第10話 関係修復のために

 明日の予定について手短に切り上げた後、皇太子の表情がふいに重苦しいものに変わった。


「今更ではあるが……君には本当に申し訳ないことをした」


 大神殿に着いてから“聖女”と二人きりで話す機会をどう作ろうかと算段していたシルヴィアは、いきなり頭を下げられて驚いた。


「国境の砦で、筆頭侍女長が君にとても酷いことをしたそうだな。今頃になって報告を受けた。君がどんなに恐ろしい思いをさせられたか……これまで気づいてやれなくて、本当に済まなかった。あれほど怯えていたのを見て来て、夫である私が気づいてしかるべきだったのに」


 明日、大神殿で“聖女”と相対せば、今のこの不測の事態は解決されて、お互いに元の境遇に戻る。

 オリヴィアがここに戻った後、少しでも安らかに過ごせるようにするためには、筆頭侍女長の排除は絶対に欠かせない。


『オリヴィア妃が自分で何とかするなんて、多分無理でしょうし……ここは、やはりわたくしが力になって差し上げないと』


 そうシルヴィアは心密かに決意した。


『ああいう人は、オリヴィア妃だけじゃなく、皇室や皇宮の人たちにとっても害にしかならないと思うのですよね……』


 昼間、子猫から蜂に意識を移して、こっそりと筆頭侍女長のお仕着せの目立たない所に貼り付いたのだが──

 皇后宮を出て本宮に入ってすぐのこと、物陰に隠れて急に辺りを気にし出したかと思うと、人目を避けるようにして或る一室へと入って行った。


 部屋には、五十代半ばくらいの恰幅の良い見るからに高位貴族らしい男と、美しいが刺々しい印象の二十歳前くらいの令嬢がいた。

 公爵閣下と呼ばれた男は、やたらと尊大な態度で皇太子宮での妃の様子を問い質し、娘の方は妃への誹謗中傷を口にしながら、皇太子に相応しいのは自分だと目を吊り上げてまくし立てていた。


 そうして続く悪だくみ──やはり、輿入れの際の妃への非道な行いは、計画の一環だったらしい。

 医師長の弟子を買収して、体調を崩すような弱い毒を飲ませ、皇后に言っていたようなもっともらしい理由を掲げて、筆頭侍女長が代理を務めた。


 閨事に恐怖を抱くような惨い体験をさせた上で、帝都に向かう馬車に一緒に乗り込んだのだそうだ。

 そこで、皇室を始めとする帝国貴族たちが敗戦国の王女をどれだけ敵視しているか、この先どのように扱う気でいるかを、道すがら延々と話して聞かせたと言う。


 それもこれも、皇太子とオリヴィアの間に溝を作らせて、名ばかりの妃となるよう仕向け、いずれは廃妃、それが難しいとしても側妃を必要とする機運を醸成するのが狙いだった。


 うまくいって廃妃に持ち込めれば次の皇太子妃、それが無理でも実質的な正妃扱いをされる側妃として、公爵の娘を送り込むのが最終目的らしい。

 おそらくは、あれがサルヴァトーレ公爵令嬢なのだろう。皇太子が忌み嫌う気持ちが、シルヴィアにも十分に理解できた。


『あれほどあくどくて心根の卑しい女性を、この皇太子が受け入れるはずはないと思うのですけど……何故、あんなにも自信満々なのでしょうね。不思議だわ……』


 とにかく、もう今しか機会はない。皇太子がオリヴィアを、悪意ある者たちからしっかり護るように導かなければと決意を新たにする。


 いかにも泣き出しそうに顔を歪めたシルヴィアは、皇太子の視線を避けるように俯いた。我が身を強く抱いて、縮めた身をカタカタと震わせてみせる。

 そんな弱々しい様子に皇太子は、焦ったように肩を抱いて覗き込んでくる。そのタイミングで、ぽとりと一粒涙が零れた。


「オリヴィア……泣かないでくれ……」


 今やシルヴィアは、完全にオリヴィアの気持ちになり切っていた。自然に涙があふれて来る。

 ぽとりぽとりと滴る大粒の涙に、皇太子は悲痛な顔でシルヴィアを抱き締めた。


「大丈夫だ、大丈夫だから……」


 そう頭や背を撫でながら、優しく声をかけてくる。シルヴィアは、その胸に顔を押し付け、寝衣を握り締めて震える声で訴えた。


「……怖かった……とても……あんな怖い思いをしたのは初めてでした……。恐ろしい顔で怒鳴られて、責め立てられて……あの人に命じられた侍女たちが、わたくしを……裸のまま床に引き倒して、力づくで抑え付けて……無理やり……足…を……」


 皇太子に強くしがみつき、泣きながら途切れ途切れに、消え入りそうな声で訴える。抱き締めてくる腕に、更に力が籠められた。


「たくさんの…侍女たちの前で……あんな……恥ずかしい格好をさせられ…て……あの人が……うっ……」


 感極まったように泣き声を上げ、一層強くしがみつく。


「……痛…くて……辛くて……尖った…爪で……中を……引っかき回…され…て……とても…痛くて……まるで針…やナイ…フを差し込まれ…たみたいに……」

「尖った爪だと……!? なんてことを……。医師は、痛みを与えないように器具を使って確認すると聞いている……それを、あの女……」

 

