浸食

 そっと障子を閉め部屋から出てきた麟の元へ、シナが小さな盆を持ってやって来る姿が見えた。盆の上には作りたてのおはぎが一つ乗っている。


 おはぎは麟が好んで食べている唯一の菓子だった。

 それは、以前雪那が手ずから麟の為に作ったもので、それを麟が大層気に入っていたのを知っていたシナは、急ぎ用意したものだ。


「シナ……ありがとう」


 差し出された皿を受け取り、麟は礼を述べる。

 そんな主の先ほどまでとは雰囲気が変わっている事に、シナもほっと安心したようだった。そしてチラリと部屋の方へ顔を向けると、麟は静かに口を開く。


「……ひなは疲れて眠っているよ」


 シナはそう聞くと麟の方へ顔を向けてじっと見つめ、そしてぺこりと頭を下げた。

 まるで「ひなを宜しくお願いします」とでも言いたげな雰囲気のシナに、麟はふっと笑ってしまった。

 シナは麟の式神だと言うのに、今ではすっかりひなの母親のような立ち位置に立っているのかもしれない。友であり母であるシナが、彼女の心の支えにならなければと日々奮闘する様子は、いつも包み隠す事無く届けられている。


「君のおかげでひなは安心してここで暮らしていける。私からも、これからもひなを宜しく頼むよ、シナ」


 そう言うと、麟は手を持ち上げてシナの面にそっと手を触れた。







 ひなは夢を見ていた。

 暗く重たい空気の中に佇んでいる一人の女性の姿がいる。

 始めはまた誰かの魂が自分の中に入り込んだのかと、夢にいながら思っていたがそうではないようだった。


 重たい空気も、暗さも、前に自分が閉じ込められていた空間によく似ているのに、真ん中に立っている女性はこちらに背を向けたままで凛とした強さを持っていた。この闇に押し潰されることもなく、真っすぐに背筋を正して立っている女性の頭には大きく真っ白い耳が生え、腰からはふわふわの尻尾がある。そして耳と同様に白く長い髪は緩く三つ編みに編み込まれ、肩から垂れ下がっていた。


 彼女の強さはその佇まいだけで分かるほど、隙も何も感じられない。

 だが、ひなには彼女が何かを我慢し、必死に耐えているような様子にも感じられた。女性は自分の手首をきつく握りしめ、小刻みに震えているからだ。

 僅かに下がっている表情は真っすぐに闇を見つめているのも分かる。何かに強い恨みを持っているかのような、そんな雰囲気だった。


『……雪那せつな


 ふと聞き慣れた声が聞こえ、夢の中にいるひなは思わず振り返る。同時に、女性もこちらを振り返った。そして二人の視線の先に立っているのは、今と変わらない風貌の優しい表情をした麟が立っている。


――麟さ……

『麟』


 ひなが声をかけるのとほぼ同時に雪那が声を発し、それに驚いてひなは彼女を振り返った。すると、先ほどの雰囲気は何処へ行ったのか。雪那はとても柔和な笑みを浮かべ、こちらに駆け寄ってきた。


 駆け寄る雪那を麟は優しく抱き止め、肩に手を回した。そして、とても愛おしそうに熱の籠った目でお互いを見つめ合う。


――……嫌だ。


 そんな仲睦まじい二人の姿を見せつけられたひなは、先ほどまでの満たされた気持ちとは一変、黒い感情がムクムクと湧き上がるのを感じた。


 麟のそんな姿、見たくない。

 自分以外の人に、そんな顔しないで。


 心の中の黒い感情が蠢き始める。

 麟の事を疑っているわけじゃない。雪那はそもそも、自分の先祖に当たる人で今はもうここには存在しない人なのだ。しかし、そうと分かっていてもなぜ二人が仲が良かった頃の映像を見せられなければならないのか……。

 綺麗な思い出として、二人の心の中にだけ閉まっておけばいいのに、なぜわざわざこんな二人を見せつけられなければいけないのか。


 目の前の二人はどちらからともなく瞳を伏せ、口づけをしようと顔を近づけていく。


――やめて……っ!!


