男の子の顔はもう覚えていないが、頬を赤く染めていたのを覚えている。その時、何か言われたが、その言葉も残念ながら覚えていない。

 それほど世界が開かれた衝撃は大きかった。


 だが、まだ幼いという理由でシルヴィアが外に出ることは許されず、高まる知識欲を持て余した挙句に、精霊たちに聞きながら試行錯誤して編み出したのが、別の生き物に心を乗せるというすべだった。


 それまで無色透明だったシルヴィアの世界が、外の世界を覗くことで少しずつ少しずつ色づいていく。

 自分が護るべき存在を具体的に意識できるということは、聖女としての心の在り方に大きく影響を与えた。


 善いものも悪しきものも様々に存在する世界が楽しく、何もかもが面白い。その全てが愛おしく、大切にしたいと思った。

 そう思う一方で、自分が聖女でなければあり得たかもしれない人生を思い描いたりもした。


 ただの女性としての人生──睦み合い助け合って共に過ごす家族。時には喧嘩をしながらも共に遊び、互いに信頼し合う仲の良い友人。そして──出会い、惹かれ合い、求め合い、心が通じ合う存在──恋人。いずれは結ばれて夫婦になり、子を生し家族を作る。


 自分にはあり得ない人生であることは重々承知していた。だが、憧れる気持ちは抑えられない。

 そんな心を神が酌んで、ひと時の夢を見させてくれたのかも知れなかった。


『ごめんなさい、オリヴィア……貴女の夫ですけど、今だけ……夢を見させて下さい……』


 じっと目を合わせたまま皇太子は、掌に押し当てていた唇を手首、腕の内側へと移していく。白く柔らかな肌に赤い痕を残し、更に二の腕の内側へ。

 そのくすぐったいような、焦れるようなもどかしさが身の内に溜まっていくのを感じながら、シルヴィアは取られていない方の手を彷徨さまよわせた。


 指先が胸元に当たり、寝衣越しに筋肉質な硬い感触を辿る。そのまま上へと手を滑らせると、二の腕に印を付け終わった皇太子が嬉しそうに笑った。

 腕に押し当てていた唇を離し、まっすぐ見下ろしながら顔を近づけてくる。


 深く口付けられ、舌を絡められると、身の内に更に熱が溜まっていくような気がした。身体の奥で、何かが甘く疼くようだった。

 口付けを交わしながらも、皇太子の手は薄い布越しに胸の膨らみへと伸び、下から押し上げるように揉みしだいていく。


 さんざんオリヴィアが感じたはずの恐怖を訴えたせいなのか、元からなのか。皇太子の愛撫はとても優しい。

 それでも、夫として一から導いてきただけあって、どこをどうすれば快楽を得られるのか熟知しているようで、シルヴィアはゆっくりではあるが確実に高められていった。


 寝衣を取り払われ、肌を滑るように手を這わされ、時折り痕を付けながら首筋や胸元に口づけが落とされる。

 息が荒くなり、色の乗った声が意図せず漏れて抑えることもできない。


「……あっ……!」


 固く尖った胸の先端を口に含まれて吸われ、自分でも驚くような甘い声を上げていた。

 恥ずかしいと思う間もなく、舌先で転がされて、耐え切れずに更に声が上がる。


 身体の奥が疼いて堪らない。華奢な身体を這っていた手は、いつの間にか足の合間を覆って揉むように動いていた。

 本来なら指先で触れて中を探るのだろうが、その様子はない。


『本当に、この方は優しい……オリヴィア……貴女が羨ましいです……』


 初めて覚える嫉妬にも似た気持ち。今だけは自分のものだという独占欲。男の愛を受けるという初めての体験。

 女として生まれた身だというのに、決して得られるはずのなかった快楽に浸りながら、シルヴィアは最初で最後であろう女の悦びに身を委ねた。




 息も絶え絶えになって何度も達した後で意識を失い、昨夜のように皇太子の腕に抱き込まれた状態で、シルヴィアは目を覚ました。

 もしかしたら、また絶頂のさなかに入れ替えられるのではと心の隅で思わないでもなかっただけに、まだ皇太子の傍にいられたことに安堵する。


『良かった……まだ戻っていなくて。明日、大神殿に行けば元の体に戻るのでしょうけど……もう少しだけ、後少しだけで良いから、このままでいたい……』


 まだ少し汗ばんだお互いの肌が、そんなに時間が経っていないことを教えてくれる。

 つい先ほどまで、ずいぶんと長いこと一つになっていたと言うのに、今の繋がりが解けている状態がとても心許ない。


 シルヴィアはどこか寂しい気持ちを埋めるように、皇太子の体に強くしがみ付いた。ぬくもり、鼓動、吐息、それらを直に感じながら、気を失う前の記憶を辿る。


 ただの一度も、そこに皇太子が指先で触れることはなかった。代わりに触れたのは──思い出して、シルヴィアは体がかっと熱くなるのを感じた。


『唇や舌で……というのは知っていましたが、あんなに気持ちの良いものだなんて……思ってもみませんでした……』


 閨事については必要以上に知っている。実体験の伴わない知識ならば、それこそありとあらゆることを耳にしてきた。

 聞くと見るのは違うとはよく言われるが、実地での経験は想像以上だった。


 たっぷりと時間をかけて舌を這わされ、吸われ、舐め上げられ、乱れに乱れた記憶が蘇る。

 気づいた時には、一つになって激しく揺さぶられていた。あられもなく嬌声を上げ続け、何度達したかもわからない。


『……凄かったです……』


 昨夜は途中からだったが、寝台に入る前からの、気持ちを高める段階を経ての一通りのことを体験できたのは、得難い経験だったと思う。

 聖女であるシルヴィアにとっては、一生に一度の奇跡──


『明日、元に戻ったら……それからはずっと、この方が愛でるのはオリヴィア妃で……オリヴィア妃がいつか、この方の胤を宿して子を生し、共に家族を作っていくのですね……』


 胸の奥が微かに痛い。羨ましいと思った。このまま元に戻らずにいられたらと、あり得ないことをつい思ってしまう。

 はっと我に返ったシルヴィアは、そんな想いを慌てて否定し、過ぎた望みを無かったことにした。


 起こさないよう気を遣いながら身をもたげ、皇太子の寝顔を複雑な想いで見降ろす。頬に触れ、気後れしながらもそっと唇を合わせた。

 唇を離して尚も顔を見つめていると、自然に溢れた涙が一滴、ぽとりと零れ落ちた。


『素敵な想い出をありがとうございました……アルフレード様……』


 泣き笑いのように微笑んで、シルヴィアはもう一度口付け、目覚めた時のように身を寄せて目を閉じる。

 やがて、ゆっくりと眠りに落ちていった。


 規則正しい寝息が立ち始めた頃、皇太子が静かに目を開いた。自分の頬を濡らす水滴を指先で拭い、眉を顰める。

 次いで、腕の中のシルヴィアが眠っているのを確かめるように顔を覗き込み、その目元に溜まった涙を拭いながら呟いた。


「──よくも、この私の妃を泣かせてくれたものだ……」


 皇太子は優しくシルヴィアの頭を撫でながら、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。射殺しそうな目を宙空に向け、殺気の籠った言葉を口にした。


「さて……どうやって、あの身の程知らずな老害どもを叩き潰してやろうか──」

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