第5話 情報収集―皇太子1
ひたすらミルクを舐めているガーネットの中で、シルヴィアが困り果てていると、更に侍女たちの話は盛り上がっていた。
一応は、バルコニーの女主人に聞こえないよう声を潜めているようだが。
「いつもと違ったといえば……殿下が妃殿下にお印を付けられたのも初めてよね。年甲斐もなく、ちょっとドキドキしちゃったわ」
「その気持ち分かるわぁ」
本来は落ち着いているはずの年代の侍女たちが、年若い娘たちのように、頬を赤らめて華やいだ様子を見せる。
『お印……なんのことでしょう?』
内心で首を傾げているシルヴィアをよそに、侍女たちは更に声を潜めて話を続けた。
「浴室でお身体を洗って差し上げる時に確認したけど、首筋に一つ、胸に一つ……あと、左手首の内側にも」
「妃殿下の抜けるような白いお肌に、まるで赤い花びらが散っているみたいだったわ」
そこまで聞いて、シルヴィアはようやく侍女たちが何を言っているのか理解した。
『いつ付けたんでしょう……? 絶頂の後で気を失ってしまった時かしら?』
本物のオリヴィア妃の時ではないだろう。心を開く様子のない相手に、ずっと気を使っていたはずの皇太子が所有印を刻むとは思えない。
シルヴィアがやらかしてしまったことは、皇太子がずっと切望していたことだったのだろうと思えた。
『どうしましょう……ますます申し訳ないわ。本物のオリヴィア妃に戻った時に、どちらも傷つけてしまうのではないでしょうか……』
そんな風に気に病んでいると、更にシルヴィアが困り果てるような話が、侍女たちの口から次々と出て来た。
「浴室といえば……あんな風にわたくしたちに自然に身を任せて下さったのも初めてだったわよね?」
「そういえば、そうね。いつも、他人が触れるのをあれほど嫌がっていらしたのに」
「そうだわ。ご入浴もお着替えも、ようやく慣れて頂けたということかしら」
「でも……昨夜、閨に入られる前のご入浴の時は、いつもとお変りないご様子だったけど」
「それは……やっぱり殿下との閨事を、心から受け入れられるようになられたからではないかしら」
そんな言葉に、他の者たちは晴れやかな顔で相槌を打つ。
「そうよ、きっとそう。殿下とのお仲を深められたことで、他人に身を任せることに慣れられたのよ、きっと」
「そうとしか考えられないわよね、あの急なお変わりようは」
「それに、わたくしたちへも、随分と親しげなお顔を向けて下さるようになったわよね」
「そうそう。お顔もすっかり明るくなられて、ずっと俯きがちでいらっしゃったのに、姿勢も良くなられたと思わない?」
そんな指摘に、思い出すように考え込んでいたかと思うと、全員が嬉しそうに笑って頷いた。
「殿下のご愛情の為せるわざね、きっと」
「良かったわ、これで皇室も安泰ね。きっとすぐお子様もお出来になるわ」
「そうね、早く身籠られると良いわね。お輿入れされてから初めて月の障りがあった時の、妃殿下のお嘆きようはなかったもの」
「あれは……多分だけど、あの時は閨事がお辛くて、御子が出来れば解放されると思われていたんだと思うの。それなのに、月の障りが来てしまったから……」
「……やっぱり、そういうことよねぇ」
「全部、筆頭侍女長のせいだわ。あんな無体なことをするから……」
黙って聞いていたシルヴィアは、ますます居たたまれない気持ちにさせられた。特に怪しまれている様子はないものの、普段のオリヴィア妃の立ち居振る舞いや言動とはかけ離れているのは間違いない。
『本物に戻った時に、周りを動揺させてしまいそう……というより、がっかりさせてしまうでしょうね』
ここまでの話だけでも、オリヴィア妃がどれだけ今の境遇を拒絶していたかが良く分かってしまった。周りの者たちはそれを憂慮してきて、やっと心を開いたと喜んでいる。
どちらの気持ちも理解できるだけに、余計に申し訳ない。これ以上、齟齬が大きくなる前に早く戻してもらわなければと焦ってくる。
『困ったわ……神が応えて下さらない……』
心の内でどんなに呼びかけても応えは返ってこない。生まれてから二十年、こんなことはかつて一度も無かった。
強力な安心感の源であった神との繋がりが切れ、今まであったよすがは何もない。図らずも、身一つで敵国に嫁して来たオリヴィア妃の心情と重なる気がした。
孤立無援、だが──
『まぁ、なるようになるでしょう……とりあえずは、もっと情報収集しませんと』
聖女シルヴィアは、嫋やかな見た目に反して割と図太かった。あまり思い悩むこともなく、やたらと順応性が高い。
そして、転んでもただでは起きない──のが信条でもあった。
お腹がくちくなってミルクへの関心が薄れたのを見計らって、シルヴィアはガーネットを移動させることにした。
