第9話 情報収集―筆頭侍女長
皇太子の背を見送った後、皇后はティーカップを傾けて一口吞み下してから、深々と溜め息を吐いた。
その膝の上の子猫の中で、シルヴィアはじっと皇后の様子を窺った。
「まったく……どういうつもりなのかしらね、あの老害は。まさか、わたくしを差し置いて、姑のつもりででもいるのではないでしょうね──」
皇后が柳眉を逆立てる。並外れて美しい女性の怒った顔というのは、なかなかに怖しい。
「──わたくしの輿入れの時も、やたらと
皇后はまたも深々と溜め息を吐く。
「……無理でしょうねぇ……」
そう呟いてから、テーブルに置かれた呼び鈴を振った。すっと近づいて来た年配の侍従が最敬礼をする。
「筆頭侍女長を呼びなさい」
「畏まりました」
ややしばらくして、お仕着せを着た一人の老女が現れた。けっこうな高齢である。
だが、傲然とした様子で皇后に礼を取った後、背筋をぴっと伸ばした様は
『人を見た目で判断してはいけないですけど……絵本に出てくる悪い魔女のよう。あんな顔で怒鳴られて詰め寄られたら、とても怖かったでしょうね』
この老女に酷いことをされて泣き叫んでいたというオリヴィアのことを思うと、偏見は良くないと思いながらも、どうしたって良い印象を持てるはずがない。
「其方、国境砦にオリヴィア妃を迎えに行った折、未通確認と称して随分と無体な真似をしたそうね」
「……確かに、確認はわたくしが致しましたが、無体なことなどは──」
「お黙りなさい。そもそも、未通の確認は医師がするものです。迎えの一行には医師長が同行していて、其方には立ち会いしか命じていないはず。越権行為も甚だしい」
「そうは言われましても、高齢の医師長が砦に到着した時点で体調を崩した上、随伴の医師は若い者でした。さすがに神の僕でいらした、身も心も清らかな姫君が医師とは言えど、殿下と変わらぬ年代の若い男性にお股を開かれて、
全く悪びれた様子もない。それを苦々しげに見やった皇后は、更に問い詰めた。
「百歩譲って、それがオリヴィアへの気遣いだとして、ならば何故、浄めの場で他の侍女たちの前でする必要があるのです」
「侍女による浄めすら嫌がられて拒否されるお方でしたので、別の機会を設けても受け入れては頂けないと判断致しました。忌避感をお持ちになるようなことは一気に纏めて終わらせてしまった方が、オリヴィア様にとってもご負担が少ないと愚考した次第でございます」
ものは言いようだと、シルヴィアは呆れながら老女の様子を窺っていた。両手を前に組んで、一見殊勝な態度で淡々と申し開きをしているが、その皺の多い顔には嗜虐的な色が浮かんでいる。
様々な思惑が渦巻く宮廷に君臨してきたと言っても、育ちの良い皇后が、その下卑た感情に気づくとは思えない。
『どう見ても、オリヴィア妃への配慮なんかじゃありませんね。貶める……いえ、辱める意図があったとしか思えないわ。でも、それだけではないような……』
シルヴィアが気になっていたのは、老女の爪だった。長めに伸ばされ、まるで猫の爪のように尖っている。
一か月前にはもう少し短かったとしても、そのような指で乙女の未通確認をするなどあり得ない。相当な苦痛を与えたことは、想像に難くなかった。
『オリヴィア妃が、皇太子との閨事に忌避感を抱くのは当然でしょうね。というよりは、最初からそれが目的だったとか……?』
初夜の前に、全裸で他人に組み伏せられ、陰険な老女が尖った爪で容赦なく中を暴いたのだとしたら、他者に触れられることに全く免疫のなかったオリヴィアは、どれだけの恐怖を抱いたことだろうか。
閨事で愛撫の一環として指でそこに触れ、更に中を探ることは普通である。初夜の床で夫に同じことをされれば、どんなに気を遣って優しくされたとしても、恐怖の追体験をするようなものだ。
愛のない政略結婚の相手ならば当然に心を閉ざし、頑なにもなるだろう。
『でも、何故……? 皇太子夫妻が良好な関係を築いて皇嗣を
今後、入れ替わりが解けた後、オリヴィア妃がこの皇宮で心安らかに暮らしていくには、この老女が一番の障害になると思った。
自分がいる間に少しでも環境を整えてあげられればと思い、老女の思惑を探る必要を感じる。
そんなことをシルヴィアが考えている間にも、皇后と筆頭侍女長の攻防は続いていたが、あくまでも傍から見ていた一侍女の証言に基づいた話でしかなく、話し合いは平行線を辿った。
当の被害者の訴えでもあればまた違うのだろうが、この場で決着が着くはずもない。
「わたくしとしては甚だ遺憾ではございますが、皇后陛下が仰られたいことは了解致しました。オリヴィア様が皇宮でお気兼ねなく過ごされるよう、わたくしも最大限に配慮させて頂きます」
慇懃無礼を絵に描いたような受け答えをし、軽く一礼してから、筆頭侍女長はきっと眉を吊り上げて言った。
「まずそのためには、出来るだけ早い臣下への披露が必要と存じます。お輿入れから丸一か月も経つと言うのに、未だに披露の宴が開かれておりません。大神殿での婚姻式には、皇族と大貴族、他国の使者の方々しか参列が許されておりませんでした──」
いかにもオリヴィア妃への配慮のように、滔々と述べている。だが、どうしても違和感を感じざるを得ない。
