第8話 情報収集―皇后
『あら……?』
皇太子に抱えられた子猫の中で、シルヴィアは小首を傾げた。皇太子宮から連なる渡り廊下の向こう、皇后宮らしき宮殿から出て来た侍女に見覚えがあった。
朝方、寝坊していた自分を揺り起こした侍女である。
侍女は、皇太子の姿を認めて脇により、礼を取って待機している。皇太子は特に気にした様子もなく、ちらりと目を向けただけで通り過ぎた。
皇后宮に入ってみると、皇太子宮とは違って侍女の年齢層が幅広い。皇太子宮では、年若い侍女は一人も見かけず、落ち着いた中年以上の者ばかりだった。
だが、ここには十代半ばくらいの、まだ少女といった年頃の者さえ数多くいた。
その理由は、皇太子が宮殿に足を踏み入れた途端に、若い侍女たちがあからさまに華やいだ様子を見せたことで察せられた。
年配の侍女たちが目を光らせているようで、どうにか抑えられてはいるようだが、皇太子の一挙手一投足を見逃すまいとするように、食い入るような目を向けてくる。
『ちょっと怖いです……』
子猫の中でシルヴィアは、ぶるりと身が震えるような気分にさせられた。皇太子は慣れているのだろう。全く気にした様子もない。
熱い視線を向ける女たちを一顧だにすることもなく、侍従の先導を受けて通り過ぎる。
花々が咲き乱れた美しい庭園の
「ごきげんよう、母上。お招きありがとうございます」
「いらっしゃい、アルフレード。あら、今日はガーネットも一緒なのね、嬉しいわ」
「執務室に遊びに来てたんで、そのまま連れて来ました」
奥の席に座ったまま挨拶を受けた皇后は、当然のように子猫に手を差し伸べる。皇太子も請われるままに手渡し、そのまま用意された席に着いた。
『文武に優れ、政にも秀でている辺りは皇帝譲りなのでしょうけど……皇太子は、両親の良いところばかり受け継いだのですね。皇后の方が少し薄い色の金髪だけど、顔はそっくり。それにしても、二十一歳の子がいるなんて思えないくらい若々しくて、眩しいくらいに美しい方だわ』
一緒にいると、母子というよりは少し年の離れた姉弟のようだ。
『これは……眼福ですね』
美しい花々に囲まれて、優美な東屋で向かい合う美貌の貴婦人と貴公子──一流の絵師による一幅の絵画のようだと思った。
「貴方の妃だけど、やっと少しここに慣れてくれたようね。マルティナが喜んでいたわ」
「宮殿の前で見かけましたが、オリヴィアの侍女長がそう報告を?」
あの侍女はオリヴィアの専属だとは思っていたが、侍女長という肩書の責任者だったらしい。
『あの人はマルティナというのね。確かに、オリヴィア妃のことを一番気にかけている感じでした』
そう納得していると、皇太子がフォークに突き刺した肉を口に含み、ゆっくりと咀嚼しながら、皇后を促すように見つめている。
皇后は珍しいものでも見るかのように、くすりと笑った。
「やはり政略結婚でも、夫婦になれば情が湧くものなのかしら」
「……それはそうでしょう。母上だって同じではないですか」
「あら、わたくしの場合は少し違うわ。わたくしは陛下の熱烈なプロポーズに絆されたのだもの。わたくしの父は政略のつもりでいたようだけど」
「父上が大神殿に参拝に来られた母上を見かけて一目惚れし、その場で結婚を申し入れた話は有名ですからね。各国からの巡礼者が集まる広場で、いきなり跪いて母上の手を取り求婚した父上に、母上が返した言葉も有名ですが」
その話は当然、シルヴィアも知っている。その顛末を間近で見ていた神官から、微に入り細に入り教えられた。
ものの道理が分かるようになった頃だから、大分年数が経ってのことだったが。
当時、二十代半ばだった皇帝は、立太子すら覚束ない第四皇子だった。文武に秀でていたものの、皇位には全く関心を示さなかったため、後継争いからは無縁の存在だった。
そんな皇子に向かい、隣国の姫はこう返した。『わたくしは他国から婿を取る気はございません。わたくしが他国に嫁すことがあるとすれば、父王が我が国に多大な益があると認めた場合のみでございます。貴方の価値を証明して下さいませ』と──
そうして第四皇子の人生は、運命の姫に出会ったことで一変し、覇道を歩むこととなった。
その折の派閥の形成、権謀術策、軍や人心の掌握による反対勢力の一掃は、未だに語り草となっている。
早くから後継争いをしていたにも関わらず、あっさりと末弟に覆されてしまった兄たちは、長兄が大公となり、次兄は公爵家に婿入り、すぐ上の兄は他国の王配となった。
『ああ……なるほど。サルヴァトーレ公爵家は、第二王子が婿入りした先でしたね、そう言えば』
もともと、出来は良いが日和見なほど温厚な第一皇子が順当に立太子するはずだったが、強欲で傲慢な第二皇子が公爵家と組んで難癖を付けたところから、後継争いに発展している。
元第二皇子は、未だに権力への欲を諦めていないのだろうか。娘を皇太子妃にねじ込もうとしていたのは、そのせいなのだろうか。
