奥の見えない長い廊下に、ずらりと並ぶ色紙張りの障子越し。不寝番ねずのばん拍子木ひょうしぎを叩きながら娼妓らを起こして回る暁七ツ朝の四時、こまの寝る座敷の戸が音も立てず開いた。


 そこは客のない新造らが集まって雑魚寝する広い座敷である。所狭しと並べられた煎餅布団の隅の隅、大腕を上げて呑気に眠るこまの肩を揚羽が足でつつく。


「起きな……姐さん鹿野がお呼びだよ。ほら、ぐずぐずすんじゃないよ」


 とろとろと目を開けたこまは、自分を見下ろす揚羽を認めて重たい体を起こした。


 彼がここへ来てやっと二月ふたつきほどが経ったが、この頃にはもう、“小間使いのこま”は有名であった。禿たちに囲まれて、たどたどしく筆を握る彼を、「こまなんて名は禿の幼名にはぴったりで、五年もしてやっと作法が身についたら稼ぐ間もなく年季明けだろう」と誰もが馬鹿にした。


 そんな扱いであるから、勉強の合間には様々な雑用を押し付けられた。だがこまは自分に滅多な用事がない限り、何でもはいはいと聞いた。一度不寝番ねずのばんを代わった時などは拍子木の音があまりに煩いので客や娼妓たちから苦情が入ったが、それ以外の雑用は概ね上手くこなした。


 そうこうしているうちに、若い衆や新造からは用事を頼まれるついで「頑張ってるねぇ」と声を掛けられることが増えてくる。


 使い勝手が良くあまりに素直な返事ばかりするので、“まあちょいとばかし阿呆かもしれないが、兎にも角にも悪い奴ではない”と認められたのである。


 そんな頃合いを見て、鹿野は愈々いよいよ筆おろしに踏み切った。水揚初体験といえば客の中から相手を選ぶのが普通だが、筆おろしとなると勝手が違う。男客が殆どの白藤屋である、真に女を悦ばせる技を一晩で教え込める者は残念ながらいなかった。


 さてこまが内所の奥の襖を叩くと、返事はすぐに聞こえた。


 すらりと襖を開ける。隅に箪笥や鏡台が置かれただけの質素な八畳一間に布団が敷かれていて、そこに鹿野が座している。明け方の青々とした空気の中で、彼女はゆるりとこまを見上げた。


「すまないねぇ、こんな時間に呼び出して。お前さんも慣れてきた頃だし、水揚みずあげの前に先ずは男にしてやろうと思ってね」


 こっちへおいでと招かれて、こまは後ろ手に襖を閉め、いつかここへ来た日のように彼女の側に正座する。


「どれ、具合はどんなだい」


 彼女はそう言って、冷たい手を伸ばして彼のよれた着流しを捲った。爪先が肌に掠り、こまがふるりと身を震わせる。


「本当に誰とも目合まぐわったことがないのかい、一度も?」

「は……はい」

「はぁ、珍しいねぇ……」

「あ、あの。姐さんと、するんですか」

「不服かい?」

「いえ……でも」


 その返事を聞くと、鹿野はなるべく優しい声色で「脱いでみな」と言った。


 部屋には火鉢と鉄瓶が置かれている。こまが緊張した手付きで帯を解く間、彼女は桶に湯を注ぎ、手ぬぐいを浸していた。


「あの……できました」

「それじゃ、ふんどしも外しな」


 言われた通りにそれも外してしまうと、こまだけが、生まれたままの姿でそこに居なければならなかった。羞恥と寒さで身が震える。一糸乱れず着物を着込む鹿野は、彼を立たせると前も後ろも確認して、やっと自分も何かを脱いだかと思えば、羽織の一枚っきりでその手を止めた。


「客の帯はね、お前が解いてやんなきゃならないんだよ。やってごらん」


 彼女の後ろから、難解な帯を端から少しずつ解いていく。二人の間には暫し布擦れの音だけが響いた。こまは手を止めないよう気を付けながら、眼前にそびえる主人のうなじを、そこにかかる世にも珍しい生成り色の髪の毛先の一本一本までを、まるでかの有名な富嶽ふがくを望むが如く隅々まで眺めた。


「……できました」

「帯を端に畳んで、次は着物を」


 こまは膝立ちになって、彼女の肩口から、たおやかな身体の胸元に手を回した。襦袢と着物の衿とを何とか併せてそっと後ろに引くと、つるりとした肩の向こうに赤く熟れた胸の先が見える。そこでふと鹿野が横を向いたので、傍にあったこまと視線が交わった。


口吸い接吻くらいしないかい」と言われ、そういうものかと心得て顔を寄せる。柔らかい、弾力のある女特融の唇がこまを包む。一度合わせると夢中になって、気付けば着物の衿も手離していた。身を引く彼女の身体を捕まえる。肩を支えて、ぐいと引き寄せる。


「は、もうおし……」


 隙を見た鹿野が、犬のようにむさぶるこまの身体を押した。息を乱して薄く開かれた唇が離れると、二人の間に細い銀糸が伸びる。


「いいかい、商売でやるんだから……お前さんが夢中になっちゃいけないよ」


 もたげたこまの愚棒の先から、透明な汁がぷくりと溢れて垂れ落ちたのを、鹿野は口端に垂れた涎を拭いながら見やる。


「相手の様子をとくと見て、好い気にさせんのがお前の仕事なんだよ。それにね、今回は身体を確かめるために着物を脱がせたが、普通は着物なんか一々脱がない。それで……特別脱ぎたいと思った客の前でだけ肌を見せる。そういうのが手練手管ってやつさ、覚えときな」


