第2話 覚めない夢
大神殿の前の広場を大衆が埋め尽くす中、王女を乗せた豪奢な馬車が到着し、皇帝を始めとする皇族が出迎えた。
馬車の扉を従者が開くのを待って、前に進み出た皇太子アルフレードが花嫁に手を差し伸べる。
それはそれは、美しい光景だった──まるで物語の挿絵のように。そんな光景を聖女シルヴィアは、大神殿の奥の間から真っ白な蝶に感覚を載せて、感嘆混じりに間近から眺めていた。
雲一つない青空の下、陽光を受けてきらきらと輝く金髪の美青年が、優しい笑みを浮かべて手を差し伸べる。その手を借りて、ストロベリーブロンドの美少女が不安げな顔で馬車から降り立つ。
まだ十七歳にしかならず、ずっと修道院で暮らしていた王女の身なれば、たった一人で帝国に連れて来られて、不安に思うのは当然であった。
泣きそうな表情で皇太子から目を逸らした王女は、近くを飛んでいた蝶の動きに沿って目線を動かし、やがてその先の壮大な大神殿に気づいて、わずかに顔を緩めた。
皇太子に導かれて、皇帝や皇族に礼を取った他は、王女の目はずっと大神殿に向けられていた。
『あれは……寄る辺を見つけたような? それとも憧れ……?』
王女は大神殿に、とても深い想い入れがあるようだった。敬虔な修道女であったことを思えば、聖地である大神殿を目にして、しかるべき態度なのかもしれないが。
そんなことを考え込んでいるうちに、間近からすやすやとした寝息が聞こえて来た。先ほど激しく揺さぶられている時に、垣間見た顔は苦しげだったが、今はすっかり安らかな表情になっている。
熟睡しているせいで緩んだ腕の中で、やっと少し自由を得られた。起こさないよう気を付けながら、そっと頭をもたげて、この身体の夫である皇太子の顔をまじまじと見つめる。
『本当に綺麗な皇子様……貴賤問わず女性の人気が高いのも分かりますね』
その上、気配りができて優しく、なのに夫婦の交わりはとても激しい──先ほどの濁流のような強すぎる快感を思い出し、シルヴィアは一人頬を染めた。
当然ながら、生まれた時から聖女であった身は、間違いなく清らかである。だが──
市井の生活や噂話を見聞きできる力を持っているシルヴィアは、いわゆる耳年増だった。その身は大神殿の奥深くに隔てられながらも、男女間のあれこれなどかなりの情報量を有している。
だから、夫婦となった男女が何をするかも、同じ年ごろの普通の娘たちよりもはるかに詳しく知っていた。
『話には聞いてましたけど……男性との交合って、あんなに凄いものなのね。月の障りもあるだろうから、毎夜というわけではなかったでしょうけど……初夜からたった一か月で、あんなに感じるようになるものなのかしら? 女性の身体は、快楽を得るまで訓練……開発? それが必要で、時間がかかるって聞いてましたのに……』
初めて知った女性としての快楽を思い出し、感動しながらも、どこか他人事のように冷静な分析をしていた。感覚は間違いなく自分のものだったが、皇太子と繋がっていた身体が他人のものだからだろうか。
『それにしても……どうして、あの瞬間……? 神は何を考えていらっしゃるの?』
望みを叶えるとの神の声──確かに、市井の暮らしや普通の人生、家族や友人や恋人と共に過ごす生活に憧れる気持ちは常々あった。
だからと言って、魂を入れ替えるにしても、もう少し時と場合というものがあるだろう。
『わたくしが、秘密の力で世俗の情報に詳しかったから良いようなものの……普通に俗世から隔絶されて育った聖女なら、卒倒ものですよ……』
いきなり他人の身体に入って、しかも男性を身の奥深く受け入れた状態で絶頂を迎える瞬間とは。思わず、神に対する恨み言が心に浮かぶ。
だが、どうせなら──
『どうせなら、もっと早い段階から経験してみたかった……なんて思うのは、贅沢でしょうか? ちょっと残念』
あそこまでの強く深い快楽に至るには、当然ながら高めていく手順が必要である。聖女である自分が実際には経験できるはずもないことなのだから、せっかくならその過程も体験してみたかったと思わないでもない。
これは神の気まぐれによって起こされた、二度と経験することのない刹那的な奇跡なのだからと。
『そう言えば、わたくし……男性に触れるのも初めてでした。男性の身体って、ずいぶんとゴツゴツしてるんですね……腕も胸も硬い……』
