第3話 気の毒な皇太子妃

 とりあえず、できること──というより、しなければいけないこと。シルヴィアはまず、情報収集をしなくてはと思い至った。


『妃がこんな風になったのが皇太子のせいなら……もしかして、神は妃を救われるために、こんなことを?』


 わずか一か月でこのやつれようなら、このまま放置していれば命に関わるかもしれない。


『そういえば……あの時、神は仰っていましたよね? わたくしの望みとは別に、彼の者の死を賭した願いを叶えるって』


 聖女シルヴィアは、割と思い込みが激しい質だった。皇太子のせいと既に決めつけ、オリヴィア妃を死の淵から救わねばと勝手に使命感に燃えていた。


『もう……見目が良くて優しくて、気配りが細かくて、でも閨は情熱的……なんて、理想的な男性だと思ってましたのに……』


 皇太子アルフレードは見目の良さや剣の腕に優れているだけでなく、皇嗣として政の力量にも秀でていると言われ、帝国民からの人気がすこぶる高い。特に女性人気は絶大だった。


 実を言うと、民たちの噂が耳に入り始めた随分と前から、皇太子が公務で大神殿に来た時などに、鳥や蝶などに意識を重ねて鑑賞していたりもする。

 そうして、勝手に理想化してしまっていた。物語で描かれているような、理想の王子様のように。


 だからこそ、よけいに裏切られた思いが強い。身体を間借りしている縁もあって、ついつい妃の側に立ってシルヴィアは憤る。

 気の毒な身の上の妃の体調を顧みず、自分の劣情のために執拗に求めるなんて──と。


 そんな憤りに思考を支配され、他のことへの注意が全く向いていなかった。侍女たちに導かれるまま、皇太子宮の中にある礼拝堂へ連れて行かれ、その後でダイニングへと向かう。


 ずっと考え込んでいたシルヴィアは、無意識のうちにもいつも通りに祈りを済ませ、侍女らに促されるまま食卓へ着き、いつの間にか食事を始めていた。


「あの……妃殿下? そのように急いで召し上がられて、大丈夫でございますか?」


 侍女の戸惑いに満ちた声掛けも気付かずに、何も考えず淡々と料理を口に運ぶ。我に返ったのは、出された料理を三分の一ほど平らげた辺りで、経験したことのない違和感に襲われた時だった。


「ぅ……?」


 胃の辺りが重苦しく、次第に鈍い痛みに変わっていく。次いで、急激な吐き気に襲われた。


「ぐぅ……っ」


 慌てて両手で口を抑えて立ち上がると、傍に控えていた侍女が慣れた様子で、続き部屋となっている控えの間へと誘導する。別の侍女が手早く盥にナプキンを敷いて差し出し、また別の侍女が背を摩ってくれた。