 こまは頷いて、今度は彼女を上客と思い込んで、慎重にもてなすような手付きで胸をやわやわと揉んだ。時折、気持ちいいかと上目に彼女の様子を確かめる。しかし目が合う都度、彼女は意地悪な顔でまったくだと首を横に振る。


「胸の先をねぶってごらん」


 手の中で自在に形を変える胸の先はぷっくりと膨らんでいる。こまがそれを咥えると、咥内の熱さが冷える身に沁みたのか、鹿野が一つ息を吐き出した。


 ――以降も一通りの手解きを受けた後、こまは愈々、鹿野の身体に身を沈めた。


 先ず棒先が温かい肉に包まれて、待ちきれず奥まで挿し込むとさしたる苦もなくずぶずぶと沈んでいく。うねうねと蠢く肉壺に、思わず気をやりそうになって息を詰める。こまは真っ白な頭の中で、こんなにも気持ち良いものがあるのかと驚いた。そして、恐怖さえした。自分がこの魅力にとり憑かれて、何か変わってしまうような恐ろしい予感がした。


「ほら、動きな」


 暫し静止していたこまの腰を、鹿野がぱちりと叩いて早う早うと急き立てた。意を決して唾を呑み込んだこまは、彼女の両脇に手を置いて、やっとぎこちなく腰を動かし始める。


「そう、そう……もっと腰を落としな」


 鹿野の指導は長く続いた。一度目はすぐに果ててしまったこまも、二度目からは女を攻める術を覚え始め、鹿野の言う事もすんなりと従順にこなしてみせた。


 汗ばんだ肌が合わさる度に、こまは得も言えぬ感情を抱いた。彼女の胸に口を寄せると、今までに感じた事のない安堵が広がる。産まれてこのかた母に抱かれた覚えなどはまったく無かったが、それでもこんな自分も、昔は誰かの腕の中にいたのだろうという気さえする。

 胸中に吹くいかにも寒々しい木枯らしの中に誰かが立っている。こまは胸を吸いながらちらりと鹿野を見上げた。その誰かが、この人であればいいと思った――



 精根尽き果てたこまが再び目を覚ました時分には、内所の障子もすっかり開け放たれて、足音やら何やらで喧しいのが、奥の間にまで響いていた。


 その音の中に、誰かと話す鹿野の声が交じっているのに気づいて、こまはゆっくりと身を起こす。裸に掛かっていた派手な着物が落ちる。寒さにぶるりと震えて周囲を見回したが、それまで自分が着ていたボロの着流しが見当たらない。


 彼は仕方なく、掛け布団になっていた紺青の着物に袖を通して、同じく傍らに置いてある、誰の物かも知れない帯で結んだ。


「あい、やっと起きたね」


 奥の間から内所に出ると、こちらに背を向けて座っていた鹿野がすぐに振り向いた。


 彼女はいつも通りに身なりを整えて、客から貰ったらしい煙草を燻らせている。


「これが、水揚してもらいたい新造でね」


 鹿野はそう、気風のいい態度で言った。余程親密なようで、客と楼主だというのにもかかわらず随分と気兼ねがないように見える。一体この男は何者なのかと、こまは男を見やる。


 男は派手な羽織を肩にかけるだけで袖は通さず、年季の入った煙管を吸い吸い、ぷぅかりと紫煙を吐き出した。気障な仕草である。そしてこまを見るとにやりと、いかにも厭らしく笑った。


「なぁんだ、お銀のような女形かと思ったら、すっかり男じゃねぇのよ」

「まあまあよぅく見てご覧な。そう悪い顔じゃない筈だよ」


 男の目が、じろじろと品定めするようにこまの全身を這う。ここで顔を歪めていけないことは、人心ひとごころに疎いこまにも何となく分かった。


「目がいい、全てを見透かしたような目をしてやがる。こりゃ、沙永さえの旦那が好む野郎だね」

「そうだろうけども、ここだけの話、あの旦那はちょいと変わってるからねぇ……折角の初物を痛ませる訳にもいかないし。だから龍海たつみさんを呼んだんじゃないかい。あんたはイイ男だって、優しい人だって評判だよ。あの銀之丞だって褒めてたさ」

「へぇ、お銀が? そりゃあ嬉しいね」

「そうそう。だからあたしゃ、あの子の見る目を信じて、あんたを見込んで言ってるんじゃないか。ね、どうだい?」


 そうまで言われて無碍にしては男が廃ると、龍海は得意な顔で、コンッと煙管を煙草盆に叩いた。


「特別たっぷりとほぐしてやる」と言うのをまさか断る訳にもいかず、しかしかと言って、こまは腹の底から納得しきることもできぬまま、ただ言葉を探してぼんやりと虚ろを見た。そこへ、正反対に溌剌はつらつとした龍海が言葉を投げてくる。


「お前さんは、女客も取るんだってな。そっちはもう教えてもらったのかい」

「……はァ」

「ってこたぁ、姐さんが相手だったんだろ。良かったかい」


 こまは返事に困って、鹿野を見た。だがこの主人はなんでも面白がる性質たちのようで、ぼけっとするこまを見て、とびっきり厭らしい、下卑た顔でついと視線を横へ流した。


「お止めな龍海さん。お天道様の下でそんな話、するモンじゃあないだろう」


 その顔は、こまを揶揄うように見つめていた龍海の目には一寸ちょっとも映らなかったらしい。


「そうかい?」と彼が鹿野へ向き直った頃には、鹿野は何時もの澄ました顔で、煙管の火種を落とすのだった。



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