 皇太子が怒気を露わに、吐き捨てるように言った。


「痛くて……何度も…何度も……やめ…てって言った…のに……あんな…酷い……ううっ……」

「本当に可哀想なことをした……。まさか、あの者がそんな真似をするとは……」


 しがみついたまま啜り泣くシルヴィアを、皇太子は抱き竦めて、あやすように尚も頭を撫でてくれる。

 シルヴィアはシルヴィアで、完全にその気になってしまい、既に演技であることも頭にない。オリヴィアが抱いたと思われる、悲痛な感情にすっかり同調してしまっていた。


 優しく撫でられ、あやされているうちに、大分落ち着いてきたシルヴィアは、ようやく自分の役割を思い出し、皇太子を誘導すべく再び演じ始めた。


「……砦から帝都に着くまでの間……ずっと……あの人に言われました……」        

「何をだ?」

「殿下も……皇室の方たちも、帝国の人たちは皆、王国を憎んでいるって……」

「は……?」

「……だから、誰も敵国の王女が妃になることを望んでいないし……皆が敵視している……わたくしは人質…なのだから……大人しくしていろと……」

「そんなことを!?」

 

 皇太子の胸に顔を押し当てたままで、小さく頷く。何一つ嘘は言っていない。筆頭侍女長が公爵に言っていたことを、そのまま情感たっぷりに再現しているだけである。


「輿入れなんて只の名目で……実質は戦利品に過ぎないって……。敗戦国の女が戦勝国の男たちの慰み者にされるのは世の常なのだから、くれぐれも妃だなんて思い上がらないようにと……」

「何という恥知らずな……何を考えているんだ、あの者は!」

「……だから……閨事が怖かったのです……。あの時のような痛いことや酷いことをされて……どんな恐ろしい目に遭わされるのかと、怖くて怖くて……」

「それで、ずっと怯えていたのか……あんなにも身を固くして。何てことだ……」


 皇太子は、憐憫の情を露わにシルヴィアを掻き抱く。


『本当に……酷い人たちだと思います。オリヴィア妃が可哀想……まだ十七にしかならなくて、俗世の汚い面を何も知らない清らかな子なのに、寄ってたかって貶めようとするなんて……。でも、これで皇太子は妃の強い庇護者になってくれるはず……妃付きの侍女たちも皆、味方のようだし……元に戻っても居心地よく過ごせるようになりますよね、きっと……』


 自分の演技もなかなかだと、シルヴィアは能天気に満足していた。ふいに強く抱き締めていた皇太子の腕が緩む。

 皇太子は少し体を離したかと思うと、掬い上げるようにシルヴィアを自分の膝に座らせた。しっかりと腰を抱いた状態で、気遣うように顔を覗き込んでくる。


 間近で見る蒼い瞳は、とても綺麗で優しい。頬を包み込むように撫でながら、労りに満ちた優しい声で囁いてくる。


「君は私のたった一人の妃だ。何があろうと、私は君を守る。もう二度と、誰であろうと君を傷つけさせたりしない。だから……これからは、誰かに嫌な思いをさせられるようなことがあったら、どんなことでも、どんなに些細なことでも構わないから、必ず私に言ってほしい」


 とても真摯で慈愛に満ちた言葉だった。


「私たちは縁あって一緒になったんだ。私は君を大切にしたいと思っている。君も……私を夫として頼ってくれると嬉しい」


 少しハスキーな色気のある声で耳元で囁かれ、シルヴィアは腰が抜けるような感覚を覚えた。


『これは……反則です……。この容姿で、この声……分かってやっているのなら、とんでもないですけど……心からの言葉みたいですね』


 オリヴィアに向けられた言葉を、本来は無関係な自分が聞いてしまったことに罪悪感を覚えないでもない。

 この言葉を聞けば、四面楚歌で孤独なはずのオリヴィアも、どんなにか心強く思えるはずだった。


『明日、教えてあげなくては! それで、きっとオリヴィア妃も、ここで安心して生きていけるようになるはずですよね』


 内心で拳を握り締めて使命感に燃えていると、頬にかけられた手に力が籠り、上を向かされた。


「私は決して、君に酷いことはしない……いっそう優しくしよう。だから、何も心配せずに私に全てを委ねてほしい……」

「え……」


 反応を返す間もなく、唇が重ねられていた。シルヴィアの様子をじっと見つめながら唇を離し、角度を変えて何度も何度も口付けが繰り返される。

 優しい口付けだった。だが、いつしか熱のこもった口付けへと変わり、気づけば舌を絡めとられた深いものとなっていた。


 甘く情熱的な口付けに翻弄される中、シルヴィアは抱き上げられ、寝台の上に運ばれて、そっと身を横たえさせられた。


 昨夜、初めて相対した時のように、少し上から見下ろしながら、皇太子はシルヴィアの手を取り、目を合わせたままで掌に唇を押し当てる。

 口付けの甘さに半ば放心していたシルヴィアは、どきりと胸が高鳴るのを感じた。

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