初めてのお祭り
「ひな。ここから先は絶対に私の傍を離れてはいけないよ」
「どうして?」
「ここはあやかし達の住む世界。この世界には極楽へ行くためにかつて人だった者たちが住んでいる。ほとんどが真面目に暮らしているが、中にはどうにも性根が悪い者も紛れているから、何が起きるかは正直分からない。それに何より、君はこの世界にまだ慣れていないだろう? 私に触れている間は私の力で守ってやれるが、少しでも離れてしまうとこの世界から弾き出されて、上下左右が分からない空間に迷い込むことになる。そうなるとさすがの私も手出しが出来なくなってしまうからね」
この世界に馴染むまでは麟の傍を離れてはならない、と言うその言葉にひなは表情を固くして頷き、繋いでいる麟の手をぎゅっとしっかり繋ぎ直す。
「分かった。絶対麟さんの傍から絶対離れない」
「いい子だ」
屋敷の大門を抜けると、そこはまるで何種類もの絵具を水の中に落とし込んだかのような、マーブル状の空間が広がっている。麟が一歩その空間に足を踏み入れると、風が吹いたかのようにその足元からサァっと空間が開けていく。
「うわぁ……」
突如広がった視界にひなは思わず声を上げた。
麟の住む屋敷の目の前には、朱色の手すりが付いた大きな階段があり、その先にはどこまで続いているか分からないほど深い巨大な穴が開いている。そしてその穴の淵にはどれだけの数があるのか、眩いほど光る無数の提灯と店、住居が所狭しと並ぶ不思議な空間が広がっている。ぽっかりと口を開いた大きな穴の中心部などにも、どうやって掛けたのか橋が縦横無尽に掛けられているのを見ていると、眩い迷路の中に迷い込むような感覚に陥った。
目下の店や家の前を行き来するのは、ひなのように人の姿をしている物は一人もいない。背格好は人のそれと似ていても、一つ目であったりとんでもなく頭が大きかったり、無数に生えた触手のようなものを持っている者もいる。
まさに異形の世界だった。
「この洞穴があやかし達の暮らす世界だ。この穴の底は奈落と呼ばれ、亡くなった者が向かう“黄泉”へと通じているんだよ」
「天国に行く人も奈落に行くの?」
「亡くなった者は一度は奈落に落ちる事になっている。黄泉には幾つか段階があってね。極楽か地獄へ行くまでに10人の番人によって、裁判にかけていく事になっている。魂は最終的に閻魔によってどの道に進むのかを振り分けられるんだ」
見てごらん、と麟が指さす先には奈落からキラキラと真っ直ぐ立ち昇って来る小さな光が幾つか見て取れた。他の街明かりに照らされて分かりにくいが、ひと際眩しく時折光る光の粒がある。
「あれは、閻魔によって極楽へ昇ることが許された魂たちだ」
「……凄く綺麗だね」
キラキラと眩い光を放ちながら立ち昇る魂たちを見つめていたひなに、麟は今一度彼女の目線に合わせるように身を屈めた。
「ひな。難しい話になるかもしれないが、ここは君のいた現世で生きてきた全ての魂が集まる場所。生きていた業の数によって姿形が違うあやかし達が住む世界だ」
「業って何?」
「業と言うのは、現世で犯した悪い事を言う。逆の言葉に徳というのもある。業が深ければ深いほど見た目は醜く、徳が深いほど限りなく人に近いあやかしとなり、現世で生きてきた魂はここで生きている。そしてこの洞穴の街は“最終審判の街”とも呼ばれ、ここで自らの行く末を決める最終選択をする世界だと覚えておくといい」
今のひなには難しいかもしれない。それは分かっていたが、彼女がここで生きていくには話しておかなければならない事でもあった。
分からなければこれから先何度でも教えて行けばいい。時間はいくらでもあるのだからと、麟は真っすぐにひなを見た。