子猫が廊下への出入口に向かうと、侍女の一人が先に立って扉を開けてくれた。
「ほんと好奇心旺盛よねぇ」
「子猫だもの、そういうものでしょう?」
そんな会話を背後にガーネットは廊下を進んで行く。
『皇太子の本音が知りたいのだけど……どこにいるか分かるかしら?』
ガーネットはシルヴィアの希望に沿ってくれるらしく、迷いなく走り出す。階段を駆け下り、渡り廊下を通って隣の棟に入り、階段を駆け上がる。
そちらの建物は、明らかにプライベートな空間だった寝室のある建物側とは、様相が全く違っていた。
『皇太子の執務室……でしょうか?』
見るからに立派な扉の前に、屈強な騎士が二人立っている。ガーネットはぴたりと足を停めると、目立たない場所でちょこんと座り込んだ。
さほど待つこともなく、そこから侍従が出て来た。手に銀食器が幾つか載ったトレイを抱えている。
恭しく退去の礼をしている侍従の足元を、ガーネットは素早く駆け抜け、部屋へと入り込んだ。
たくさんの書棚に囲まれた部屋の中、窓を背にする位置に大きな机があり、皇太子はその席に着いていた。やはり執務室で間違いない。
「この後、例の者を連行して来る予定です」
「そうか。クロイツェンの様子はどうだ?」
「終戦から二か月、妃殿下が輿入れされてから一か月ですからね。ずいぶんと落ち着いては来ているようです。以前は頻繁にあった暴動も、今のところは起きておりません」
「国力が落ちている中での無理無謀な侵略だったからな。人的物的にあちらの被害ばかりが大きく、我が国はほぼ無傷……国民の間でも相当に不満は溜まっていたようだが、和睦目的の婚姻が功を奏したと言ったところか」
「ええ。王室の求心力は随分と落ちており、傲慢で横暴な側妃一派は国民の評判が良くありませんからね。その一派が蔑ろにしてきた王妃所生の王女が平和の架け橋となったことで、国民が溜飲を下げたようなところもあるようです」
皇太子は頷きながらティーカップを傾け、ソーサに戻した。その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
腹心らしき補佐官は、その様子に目敏く気づいたようだった。
「今日は、ずいぶんとご機嫌がよろしいようで。妃殿下と何かございましたか?」
「ああ……やっと少し、心を開いてくれたようなんだ」
「ほう、それはようございました。殿下もずっと悩んでおられましたからね。私も気になっておりましたが──」
皇太子より一回りほど年嵩に見える補佐官は、少し声を低めて遠慮がちに尋ねた。
「──閨のご様子が変わられたということでしょうか」
「まぁ、そんなところだ。ロベルト、其方の言った通りだったよ。昨夜、その……妃が初めて達したんだ。それまで、あんなにも頑なだったのが嘘のように、声を上げて私にしがみ付いてきた。そんな様子が嬉しくて、少し……無理をさせてしまった……」
気恥ずかしそうに茶を一口飲んで、ティーカップを弄びながら、皇太子は呟くように続ける。
この補佐官は、日ごろからプライベートな面でも相談相手となっているのだろう。皇太子は、ずいぶんと明け透けだった。
「──何度も達して最後は気を失ったんだが……私はいつものように、すぐに寝所を出る気にはなれなかった。離したくなくて、抱き締めたまま腕の中の妃の顔を見ていた。ずっと不憫には思っていたが……初めて愛おしいと思えた。そのまま寝入ってしまって、明け方に目が覚めた時、妃は私に身を寄せたまま穏やかな顔で眠っていたんだ。眠る前と体勢が違っていたから、途中で目が覚めているはずなのに」
「そうでしたか……あのように育たれた方ですから、閨事には強い忌避感があるのではと憂慮しておりました。ですから、ひたすら優しく手間暇かけて導かれていくしかないと思った次第ですが、長引かずに済んで良うございました」
「ああ……」
「ですが、ここで安心して気を抜いては参りませんよ。絶対に手を抜いてはいけません。今まで通り優しく、ゆっくり時間をかけて身も心もほぐして差し上げるのが肝要です」
「分かっている。私も、時間をかけて導くのは嫌いではない。あのような反応が見られるのは男として嬉しいし、実のところ、とても愉しかった」
「ご夫婦仲が更に深まると良いですね」
そう補佐官はにこやかに言った。そんな男二人の密やかな会話をソファの陰から見聞きして、シルヴィアはやはり困り果てるしかない。
『……やっぱり、ぬか喜びさせちゃってる……どうしましょう』
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