さてこまが床入とこいりを果たしたのは、龍海が商売のために大口の買い付けから戻って、数日後のことであった。


「龍海様、の用意が出来ました」


 廊下に点々と置かれた行燈あんどんが、不安げなこまの横顔を、また冴えた藍色に白い小花の散った、おろしたての縮緬ちりめん着物を照らす。


 中から、「入りな」と深く重い声が返ってくる。すらりと開いた障子の向こうには、片肌かたはだを脱いで片手に猪口を持った龍海が、胡坐あぐらを掻いて待ち受けていた。


「おお来たか。どれ、緊張してるな。え?」


 早速無遠慮に揶揄われ、指をついて頭を下げたこまは、そのまま頷くしか出来なかった。


 ちろりと顔を上げて龍海を見る。遠くからお囃子はやしが響く。夜の色に目が眩んでか、龍海の顔に一瞬、何か水が揺らいだように見えた。


「もっとこっちへ寄んな。なに、すぐにはしねぇさ。それともさっさと終わらせちまいたいか」


 その問いにも、彼はうんともすんとも答えられず視線を彷徨わせた。


 だがその目がある一点、龍海の脇腹から覗くに留まると、薄く開いていた口から「え」と言葉が零れる。


「おッ、気になるかい」


 彼がにたりと笑って背中を向ける。その瞬間、こまは息を呑んだ。彼のしなやかな筋肉の凹凸の上、斜めに落ちた着物の衿から、水墨の雲間を昇る見事な龍が顔を覗かせている。


 龍海の広い背には、隆起する筋肉のに身をうねらせて、八方をぎょろりと睨め付ける龍が泳いでいるのである。


 こまは吸い寄せられるようにその背中に触れた。熱い肌はしっとりと汗で濡れていた。龍海はまじまじと刺青を見つめるこまを、面白そうに眺める。


「……きれい……もっと見たい、」

「ほう? 芸にさといたぁ感心だな。ほら、見せてやるからちとどきな」


 そう言って彼がもう片方の袖も落とすと、とうとう立派な龍が姿を現した。だが惜しくも尾が帯の下に潜り込んでいる。こまはするりと龍海の帯を解いた。龍海が褌も全て脱ぎ去ると、肩から硬い尻たぶの下にかけて、ため息が出るほど立派な龍が、長い髭をなびかせてそこにいた。


 こまは抜き取った帯を握り締めながら、唖然とその背を見上げていた。生きているようである。そう零すと、寒い寒いと言いながら着物を引っ掴んだ龍海は得意げになった。


「そうだろうよ、これを彫った奴の腕は超一流だぜ。今じゃ耄碌もうろくしたじじいだけどなァ」


 師走しわすの空気に肌を粟立たせた龍海は、素早く着物に袖を通して酒を一杯煽った。


「この龍は、俺の守り神みてぇなもんでね。ただの願掛けのつもりが、お陰で仕事も何もかもが上手くいった」


 気の利いた返事代わりに、こまはちらりと上目に龍海を見やって、一つ頷いた。


「あんたのそのお仕着しきせは、俺の店のモンなんだぜ」

「……俺の店?」

「呉服屋をやってんだ。それで、あんたんとこの姐さんとは趣味が合うし、お得意様だから、上等な品は一番に持ってくる。その着物も俺が見立てた。まあ、ちょっとした祝儀みたいなもんだ。似合ってて良かった」


 龍海の指が、こまの頬にかかる髪を払った。


「俺ばっかり脱いで、不公平だな」と笑われて慌てて帯を解く。あっさりと布団の上に転がされたこまはその夜、見事に花を散らしたのであった。



 ――初めてにしちゃ上等だ。

 そんな褒め言葉を受け取って、こまはぐったりと布団に身を沈めた。


 龍海の腕を枕に、勧められた煙管を一口吸うてみる。はだけて大きく捲れた着物の裏地には、白藤の花弁の舞うところに幾つもの達磨が転げ躍る、いかにも晴れやかなが描かれている。


