あっち、呵々
花角
うつけ篇
序
男の目を見るなり、
「
「そうでしょう! こいつぁ隣町の裏長屋を、まるで亡霊のように歩いてやしてね。食い扶持もなけりゃあ頼る当てもねぇってんで、連れて来たんでさぁ」
艶のある板敷の廊下に面した
内所の中央、派手な縁起棚を背に座する楼主・鹿野は、蛇の様な目をキュッと細めて、男に声をかけた。
「借金はなんぼだい。家族がいるのか
「……、……おいッおめぇに聞いてんでぇ! 早く答えねぇか!」
「あ……。親は……いなくて。歳は……分かりません」
「借金は?」
「多分……ありません……」
「そうかい。それじゃ、おまんま食いに来たってこったね」
彼女の言葉に、男は一つこくりと頷いた。
「安心しな。人様にゃぁ言わないが、うちで働いてるのはなにも借金の形に売られた奴だけじゃない。あんたみたいに生きるのが下手で、野垂れ死に寸前でここに来た奴もいっぱいいる」
女衒は彼女の言葉を聞いて、笑顔でそちらに向き直る。
「それじゃ、買い取ってくれるんで?」
「ああ。だけどおつむの方はガキより酷いねぇ……こりゃあすぐには店には出せない」
「ま、まぁ……ちいとばかし白痴の
「そうだねぇ……お前さん、名前は?」
他人事のように話を聞いていた男は、ぼんやりと鹿野を見たまま、今度は緩く首を横に振る。
「名前、ない……でも、町の人の小間使いして……こま、って呼ばれてた」
「そりゃ、また随分と安直だね。でもまぁいいや、こま。あんた見たところ十八かそこらだろうが、まだ客取りは出来ないよ。数ヶ月は
こまが頷いたのを見て、女衒はそれ以上に何度も、深く頷いた。
「良かったなぁこま。ここはこの男廓ん中でも一等良いとこだ。それにおめぇ、まだ女の味を知らねぇと言ったな? この
「やめとくれよ、褒めたってなにも出やしないよ」
「いやいや、本当のことでさぁ。町を歩けば分かるでしょうよ、皆があんたを褒めらぁ」
女衒の言葉を聞きながら、鹿野は己の懐を探る。
「それより今はこまの話だよ。どう転ぶか分からない男だがまあ、たまには賭け事もいいさね」
そう言って彼女は手始めに、三両を御小柴に投げ渡した。
女衒は金を受け取ると、そそくさと白藤屋を後にした。時刻はちょうど
「もちっとこっちに」
適当なところへ腰を下ろしたこまへ、鹿野が煙管の先で側の畳を叩く。するとこまは黙っていざり寄って、言われたところへ正座をし直す。
「どれ顔を、」と指で手招かれ、こまが身を乗り出した。
彼女の冷やりとした指が、彼の滑らかな肌に触れて顎を掴んだ。左右、上下に動かされ、まじまじと見る。
それは極々純粋な眼差しで、厭らしいところは少しもなく、まるで商人に薦められた壺や錦織の着物でも見るかのような、静かな品定めであった。こまは自身に降り注ぐ容赦ない視線にずっと顔を俯かせていたが、ぐいと顎を上向かされたのにつられて、伏せていた目を上げる。
「……」
「なんだい」
「その……いえ」
口篭もった彼にも鹿野は短い
「はいはい遅くなりました、ゐすけの野郎がね、またポカをやらかしたんですわ」
「そうかい。ほら、こっち座っとくれ。新しく入った子だよ。名前はこまっていうんだけど」
言われて二人の正面に腰を下ろした遣手は、いまだ鹿野の方へ身体を傾げているこまを見て驚きに眉を上げる。
「こりゃまた、上等が来ましたね」
「だろう? だけどまずは、禿たちと一緒に最低限のことを教えてやんな」
「その間のメシは」
「んなもんはすぐに取り戻せるだろうさ。こまは借金で売られたってんじゃない」
「はぁ、そおですか。よし分かりました。こま、あっちは遣手の
揚羽は長い髪を簡単に結わえていて、痩躯の身体は萌葱色の着流しに包まれている。細やかなパーツが揃って整った
こまはこの、目に毒なほど艶やかな空間によくよく馴染んでいる男を眺める。丁寧に作り上げられた芸術品とも思ったが、しかし同時に揚羽からは、真っ白い象牙細工が時間と共に薄く黄ばんでいくような、年増の雰囲気も感じられた。
「この格好が気になるかい? そりゃあ、外から来たんだから無理もないね。……あっちも前までは、ここで娼妓として働いててね。年季が明けたって、染みついたモンは中々抜けないのさ。女形は皆こんな話し方だから、早く慣れちまいな」
揚羽は言いながら、みすぼらしい彼を頭の先から爪先まで眺める。
「あんた……身体が大きいから女形は無理だね。顔は綺麗なのに勿体ない。女形は一番稼げるんだよ」
「こまには、男も女も両方とらせる」