「──帝国の貴婦人方ご令嬢方の憧れの的であられる皇太子殿下が、どのような方とご結婚されたのかを知らしめるために、早く帝国中の貴族を招いて盛大な披露宴を行うべきでございます。淑女の中の淑女としてご令嬢方の模範となり、社交界を導いていかれるのが皇太子殿下に嫁がれた方のお務めでございますれば」
そう言って口の端に笑みを浮かべた顔は、やはり嗜虐的に見えてしまった。言っていることは正論なので、皇后もこれについては文句を言わない。
了承を取り付けて、筆頭侍女長は満足そうに一礼して踵を返した。
『なんでしょう……凄く引っかかるのですが……うーん』
どうにも気になる。シルヴィアは、老女の本音が知りたくて後を追おうとしたが、ガーネットに拒否されてしまった。
ガーネットは小さな体を震わせて、皇后にしがみ付く。
『貴方、あの人に酷い目に遭わされたことがあるの……?』
肯定するような感情が伝わってきた。単に猫が嫌いなのか、弱い者虐めを普通にするような性格なのか、それとも──
『もしかして、オリヴィア妃の猫だから……?』
どちらにしても、子猫が動いてくれなければどうしようもない。シルヴィアは諦めて、別の同調先を探した。
幸い、ここは花の咲き乱れた庭園である。そこかしこに美しい蝶が飛んでいたが、老女が通り抜けようとしたアーチの花に、手頃な蜂が止まっているのが見えた。
『あの子にしましょう』
この日、皇太子は夕食の時も顔を見せなかった。公務が終わらないと使いが来て、シルヴィアは一人で食事を終わらせた。
ほとんど流動食に近いものだったが、それでも朝よりは多く食べることができていた。
湯浴みを済ませ、寝所に入る時間になっても皇太子は現れない。侍女たちの様子では、この一か月、月の障りのあった日以外は毎夜同衾していたらしいので、先に寝てしまうわけにもいかなかった。
仕方なくシルヴィアは、ソファに身を預けて思索にふける。
ほぼ丸一日経っているが、元に戻る気配はない。いつまでこの体にいるのか、オリヴィアがどうしているのかすら分からず、どう動けば良いのかも分からなかった。
「困りましたね……普通に考えれば、大神殿にいるわたくしの体にオリヴィア妃が入っていると思うのですけど」
明日もこのままなら、少し大きめの鳥に同調して、大神殿に様子を見に行くべきか。それとも直接、大神殿に行けないかと考えているうちに、うたた寝をしてしまっていた。
「オリヴィア」
頬を軽く叩かれて、シルヴィアは目覚める。気づくと、寝衣に着替えた皇太子が隣に座って覗き込んでいた。
「遅くなってすまない。どうしても今日中に済ませておきたい仕事があってね。夕食も一緒に取れなくて申し訳なかった」
「いえ……」
顔を上げて、皇太子が思ったよりも間近にいることに驚く。湯上りの寝衣姿がやたらと艶めかしい。
日中に子猫に同調して傍にはいたが、よくよく考えると直接相対するのは、昨夜の行為の後に寝入ってしまってから初めてだった。
『昼間の様子とは全く違うのですけど……』
それも、よく考えれば当たり前だった。交合のために来ているのだから──そこまで思い至って、心臓がどきりと跳ねた。
今日一日、オリヴィア妃の境遇のことばかりに心を傾けていたために、自分の今の状況を考えていなかった。
『えっと……わたくし、これからそういうことを……?』
昨夜、どうせなら最初から経験したかったと残念に思ったりもしたが、あれはそんな機会はないだろうとの思い込みの上でのことでもあった。
かなり図太いはずのシルヴィアにしては、珍しく緊張している。
「オリヴィア……」
皇太子が頬に触れていた手を髪に移し、弄びながら呼びかけてくる。自分の名ではないものの、また心臓が強く跳ねた。
なんとか心の準備をする時間がほしい。そう思って、先ほど考えていたことを口に出そうとした。
「明日、大神殿へ行くよ」
「え……?」
まるでシルヴィアの思考を読んだように、先に口にされて呆気に取らされる。
「聖女シルヴィアが君に会いたいと言ってきた」
「えっ!」
「君も、聖女に会いたいとずっと言っていただろう? だから、何度も謁見を申し入れていたが、今まで祭祀や準備などで忙しいからと断られていた。それが今日、急に向こうから使者を寄越して来たんだ」
不可解そうに皇太子が言う。シルヴィアにしてみれば寝耳に水だった。皇太子妃が謁見を望んでいたことなど全く知らない。
おそらくは神官らが勝手に断っていたのだろう。
『それはそうと……やはり、オリヴィア妃はわたくしの体にいるということですわね』
そうでもなければ、“聖女”から呼び出しがかかるはずもない。
「明日、朝食後すぐに出発する。そのつもりで準備をするように」
「……ご一緒に行かれるのですか?」
“聖女”が会いたがっているのは自分だけのはずだ。理由が理由だけに、自分だけを指名しているはずである。
皇太子の同伴は当然ながら都合が悪い。だが──
「この国に不慣れな君を一人で行かせるわけにいかないだろう? 夫として付き添うよ。そのために、明日の予定を全て前倒しで終わらせてきたんだ」
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