「俺ぁ銀之丞の馴染みだから、悪いが二度目はねぇ。だが、あんたならすぐにでも客がつくだろうよ。祝儀が入ったらウチで上等な着物でも買ってくんな。特別にまけてやるからさ」

「はい、是非……」


 こまは煙にせながら煙管をっ返した。それに龍海が大笑いする。自分よりとおほど若いこまは、頼りない弟分のようで憎めない。対してこまの方も、龍海が意外にも終始気を遣って事を済ませてくれたので、すっかり気を許していた。


 それから、こまは早速翌日の昼見世ひるみせに出た。座敷に入ると、格子越しに見える大通りはまだ人もまばらで、暇を持て余した新造たちはなんぞをして遊んでいる。こまは少し見回して、あまり人の居ない壁際へ身を縮こめる。


「おい、あほ」


 そんな言葉を投げられてすぐに自分のことと心得たのは、なにも、こまが普段から「あほ」などと呼ばれているからではない。膝を抱えて丸くなった背中に、ひりつくような鋭い視線を受けたからである。


 そろりと振り返ると、そこには片足を張見世見世の座敷に乗せた銀之丞がいて、唇を突き出して、こまを見下ろしていた。暇な昼見世になどは並ぶ気もないらしく、適当な着物に適当な帯を締めているだけの、締まりのない恰好である。


「龍海さんとはどうだった。わっちの上客取ったら、容赦しないからね」


 どうやら午睡ごすいから覚めたばかりらしいのが、その顔付きからはっきりと分かった。銀之丞はぶつくさと言いながらこうがいで頭を掻く。その文句の隙間から、猫のように呑気な欠伸が一つ、するりと零れる。


「はァ……はい」

「チッ、間の抜けた奴だねぇほんと……精々、足元すくわれないようにするんだね」


 銀之丞はちろりとだけこまを見て、すぐにどこかへ行ってしまった。こまはそれがどうしてか嬉しくて、ふらふらと寝惚けた彼が二階へ上がっていく後姿を、暫くの間じっと眺めていた。


 それから数時間は、ぼうっと格子を眺めながら暇を持て余した。時々は顔見知りの新造や若衆がやって来て、一、二言交わしていく。やがて昼見世が終わり、質素な夕食を食べて暮六ツ午後六時になると、愈々夜見世が始まった。


 その時ばかりは、昼には姿を見せなかった部屋持の花魁たちも張見世へ上がった。真ん中に最も位の高い太夫が座り、その左右にも着飾った花魁たちが座っていく。真っ赤な毛氈もうせんが敷かれているのが彼らの席の証であるが、既に客がついているのも多く、姿の見えない者もちらほらといた。


 煌々こうこうと明るい提燈ちょうちんに照らされて、豪華絢爛の衣裳を纏う男娼妓たちに紛れたこまも、その顔に多少の化粧油けしょうあぶらを塗り、唇に紅をのせた。しゃんと背を伸ばし、一張羅の藍色の縮緬ちりめんに袖を通し、大人しくしている。昼間はとんと暇を持て余した彼であったが、夜になると引手茶屋紹介所の見立てで、何人かの客がついた。


 その夜から、こまは客の前では自らを小町と名乗り、に一丁前の接客をしてみせた。


「小町でございます。どうぞ、良しなに」


 ――いいかい、分からないことは素直に分からんと言いな。馬鹿の見栄が、一番うつけに見えるんだからね。


 まわし座敷の手前、こまはふと、そんな鹿野の言葉を思い出した。


 座敷に上がると、酒気を帯びて頬を赤らめさせた客が、彼を見た。こまは判然としないその人影に、ただ黙して礼をする。


 遠くから聞こえる、かき鳴らされた三味線の音が夜の世界へといざなっていく。窓外には落葉した梅の木が揺れている。こまは指をついて伏せていた顔を、ゆっくりと上げる。


 目前に座した客と視線が交わる。小町の顔はまったくって一切の引きりも見せず、ただゆるりと綻んだ。

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あっち、呵々 郡楽 @ariyama

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