第二章
心合わせ
地獄の最果て、阿修羅が壺として存在する洞穴から大きな音が聞こえて来た。
大きなものが倒れたような、何かが砕かれたような、そんな音だ。そしてその直後に何かを引きずる音が響いて来る。
ズル……ズル……と重たいものが引き摺られる音の主は阿修羅だった。
白い布で体中を巻かれ、更にお札で動きが封じられているはずの体を地面にこすりつけ、まるで蛇のように体をくねらせながら洞窟の奥から這い出ようとしている。
足は木化していたが、倒れこむ事でへし折った。元々生身の足だったが木化している為か痛みも何もない。足首から折れ、残された足の残骸はまるで墨を砕いたかのような破片と化していた。
ズルズルと体を地面や岩壁に擦り付けながら動いている内に、お札の端が千切れ始め少しずつ剝がれ始める。
「……雪那ァ……」
思うように身動きが取れない阿修羅は息を荒らげながら何とか外に這い出ようと必死だった。そして彼の口からは、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべたままで再び雪那の名が零れる。
「麟さん?」
仕事の休憩の合間を縫って、ひなに会いに来ていた麟は座敷の中で座布団に座り込ったままぼんやりと外を眺めている。
シナが持ってきてくれたお茶をひなが受け取り、シナの代わりに持って行こうと振り返ったところだったが、何やら麟の様子がおかしい事に気付く。
ヤタといい麟といい、何やら今日は変だ。
「……シナちゃん、麟さん疲れてるのかなぁ?」
ひながそう訊ねると、シナもまたよく分からないと首を傾げて来る。
「そう言えば、ここのところ麟さんが何か食べてるのあんまり見たことないかも。何か少しでも甘いもの食べたら、元気出るかもしんないよね」
「……!」
ひなの呟きに、シナはポンと手を打ち鳴らして大きく頷くと、「任せなさい」と言わんばかりにドンと胸をたたいて部屋を後にした。
麟が元気になるものに心当たりがあるんだろうシナが立ち去ると、ひなはお茶を持って麟の隣に座る。
「麟さん、お茶です」
「……あ、あぁ、ありがとう」
声をかければ普通に返してくれる。だがどこか上の空な様子に、ひなは顔を顰めた。
「麟さん? どうかしたの?」
「いや、どうもしないよ」
笑ってやり過ごそうとする麟に、ひなはムッとした顔を浮かべて彼の前に回り込む。
「どうもしなくないよ。だってここに来てからずっと上の空だもん」
膝を突き合わせて怒ったような顔をしたままこちらを見上げて来るひなに、麟は観念したように小さく微笑み、右手を持ち上げてひなの頬に手を伸ばした。
柔らかく突然頬に触れられ、先ほどまでの機嫌悪そうな顔は何処へやら。触られた場所からカーっと熱が集まり始めて来る。
麟は茶化すわけでもなく、柔らかく目を細め真っすぐに視線を逸らす事無くそんなひなを見つめていた。
「こうして触れられる位置にいて、どれだけ心を注いでも届かない事もある」
「麟さん……?」
「どれだけ愛し、共にいても、分からない事もある」
麟は逆の手を伸ばし、ひなの片手を握ると自らの頬に導いた。そしてそのまま自分の頬に触れさせているひなの指に自分の指を絡ませたまま軽く握りしめた。
突然の甘い雰囲気に、ひなの心臓はバクバクと早鐘のようになり体中が熱に包まれる。
更に麟はそんなひなの掌に瞼を伏せ、顔を僅かに傾けて頬を摺り寄せた。
「……君にとって私は、信用に足る男じゃないだろうか?」
「え……?」
その言葉に一瞬、ひなは目を見張った。
急に囁かれたいつもとは違う、麟の自信のなさが露呈されている言葉に彼らしさが感じられず、突然どうしたのだろうかと心配の方が大きくなる。
今にも泣きだしてしまうんじゃないかと言うほど、陰りが見える麟の瞳を見つめていると胸を締め付けて仕方がない。そして、自信がないのなら自信をつけてあげるのは自分が良いと強く感じた。
