9
「てめえ、ムカつくんだよ!」
いつものように繰り返される罵詈雑言。
「死ね、コラ!」
当たり前のように振りかざされる暴力。
放課後、
須貝たち不良グループはある時期から、この場所で僕を殴るようになった。恐らく先生と不良たちの間で暗黙の協定でも結ばれたのだろう。先生たちはここを見回りに来ない代わりに、不良たちも他所で乱暴をしないという不文律。
治外法権を認められた不良たちは容赦を知らなかった。最近では彼らは毎日のように僕をここに呼び出し、あらゆる手段を用いて僕を虐げた。爪を剥がされかけたこともあるし、皆の前で自慰を強制されたこともある。
学校という逃げ場のない閉塞空間は、僕から希望と活力を容赦なく奪っていく。霞んだ視界に映る夕陽さえ、今は疎ましい。
「――おい」
延々と殴られ続け、地面に突っ伏して気を失いかけていた僕の耳元で、ふいに須貝が囁いた。
「いい加減、お前をいたぶるのも飽きてきたからよ、そろそろやめてやってもいいぞ?」
予期せぬ救いの言葉に、僕は腫れあがった顔を上げる。ようやく解放されるのか、この地獄から。
「その代わり、ちょっと金を貸してくんねえか? 身代金みてえなもんだ。心配しねえでも、お前がこれから俺たちの奴隷として働き続けるならいずれ返してやるよ」
須貝の言葉に、その場にいた全員がゲラゲラと笑い声をあげる。
「いいねー! 奴隷ちゃん」
「俺金ねーから、返済は百年後な?」
僕は悔しさのあまり、唇を噛んで俯いた。
「とりあえず明日の朝、十万円持ってこいや。親父の財布パクれば簡単だろ?」
須貝は愉快そうに笑い、僕の肩をポンポンと叩いてからその場を去っていった。他の者も口々に脅し文句を残してから後に続く。夕陽は血のように赤く照り付け、彼らの影を色濃く地面に投影している。
世界から見放された。僕は一生、負の連鎖から抜け出せないのだ。
どんなに堪え忍んでも、血に飢えた野獣は飽くことを知らない。救済の手は差し伸べられない。時が解決するなんて嘘八百である。
ひとりきりになった僕はどうにか立ち上がり、歩きだした。
全身が鉛のように重い。まるで自分の身体ではないみたいだ。明日には麻痺した感覚が鋭敏さを取り戻し、痛みとなって暴れだすだろう。
もう、どうだっていい。明日なんて来なくていい。夕陽はいよいよ、刺すような鋭い光線を差し向ける。太陽まで僕を責め苛む。
世界は暗黒に満ちていた。
気が付くと、僕は屋上へと続く扉の前で佇んでいた。
とっくに終業時刻を過ぎた校内に人の気配はなく、明かりが落とされた校舎内は不気味な静寂に包まれている。
どれくらいこうしていたのだろう。まるで夢遊病者のように、自分の行動に現実感がない。ふと右手を見ると、銀色の輝きを放つひとつの鍵が握られていた。
いつかこうなることを予見していたのかもしれない。僕はそれを目の前の鍵穴に差し込みながら、そんなことを思う。
以前、不良たちから逃れる避難場所を渇望していた僕は、職員室から鍵をくすねてこの合鍵を作ったのだ。屋上へと続く扉の鍵。自由へと通じる鍵。
錠が外れたのを確認してから、僕は壁際の消火栓の中に鍵をしまった。同じ境遇にある者に対しての、ささやかなプレゼントである。その人がこの扉の先に救いを求めるならば、きっと見つけてくれるだろう。永久に見つからないかもしれないが、それならそれでいい。
重々しい響きとともに開け放たれた扉。その先に見えたのは漆黒の空であった。星の瞬きさえ無い、辟易するような暗黒。その下に己が身を曝け出す。
――ああ、これが僕の世界だ。
明かりもない、温かみもない、美しくもない、汚くもない、主張もしない、儚くもない、無口で無用で無意味で無様で不愛想で不気味で、どうしようもない存在。それが僕だ。
僕はさながら暗い深海で魚雷にまたがり、敵艦に体当たりする特攻隊員の如く、虚無の彼方へとダイブした。闇を切り裂いた先に、鮮やかな光が訪れることを夢見て。
だが、世界はどこまでも果てしなく、暗かった。
☆
凄まじい轟音とともに、世界が上下に激しく揺れた。
僕は全身に激痛を感じながら、同時にそれが錯覚であることを悟っていた。
なにせ自分はすでに、地上の理の外にいるのだから。
ちょうど飛び降りた場所の真下は駐車場となっており、たまたま僕らが墜落したのは白く艶光る担任教師のセダンの上であった。
大きくひしゃげたルーフ、もれなく粉々に飛散した窓ガラスが、その衝撃の大きさを物語っている。
僕はすぐさま起き上がり、芹沢の姿を探した。彼は側のアスファルトの上で仰向けに倒れていた。どうやら衝突の瞬間、バウンドして地面に投げ出されたらしい。
「芹沢! 大丈夫?」
すぐに駆け寄って声を掛ける。芹沢は目を閉じたまま、小さく笑みを浮かべた。
車の惨状に比して、彼は相変わらず綺麗な顔をしており、少なくとも一見して分かるような大きな怪我は見られない。その姿に心底安堵する。
「まったく、無茶して……」
次第に辺りが騒然としてきた。突然の轟音に授業は中断され、そこかしこから生徒や先生たちが様子を見に来たのだ。彼らは大破した車と倒れている芹沢を見るや、次々と悲鳴をあげた。
「……もう、時間が無さそうだから、今のうちに謝っておくよ。ごめん」
芹沢が相変わらず目を閉じたまま、かすれた声で呟いた。
「どうして……?」
聞きたいことは山ほどあったが、うまく言葉にならなかった。そんな僕の心情を汲んでくれたのか、芹沢は穏やかな表情のまま答える。
「きっと俺は、ずっと棺桶に片足突っ込んだ状態で生きてきたから、君のことが見えるらしい。もしくは、君のことを恨んでいたからかな?」
「恨んでいた?」
ふいに投じられた言葉が胸に刺さる。
「ああ。たしかに俺は君を救えなかったが、自ら死を選んだ君を恨んでもいた。どんなに望んでも長く生きられない俺からしたら、人生を放り出して逃げ出すなんて決して許せることじゃない。その想いが、君をこの世に引き留めてしまったのかもしれないね」
うまく言葉を返せず、黙って頷いた。
自分の命を捨てるということは、自分だけでなく周りのチャンスも奪ってしまうのかもしれない。「もう遅いんだ」と言った芹沢の苦しそうな表情が脳裏をよぎる。
上辺だけ見て、安易に彼が自分より多くのものを持った、恵まれた存在と思っていたことが申し訳なくて仕方ない。
「僕のほうこそ、ごめん」
どうにかひとこと絞り出し、頭を下げた。
芹沢は自身の命運を試したのかもしれない。大いなる試練に身を預け、己の贖罪とすべく。あるいは、僕に何か気付かせるためか。
僕は先生たちによって介抱される芹沢をしばし見守った後、ゆっくりとその場を離れた。
自分が何者か知ってしまった以上、この場所に長くはいられない。
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