 こみ上げてくる吐き気に耐え切れず、涙目になりながら欲求に従う。なんとか衝動が収まるや、口元を優しく拭われ、うがい用の水を差し出される。

 ようやく落ち着いたシルヴィアは、侍女らの手慣れた連携に、今までにもよくこんなことがあったのだろうかと思った。


『オリヴィア妃は、とても大切にされているのね。でも、どうしてこんな……? なんだか、身体が食べ物を受け付けないみたい……』


 出されていた料理は柔らかいものばかりで、スープの具も小さく、胃の負担にならないよう、気を使って調理されたもののようだった。


「妃殿下、お座りになって少しお休み下さい」


 促されてソファへと腰を降ろす。ぐったりと背もたれに身を預けていると、食事室の方から慌ただしく入ってきた侍女が、気づかわしげにグラスを差し出してきた。


「果実水でございます。柑橘を大目にしてありますので、ご気分が落ち着かれるかと……」

「……ありがとう」


 気配りに感謝して、弱々しく笑みを向けながらグラスを受け取り、シルヴィアは口に含むようにして少しずつ飲み下していく。

 半分ほど飲み進めた頃には、随分と落ち着いた気がした。


 力なく溜め息を吐いていると、一番年配の侍女が傍らに跪いて見上げてくる。


「いつもは、お食事を摂られるのを嫌がられておいででしたのに……今日は、ご自分から食べられようとされていたので、とても喜ばしく思っております」

「……食欲はあったのだけど……身体が受け付けなかったようです……ごめんなさい」


 期待を裏切ったのかと申し訳ない思いにかられて、つい謝りの言葉を口にすると、侍女は慌てたように言った。


「滅相もございません。ただ、食が細くなられていた上に、月の障りがあってからは、ほとんど何も召し上がっていらっしゃらなかったので、いきなり多くは難しいかと」

「……そうですね」


 経緯は全く分からないが、言っていることは至極当然のことなので、とりあえず合わせて頷いてみせる。

 侍女はほっとしたように顔を緩め、優しげな声で言った。


「料理長に言って、スープの具は裏ごしさせましょう。果物もすりおろしたものなら召し上がれるかもしれませんね。少しお休みされてから、お出ししましょう」

「……そうしてくれます?」

「畏まりました。妃殿下、このまま、こちらで休まれますか? それとも、ここからもバルコニーに出られますが、そちらにお席をご用意いたしますか?」

「そうですね……外の空気が吸いたいです」


 そう笑みを返すと、侍女たちはてきぱきと動き出す。掃き出し窓を開けて、食堂にも連なるバルコニーの長椅子に厚手の布をかけ、いくつもクッションを運び、ゆったり休めるよう整えてくれた。


「ありがとう……少し、一人にしてもらえるかしら」

「畏まりました。わたくしどもは、中で控えておりますので、ご用がございましたらお呼び下さいませ」


 そう言って、傍らのテーブルに果実水のグラスと、呼び鈴を置いて侍女たちは部屋の中へと引き上げる。

 中から様子を見ているのだろうと思いながらも、ガラス扉を閉める音がしたのでほっとした。


 とにかく現状を把握しなければならない。何故、自分が皇宮などにいて、しかも新婚の皇太子妃の中にいるのか。

 皇太子の問題行動はもちろんのこと、妃の周辺状況についても詳しく知りたい。何より、そのオリヴィア妃は今、どこでどうしているのかが一番気になる。


 そして──それらを把握する手立てが自分に残されているのか。聖女の力が肉体を違えていても使えるのかどうか。

 今の自分に、何ができて何ができないのか。神の思惑や、この身体にいる期間が分からない以上、早く確認しなくてはならない。


『まずは──』


 まだ少し痛む胃とむかむかする胸に手を当てて、癒しをかけてみる。癒しの力は働き、不調は収まった。だが──


『これは、聖女の力じゃありませんね……普通の神官が使える程度の、ただの治癒力ですね』


 敬虔な修道女だったオリヴィア妃は、もともと治癒の力があったのだろう。だが、聖女の癒しには及ぶべくもない。

 次いで、いろいろと試してみたが、浄化も身の穢れを祓う程度で、やはり神官程度の力しかなかった。


 結界も張れない。精霊も呼べない。だから火も水も出せない。神に呼びかけても、声が届いているのかも判らず、生まれてから常にあった神との繋がりが感じられない。

 身を護る力も敵を退ける力もない。おおよそ、教団で把握している聖女の力は一切使えない──つまりは、せいぜいが神官程度で、ほぼ普通の人間に近いということだった。


『これはこれで面白いのですけど……でも、困りましたね。これじゃあ、情報収集ができません。せめて、この皇宮の人たちに怪しまれない程度に、距離感とか妃の立ち位置くらいは知りたかったのですが』


 侍女たちや何より夫である皇太子に、オリヴィア妃がどう接していたのか。それを知らずに、あまりにもかけ離れた言動を取るのは不味い気がする。

 既に言葉を交わしてしまってはいるが、今ならまだ修正が効くと思えたのだが。


 困り果てていると、猫の鳴き声が聞こえた。目を向けると、バルコニーの手すりの上を伝って、真っ白な子猫が近づいてきていた。


「子猫……? ここで飼われているのかしら」


 毛並みは良く、きちんと手入れされているように見える。よく見ると、長い毛に隠れているが、首にはリボンが結ばれており、薄赤い宝石が嵌め込まれた金の飾りが付いていた。


 子猫は手すりから飛び降りると、まっすぐにシルヴィアへ駆け寄ってきて、ぴょんと膝の上に飛び乗ってきた。

 そのまま手に頭をすり寄せてくるのを、そっと撫でてやりながら呟く。


「……“わたくし”が飼い主なの?」


 首元の宝石は、オリヴィア妃の髪と同じ色だった。妃は嫁入りの際、何一つ故国の物を持ち込めなかったと聞いている。

 誰かが、妃の慰めにと贈ったのかも知れない。そう思うと、少しほっとする。


 侍女たちの態度もそうだったが、オリヴィア妃は敵だった国から嫁いできたと言うのに、とても大事にされているようだ。

 その身の上が気の毒なこともあって、この国が妃の安らげる居場所になれば良いと心から思う。

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