ひなは自分の中で納得したかのように小さく頷き返す。
「うん。分かった」
「そしてもう一つ」
麟は穴の街から更に遠く、空を指さす。その空にはマーブル状の空間が広がり、ひなには穴の街以外は全て同じに見えた。
「この先は現世にも繋がっている」
「ひなのいた世界……」
「そうだ。もしこの先、ひなが現世に戻りたいと願うなら現世に戻ることも出来る」
そう言うと、ひなは繋いでいた麟の手を両手で握り締めた。
今にも泣き出しそうな顔を浮かべ、縋るように麟を見上げて来る。
「ひな、もう戻りたくないよ。あっちは嫌」
「……そうだね。それでも、覚えておいて欲しい」
「……」
ひなは眉間に皺をよせ、顔を俯けた。
「ひなは絶対戻りたくないもん。麟さんとずっとここに住むの。頼まれたって戻らないんだから」
そのあまりに真剣な言葉と表情に、麟はふっと目を細める。そして握っている手とは逆の手でそっとひなを抱き寄せた。
「……君が望むままに」
そう伝えると、ひなもまたぎゅっと麟の着物を握り締めた。
******
階段の下の方から聞こえて来る賑わう声と、緩やかに吹く風に乗って食べ物の匂いが階段の上で話していた二人の場所にまで届いてくる。
食欲をそそる香りが鼻先を掠め、ひなは顔を上げてぎゅっと口を引き結んだ。
その表情を見て、麟は思い出したようにひなを見る。
「そう言えば、腹は空いてないか? ここへ来てから全然食べてないだろう?」
「お腹……」
麟に訊ねられ、突然思い出したように大きな音で鳴る腹に、ひなは慌てて手を当て顔を真っ赤にする。
ひなが食べたのは昨晩の夜のお弁当のみで、半分ほどしか食べられなかった。残ったご飯は冷蔵庫にしまい込みそれっきり。今の今まで飲まず食わずでいたのだから腹が空いているのも当然だ。その様子を見ていた麟はくすくすと笑う。
笑われてしまった事に顔を赤らめたまま首をブンブンと横に振るひなに、麟は微笑みながら彼女の頭に手を置いた。
「ち、違うもん!」
「よし、じゃあ少し街に降りてみよう」
そう言うと麟は立ち上がり、ひなの手を引いて階段を降りていく。
階段を降りていくに従って、街の賑やかな声がハッキリと耳に届いて来る。だが、ひなにはその会話の内容が聞き取れない。人の言葉とは違う、変わった言葉を用いてあやかし達は会話をしているようだった。
彼らが皆、元はひなと同じ人間だという話を聞いて、本当に人だったのかと疑わしく思えるほど、ここにいるあやかし達は肌の色も形も歪なものたちばかりだった。
見る人から見ればただの化け物だと言える姿の彼らを見て、こんな姿になってしまうなんて、人として生きていた時どれほど悪いことをしてきたのだろうかと思わず考えてしまう。
「麟さん、ひな、あやかしさん達の話してる言葉分からない」
「そうか。人語を話す者もいるが、あやかし達によってはそれぞれの生まれで話す語源が変わったりするから、そのせいだろう」
麟に手を引かれたまま階段を降りきると、それまで微かに香っていた食べ物の香りが濃厚に鼻先を掠めていく。
イカ焼きにとうもろこし、わたあめやりんご飴、焼きそばにお好み焼きに串焼き……。
お祭りに行くと必ず並ぶ屋台と同じ香りだった。
「……っ」
その濃厚な香りにひなのお腹がまたも「ぐぅっ」と短い音を立てる。腹の虫が良く鳴くことにひなは恥ずかしさを滲ませていたが、これだけ周りが賑わっているなら麟には聞こえていないだろうと思いチラリと隣を見上げる。すると、その視線に気付いた麟がにこりと笑って返してきた。
(絶対聞こえてた!)
内心そう思うと恥ずかしくて顔が赤くなる。
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