ひなはぎゅっと空いている方の手を握り締め、またしてもムッとした顔をして麟を見上げ、強い口調で麟の言葉を否定した。
「そんなことない!」
「……ひな」
突然そう言い返され、麟は閉じていた目を開いて驚いたようにひなを見下ろした。
目の前のひなは頬を膨らませ、怒ったように言葉を続ける。
「麟さんは私が今まで出会って来た人の中で一番信用できる人だよ。もちろん、ヤタさんもシナちゃんも、ここにいる人たち皆そうだけど……でも、私にとって麟さんは私の拠り所。一番頼れる人で、一番頼りたい人。いつも一緒にいて欲しい人で、一緒にいたい人なの!」
ひなにその真っ直ぐな言葉を向けられ、麟は僅かに目を見開いた。
感情が高ぶってきているのか、ひなの顔が赤らみ、手が微かに震え目に涙が滲み始めている。
「麟さんが自信がなくなっちゃうくらいの事が私の知らないところであったのかもしれないけど、麟さんが私に向けてくれてる優しさも誠実さも、ひ、独り占めしたいとか思っちゃったりするし、分からない事もまだ沢山あるけど、それもこれからもっと知って行きたいって思うし、色々違うとことかあるけど、でもそんなの関係ないくらい麟さんの事、私大好きだもんっ!!」
体を震わせ、涙目になりながら真っ赤な顔をして肩で息を吐いているひなを、麟は彼女の頬に触れていた手をひなのうなじから後頭部の方へに滑らせ、逆の手でひなの体を強く引き寄せた。
「わ……っ!?」
麟の勢いがつきすぎてひなはバランスを崩し、麟にそのまま座敷の上に押し倒されるような形になってしまった。そのままの状態で抱きすくめられたひなは、驚きのあまり見開いた瞳を瞬いた。だが抱きしめて来る麟に応えるようにすぐに彼の背に手を回し、目を閉じてしっかり抱きしめ返す。
「麟さん……。だから、そんな悲しそうな顔しないで……? 誰が何と言っても、私は麟さんの傍にずっと一緒にいたいんだよ」
軽く体が離れ、麟が真上からひなを見下ろしてくる。そして目が合った瞬間、ひなの額に麟の唇が寄せられた。やがてそれは瞼に、頬に、唇へと徐々に下降してくる。
ひなはただされるがままになるが、怖いとは感じても嫌だと言う感情は湧いてこなかった。むしろ、本当はずっとこうしていたいと心のどこかで望んでいたような気もしていた。
愛情を知らないまま育ってきた自分に、麟は初めて愛を教えてくれた人だった。
どこにも居場所がなかった自分に居場所を与えてくれ、いつも見守ってくれることで安心をもたらしてくれた人。何かあれば駆け付けて、守ってくれる人。
共にある事が楽しくて時には不安になることもあるが、それを含めた上で誰かと共存する事は居心地が良いと教えてくれた人。
他の誰かでは成り立たない、この人だからこそ共にありたいと思える人。心から愛しいと思える人だった。
優しく触れる手と眼差し。移される熱が自分だけじゃないことがこれ以上ないほどに満たされる。そんな気持ちに、ひなの閉じた瞳から涙が滑り落ちた。
――私には応えられなかった……。
ふと、ひなの頭に自分の知らない女性の声が響き渡る。
――真っすぐに向けられる麟の優しさに溢れた純粋な愛情に、歪んだ私が応えることは出来なかった……。怖かった……。
泣いているかのようなその声にひなは薄く目を開くと、霞む視線の先に見知らぬ女性の姿が見えた気がした。
――私も、応えたかった。この人の想いに……。
自分のものなのか、それともこの声の女性のものなのか分からず涙が溢れて零れて行く。熱に浮かされた頭の中でそれ以上何も考えられず、ひなはもう一度目を閉じた。
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