『うーん、だとすると、オリヴィア妃の存在は面白くないでしょうねぇ……まさか、いじめとかあったりするのでしょうか』
オリヴィア妃を取り巻く周辺に暗雲が立ち込めている気がして、本来は部外者であるはずのシルヴィアだが、いたく心配になってくる。
「陛下がお約束通り、ご自身の価値を証明して下さったから、正式に婚約したわ。でもね、その後も陛下はとても熱烈に愛を語って下さったの。だから……成婚までには、わたくしも陛下をお慕いするようになっていたわ。ね? 政略結婚とは違うでしょう?」
「別に、お二人の馴れ初めを否定するつもりはありませんよ。夫婦仲がよろしいのは、子にとっても幸せですしね」
「そうよね。だから貴方もそうなることを願っているわ。政略だろうと縁は縁だもの。結ばれた後からでも、お互いを尊重し大切に思い合えるようになれば、お互いにとっても、いずれ生まれてくる子供にとっても幸せなことでしょう?」
「……そうですね」
どこか優しい顔で皇太子が同意する。そんな息子を少し意外そうに見つめながら、皇后は問うた。
「貴方の初恋も、ようやくけりが付いたのかしら」
「今更ですね……最初から望みなんてありませんでしたから。どこかで折り合いを付けないと、とは常々思っていました。公爵家のごり押しを跳ね返すのに丁度良かったのもありますが、オリヴィアのことはそのタイミングで浮上した話だったので、私も縁のように感じたんです。だから……縁あって結ばれた相手ですから、慈しみたいと思っています」
少しはにかんだ様子で率直な言葉を紡ぐ皇太子は、寝顔と同じく年相応の青年に見えた。
『皇太子の初恋……一体、どんな方に恋をしてしまったんでしょうね。何をしても許される身でありながら、叶わない相手だなんて……近親の女性とか? 相当に身分が低いとか? ま、まさか……人妻だったり?』
勝手に想像して狼狽えていると、急に皇后の声が硬くなった。
「マルティナからは、貴方と妃の距離が縮まったようだと報告があって、わたくしもほっとしたのだけど……」
「他にも何か?」
「輿入れの時の、国境砦でのことなんだけど……妃からは、何も聞いていないの?」
「身を護るためとはいえ、何もかも全て取り上げることになってしまって、可哀想なことをしたと思っていましたが……オリヴィアの方からは何も。こちらが何か言って、気後れしたように短く返事をするくらいの意思疎通しか、まだできていないので」
「輿入れからひと月も経っているのに? 貴方、夫としての義務はきちんと果たしているんでしょうね?」
人払いがされていて、話の聞こえる範囲には誰もいないというのに、皇后は言いにくそうに声を潜める。
「それは、まぁ、一応滞りなく……」
「月の障りがあった時以外は毎夜、貴方が閨を共にしているのは分っているわ。そういうことじゃなく……ちゃんとその、お務めはしているのかと」
「仰りたいことは分っていますから……」
さすがに皇太子も、母親に交合の有無を言うのは抵抗があるらしい。珍しく戸惑いを露わにしている。
「妃の方は、閨事をずいぶんと嫌がっていたそうじゃない。神の僕として暮らしてきた子なのだから、身を穢されるようで抵抗があるのは理解できるわ。でもね、いくらなんでもひと月もそんな状態が続くのはおかしいでしょう?」
「……確かに、あまりにも頑なで私も困っていましたが……昨夜やっと少し、心を開いてくれたように思えたので、これからは……」
「それなんだけど……その原因ね、修道女だったからだけではないみたいなの」
「……?」
怪訝な顔をする皇太子に、皇后は国境での未通確認について、マルティナから報告を受けたと詳細を伝えた。
皇太子は顔を引き攣らせ、口元を抑えてしばらく絶句していた。
「……なんで、今頃になって……」
「国境で、直接オリヴィア王女の世話をしたのは十名ほどで、その中に皇太子妃付きになった侍女が一人いたんだけど……輿入れからしばらくは落ち着かない状態だった上に、親が病気になったとかで長らく里帰りしていたらしいの。それでようやく、砦での話を他の侍女にして、マルティナが慌てて報告に来たってわけ」
「…………」
押し黙ってしまった皇太子の顔は、怒りのようなもので歪んでいる。それを見つめている皇后も沈痛な表情を浮かべていた。
「ご歓談中に失礼致します」
侍従が少し離れたところから声をかけてくる。
「皇太子殿下に火急の御用とかで、ロベルト補佐官から早めのお戻りをと使いがございました」
「……わかった」
侍従が立ち去るのを待って、皇后が諭すように言った。
「急ぐ用事のようだから、もうお戻りなさい。筆頭侍女長のことは、わたくしが対処します」
「……わかりました、母上」
「ガーネットは、後で皇太子宮に返しに行かせるわ」
「お願いします」
母后に礼を取り、皇太子は強く眉を顰めたまま庭園から出て行った。
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