 ひなは耐えられず、その場に頭を抱えてしゃがみこむ。

 顔を俯け固く目を閉じるものの、込み上げて来る涙がボロボロと零れる。


 見たくない……もうやめて……。


『……あぁ……可哀想になぁ……』


 突然誰とも分からない男の声が聞こえ、ひなは閉じていた目をパッと開いた。そして背後を振り返ると、真っ黒い体をした男がいつの間にか立っていた。

 ボサボサの長い髪はそのままに、黒ずんだ瞳に白い眼光をギラつかせ、こちらを嘲笑い、見下すかのように見下ろしている。

 ニヤニヤと笑う大きな口は、口裂け女のように横に広く、耳にまで届きそうなほどだ。


 危険な人物だと、瞬時に判断したひなは逃げようとしたがすぐに手首を掴まれ、男の懐に引き寄せられてしまう。

 片腕を掴み上げられ背後から抱きすくめられたひなは、逃げようともがくが身動きが取れない。

 腰に回された手が這い上り、着物を着ているひなの胸に触れて来るとゾッとする思いと共に吐き気すら覚える。


『……お前、ひなと言ったな? 雪那の血を引いてるんだろう?』


 恐怖のあまり声を上げられないひなの名を言い当てられ、驚いて思わず男を振り返る。すると男は顔を近づけ、蛇のような長い舌でぺろりとひなの頬を舐め上げる。


『……あぁ、同じ味だ。俺の雪那……』


 恍惚とした顔を浮かべて呟いた言葉を聞いた瞬間、ひなは眉間に深いしわを刻み動きが固まる。


 俺の、雪那……?


『……お前にも雪那と同じ道を辿らせてやろう。あいつが壊れる姿を見ると、堪らなく楽しいからなぁ。そしたら、どうなると思う? 崩壊だ。全てが無に還るぞ』


 ククク、と声を殺しながら心底楽しそうに笑う男の姿に、ひなは気味の悪さしか感じられない。すると、男の人差し指がトン、とひなの胸の中心を突いて来る。


『お前のここにある力、解放してやろうか。俺と同じ力、持ってンだろ? なぁ?』


――嫌っ!!


 ひなは声を発する事さえ出来ない状態の中、ようやく詰まっていた物を吐き出すように心の底から一言そう叫ぶ。するとパンッ!! と弾けるような大きな音が響く。そして体を拘束していた男が闇に消え去り、ひなはバランスを崩してその場に倒れ込んだ。



――クックック消されちゃったねぇ……。でもまた会いに来るよ。俺のひな。



「!!」


 ひなはパッと目を見開き、激しい呼吸を繰り返す。

 冷汗が体を伝い落ち、鼓動が激しく胸を打ち鳴らしてめまいさえ感じた。


 視線だけを巡らせ、ここが自分の部屋だと認識して落ち着くまでかなりの時間がかかった。呼吸を整えながら見やる閉じられた障子の向こうは明るく、穏やかな時が流れている。


 ようやく落ち着きを取り戻したひながゆっくりと体を起こすと、体に軋むような痛みを覚える。見れば、着物が乱れたままの自分に全てを理解し瞬間的に顔が赤らんだ。みれば肩や胸元にいくつもの赤い花びらが散っている。


「……麟さん」


 胸を締め付ける愛しさに思わずため息が出る。そして体の上にかけられていた麟の羽織を見つけたひなは、それを自分の肌に引き寄せてきつく抱きしめ、立てた膝の上に顔を埋めた。


 余韻に浸れるものならいつまでも浸っていたいところだが、ひなは先ほど垣間見た夢の恐ろしさが襲い、麟の羽織を抱きしめる手に更に力が籠った。


 あれは誰なのか。どうして自分の事を知っているのか。「俺の雪那」と言っていたのはどういう事で、何故自分もまた彼のものだと言われなければならないのか。そして、また会いに来ると言っていたあの言葉が、耳に付いて離れず気持ち悪い。


 頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 一体何が起きているのか分からない。自分の知らないところで何が起きているのか。


「……私も知らなくちゃいけないんだ。麟さん達がしてること。私も、無関係じゃない気がする」


 そう言うと、ひなは立ち上がり着物に手を掛けた。

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