そんな主人の言葉に、揚羽はひえ、と小さな悲鳴を漏らした。
「そんじゃこま、着いておいでぇな」
「励むんだよ」
鹿野はそんな言葉と共に、煙管を咥えて二人を見送った。先ずは風呂だよと言った揚羽は、足早に歩きながら、時折は横目にこまの様子を眺めるのだった。
さてその日の夜見世が始まる少し前。
内所のさらに奥の間に按摩を呼んでいた鹿野は、畳の上に寝そべって、唸り声を上げていた。
「あぁ~……気持ちが良いねぇ……あんたの按摩がこの世で一番だよ……」
「肩が凝ってますねぇ。また、読み物ばかりしてたんでしょう」
「まぁね……うッ」
「ちょいとばかし強くしても?」
「あぁ、構わな――あいたたたッ」
足をばたつかせて悶えているところに、スパンッと障子が開く。そこに立っていたのは、艶のある黒髪を乱した一人の娼妓であった。彼は狐目を恨みがましく吊り上げて、綺麗に結い上げられていた筈の前髪の、垂れ落ちた一房を雑に撫で上げる。
「なんだってあんな阿呆を入れたんだい!」
頭を伏せていた鹿野が、ちらりと男へ視線をやる。髪を乱した男の、紅の乗ったおちょぼ口が悔しげに歪められている。
「そんなに唇を噛み締めたら、折角の紅が剥がれちまうだろうに」
「そんなこたぁ、どうだっていいのよ! あんな馬鹿みたいな
捲し立てる男に、鹿野は長い溜息を吐いて仕方なしに身体を起こす。
その間にも男の、紫の着物の中に仕舞われたすらりと長い足が、悔しげに地団駄を踏んだ。
「
銀之丞と呼ばれた男は、支度もそこそこに二階の座敷から下りて来たと見え、帯の結びも着物の合わせも滅茶苦茶だった。それでも彼はお構いなしに、縋るように鹿野へ詰め寄る。
「ねぇ今から抱いておくれよ、そうすれば今日はイイ子にするからさぁ」
「今日はってなんだい、駄目に決まってるだろうよ。はぁ、銀之丞。お前は時々強情になるけど、本当は聞き分けのいい子だってちゃあんと分かってるんだから、皆を困らせるのはもうお止しな。髪もこんなに乱れて……綺麗な顔に
言いながら銀之丞の頬に触れ、親指で口の淵を撫でる。それだけで主人を睨めつける刺すような目が緩むのを、彼女はしかと心得ていた。
そこへ、再び廊下が騒がしくなった。次にどたどたと入ってきたのは揚羽である。彼は鬼の形相で、銀之丞の首根っこを引っ掴んだ。
「てめぇ! 何やってんだいこんなとこでッ! こんの色ぼけ男が!」
「アッ、やだ、離せったら!」
着物の裾を乱して引き摺られていく様は下手な狂言のようで、まさに喧噪極まれりの大騒ぎである。鹿野はふぅと一息ついて、二人を見送ってからやっと、じっと大人しくしていた按摩を振り返る。
「すまないねぇ、いつも騒がしくて」
「いーえ。お銀さんは今日もお元気なようで」
「元気過ぎて困っちまうよ」
「にしても、新しいお方が入られたんですか」
「ああ。ちょいとばかし頼りなくて、ぼけっとした男だけどね。でもねぇ……何というか、不思議な目なんだよ」
「不思議な目、と言いますと……」
「目は心の窓とはよく言ったもんで、そっから、人の心の在り様がよぉく見んのさ。そいつぁこまって名なんだけど、こまの目は魂を落としちまったみたいに、虚ろなのさ。でも多分、一たびあの少し潤んだ、諦観めいた瞳を見れば、女も男もきっと一緒くたになってやられちまう」
「へぇ、そりゃまた、なんだか凄みのあるお方で……」
「そうさ。こまの心はねぇ、ぽっかりと大きな穴が空いちまってんだ。それでその穴が、目を介して人を吸い寄せんのさ。時たまいるんだよ。ああいう、人を喰っちまう魔性を持った奴が」
すっかり腰を据えて衿を正した鹿野の横で、話を聞いていた按摩は眉尻を下げて、恐縮して身体を縮こめた。
「あっしには学がないもんで、姐さんの言うことはよく分かりませんが、とにかく凄いお方が入ってらしたんですねぇ。次に来る時はどんなお話が聞けるか、楽しみにしておりますよ」
「ああ、そうしておくれ。……さて、表はもう混んでるから、今日は裏口から送ろうかね」
「いつも手を貸してもらっちゃって、すみませんねぇ」
「いいんだよ、あんたにゃいつも世話んなってるから」
鹿野はそう言って、按摩の腕を支えながら内所を出た。
夜見世を控えて慌ただしい若い衆や娼妓たちが、擦れ違いざまに二人へ声を掛けていく。彼女は裏の戸口まで按摩を送ると、その手に労賃を握らせるのであった。
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