シルヴィアは赤ん坊の頃から大神殿の奥深くにいて、高位の女性神官たちに育てられてきた。衣服の着脱も入浴なども全て、女性神官の手に委ねられていたが、彼女たちの手も腕も胸も柔らかかった。
知識としては知っていた男女の性差を、今初めて実感した。先ほど身の内に受け入れていたものも、やはり硬かったように思う。
そっと皇太子の腕や胸に触れてみたが、さすがにそちらを確かめるわけにはいかない。いたく興味は惹かれるが、そのくらいの分別はあった。
苦笑しながらシルヴィアは、自分を抱き込んでいる腕や胸に再び身を寄せて、しっくりくる位置を合わせて力を抜いた。
『硬いけど……でも、男の人の腕の中って、力強くて何だか安心できますね……』
男女問わず他人と、こんな風に身を寄せ合うのも初めてである。女性神官たちは、幼い頃は寝かしつけてはくれていたが、添い寝をしてくれたことは一度もない。
今まで深く考えたこともなかったが、自分にも父母はいたはずである。聖女でなければ、こんな風に添い寝したり甘えることもあったのだろうかと、ふと思った。
『もう少し、このままでいられたら良いのに……』
そんなことを思いながら、他人と体温を分け合う心地良さに、ゆっくりと眠りに落ちていく。
「もうご起床のお時間でございますよ、起きて下さいませ」
女性の声が聞こえると共に、身体をそっと揺すられて、深い眠りから浮上する。気怠い感覚の中、まだ少し重い瞼を持ち上げると、眩しい光が目に飛び込んできた。
「……朝……?」
「はい、起きて下さいませ。ご朝食の前に、ご入浴を済まされませんと」
ぼうっとしたまま重怠い身体を両側から支えられるように起こされる。一糸纏わぬ白い肌から、上掛けが滑り落ちた。
その白い肌には、赤い花びらを散らしたような痕が幾つも残っている。それを認めた女たちは、笑みを向け合いながらガウンを羽織らせて、寝台から抜け出させた。
「殿下は大層ご機嫌がよろしいご様子でした。ただ、本日は騎士団の早朝訓練に参加された後、来客のご予定が入っていらっしゃるとかで、朝食も昼食もご一緒できないと、それは残念そうに仰っておられましたよ」
「……殿下?」
はたと一気に覚醒した。シルヴィアは慌てて周りを見回し、自分を囲んでいるのが女性神官ではなく、見知らぬお仕着せを来た女たちであること、昨夜のままの寝所にいることに気づいて目を瞠る。
半ば呆然としながら髪を一束手に取って見下ろすと、艶やかなストロベリーブロンドだった。聖女シルヴィアの象徴とも言える、プラチナブロンドではない。
『嘘……元の身体に戻っていないのですか……? まだオリヴィア妃のまま?』
寝て起きたら元通りだろうと能天気に構えていたシルヴィアも、さすがに衝撃を受けた。
『どういうことでしょう……? 一時的なものだと思っていたのに……それとも、一日体験なのかしら……あるいは数日? 神は一体、何を考えていらっしゃるの?』
そう考え込んでいる間にも、年嵩の侍女たちは手慣れた様子で、昨夜さんざんに皇太子に貪られて力の入らない身体を、両側から支えるようにして浴室へ連れていく。
もともと入浴も着替えも女性神官たちの為すがままであったため、シルヴィアは混乱する頭の中とは裏腹に、無意識のまま従順に身を任せていた。
五人の侍女たちが肌に触れ、あらゆる場所を洗っていくのも、皇太子を受け入れていた部分を浄められるのすらも、全く意に介さず思索に耽る。
そんな様子を、侍女たちが不思議そうに見ていることも気付かない。
シルヴィアが我に返ったのは、下着からドレスまでを身に纏わされ、化粧を施され、髪を結い上げられた後だった。
この時初めて、シルヴィアは姿見に映るオリヴィアとなった己が姿を見た。
『あら? 皇太子妃って、こんな方だったかしら……? なんだか、大神殿で見た時とずいぶん違っているように思うのですけど……』
端的に言って、やつれている。一か月前より格段に瘦せてしまっていて、顔付きも何だか違って見えた。
目は落ちくぼみ、頬はこけ、まるで病人のようだった。身体に力が入らないのは、皇太子との昨夜の営みのせいではなく、身の衰えのせいなのかもしれない。
『いえ、やっぱり皇太子のせいかも……まさか、毎夜あんな風に激しく求められているせいで、身を損なってしまったんではないでしょうね?』
いまだ年若く新婚であることを思えば、考えられないことでもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます